さよなら夏の日

2009/03/31 19:00:00

 あぁ、今日も来てくれてありがとう。こないだは悪かったね。取り乱しちまって。

 あたしにはもう、あまり時間がないんだ。

 これが最後のお茶だよ。

 ……ねぇ、エンジニアって仕事はどうだい? 楽しいかい? 辛いかい?

 …………そう。そうだね。楽しいことばかりじゃないよね。

 あたしのエンジニアライフは最後の最後で階段を踏み外しちまった。みっともないねぇ……。でも、踏み外しちまったからこそ、ここに来て、あんたたちと話すことができたんだねぇ。人生は不思議なものさ。

 このあいだ、エンジニアやってたときのお客に会ったんだ。その日は偶然あたしの誕生日でね。正直、エンジニア時代を思い出させる人に会うのは辛かったよ。でも、彼はお酒を飲みながらこう言ったんだ。

 「今でも時々思い出すんだよね。うちのシステム作るときの話だけどさ、あんなに一生懸命仕事をしたことは、あとにも先にもないよなぁって。あのころ僕とXさんとで毎日、夜中までがんばって作ったシステム、運用もやっと軌道に乗って、みんな使ってくれてるよ」

 泣きそうになったよ。あたしの心は死んじまっても、あたしのシステムは生きてる。どこかで誰かとともに生きてるんだって。

 バースデイプレゼントの白いトルコキキョウと赤いアルストロメリアの花束。花に隠れて鼻を啜ったよ。

 あたしの人生の夏の日々。太陽の温かさに優しさを感じたり、じりじりと灼かれて痛い目に遭ったりしながら、全力疾走で駆け抜けた季節。もしかしたら、その間に誰かをなぎ倒したことがあったかもしれない。傷つけたことがあったかもしれない。それでもずっと走り続けた。そして気が付けば、全力疾走していたはずの足は突然もつれ、何度も転び、血を流し、そして立ち上がれなくなった。

 でも、もう一度、あの夏の日々の中に身を置きたくなるんだ。また血を流すことになっても、時間を巻き戻して、眩しい日差しの中へ走り出したくなるんだ。

 ネットワークエンジニアたちがインフラ整備したステージの上で、踊るのが大好きだった。踊り子が赤い靴に恋したように、あたしもエンジニアって仕事に恋をしていたんだねぇ。赤い靴を履いて、いつまでも踊り続けるつもりでいたんだ。アンデルセンの童話のように。

 ねぇ、いつかはあんたもエンジニアを辞める日がくる。それは定年退職の日かもしれない。そうじゃないかもしれない。

 その日が来たときに、「あぁ、こんなクソみたいな仕事、二度としたかねぇ」って思わないように、仕事をして欲しいんだよ。

 「エターナル・サンシャイン」って映画があるだろう? 別れた恋人の記憶をすべて消してしまうお話さ。あたしもエンジニア時代の記憶はすべて消してしまいたかった。なかったことにしてしまいたかった。でもその中には、宝石のようなビー玉がいっぱいあったんだ。

 あたしはもうここには戻って来られない。だから、少しだけ言い残しておきたいんだ。

 エンジニアって仕事は、新しいものを取り入れて、いつも変わっていかなきゃならない。技術の新陳代謝も激しいから、昨日までメインストリームだった技術が、明日には陳腐化していることも珍しいことじゃない。心が休まる暇もないよね。その中でがんばっていくのは大変なことだよ。

 でも、お客さんが何を求めているのかを考え、どうやったら役に立てるか悩み、何もないところからシステムを生み出していく。そしてそれが誰かに使われ、世の中が少しだけ便利になる。小さくても、世の中を変えていくことができる仕事なんだ。

 エンジニアは生きがいにできる仕事だよ。

 人との関わりの中でいろんな経験を積んでおいき。自分を妙に偽ったりせずに、心を開いて相手の懐に飛び込んでごらん。恥をかくかもしれない。怒られるかもしれない。でも、それがスタートさ。

 経験を重ねていく中で、いろんな出来事に出合うだろう。厳しいだけだと思っていた人のうしろに優しさが見えることがある。仕事に向き合う人の情熱を垣間見ることがある。心を動かされたら、何のために自分がここにいるのか、きっとわかるよ。そのときにすぐに走り出せるように勉強しておおき。でも、あんまり根を詰めちゃダメだよ。たまには息抜きしながらね。

 それから、仲間とお客を大事におしよ。あんたにはあんたのウエダ君がいるはずだし、ニッタさんだっているはずさ。つらいときに彼らはあんたを支えてくれるよ。

 あたしのエンジニアライフは、いいお客と同僚に恵まれて、やっぱり幸せだったのかもしれないねぇ。

 そして、信じられない人間に出会っても、しなやかに身をかわす柔軟さを身につけておくれ。苦しくて辛くて耐えられなくなったら、壊れる前に誰かに相談するんだよ。差し伸べられた手まで見えなくなっちまう前に。

 今年は花が早いねぇ。おまえさんとこの花はもう咲いてるかい?

 あのころ……いつか春が来て花が咲くことを信じられずに、あたしはステージを下りた。でも季節は巡り、花の季節はこうして誰にもやってくる。今は強い北風にふるえているかもしれない。永遠の闇夜の中で光も見えないかもしれない。でも、身を切るような凍える闇夜の中で蕾は我が身をふくらませ、春の訪れとともに花を咲かせるんだ。

 あぁ、もう店じまいの時間だねぇ。

 会えてよかった。こんなしょぼくれた婆さんの与太話につきあってくれて、ほんとうにありがとう。うれしかったよ。

 あたしはいつも祈ってる。あんたたちが素晴らしい仲間やお客と出会えるように。つらい嵐の日には、誰かが寄り添っていてくれるように。そして、幸せなエンジニアライフをまっとうできるように……。

 ありがとう、さよなら。

 机の上に転がるテキーラのボトル。

 老婆が座っていた場所には、砕けたビー玉の欠片。

 記憶はひからびた化石になり、ひと冬の幻は一陣の風でちりぢりに消えた。

 部屋に差し込むのは桜色の光。

 春だ。

最後のBGM:「さよなら夏の日」 by 山下達郎

うらみ・ます

2009/03/23 17:59:00

 寒くなったり暖かくなったり、おかしな日和だねぇ。体調を崩してなんかいないかい?

 テキーラ、持ってきたよ。塩はフロール・デ・サルにしたよ。だって好きなんだもの。ポルトガルの塩が。ちょっとお待ち。あんたも飲むかい?

 今日も箱の中を眺めてたんだ。目を閉じて、1つだけ記憶の欠片(かけら)を……あっ……ビー玉が……。

 全部転がって行っちまったよ……。手元が狂っちまうなんて、やっぱり老いぼれたもんだねぇ。箱の中には何も残って……あぁ、1つだけ残ってるようだよ。これは……捨てたと思ってたよ。吸い込まれるように真っ暗なビー玉。あぁ、お止めよ、こんなもの覗くのは……。

※文中すべての固有名詞は仮名です。

 言葉の石つぶて。この世にはこんなにも人を傷つけ、貶める言葉がたくさんあるのだと知った。

 「要するに、仕事をする能力がないんだろう?」

 「休日出勤は朝9時ちょうどに来いって言ってるだろう。何で遅れてくるんだ!」

 「そんな調子だったら、仕事から外すぞ」

 「お前なんかいないほうがいいよ。邪魔なだけだ」

 となりのグループからいつも聞こえていた罵声だ。

 男は、どんな些細なことでも自分のコントロール下に置かなければ気がすまなかった。自分の思いどおりに部下が動かないと、言葉の暴力で恫喝した。まるで悪辣な専制君主を戴く軍隊組織のように。

 ターゲットにされているとなりのグループのメンバーが気の毒だった。そこまで人格否定されるほどのことはやってないだろう。かわいそうに……。

 でも、投げられた暴言が心を切り裂く痛み、出血多量で思考能力を失っていく無力感は、実際にぶつけられた人間にしかわからないことを知ったのは、それが対岸の火事ではなくなったからだ。

■□■

 男がわたしの上司として異動してきた。もちろん嬉しくはなかったが、わたしは男に攻撃されるような材料は持ち合わせていないと思っていたから、あまり気に留めていなかった。今までの上司に対してしてきたように、お客との会話の中で業務分析を行い、顧客システムに対する改善計画を男に提案した。“提案をしてくる部下は反逆者”と、男が見做していることも気付かずに。

 この軍隊組織で平和に暮らすためには、専制君主から給餌されるエサだけを黙って食べ続けるブロイラーでいなければならなかったのだ。提案することが仕事だと思っている女など、一番に潰さねばならない鼻持ちならない部下だった。

 信じられないかもしれないが、他人から提案されることで逆上する人間というのが、この世にはたしかにいるのだ。

 最初はつまらないことから始まった。お客からの重要なメールを情報共有のために転送して罵倒された。「僕はメールなんか見ない。メールで転送されてもわからない!」と。怒鳴られている意味がわからなかった。いったいどういう業種の会社に勤めてるんだ? こいつはバカなんじゃないのか? と思ったが、最初から揉めるのも気がすすまず、それ以来、メールはプリントアウトして机に置くようになった。

 長い会社生活の中で、こんな種類の人間と出会ったのは初めてだった。いったいどう対処すればいい? ……思いあぐねているうちに、それまで上の決裁など仰がなくても任されていた裁量はすべてなくなった。

 お客と会話していただけで「勝手に話をするな。余計なことを言うから仕事が増えるんだ」と嫌味を言われる。

 どう動けばいいのかわからなくなった。

 「お客が今後どうなりたいのかを一緒に考えて、参考書籍などを読みこんで提案活動をしていくのがわたしの仕事だと思っているのですが、違いますか?」

 男は爪を噛みながら答えた。

 「考えるな! 本なんか読むな!」

■□■

 平成の大合併が始まる時期だった。これからの自治体Webにはアクセシビリティ対応が必須になる。成果物評価のために、アクセシビリティのチェックソフトを物品請求した。たかが1万円程度のものだ。

 そもそも男はWebの世界には詳しくない。アクセシビリティについて何時間もかかるようなボリュームのレポートを要求された上に、口頭でも散々必要性を説明させたあと、男は蛇のように酷薄な視線を投げつけ、こう言った。

 「僕は頭が悪いんだ。きみの言うことはぜんぜん意味がわからないね」

 あちこちの自治体で受注活動のためのコンペが始まっていた。プレゼンはわたしの担当だったが、若い世代を育てるために、入社3年目のカオリに一部をまかせることになった。家で何匹ものぬいぐるみをお客に見立て、夜中まで一生懸命練習をしたらしい。受注できたことが嬉しくて、わたしは男の席に駆け寄り報告した。初めてのプレゼンで数千万の仕事を勝ち取った彼女を褒めてあげて欲しかった。

 「A町、受注しました。カオリも一生懸命プレゼンの練習してたみたいなんで、ひとこと言ってあげてくださいね」

 だが、あの男はモニタから顔も上げなかった。

 「だから何なの。取れて当たり前だろ」

 わたしは構わない。何を言われても。でもプロジェクトメンバーを攻撃されるのは我慢ならなかった。

 「ヨシヒロ、何をやってるんだ! そんな作業、ぼくは聞いてないぞ!」

 暴言を吐かれ続けているヨシヒロの前に割って入った。

 「その作業はわたしが指示したんです。問題があるならわたしに言ってください」

 大した作業量のものではない。これまでなら許されていた範囲のものだ。

 「生意気なことをするな。バカが」

 男の目はそう言っていた。

■□■

 この年は、多くの合併プロジェクトに加えて、自社パッケージソフトの大幅バージョンアップを控え、史上最悪のデスマーチが予想されていた。工数不足は明白だ。工程ごとに必要工数の詳細なレポートを何度も提出させられ、そして結局、人の手当てはされない。そこまではよくある話だ。

 「残業は21時まで。休日出勤は禁止する」

 何を言っているんだ、こいつは。

 「それじゃどの合併プロジェクトも納期に間に合わないですよね。地方自治体のシステム合併がことごとく間に合わないなんて新聞沙汰もいいところですよ。人の手当てはされないのに残業も休出も禁止なんて、自分の言ってることの意味がわかってますか」

 「間に合わなかったらぼくが謝りに行けばいいんだろ」

 客先に一度も行ったことがないあんたが謝ってどうするんだ。実際にお客と顔を合わせて折衝をしているのはわたしだ。納期に間に合わなかったらあんたの責任じゃない。わたしの責任だ。

 20時50分になると恫喝が始まる。

 「誰の許可を得て残業してるんだ! 帰れ!」

 毎日のように浴びせられる怒号に業を煮やして、サーバが必要な作業以外は自宅に持ち帰るようになった。メンバーの中には、20時過ぎに一度自宅へ戻り、男が帰宅する22時頃に舞い戻って作業をする人間もいた。

 「月間作業時間が300時間を超えてないプロジェクトに人の手当てなんかできない」

 「仕事のやり方がメチャクチャだから納期に間に合わないんだよ」

 「きみにはプロジェクトリーダーの資質なんかないね」

 「自分で仕事を増やしてるだけだろ」

 お願いだ。わたしを信じてるお客がいるんだ。ニッタさんやナリタさんやノシタさんが待ってるんだ。助けてくれなくてもいい。ただ邪魔をしないでくれ。

■□■

 綱渡りのような精神状態で過ごしていたある日、かつての上司だったフクヤマさんから飲みに誘われた。繁華街の混んだ小料理屋は、少しくだびれたビジネスマンで満席だ。

 「最近どうだ? なんだかおかしな状況になってるようだが」

 「……あぁ、そのことですか」

 メヒカリの唐揚げをつつきながら返事をする。

 「なぁ、お前はなんでそんなにストレートしか投げられないんだ? 相手を見ろ。相手を見て球を変えろ。デッドボールが飛んできたら、よけろ。このままじゃ潰れるぞ」

 視線を上げてフクヤマさんを見た。

 「いわれなき暴言を、どうして黙って受け止めなきゃいけないんですか。わたし、そんな理不尽な人間に負けたくない。正面からぶち当たったって平気です」

 「俺はなぁ、お前のためを思って言ってるんだぞ、この頑固者が。まぁ、お前だったらそんなこと言いそうだとは思ったがな。しかし覚えとけよ。相手の言葉を全部まともに受け止める必要はないんだからな。馬耳東風って良い言葉があるだろ」

 「はいはい、覚えときますよ」

 ぞんざいな返事をしたのは照れ隠しだ。フクヤマさんの気持ちが嬉しかったからだ。それが、差し伸べられた手に気付く心の余裕が残されていた最後の時だった。

■□■

 「負けたくないし、負けない」……そう思っていたが、投げられた言葉は、確実にわたしの心に内出血を起こしていった。

 気がつけば、社内で笑うことができなくなっていた。20時を過ぎると動悸が始まる。文字を読んでも意味がわからなくなり、時に<table>や<hr>の文字を眺めながら、それがなんだったのかHTML辞典を引く自分に愕然とする。眠れなくなり、1時間置きに覚醒する。

 仕事の能率は落ち、元々過酷なスケジュールは一層遅れていった。

■□■

 男がこれまで何人ものターゲットに攻撃をしかけてきた時間帯は、男の、そのまた上司がいない時間帯だ。会議室にターゲットを呼びつける理由も、つまりそういうことだ。どんな暴言を吐いても、何が起こっても、見咎められることはない。証拠がない。

 ここまで来ても「わたしは1対1を避けるような弱虫じゃない」と強がっていた。

 感情的になったらおしまいだと思っていたのに我慢できなかった。

 「あなたは上の人がいるときだけ部下の話を聞くポーズを取って、いなくなると自説を押し付けるばかりで全く聞く耳を持たないじゃないですか。理解しようという気持ちさえないじゃないですか!」

 男は一瞥して口の端をゆがめた。

 絨緞爆撃のように降り注ぐ、たくさんの、たくさんの石つぶて。自己批判の強要。最初は反論する元気もあったが、そのうち口を聞けなくなっていった。

 もしかすると、わたしは男の言うとおり、能無しなのか。お客の信頼を得ていると思っていたのは幻想だったのか。わたしはいるだけで邪魔なプロジェクトリーダーなのか。

 会議室を出て行く男の足音が聞こえていた。涙が頬を濡らした。情熱とプライドをもって仕事をしていたわたしは、いつのまにか消えてしまった。そこにいるのは、あの男の恫喝に怯え、小さくなって震えているゴミ屑のような女だ。

 会議室の窓から見える夜の空。白々しい蛍光灯の光。中空にかかる青ざめた月を見つめ、止まらない涙と嗚咽の中で両の指を組んだ。

 お願いです。そんなにわたしが憎いなら、いっそ、その手で殴ってください。ナイフで刺してください。心の傷など誰にもわかってもらえない。誰が見てもわかる青あざを、血を噴き続ける傷口を、わたしの体につけてください。

 わたしが何をした? いったいあなたに何をしたというのだ?

■□■

 もう無理だ。逃げるしかない。東京の仕事に手を上げた。だが、携帯電話に追いかけてきた男の声にパニックを起こし、過呼吸の発作を起こした。病室の片隅で、PTSDだとかフラッシュバックだとか、そんな単語が切れ切れに聞こえていた。

 逃げるのが遅すぎた。自己治癒できる限界点は、すでに超えてしまっていた。

■□■

 仕事はわたしの生きがいだった。

 何よりも大事にしていた仕事を放り出すことになったのは盛夏。精神科医の診断書を出した。

 病院に行く以外はほとんど部屋にこもりきりの日々。最初は文字に焦点を合わせることもできず、ただ布団の中からぼんやりと、天井に下がる蛍光灯を見ていた。それでも、ひと月過ぎたころには、睡眠薬、抗不安薬、抗うつ薬で、次第に動けるようになり、日常生活も普通にできるようになった。ただ、人間が怖いということを除いては。

 夏は布団の中で、緩慢に通り過ぎて行った。

 それは美しい秋の朝のことだった。湿気を含まなくなった空気は透明に澄み渡り、空をどこまでも高く見せていた。夏の間、青紫の朝顔が巻き付いていた生垣から花は消え、代わりに小さな橙色の花をつけたキンモクセイが甘い匂いを放っていた。少し冷たさを含んだ風が頬を撫でる。そうだ、わたしはもう動けるのだ。今日、死んでしまおう。生きていても仕方がない。仕事もできなくなった人間に生きている価値などないのだから。

 天井を見た。そこに下がっているのは蛍光灯ではない。

 ―――この椅子を蹴ればラクになれる。役立たずの人生をおしまいにできる―――

 涙は出なかった。もう出尽くしていた。

 あぁ、もう止めとくれよ。こんなビー玉なんか、こうしてやる。……ははは……ざまぁ見ろってんだ。砕けて粉々だ。……テキーラを寄越しておくれよ。いいじゃないか、もう少し飲んでも。飲み足りないんだ。

 そうだよ、あたしは死ねなかった。椅子を蹴る勇気もない意気地なしだった。でも、生き物としてのあたしは死ななかったけど、心は死んでしまったんだ。情熱やプライドと一緒に。

 それからのあたしは、息をしてるだけの抜け殻だった。世界は薄皮1枚隔てた向こう側に、手の届かないところにあった。もう永遠にその世界に戻ることはできないように思えたんだ。

 あの男の言葉なんか、受け流しちまえばよかったんだ。やられてシュンとしてるフリでもしときゃよかったんだ。でも、あたしはそれができなかった。あの男の一言一句に感情的に反応して、自分に対するコントロールを失い、自滅していったんだ。

 エンジニアライフにはいろんなことがあった。楽しいこともあった。辛いことも腹が立つこともあった。でも、おおかたのことは時が解決してくれる。ヒロシのことだって、マリリンのことだって、笑い話に変わっていった。

 でも、変わらないものもある。あたしは一生忘れないよ。送別会のときに「きみはどこに行っても大丈夫だよね」と右手を差し出し、口の端をゆがめて笑った男の顔を。

 長い時を経て、あたしは死ぬ勇気をなくしたまま、今も生き続けてる。生きていくのなら忘れなきゃいけないと思った。あの男との間にあったことをすべて。そうでなきゃ、これから先の人生を歩いていくことができない。

 でも、忘れることも許すこともできなかったんだ。忘れることができない自分を責めたよ。許すことができない自分に苦しみ続けたよ。

 そして、あるとき決めたんだ。忘れなくていい、許さなくていい。この命が消えるときまで、うらみつづけようと。これ以上自分を責め続けないために。そう決めた日からラクになれたよ。

 そうさ。うらみます。あんたのことを、死ぬまで。

 悪いねぇ。つまらない悪夢に付き合わせちまった。もう一杯飲ませておくれよ。大丈夫さ。これでも昔はザルって言われてたくらい酒に強い女だったんだ。

 ねぇ、このテキーラを飲みほしたら、あと少しだけ付き合っておくれよ。最後にもう少し話がしたいんだ。いいだろう?

今日のBGM:「うらみ・ます」 by 中島みゆき

熱い想い

2009/03/03 17:00:00

 あぁ、やだやだ。花粉症で目があかないよ。田舎育ちの婆なのに、なんで花粉症なんかになっちまうんだろうねぇ。

 島美人、準備しといたよ。飲みやすい焼酎だろう?

 ありがたいねぇ。また来てくれて。今日も箱の中を眺めてたんだ。目を閉じて、1つだけ記憶の欠片(かけら)を拾いあげてみる。

 ……あぁ、このビー玉はあれだね。各地の自治体でネットを使ったIT化推進が始まった頃のことだよ。

 ……おまえさんもビー玉を覗いてみるかい?

※文中すべての固有名詞は仮名・捏造・偽称・詐称です。

 公務員といえば、残念ながら今や人に後ろ指を指される職業の代表選手のようなものだ。テレビや週刊誌で、公務員の悪口を見聞きしない日はない。そのたびに「そうじゃない、わたしの知ってる公務員はそうじゃないぞ」と歯噛みするような思いをしている。

■□■

 わたしのお客はすべて地方自治体だ。中央省庁からの補助金を使った庁内のIT化推進を主要業務としている。

 インフラ整備を行うハード事業と、その上で動かす住民サービス系Webアプリケーションの開発・導入を行うソフト事業。この両輪で動くプロジェクトが多数立ち上がっていて、わたしの担当はソフト事業の方だ。

 補助金を利用した事業をやっていると、ときどき「それってホントに必要性を感じて国に申請したの?」と思うことがある。実のところ、ハード事業で導入するパソコンが欲しいだけで、ソフト事業はどうでもいい……という自治体がたまにあったからだ。自治体の広報誌をいくつか渡されて「それで適当にホームページを作ってくれればいいから」と丸投げされると、「そんなんで税金使ってんじゃねぇよ」と心の中で毒づきたくなるようなお客も、いないことはない。

 だが、幸運なことに、わたしのお客はそうでないお客がほとんどだった。

■□■

 IT企業の人間が深夜残業するのは日常茶飯事だが、A町役場やB市役所の電算担当者は、午前1時に出した問い合わせメールに、8割以上の確率で30分以内に返信や電話をくれた。「なんでそこまで働くのだ?」と思うほどに彼らは働いていた。

 農畜産業の盛んなA町の電算係はニッタさんという。ニッタさんは、国からの補助金をどう役立てるのが地域住民のためになるのか、いつも考えていた。住民と車座対話をし、吸い上げた意見をいかにシステムに落とし込むべきか、日夜プラン策定に頭を悩ませていた。

 「Xさん、ポリマルチ張りの時期とかさ、農薬散布時期とか、そういうのをネットで流したいんだよね」

 「は? なんですか、そのポリマルチって?」

 ポリマルチ――農家が畝(うね)の保護に使うポリエチレンフィルムのことだ。ニッタさんは、農家が知りたい情報をネットを使って配信したいと考えたのだ。

 現状ではFAXで農家に届けられる病害虫予報や農薬散布情報、種蒔きやポリマルチ張りの時期などをネットで提供したい。この町では農家の役に立つもの、すなわち住民の役に立つものなのだ。

 ニッタさんが足で集めた住民の想い。こちらもただ口を開けて、エサが落ちてくるのを待っているわけにはいかない。将来的にこの町の農業はどこに行けばいいのか。有機農業へのシフトを考える場合、農家が必要な情報は何か。少しでも提案できることはないかと、自分でも農業関係の機関にコンタクトして情報を収集し、キングファイル1冊分がその資料で埋まった。

 昼は太陽の下を住民と対話するために走り回り、夜はデスクワークと格闘するニッタさんに、ある日尋ねた。

 「ニッタさん、働きすぎじゃないですか? なんでまた、そこまで働くんです?」

 「だってXさん、事務所に座ってても情報は入ってこないよ。何が欲しいのか、何に困ってるのか、現場で住民の声を聞かないと。Xさんだって、市町村回ってアフターフォローとか現状の調査分析とかやってるでしょ?」

 ニッタさんは、FireWall-1のモニタ画面からこちらに視線を移し、目尻を下げて、くしゃくしゃと笑った。

 ニッタさんの陽に灼け焦げた顔は、住民と共に歩いてきた証だ。

■□■

 ネットがあれば、都会だろうが地方だろうが、どこに住んでいても関係ない、というのはウソだ。

 西の島のC町役場。その町の電算担当ナリタさんと飲みに行ったときに、彼は言った。

 「だってさ、ADSLなんてこんなちっぽけな島には来ないもん。ネットはこれからどんどん広がっていくと思うし、すごく便利なものが出てきたなって思うよ。住民にも使ってもらいたいから公衆端末も準備するけどさ。でも日常のツールとして使っていくには、まだまだなんだよね。ダイヤルアップで、画面が表示されるまでじりじりしながら待たなきゃいけないネットなんて、あっという間に愛想つかされちゃうよ。あ~あ、ADSL、来ないかなぁ」

 住民に「こんなに役に立つネットってものがあるんだよ!」と伝えたいのに、自信を持ってそう言えないジレンマ。ナリタさんは悔しそうに居酒屋の天井を見上げ、焼酎を流し込んだ。

 海中ケーブルを通して回線を引くなんて、地方中小企業のわたしがいくら頑張ってもどうしようもない。力になれないこちらも、悔しい思いで焼酎のグラスを空けた。

■□■

 No one left behind.

 ……住民の誰をも取り残したくないという想い。

 公務員である彼らの仕事は、生きていくための最低限のセーフティーネットから地域住民がこぼれおちないようにすることだ。インターネットはいずれライフラインと同様の働きを持つようになる。それに合わせて、住民側の意識レベルもITスキルも上げておかなければ、デジタルディバイドによって、やはり過疎地は過疎地のままに取り残されてしまう。

 最初からうまくいくとは思っていない。ニッタさんの町にしろ、そもそもPCが家にある農家はごく少数派だ。公衆端末を設置するにしても使い方を知っている農家はいないのだ。でも、クソ暑い真夏に、汗水たらして農家の意見を聞いてまわったニッタさんの姿は、住民たちの記憶に残る。「なんかニッタさんが熱弁しとったなぁ。インターネットで農業情報がどうとかこうとか……」と。その記憶が住民たちに蒔かれた種になり、いつか花を咲かせると信じたい。

 「No one」……それはあまりに難しいことだが、彼らは地道にそれに取り組んでいる。戦略的自治体IT化の企画立案を行い、国や首長と渡り合って予算をぶん取るスキルも磨かねばならないが、ネットの「ネ」の字も分からない住民に、ブラウザの使い方だのフォルダの概念だのを教える地味で泥臭い活動も、並行してやっていかなければならない。

■□■

 そもそも公務員という仕事は、住民のために夜中まで頑張っても、それが民間会社のように給与や評価に反映するわけでもなく(あってもごく少数で)、残業手当も不文律によって働いたほどには支払われず、はっきり言って頑張り損ではないかと思うくらい“頑張る人が報われない世界”だ。

 それでも、やる人はやっている。

 わたしは大学を卒業する時に市役所職員の試験を受けたのだが、単に親に強要されただけで公務員になる気はさらさらなかった。公務員という仕事の生きがいがまったく分からなかったからだ。だが、長きに渡る公務員とのお付き合いの中で、「ひょっとすると公務員ってスゴい仕事なのかも」という気がしてきた。

 もちろんクビになる確率はほとんどなく、収入も安定しているので、定年まで波風立てずにおとなしく座っていれば安寧な人生が送れる職業だ。しかし、安定に胡坐をかいた人生を選ぶか、住民と共に歩く人生を選ぶかはその人次第だ。公務員という職業は、とてつもなくブレ幅の大きな職業なのだ。そしてわたしのお客はほとんどが住民と共に生きていた。

 そんなわけで、いつもマスコミの逆風の中にいる彼らのために言いたい。

 「ガンバレ! 公務員。キミたちがちゃ~んと働いていることはわたしが知っているぞ!」

 彼らの住民に対する想いと行動力に負けたくない。わたしにできることがあるなら、なんとか彼らを支えたい。

 デスマーチが鳴り響いていても、わたしを動かすのは、いつもお客の熱い想いだ。

 あぁ……ビー玉を覗いてるうちに、うたた寝しちまったようだね。

 中央省庁から庁内IT化で補助金が落ちる自治体ってのは、過疎地や離島、もしくは高齢化率の高いところで、つまりひとことで言えば田舎なのさ。でも、田舎だからこそ出会える人の優しさ、なんてのもあるんだよねぇ。

 D町のシステムリリース前日だったかねぇ。プロジェクトメンバー全員が、その町の体育館や運動公園、学校を巡って、設定作業と動作確認で走り回っていた日だよ。電算係のノシタさんのご母堂様が「あんたたち大変だねぇ。ごはんくらい、ちゃんとおあがり」って、手作りの巻き寿司を持ってきてくれたんだ。青い空の下、子供が走り回る運動公園のトラックを眺めながらほお張るシンプルな巻き寿司。頬を撫でていく春先のぬるみ始めた風は、ひととき疲れを忘れさせてくれたよ。

 ノシタさんのご母堂様は、しばらくして突然亡くなってね。ノシタさんにメールしたんだ。「あのときの巻き寿司、おいしかったです。忙しすぎて荒みそうな心を引き戻してくれました。きっと忘れないと思います」って。ノシタさんからは「あのお寿司も、母も、ぼくの自慢でした。ありがとう」って返信があってね。泣けたよ。

 ニッタさんとは最近話す機会があってね。町長になりたいんだって言ってたよ。この人が町長になったら、きっと住民もついてくるだろうねぇ。FireWall-1が使える町長さんなんて、なんだかかっこいいじゃないか。

 C町には、その後やっとADSLが来てね、ほんとによかったよ。でも交換局から距離のあるところも結構多いみたいでね。もちろん光なんてまだまだ。日本中が同じコンテンツを同じ速度で快適に見られるようになるのはいつなんだろうねぇ。

 クソミソに言われてる公務員だけど、あたしのお客はホントに頑張ってたんだ。そんな彼らを支えたい……って思ってたけど、あたしが辛い思いをしてるときに最後の最後まで支えてくれたのは、そんなお客さんたちでね。逆に支えられてもいたんだねぇ。

 おや、あんた、つきあってくれてたのかい? 悪いねぇ。

 仕事にお戻りよ。気が向いたら、また寄っとくれ。当てにしないで待ってるからさ。

 なんでだろうねぇ。テキーラが飲みたくなったよ。美味い岩塩とライムでも準備しとこうかね。

 もうすぐ春だねぇ。春は儚くて哀しい季節さ。出会いもあるけど別れもある。

 そっちは寒いかい? インフルエンザになんかなってないかい? ちゃんと布団かぶって暖かくしておやすみよ。

今日のBGM:「熱い想い」 by CHAGE & 飛鳥

Girls Just Want To Have Fun

2009/02/16 16:00:00

 3月の足音が聞こえてきたねぇ。風邪なんてひいてないかい?

 カルヴァドス、準備しといたよ。馥郁(ふくいく)としたいい香りがするだろう? ボトルの中に入ってる丸ごとのリンゴは、まだ小さいうちからボトルをかぶせて成長させたものなのさ。

 ありがたいねぇ。また来てくれて。

 今日も箱の中を眺めてたんだ。目を閉じて、1つだけ記憶の欠片(かけら)を拾いあげてみる。

 ……あぁ、このビー玉は……うふふふ……ピンク色をしてるねぇ。

 ……おまえさんもビー玉を覗いてみるかい?

 女の子だって楽しみたいのよ、とCyndi Lauper姐御は歌う。女の子が楽しみたいことと言えば、もちろん“男”に決まっておるではないか。遊んでたって、仕事してたって、やっぱり“男”で楽しまにゃあ!

 デスマーチで死の舞踏を踊らされる女子エンジニアには、ほかの職業では味わえないメリットでもなきゃやってらんないのだが、神はそれを与え給うた。それは無防備な男子の姿を見る確率が高いところだ。

 さて、これはわたしが移動の車中から友人に送信したメールである。

Subject:わたしの隣で寝る男
自分の隣で男が寝ている……ってシチュエーションはなかなかのもんですねぇ(笑)

いや、残念ながら全然色っぽい話ではないのですが……。連日早朝から深夜まで働いてるので、社用車で船に乗っての移動中、睡眠不足の同僚が、私の隣(運転席)でシート倒して寝てるのよねー。

いやぁ、男性のこういう無防備な姿って、ホントいいですね!(←水野晴郎風)

ぐふふっ! ま、たまにはこういう楽しみもなきゃね!

 なんだか、奥さんや彼女しか見ちゃいけないものを拝見させていただいたようで、妙に得した気分になったのだ。

 男が無防備な姿をさらしているのは、心を許しているからだ。今ならこの人を殺せる……首を絞めようか、それともナイフを胸に突き立てようか……そんな状況を許している男の油断に色気を感じるのだ。あぁ、ムラムラしちゃうわ!

 ……あの、別に心を許してるとか許してないとかじゃなくて、ただ疲れてるだけなんですけど……何かカンチガイしてませんか? とか、そういう夢を壊すようなことは言わないで欲しい。エンジニアズ・ハイに陥ると、妄想はエヴリタイム・ポイント・オブ・ノー・リターン。英語が間違っていてもほっといてくれ。

 柳美里の書いた「男」という小説がある。これを読んだのは、お盆出張ツアーで移動中の機内だ。男の体の一部分ずつを取り上げてのアンソロジーと同時進行で物語が進んでいく……というちょっと複雑な構成になっている。男の体の一部は「目」であったり「耳」であったり「唇」であったり……。

 例えば「肩」の項では、以下のような記述がある。

---柳美里「男」----------------
男の肩は狩猟のために発達したといわれているが、今ではスポーツ選手はべつとして、肩は男らしく見せる以外にはなんの役にも立たなくなってしまったように思える。(中略)実は女よりも男の方ががっしりした肩やぶ厚い胸に憧れを抱いていて、ふだんは洋服で隠して素知らぬ顔をしているが、はだかになったときに彼らがもっともコンプレックスを感じるのは肩と胸ではないかと思う。
-----------------------------

 「肩」「腕」「指」と読み進んで、ふと隣を見ると、同僚が寝息を立てている。客室乗務員がうろちょろしてなきゃ、もう少しで、その隙だらけの男の肩や胸がどうなっているのか確かめてしまったかもしれない。……どうやってだ? そりゃあシャツのボタンを上からひとつずつ外し、ベルトの金具に手をかけ……以下、@IT不適切な投稿取締隊により削除。ピーーーーーッ。“この投稿は@ITアダルトメディアに移管されました。有料購読にはIDとパスワードの申請が必要となります”

(編注:もちろん、そんな部隊も、そんなメディアも、有料購読サービスもない)

 そしてわたしは巨万の富をほしいままにする。ふおっふおっふおっ……。

 「いつもは端正な佇まいで仕事をしている男子エンジニアが、疲労のピークで見せるちょっとだらしないところ。深夜のマシン室でネクタイを緩め、あるいは第一ボタンを外し、うたた寝をする姿に欲情したことなんかないわよ……」

 そんなあなたは、女子エンジニアの風上にも風下にも置けません。

 命短し、恋せよ女子エンジニア。我らが役得と思うて、無防備な男の姿をとくと楽しむがよいぞ!

追伸:もし大ッ嫌いな男が無防備な姿で寝てたら、それは色気ではなくて単なる油断です。とっとと簀巻きにしてコブラの壺にでも投げ込んでください。わたしが許可します。

 あぁ……ビー玉を覗いてるうちに、うたた寝しちまったようだね。

 あたしゃ、男子のスーツスタイルってのが大好きでねぇ。うたた寝してる男子がいると、「ほー、今日のシャツはクレリックですか」とか「そのドゥエボットーニ、イカしてるじゃないの」なんて、心おきなく眺めまわしては、密かに喜んでたもんさ。いやぁ~、男子の観察ってのはいいもんだよねぇ。うふふふ。

 おや、あんた、つきあってくれてたのかい? 悪いねぇ。

 仕事にお戻りよ。気が向いたら、また寄っとくれ。当てにしないで待ってるからさ。

 「島美人」を準備しとくよ。あれ? 知らないかい? これは焼酎さ。「島美人」は入手しやすいけど、同じ酒造会社が「島娘」「島乙女」ってのも出しててね。3姉妹になってるんだ。麹で味が違うのさ。

 もうすぐ春だからって、油断してんじゃないよ。風邪ひかないように、暖かくしておやすみ。

 今日のBGM:「Girls Just Want To Have Fun」 by Cyndi Lauper

Just the way you are

2009/02/05 16:55:00

 相変わらず寒いねぇ。でも、冬来たりなば春遠からじって言うじゃないか。あとすこしで春の風も吹くだろうね。その前に花粉の嵐も来ちまうねぇ。おぉ、いやだいやだ。

 イングリッド・バーグマン、準備しといたよ。こりゃあ意外と強いカクテルだから、足に来ないように気をおつけ。おまえさん、カサブランカを見たことあるかい? あたしゃ、この世で一番美しい女はイングリッド・バーグマンだと思ってるんだ。彼女の強い意志をたたえた瞳のように辛口で、ミステリアスな紫色をしてるだろう?

 それにしてもありがたいねぇ。また来てくれて。

 今日も箱の中を眺めてたんだ。目を閉じて、1つだけ記憶の欠片(かけら)を拾いあげてみる。

 ……あぁ、こりゃあ昔々のビー玉だねぇ。いまどきこんな男はいないかもしれないけどねぇ。

※文中すべての固有名詞は仮名・捏造・偽称・詐称です。

 昔々のその昔、オフコースが絶頂期を迎えた頃に発売された「We Are」というアルバム。これを買うために、なけなしの小遣いをはたいてレコード屋に走ったのだが(もちろんCDではなくLPである)、この中に『いくつもの星の下で』という歌がある。他の歌はともかく、この歌は嫌いだった。いつも1人で悔し涙を流してきた自分(男)のことを、あなた(女)に聞かせたい……という趣旨の歌詞があるのだが、なんちゅう女々しい男だと思ったものだ。なぜなら、男とは大きく強く逞しく、人に頼られるタフな生き物であるからして、弱みなんか見せちゃいかん動物なのだ……と、そう思っていたからだ。

 わたしはまだまだガキだった。この歌の良さがわかったのは、もう少し大人になってからだ。

 グループ替えでスズキ主任がリーダーとしてやってきた。体つきも大きく、野太い声で、一見、“わかりやすい男らしさ”ムンムンなのだが、何か違和感があった。なぜなのだろう……。そのうち理由が見えてきた。彼は“自分で定義した”男らしい男を演じるために、強引に周囲をかしずかせていただけなのだ。

 他人に決して弱さは見せない。強い男はリーダーシップを発揮せねばならない。彼はいつも若い部下数名に囲まれていた。どこに行くにも、時にはトイレに行くにも一緒だった。彼を先頭にして若いもの数名が付き従うその姿は、陰で“カルガモ部隊”と呼ばれていた。“カルガモ部隊”に選ばれるのは、決まって気弱で御しやすいタイプの男性社員か、右も左もわからない新人だった。

 どちらかというと現代的なIT企業社員としては珍しく、男尊女卑の考え方がはっきり見える男でもあった。女子社員がユーザー先に出ることに反対し、前線で戦うのは男、銃後を守り内勤するのが女であるべきという説を会議でも声高に主張し、「女は戦力にならないからな」と切り捨てた。つまり女子社員にはPGはできても客先対応が発生するSEなどできないと言いたかったわけだ。もちろん女子社員たちは「そのプログラム1本も作れないお前に言われたかねぇんだよ」と陰で非難轟々浴びせていたが。

 リーダーシップを発揮するとは、声が大きいことでもなければ、腕力が強いということでもない。もちろん年若い社員を常時侍らせておくことでもない。

 “自分で定義した”男らしい男として存在することが彼の生きる拠り所であり、自らのアイデンティティを失わないためには、部下や女に対する優位性を保っておかなければ生きられなかったのかもしれない。SEという聖域に女など上げては、男の沽券に関わることだったのだろう。

 男らしさという幻想に羽交い絞めにされて、そこから外れまいともがく姿は哀れでもあった。本来100である彼自身を1000や2000に見せようとして、懸命に虚構のハリボテを太らせていることは、いつか見破られてしまう。1000の中に透けて見える100は、本来の100よりも一層小さく縮こまって見えた。

 男らしいってのは、そういうことじゃないだろう。

 男という生き物は、多少なりとも“男らしさ幻想”にとらわれがあるものと勝手に思っている。女が“女らしさ幻想”にとらわれるよりも、ずっと。

 強くなければならない、弱みなんか見せちゃいけないと、日ごろは鎧兜に身を固め、身構えている男たち。そのとらわれの中にあって、生の自分を人に見せるのは、なかなかに勇気が必要なことかもしれない。

 でも、信頼できる人やチームメンバーには、時に辛い気持ちや苦しい思いを吐き出すことがあってもいい。生の自分をさらけ出すことがあってもいい。

 もろい部分を併せ持つからこそ、人間らしい魅力が引き立つこともあるのだから。

 Billy Joelも歌っている。自分を変えたりしなくていいんだ、そのままの君でいて欲しいんだよ、と。


 あぁ……ビー玉を覗いてるうちに、うたた寝しちまったようだね。

 もっと自分に正直に、本来の自分のままで生きていけたらラクなのにね……って思うことがあるよ、男も女も。自分で自分を縛り付けて、苦しい思いをしてる人も多いんじゃないのかねぇ。

 今のままの自分でいいんだから、頑張らなくてもいいって意味じゃあないよ。今の自分を認めてあげた上で、頑張っていけたらもっといいのにね……ってことさ。100の自分を認めて、虚構じゃなくて、いつかほんとうの1000の力をつけていけるようにね。

 背伸びするのだって悪いことじゃないさ。あたしみたいな老いぼれから見たら、かわいいもんだ。でも、背伸びして演じた自分を、本当の自分だと思い込みはじめると危ないねぇ。

 おや、あんた、つきあってくれてたのかい? 悪いねぇ。

 仕事にお戻りよ。気が向いたら、また寄っとくれ。当てにしないで待ってるからさ。今度はカルヴァドスはどうだい? 昔の同僚に教えてもらったお酒でね。リンゴのブランデーさ。バカラのグラスなんかに角のない丸い氷を入れてロックで飲むのが好きなんだ。琥珀色の液体に溶けていく氷を眺めているだけでも、優雅な気分になれるよ。

 今日も寒いねぇ。風邪ひかないように、暖かくしておやすみよ。

今日のBGM_1:「Just the way you are」 by Billy Joel
今日のBGM_2:「いくつもの星の下で」 by オフコース

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コラムニスト プロフィール

元エンジニアX
長い長い間、エンジニアをやっているうちに嫁(い)き遅れた老婆。思い出の箱を開けて、記憶の欠片(かけら)を探す。

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