長い間、エンジニアをやっているうちに嫁き遅れた老婆の足跡。

忘れない日々

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 もう何年経つんだろうねぇ……。

 小さな窓から、力のない初冬の日差しが遠慮がちに差し込んでくる。寒々しい殺風景な部屋には、PCの乗った机がひとつ。ガスコンロには薬缶がしゅんしゅんと音をたてている。銀行の景品でもらったような安っぽいカップにインスタントコーヒーを二匙入れると、薬缶からお湯を注ぎ、ガスを消した。カップを持って机の前の椅子に腰掛けたのは、腰の曲がった醜い老婆だ。


 ……長い長い間、エンジニアをやってたんだ。いろんなことがあったよ。楽しかったこと、腹がたったこと、恥ずかしいこと、辛かったこと……忘れてしまいたいこと。

 エンジニアを辞めたときに、そんな思い出たちは、箱に詰めて押入れの奥に片付けてしまったのに、最近なんだかいろいろ思い出しちまってね。

 ときどき記憶の欠片(かけら)を探してみたりするんだ。昔の日記を読み返したりしてね。

 膝の上には、皺だらけの両手に包まれたコーヒーが小さな湯気を上げている。重力に逆らえなくなった老婆の皮膚は、目のまわりに幾重ものたるみを作り、シミが現れた肌は斑模様を描いている。枯れた小枝のような体からこぼれる言葉は、植物の呼吸のように抑揚がない。

 子供はどうしてるのかって?。

 ……あたしゃねぇ、長い間エンジニアをやってきたけど、仕事はそりゃあマルチタスクでやってたさ。昔だったらCOBOLのコンパイルかけてる待ち時間に設計書を書いてたし、WEBの時代にはVisual Studio、SQL Server Enterprise ManagerにOutlook、Photoshop、Illustrator、秀丸、複数のブラウザにお隣のMacintoshまで一緒に使ってたもんさ。

 だけど、私生活と仕事がマルチタスクでやれなかったんだねぇ。

 そりゃ、あたしだって最初っからこんなババァだったわけじゃないさ。若い頃は、それなりに少しはね、好きな男もいたりしたもんだ。だけど、気が付けば子供どころか男も捕まえられないまま、こんなに老いさらばえちまった……。別に寂しかないけどね。

 老婆は、ふう、と、ひとつ息を吐き、日差しが差し込む窓を見上げた。

 ひとつづつ、忘れていくんだよ。エンジニアの頃に使ってたいろんな言葉を。

 たまに@ITなんて覗いてみるんだ。「仮想化」とか「クラウド」とか、あたしがエンジニアやってた時代にはなかった言葉が跳梁跋扈してる。ときどき寂しくなるよ。年をとった人間は、こうして世の中から置いていかれるんだねぇ。

 あぁ、おまえさんもコーヒー飲むかい? 気が利かなくて悪いねぇ。もう一度薬缶に火を…………。え? もう行くのかい? そう、そりゃあ忙しいだろうね。

 でも、たまには寄っておくれよ。このごろは、誰かとこうして話すことなんか、ありゃしないんだ。今度はちゃんとしたコーヒー豆を準備しとくよ。あたしはマンデリンが好きなんだけど、あんたは? マンデリンは苦味の強い豆でね、味に色気がないんだ。嫁(い)き遅れのあたしにぴったりだろ?。

 今日も寒いねぇ。風邪ひかないように、暖かくしておやすみよ。

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 今日のBGM:「忘れない日々」 by MISIA

Comment(4)

コメント

S34

別に寂しかないけどね。そうね、家族を持ってから一人になるよりはいいかも。思い出の写真やビデオをで紛らしながら余生を過ごすしかない。人生ほんと色々。

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おや、S34さん。こんな何もないところに顔だしてくれるなんて嬉しいじゃないか。誰も通りかからないだろうって思ってたよ。
いつか嫁き遅れが集まって、老人ホームで四方山話でもしてみたいもんだねぇ。こたつで蜜柑を食べながら。

組長

私もいつのまにか歳だけ取ってしまい、元彼や仲の良かった男友達は次々と結婚していきました。中には、すでに第2子がいる人まで・・・。嫁き遅れ街道まっしぐら中です。

X

組長さん、寄ってくれてありがとよ。
第2子でも第3子でもいいけどさ、孫が出来たなんて話は聞きたくないもんだねぇ。

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