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寒くなったり暖かくなったり、おかしな日和だねぇ。体調を崩してなんかいないかい?
テキーラ、持ってきたよ。塩はフロール・デ・サルにしたよ。だって好きなんだもの。ポルトガルの塩が。ちょっとお待ち。あんたも飲むかい?
今日も箱の中を眺めてたんだ。目を閉じて、1つだけ記憶の欠片(かけら)を……あっ……ビー玉が……。
全部転がって行っちまったよ……。手元が狂っちまうなんて、やっぱり老いぼれたもんだねぇ。箱の中には何も残って……あぁ、1つだけ残ってるようだよ。これは……捨てたと思ってたよ。吸い込まれるように真っ暗なビー玉。あぁ、お止めよ、こんなもの覗くのは……。
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※文中すべての固有名詞は仮名です。
言葉の石つぶて。この世にはこんなにも人を傷つけ、貶める言葉がたくさんあるのだと知った。
「要するに、仕事をする能力がないんだろう?」
「休日出勤は朝9時ちょうどに来いって言ってるだろう。何で遅れてくるんだ!」
「そんな調子だったら、仕事から外すぞ」
「お前なんかいないほうがいいよ。邪魔なだけだ」
となりのグループからいつも聞こえていた罵声だ。
男は、どんな些細なことでも自分のコントロール下に置かなければ気がすまなかった。自分の思いどおりに部下が動かないと、言葉の暴力で恫喝した。まるで悪辣な専制君主を戴く軍隊組織のように。
ターゲットにされているとなりのグループのメンバーが気の毒だった。そこまで人格否定されるほどのことはやってないだろう。かわいそうに……。
でも、投げられた暴言が心を切り裂く痛み、出血多量で思考能力を失っていく無力感は、実際にぶつけられた人間にしかわからないことを知ったのは、それが対岸の火事ではなくなったからだ。
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男がわたしの上司として異動してきた。もちろん嬉しくはなかったが、わたしは男に攻撃されるような材料は持ち合わせていないと思っていたから、あまり気に留めていなかった。今までの上司に対してしてきたように、お客との会話の中で業務分析を行い、顧客システムに対する改善計画を男に提案した。“提案をしてくる部下は反逆者”と、男が見做していることも気付かずに。
この軍隊組織で平和に暮らすためには、専制君主から給餌されるエサだけを黙って食べ続けるブロイラーでいなければならなかったのだ。提案することが仕事だと思っている女など、一番に潰さねばならない鼻持ちならない部下だった。
信じられないかもしれないが、他人から提案されることで逆上する人間というのが、この世にはたしかにいるのだ。
最初はつまらないことから始まった。お客からの重要なメールを情報共有のために転送して罵倒された。「僕はメールなんか見ない。メールで転送されてもわからない!」と。怒鳴られている意味がわからなかった。いったいどういう業種の会社に勤めてるんだ? こいつはバカなんじゃないのか? と思ったが、最初から揉めるのも気がすすまず、それ以来、メールはプリントアウトして机に置くようになった。
長い会社生活の中で、こんな種類の人間と出会ったのは初めてだった。いったいどう対処すればいい? ……思いあぐねているうちに、それまで上の決裁など仰がなくても任されていた裁量はすべてなくなった。
お客と会話していただけで「勝手に話をするな。余計なことを言うから仕事が増えるんだ」と嫌味を言われる。
どう動けばいいのかわからなくなった。
「お客が今後どうなりたいのかを一緒に考えて、参考書籍などを読みこんで提案活動をしていくのがわたしの仕事だと思っているのですが、違いますか?」
男は爪を噛みながら答えた。
「考えるな! 本なんか読むな!」
■□■
平成の大合併が始まる時期だった。これからの自治体Webにはアクセシビリティ対応が必須になる。成果物評価のために、アクセシビリティのチェックソフトを物品請求した。たかが1万円程度のものだ。
そもそも男はWebの世界には詳しくない。アクセシビリティについて何時間もかかるようなボリュームのレポートを要求された上に、口頭でも散々必要性を説明させたあと、男は蛇のように酷薄な視線を投げつけ、こう言った。
「僕は頭が悪いんだ。きみの言うことはぜんぜん意味がわからないね」
あちこちの自治体で受注活動のためのコンペが始まっていた。プレゼンはわたしの担当だったが、若い世代を育てるために、入社3年目のカオリに一部をまかせることになった。家で何匹ものぬいぐるみをお客に見立て、夜中まで一生懸命練習をしたらしい。受注できたことが嬉しくて、わたしは男の席に駆け寄り報告した。初めてのプレゼンで数千万の仕事を勝ち取った彼女を褒めてあげて欲しかった。
「A町、受注しました。カオリも一生懸命プレゼンの練習してたみたいなんで、ひとこと言ってあげてくださいね」
だが、あの男はモニタから顔も上げなかった。
「だから何なの。取れて当たり前だろ」
わたしは構わない。何を言われても。でもプロジェクトメンバーを攻撃されるのは我慢ならなかった。
「ヨシヒロ、何をやってるんだ! そんな作業、ぼくは聞いてないぞ!」
暴言を吐かれ続けているヨシヒロの前に割って入った。
「その作業はわたしが指示したんです。問題があるならわたしに言ってください」
大した作業量のものではない。これまでなら許されていた範囲のものだ。
「生意気なことをするな。バカが」
男の目はそう言っていた。
■□■
この年は、多くの合併プロジェクトに加えて、自社パッケージソフトの大幅バージョンアップを控え、史上最悪のデスマーチが予想されていた。工数不足は明白だ。工程ごとに必要工数の詳細なレポートを何度も提出させられ、そして結局、人の手当てはされない。そこまではよくある話だ。
「残業は21時まで。休日出勤は禁止する」
何を言っているんだ、こいつは。
「それじゃどの合併プロジェクトも納期に間に合わないですよね。地方自治体のシステム合併がことごとく間に合わないなんて新聞沙汰もいいところですよ。人の手当てはされないのに残業も休出も禁止なんて、自分の言ってることの意味がわかってますか」
「間に合わなかったらぼくが謝りに行けばいいんだろ」
客先に一度も行ったことがないあんたが謝ってどうするんだ。実際にお客と顔を合わせて折衝をしているのはわたしだ。納期に間に合わなかったらあんたの責任じゃない。わたしの責任だ。
20時50分になると恫喝が始まる。
「誰の許可を得て残業してるんだ! 帰れ!」
毎日のように浴びせられる怒号に業を煮やして、サーバが必要な作業以外は自宅に持ち帰るようになった。メンバーの中には、20時過ぎに一度自宅へ戻り、男が帰宅する22時頃に舞い戻って作業をする人間もいた。
「月間作業時間が300時間を超えてないプロジェクトに人の手当てなんかできない」
「仕事のやり方がメチャクチャだから納期に間に合わないんだよ」
「きみにはプロジェクトリーダーの資質なんかないね」
「自分で仕事を増やしてるだけだろ」
お願いだ。わたしを信じてるお客がいるんだ。ニッタさんやナリタさんやノシタさんが待ってるんだ。助けてくれなくてもいい。ただ邪魔をしないでくれ。
■□■
綱渡りのような精神状態で過ごしていたある日、かつての上司だったフクヤマさんから飲みに誘われた。繁華街の混んだ小料理屋は、少しくだびれたビジネスマンで満席だ。
「最近どうだ? なんだかおかしな状況になってるようだが」
「……あぁ、そのことですか」
メヒカリの唐揚げをつつきながら返事をする。
「なぁ、お前はなんでそんなにストレートしか投げられないんだ? 相手を見ろ。相手を見て球を変えろ。デッドボールが飛んできたら、よけろ。このままじゃ潰れるぞ」
視線を上げてフクヤマさんを見た。
「いわれなき暴言を、どうして黙って受け止めなきゃいけないんですか。わたし、そんな理不尽な人間に負けたくない。正面からぶち当たったって平気です」
「俺はなぁ、お前のためを思って言ってるんだぞ、この頑固者が。まぁ、お前だったらそんなこと言いそうだとは思ったがな。しかし覚えとけよ。相手の言葉を全部まともに受け止める必要はないんだからな。馬耳東風って良い言葉があるだろ」
「はいはい、覚えときますよ」
ぞんざいな返事をしたのは照れ隠しだ。フクヤマさんの気持ちが嬉しかったからだ。それが、差し伸べられた手に気付く心の余裕が残されていた最後の時だった。
■□■
「負けたくないし、負けない」……そう思っていたが、投げられた言葉は、確実にわたしの心に内出血を起こしていった。
気がつけば、社内で笑うことができなくなっていた。20時を過ぎると動悸が始まる。文字を読んでも意味がわからなくなり、時に<table>や<hr>の文字を眺めながら、それがなんだったのかHTML辞典を引く自分に愕然とする。眠れなくなり、1時間置きに覚醒する。
仕事の能率は落ち、元々過酷なスケジュールは一層遅れていった。
■□■ 男がこれまで何人ものターゲットに攻撃をしかけてきた時間帯は、男の、そのまた上司がいない時間帯だ。会議室にターゲットを呼びつける理由も、つまりそういうことだ。どんな暴言を吐いても、何が起こっても、見咎められることはない。証拠がない。
ここまで来ても「わたしは1対1を避けるような弱虫じゃない」と強がっていた。
感情的になったらおしまいだと思っていたのに我慢できなかった。
「あなたは上の人がいるときだけ部下の話を聞くポーズを取って、いなくなると自説を押し付けるばかりで全く聞く耳を持たないじゃないですか。理解しようという気持ちさえないじゃないですか!」
男は一瞥して口の端をゆがめた。
絨緞爆撃のように降り注ぐ、たくさんの、たくさんの石つぶて。自己批判の強要。最初は反論する元気もあったが、そのうち口を聞けなくなっていった。
もしかすると、わたしは男の言うとおり、能無しなのか。お客の信頼を得ていると思っていたのは幻想だったのか。わたしはいるだけで邪魔なプロジェクトリーダーなのか。
会議室を出て行く男の足音が聞こえていた。涙が頬を濡らした。情熱とプライドをもって仕事をしていたわたしは、いつのまにか消えてしまった。そこにいるのは、あの男の恫喝に怯え、小さくなって震えているゴミ屑のような女だ。
会議室の窓から見える夜の空。白々しい蛍光灯の光。中空にかかる青ざめた月を見つめ、止まらない涙と嗚咽の中で両の指を組んだ。
お願いです。そんなにわたしが憎いなら、いっそ、その手で殴ってください。ナイフで刺してください。心の傷など誰にもわかってもらえない。誰が見てもわかる青あざを、血を噴き続ける傷口を、わたしの体につけてください。
わたしが何をした? いったいあなたに何をしたというのだ?
■□■
もう無理だ。逃げるしかない。東京の仕事に手を上げた。だが、携帯電話に追いかけてきた男の声にパニックを起こし、過呼吸の発作を起こした。病室の片隅で、PTSDだとかフラッシュバックだとか、そんな単語が切れ切れに聞こえていた。
逃げるのが遅すぎた。自己治癒できる限界点は、すでに超えてしまっていた。
■□■ 仕事はわたしの生きがいだった。
何よりも大事にしていた仕事を放り出すことになったのは盛夏。精神科医の診断書を出した。
病院に行く以外はほとんど部屋にこもりきりの日々。最初は文字に焦点を合わせることもできず、ただ布団の中からぼんやりと、天井に下がる蛍光灯を見ていた。それでも、ひと月過ぎたころには、睡眠薬、抗不安薬、抗うつ薬で、次第に動けるようになり、日常生活も普通にできるようになった。ただ、人間が怖いということを除いては。
夏は布団の中で、緩慢に通り過ぎて行った。
それは美しい秋の朝のことだった。湿気を含まなくなった空気は透明に澄み渡り、空をどこまでも高く見せていた。夏の間、青紫の朝顔が巻き付いていた生垣から花は消え、代わりに小さな橙色の花をつけたキンモクセイが甘い匂いを放っていた。少し冷たさを含んだ風が頬を撫でる。そうだ、わたしはもう動けるのだ。今日、死んでしまおう。生きていても仕方がない。仕事もできなくなった人間に生きている価値などないのだから。
天井を見た。そこに下がっているのは蛍光灯ではない。
―――この椅子を蹴ればラクになれる。役立たずの人生をおしまいにできる―――
涙は出なかった。もう出尽くしていた。
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あぁ、もう止めとくれよ。こんなビー玉なんか、こうしてやる。……ははは……ざまぁ見ろってんだ。砕けて粉々だ。……テキーラを寄越しておくれよ。いいじゃないか、もう少し飲んでも。飲み足りないんだ。
そうだよ、あたしは死ねなかった。椅子を蹴る勇気もない意気地なしだった。でも、生き物としてのあたしは死ななかったけど、心は死んでしまったんだ。情熱やプライドと一緒に。
それからのあたしは、息をしてるだけの抜け殻だった。世界は薄皮1枚隔てた向こう側に、手の届かないところにあった。もう永遠にその世界に戻ることはできないように思えたんだ。
あの男の言葉なんか、受け流しちまえばよかったんだ。やられてシュンとしてるフリでもしときゃよかったんだ。でも、あたしはそれができなかった。あの男の一言一句に感情的に反応して、自分に対するコントロールを失い、自滅していったんだ。
エンジニアライフにはいろんなことがあった。楽しいこともあった。辛いことも腹が立つこともあった。でも、おおかたのことは時が解決してくれる。ヒロシのことだって、マリリンのことだって、笑い話に変わっていった。
でも、変わらないものもある。あたしは一生忘れないよ。送別会のときに「きみはどこに行っても大丈夫だよね」と右手を差し出し、口の端をゆがめて笑った男の顔を。
長い時を経て、あたしは死ぬ勇気をなくしたまま、今も生き続けてる。生きていくのなら忘れなきゃいけないと思った。あの男との間にあったことをすべて。そうでなきゃ、これから先の人生を歩いていくことができない。
でも、忘れることも許すこともできなかったんだ。忘れることができない自分を責めたよ。許すことができない自分に苦しみ続けたよ。
そして、あるとき決めたんだ。忘れなくていい、許さなくていい。この命が消えるときまで、うらみつづけようと。これ以上自分を責め続けないために。そう決めた日からラクになれたよ。
そうさ。うらみます。あんたのことを、死ぬまで。
悪いねぇ。つまらない悪夢に付き合わせちまった。もう一杯飲ませておくれよ。大丈夫さ。これでも昔はザルって言われてたくらい酒に強い女だったんだ。
ねぇ、このテキーラを飲みほしたら、あと少しだけ付き合っておくれよ。最後にもう少し話がしたいんだ。いいだろう?
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今日のBGM:「うらみ・ます」 by 中島みゆき