長い間、エンジニアをやっているうちに嫁き遅れた老婆の足跡。

上を向いて歩こう

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 相変わらず寒い日が続くねぇ。

 あんたがまた来てくれるんじゃないかと、マンデリン、買っといたんだよ。ちょっとお待ち。いま淹れてあげるよ。ストーブも出しておいたんだ。暖まっておいき。

 こないだあんたと話をしたら、なんだかいろいろ思い出しちゃってね……。押し入れの奥にしまった箱を取り出してみたんだ。蓋を開けたら、白い埃が舞って、髪の毛がかさかさだ。手を突っ込んで、記憶の欠片(かけら)をいくつか掬い取ってみたよ。記憶の欠片はガラスのビー玉みたいなものなんだ。小さいのや大きいの、新しいのや古いの、水色だったりオレンジだったり真っ赤に燃えていたり……。いろんな欠片があってね……。覗き込むと、思い出が語りはじめるんだ。

 さぁ、淹れたてのマンデリンだよ。おいしいだろう?

 ……あぁ、このビー玉は一番古いビー玉だねぇ。埃をかぶって真っ白になってるじゃないか。ふぅぅ。さぁ、きれいになった。会社に入って3年目だったかねぇ。あたしがまだピチピチしてて、鼻っ柱は強いけど、かわいい娘だったときの話さ。

 ……おまえさんもビー玉を覗いてみるかい?

 ※文中のすべての固有名詞は仮名・捏造・偽称・詐称です。

 ここは北の国の市役所。

 エンジニアXは、この市役所の国民健康保険税システム開発要員として半年間アサインされた。元請けになっているのは、日本が誇る大企業○△◇なのだが、その直系子会社も含め、いったいいくつの会社が参加しているのか全くわからない混成チームだ。

 市役所敷地の片隅にあるプレハブ小屋が開発室になっていたのだが、室内は煙草の煙で空気が淀み、窓ガラスはヤニで黄色く薄汚れている。

 先に入って開発を始めていた住民記録チームと市県民税チームのあとに入ったのが国民健康保険税チームだ。チームリーダーは○△◇に転職してきたばかりの、30代後半のハゲだ。

 国民健康保険税チームと市役所担当者の顔合わせの後、開発室に入ったハゲは「なんだ、この部屋は!」と叫び、「おい、お前ら、掃除だ、掃除! こんな部屋でよく息をしてるな、ボケナスが。狭い部屋でぷかぷか吸いまくってんじゃないよ、バカモノども」と、先住民たちも巻き込んで掃除をはじめた。

 タバコが嫌いなエンジニアXは、ガラスマイペットをスプレーしながら、ひそかにほくそえんだ。こんなコワいおっちゃんがいたんじゃ、きっと喫煙者も吸いにくいだろうな、と。しかし、コワいのは喫煙者に対してだけじゃなかったのだ。

 エンジニアXの1年目の仕事は某商社の輸出入システムの開発で、2年目は某自治体の年金システム・選挙システムの開発。つまり、自治体関連システムは初めてではなかったが、国民健康保険税は全然知らなかった。そして汎用機も初めての経験だった。コマンドの使い方もわからず、業務内容も知らない。要するに、全く役に立たないデクノボーだったのだ。

 そして開発スタート時点から、お決まりのデスマーチ。定時は午前2時で、水曜のノー残業デーだけ午前零時に帰れるホテル暮らしの日々がいきなり始まった。

 しょっぱなからハゲの要求は容赦ない。

 「そこのロジック、合ってるかどうかデバッグして」

 「あ、は……はい……??」

 「さっさとやらんか」

 デバッグせい、と言われても業務内容がわからないので、ロジックが正しいかどうかなんてわからない。

 「あの……」

 「……」

 「え……と……」

 「なんだ、言いたいことがあるなら早く言えっ」

 「す、すみませんっ。業務内容がわからないんでデバッグできませんっ」

 「なんだとぅ? 自治体業務は知ってるんじゃなかったのか?」

 「あ、えっと、年金とか選挙なら」

 「もういい。そこ座れ」

 ハゲは1時間ほどかけて国民健康保険税の業務内容を教えてくれた。

 「2度は教えないからな、まな板」

 「スミマセン。ありがとうございます。……あの、まな板って?」

 「Aカップ」

 このクソハゲがっ!

 説明を受けたとは言え、業務内容のアウトラインがわかっただけで、慣れない汎用機の使い方にも四苦八苦し、日々の深夜残業で疲労とストレスを溜め込み、脳ミソは思考能力を失いかけていた。

 そんなある日、ハゲがエンジニアXに声をかけた。

 「これ、データの突合が必要だから、シーケンシャル・マッチングでプログラム1本作って」

 「え? シーケ……? ナンですか?」

 「シーケンシャル・マッチングだよ」

 「あの……初めて聞きました。それは何なんでしょうか?」

 「3年もやっててシーケンシャル・マッチングの何たるかも知らないのか!」

 知らなかった。全然。

 「お前は何の役にも立たないな。俺は教育係じゃない。こんな逼迫(ひっぱく)したプロジェクトに、なんでお前みたいなバカが出てくるんだ。面倒見きれん。自分で解決しろ」

 ……わかってる。わかってるよ。わたしだって役立たずだって思ってるよ。何のためにここにいるんだろうって。マシンの使い方はわからないし、業務もわかってない。言われたことしかできない人間なんてサイテーだって思ったけど、言われたことすらできないじゃん。だからここにいる意味なんかないよ。その上、毎日毎日午前様。学生んときの同級生なんて、もっと人生楽しんでるよ。……帰りたい。もうこんな仕事辞めて帰りたいよ……。

 悔しくて情けなくて、プログラムリストを見ても何も考えることができなかった。

 午前2時、すごすごとカバンにリストを突っ込み、開発室をあとにした。涙がこぼれそうになって、ホテルまでの道のりを、ずっと上を向いて歩いた。

 ベッドの上でデバッグをしていたら、こらえきれずに涙がぽたりと落ちてきた。窓から外を見ると、月のない空に星がにじんでいる。1人ぽっちの夏の夜……。

 何も解決できないまま明けた次の日、開発室の定位置に座り、腫れた目で作業を続けた。夕方になって、ようやくシーケンシャル・マッチングの意味がわかり、プログラムは完成した。単体テストでも、正解らしき結果が出ている。

 おずおずとハゲに切り出す。

 「スミマセン、あの……できたみたいです」

 「子供がか?」

 「へ?」

 「冗談だ。プログラムリストとテスト結果を出せ。データのダンプもだ」

 机上でリストをチェックするハゲの頭をぼんやりと見つめた。バカを相手にしてたから、こんなにハゲちゃったんだろうか……。

 「できてるみたいじゃねぇか」

 「え?」

 「できてるよ」

 「ほんとですか」

 「あぁ。やりゃあできるじゃねぇか」

 ほっとして、また涙が出そうになった。瞳からこぼれんばかりの涙を溜め込んだエンジニアXの顔を見て、ハゲは言った。

 「あー、泣くな泣くな。ブスの涙は美しくない」

 ……余計なんだよ、その一言がっ。

 その日の残業メシは、チームで近くのスナックに行くことになった。

 酔っ払ってカラオケのマイクを握り、ハゲは歌う。同じく酔っ払ってカラオケを聞くエンジニアXは、歌に合わせてハゲの頭を木魚のように叩く。

 「何すんだ、Aカップ」

 「おだまり、ハゲ」

 「ブスに言われたかないね」

 「こっちだってオッサンに言われたかないよ」

 ……とか口走っていたらしいことは、翌日チームメンバーから聞いた話だ。

 デスマーチは相変わらず鳴り響いていたが、精神的な追い込まれ感は少しづつ薄らいでいった。半年が経って変わったことは、素面の時にも「おだまり、ハゲ」と言えるようになったことだろう。

 プロジェクトが終了したときに、ハゲはエンジニアXの上司に報告書を出していた。そこには「あの状況で潰れずによく頑張ったと思う。二次開発もよろしくお願いします」と書かれていた。

 また少し涙が出た。

 あぁ……ビー玉を覗いてるうちに、うたた寝しちまったようだね。

 最初はハゲが怖くってねぇ。いつもビクビクしてたんだよ。でも、いま思うと、厳しいだけじゃなかったんだねぇ。その後も、たくさんのハゲたちに鍛えられて、あたしは強くなっていったんだと思うんだよ。

 最近の若いモンは堪え性がないって言うけど、少しだけ頑張って、小さな壁をひとつ越えてみたら、きっと違う景色が見えてくるよ。あぁ、いけないいけない。こういう説教くさい物言いは、あたしゃ嫌いなんだ。まったく、ババァになった証拠だよ。

 おや、あんた、つきあってくれてたのかい? 悪いねぇ。

 仕事にお戻りよ。気が向いたら、また寄っとくれ。当てにしないで待ってるからさ。今度は軽くアルコールでもどうだい? あんたが来てくれるから、少し元気になってきたよ。グリューワイン。ヨーロッパじゃあクリスマスシーズンの定番の飲み物さ。オレンジピールやシナモンを入れて、暖めて飲むんだ。風邪をひいたときに、卵酒代わりに飲んでもいいかもしれないねぇ。

 今日も寒いねぇ。暖かくしておやすみよ。

 今日のBGM:「上を向いて歩こう」 by 坂本九

Comment(2)

コメント

mmsaru

いい話だ。自分もよく似た経験があり胸が熱くなりました。
案外厳しい人ほど、部下を親身に思ってくれてるのかも。
小さな壁・・・壁を越えるとまた新しい壁が見えてくる。
ただ、壁はいつまでも存在してほしい感もあります。超えた瞬間が楽しいんだよ
ね。

この香りはクローブかぃ。意外と合うもんだな。
巡り合いは大事やね。少しずつ分かってきたよ。
ごちそうさん。また来るよ。

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>mmsaruさん

そうなんだ。終わったときの爽快感と高揚感は、何者にも代えがたいねぇ。

グリューワインは飲み慣れないとおいしいって思えないかもしれないけど、慣れたら意外といけるもんさ。

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