ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

イノウーの憂鬱 (65) 年上の部下、年下の上司

»

 「実に信じられないことを聞いたんだが」大竹社長はぼくを睨んだ。「斉木くんによれば、ジョイントベンチャーには出向しない、と言ったそうだが、間違いないのか」
 「間違いありません」ぼくは答えた。
 大竹社長は咎めるような視線を、同席していた斉木室長に突き刺した。小さなため息とともに肩をすくめたのが、突き刺された方のリアクションだ。理不尽なクレームに対応しているコールセンターのオペレータのように、両目が天井に向けられている。
 「理由を聞かせてもらおうか」大竹社長が言った。「理由はあるんだろうな、もちろん。私が納得できるような真っ当な理由が」
 「うちでまだやれることがあると思ったからです。それだけです」
 「それだけ?」大竹社長は呆気にとられたようだ。「わかっているだろうが、ジョイントベンチャーにはサードアイも参加する。君の古巣だ。東海林さんと一緒に仕事ができる。イノウー、君はそれを望んでいたんじゃないのか」
 「いろいろ考えた結果です。東海林さんとは、またいくらでも仕事をする機会があると思いますし」
 「うーん」人事課の戸室課長が唸った。「そのつもりで来期の配置を調整したんだがなあ。確かにまだ正式な辞令も内示も出してないが......」
 「申しわけありません」ぼくは頭を下げた。「内示の前に、と思いましたので」
 「もう決めたのか?」大竹社長が念を押した。「あとでやっぱり行きたいと言っても、イノウーの席を用意してやれるとは限らんぞ」
 「わかっています」
 大竹社長は数秒間ぼくを見つめた後、大きく頷いた。
 「よし、いいだろう。イノウー、君の職場は、来年度もシステム開発室だ。戸室さん、いいな」
 「はあ」戸室課長は仕方なさそうに言った。「そうなるとシステム開発室はイノウー一人ということに......そういうのは前例がないんですが......」
 「あのー」斉木室長が宿題を忘れた小学生のように、おずおずと手を挙げた。
 「なんだ。まだ何かあるのか」
 「実は笠掛くんからも、同じように残留の希望が出ていまして......」
 「はあ?」大竹社長は椅子に背を預けた。「君んとこは、どうなってるんだよ、全く」
 「申しわけありません」斉木室長はしおらしく謝罪した。「実はイノウーが残るなら、とのことで。たった今、社長から承認の言葉を頂いたことで、笠掛くんの話をする条件が整ったというわけでして」
 「ああ、もうわかったよ」冷静さに欠ける声が大竹社長の口から吐き出された。「好きにしろよ。ちぇっ、やっとシステム開発室を誰にも気兼ねすることなく組織図から消せると思ったのにな」
 「すいません」ぼくは小さく頭を下げた。
 「他にはもうないんだろうな。斉木さん、君は残らなくていいのか、ん? そうか。じゃあ、とっとと出て行け。私は忙しい」
 ぼくたちは急いで立ち上がると、先を争うようにドアに向かった。ドアを開いたとき、大竹社長の声が呼び止めた。
 「イノウー」どこか面白がっているように聞こえる声だった。「木名瀬さんが辞めたことと、何か関係があるのか?」
 ぼくが振り向きかけると、大竹社長は発言を撤回するように、片手を何度か動かした。
 「いや、いい。忘れろ。さっさと行け」
 システム開発室に戻ると、斉木室長が言った。
 「とにかく無事に戻ってこられてよかったね。てっきり昼食のローストにでもされるかと思ってたよ」
 ぼくは笑って、自席のPC にログインし直すと、Teams を開いた。マリに顛末を知らせるメッセージを送るつもりだった。キーを叩いていると、斉木室長が声を潜めて訊いた。
 「で、実際、木名瀬くんと関係あるの?」
 「ありよりのあり、ってとこですね」
 「つまり?」
 「シンプルな理由です」ぼくは空になった木名瀬さんのデスクを見ながら言った。「木名瀬さんが戻ってくる場所を残しておきたかっただけです」
 木名瀬さんが会社を去って一月以上になるのに、いまだにその空白に慣れない自分がいる。Teams のグループに名前がないことが不思議でならない。マリの状態も同程度らしく、チャットしていても、ビデオ会議をしていても、うっかり「木名瀬さんが......」と言いかけて口をつぐむことがある。
 斉木室長は、センチメンタルな奴だ、と言いたげにぼくを見たが、事務的な声で応じた。
 「戻ってこないんじゃないかな。あの人は一度決めたことは、大抵覆したりしないからねえ」
  ぼくだって木名瀬さんがマーズ・エージェンシーに戻ってくる可能性が1% でもあると、本気で信じているわけではない。だが、0% だと考えるのもイヤだ。システム開発室をなくしてしまうと、0% になってしまいそうな気がする。いつか自分の気持ちに折り合いがつく日が来るのかどうかもわからない。
 「そういえば、転職先って聞いてる?」斉木室長が訊いた。
 「いえ」ぼくは首を横に振った。「教えてもらってません」
 退職時には「まだ正式に再就職が決まったわけではないので」という理由で教えてもらえなかった。その後は、スマートフォンを変えたらしく電話もつながらないし、LINE のアカウントもいつのまにか削除されていた。マーズ・エージェンシー退職と同時に、都内に転居した、と言っていたので、仮に自宅を訪ねてもムダだろう。立つ鳥跡を濁さず、という表現を具現化したような行動だ。
 「これ言ったかな」斉木室長はふと思い出したように言った。「木名瀬さんが辞める直前、イノウーちゃんのことを話したことがあったんだよね」
 「どんなことですか?」
 「まだイノウーちゃんには木名瀬さんの力が必要なんじゃない? って言ったんだ。もちろん冗談だったんだけど、正直なところ、ちょっとばかり心配ではあったんだよ。イノウーちゃんがバックエンド、笠掛くんがフロント、木名瀬さんがグローバルな視点からのサポート、という体制が崩れるわけだから」
 斉木室長としては、これまで通りのパフォーマンスとモチベーションが維持できるか、不安な部分があったという。すると木名瀬さんは笑って、全然、心配いらないですよ、と答えた。
 「システム開発室が発足した頃に比べると、明らかに意識が変わってきてるのがわかりますから、って。どういうところが、と訊いたら、以前は"この会社"って言うことが多かったけど、最近は"うちの会社"に変わってきているんだって。さっき社長室でそう言ってたなって思い出したんだよ」
 自分でも意識していなかったことを、木名瀬さんはちゃんと見てくれていたんだ。嬉しさと寂しさが同時に去来した。
 「まあ、落ち着いたら連絡があるだろうね」
 斉木室長はそう言ったが、いつまで待っても木名瀬さんからの連絡はなかった。背後の橋を全て焼き落として、前に進んで行った。ぼくはそう思うことにした。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 年末から新年にかけて、新型コロナウィルスの第6 波が到来したが、多くの悲観的な予想を覆し、緊急事態宣言の発令には至らなかった。手洗いとうがい、という感染症予防の基本が、すっかり市民の生活に浸透しているし、マスクの供給も十分なためだろう、とニュース番組のコメンテーターが言っていたが、実際は専門家での間でも議論が続いていたようだ。そもそもウィルスの生存戦略など、人間には理解できないのかもしれない。
 斉木室長が奔走した結果、ジョイントベンチャーへの参加ベンダーは10 社を数え、大竹社長から1 月末に新会社設立のゴーサインが出た。登記上の住所は、当面の間、マーズ・エージェンシーと同じで、固定されたオフィスは用意しないことになった。開発用のインフラはAWS などを利用するから、サーバルームも不要だ。企業内LAN と同等の環境が必要なときは、マーズ・エージェンシーからレンタルすることになる。代表取締役は大竹社長が兼務し、実質的なリーダーは斉木室長だ。創立日は3 月24 日と決まった。
 株式会社の設立には様々な手続きがあり、決定しなければならない項目も多岐にわたる。手続きについては代行してくれるサービスが多数存在しているので、斉木室長は適当な一社を選べばよかった。決定する項目のほとんどは、大竹社長によって埋められたが、一つだけ斉木室長が強く希望したものがある。
 「株式会社インストルメンタリティ」ぼくは画面に表示された社名を読んだ。「これが会社名なんですか」
 「うん」斉木室長は頷いた。「イノウーちゃんに教えてもらった人類補完機構シリーズは一巻で挫折しちゃったんだけどね。名前だけは拝借させてもらった」
 JV 準備室の活動は続いていたが、ぼくとマリが関わる時間は、次第に短くなっていた。JINKYU のリニューアルで多忙なこともあるが、サードアイ他数社のベンダーから、交代で人員が送り込まれてくるようになったため、開発体制やコーディングルール、ソース共有の方法など、プログラマとしてのサポートを任せることができるようになったことも理由の一つだった。
 このままでいけば、2 月以降はJINKYU の開発に専念できる、と思っていたが、そううまくはいかなかった。2 月4 日、困った顔の斉木室長が、プログラマの数が足らない、と助けを求めてきたからだ。
 「2、3 のベンダーから、予定の人数を出すことが難しい、って言ってきたんだよね」斉木室長は大きなため息をついた。「理由はいろいろあるんだけどね。出向予定の人が辞めたとか、大きなプロジェクトが入って回せる人がいない、とか」
 「そうですか」同情はしたものの、何かできることがあるとは思えなかった。「人数減っても、とりあえずスモールスタートってことじゃダメなんですか」
 「それが、そういうわけにもいかなくてね」
 4 月から人員を遊ばせておくことがないように、エースシステムにも協力を仰いで、開発案件をいくつか受注する話がすでに決まっている、と斉木室長は言った。個々の想定工数は2、3 人月程度だが、キックオフの時期が重なるので、どうしても開発要員は必要になる。新会社の門出となる受注なので、絶対に成功させたい、との願いはよくわかる。正式な契約ではないので、スケジュールをずらすことは不可能ではないが、今後の営業活動に支障が出るのでやりたくない、という事情も理解できる。
 「サードアイの東海林さんは3 人分働く、って言ってたけど、それを計算に入れたとしても、まだ足りないんだよね」
 「新規採用の2 名がうちから行くじゃないですか」ぼくは指摘した。「それでも足りないんですか」
 人事による採用活動の結果、2 名のプログラマが2 月1 日よりシステム開発室にやってきていた。27 歳の男性と30 歳の女性だ。まだ初日に挨拶を交わしただけで、現在は入社時に定められた研修中なので人となりはわからない。前職はどちらもIT ベンダーで、実業務での開発経験が何年かあるということだが、実際にコーディングを見ていないので、その実力も未知数だ。ただ、募集要項にあった通り、4 月からはインストルメンタリティの方に出向となるので、システム開発室に関する限り実装スキルの高低はあまり問題ではない。
 「彼らは必要なら実装もやってもらうけど、主業務は私の下でベンダーコントロールのサポートだよ。フルで実装作業に使ったりしたら、そっから抜け出せなくなるに決まってるでしょ。そんなことしたら、私の手が回らなくなってしまうよ。それに、現在交渉中の案件もあるから、もしそっちの受注が決まれば、2 人を足したとしても、まだなお人が足らなくなるんだよね」
 「まさかとは思いますけど」マリが言った。「イノウーさんとあたしに行けって言ってるんじゃないでしょうね」
 「二人の席はこれまでと変わらないよ。二人はJINKYU のリニューアルで、それどころじゃないでしょ。そういうことじゃなくて、ちょっとばかり組織変更を考えてるってだけ。大竹さんとも相談した結果ね。実質的には何も変わらないよ。何もというかほとんど」
 ちょっと、とか、ほとんどを強調されると、逆に疑わしく聞こえてくる。ぼくは訊いた。
 「具体的には何がどう変わるんですか」
 ジョイントベンチャー構想では、マーズ・エージェンシーの主担当は受注管理とベンダーコントロールで、実装・テストフェーズは参加ベンダーからのプログラマが行うことになっている。もっとも、木名瀬さんが退職する前、まだジョイントベンチャーに出向するつもりだった頃は、ぼく自身は理由をつけて実装に参加するつもりでいたが。
 「マーズ・エージェンシーも11 社めのベンダーとして、プログラマを送り込むことになったんだよ。リスクコントロールの意味もあってね」
 当初想定していたようなマネジメント業務との兼務ではない、純粋なプログラマを、ということだ。4 月からのシステム開発室の業務には、その派遣元業務が追加となる、と斉木室長は説明した。そうすれば、実装・テストフェーズにおいて、マーズ・エージェンシーの意志を反映することも可能になるし、開発現場のリアルな状況も入手できる。
 「人事で新しく人を採用すればいいだけだと思うんですが」ぼくは疑問を呈した。「システム開発室が携わる意味がありますか」
 「新しく人は採用してもらうよ」斉木室長は頷いた。「ただ、それはあくまでもシステム開発室のプログラマとして。イノウーちゃんや笠掛くんと同じ立場だね。普段は社内システムの開発やメンテナンスをやって、インストルメンタリティがピンチのときはそっちに行ってもらうってこと」
 「それなら、確かに今とそう変わることはないですね」
 むしろ、現在より状況は良くなるかもしれない。インストルメンタリティの方で要員が足りていれば、その人員はシステム開発室で使えるのだから、ぼくたちの作業にも余裕が生まれる。
 「だろ? まあ、ちょっとばかり業務が増えるぐらいなもんだよ」
 「ちょっとって」マリが声に疑問符をたくさん付けて訊いた。「何が増えるんですか」
 「ああ、たいしたことはないよ。採用プロセスに噛んでもらうことになるね。多少は教育もしてもらう。あ、あと、工数管理もこっちでやることになるかな。もちろん評価でも力を貸してもらわなきゃならんのは言うまでもないけど」
 「結構、ありますね」ぼくは抗議した。「プログラミング業務以外の管理業務みたいなことが増えるってことじゃないですか」
 「そうなるかな」斉木室長は、てへ、と擬音が出そうな笑みを浮かべてみせた。「二人なら、それぐらい何とかなるよね?」
 「「なりません」」ぼくとマリは声を重ねた。
 「あ、そう」抗議を予想していたように、斉木室長は落ち着いている。「じゃあ、誰か管理業務をやってくれる人がいれば何とかなる?」
 「まあ、それなら......」
 「わかった。来週、また連絡するから」
 週明けの月曜日、斉木室長は朝一番で連絡してきた。
 「茅森さんにお願いしたから」
 「は? 何がですか」
 「だからシステム開発室の管理業務。明日にでも辞令が出ると思うよ。来月から茅森さんは、システム開発室の管理者です。今期中はマーケティング課と兼務だけどね」
 土日で人事異動の承認が通るはずがない。どうせ事前に決めていたに決まっている。ぼくたちの言質を取るために、あんな話の流れにしたのだろう。食えない人だ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 3 月はオークの大軍に包囲されたミナス・ティリスの兵士のように多忙を極めた。JINKYU の開発が佳境に入っているというのに、実装とテストに集中できる時間が大幅に減ったからだ。
 転職サポートサービス経由で、2 月中に新たなプログラマの採用選定が行われ、応募者の中から4 人が採用された。いずれも直接的・間接的にコロナ禍で職を失った人ばかりだった。来年度の新卒採用内定者からも、一人をシステム開発室に配属してもらえることが決まっているので、5 人が新たな戦力として加わることになる。
 この5 人は、状況に応じて、システム開発室での開発業務と、インストルメンタリティへの応援を行うので、どちらでも使えるようにしておく必要がある。スキルの低いヘルプ要員は、時として、コミュニケーションコストと学習コストを浪費するだけの存在になりかねない。そのため、個々の経験やスキルの見極めを行い、ぼくたちが求める水準に達していないプログラマは、新たに教育をしなければならないのだ。
 スキルチェックは必然的にシステム開発室で行うことになる。他に担当できる部署がないからだ。ぼくとマリは相談した結果、貴重な平日の4 日間をスキルチェック研修に充てることにした。採用内定者もインターンシップとして参加させる。
 採用後、一年間は試用期間となり、その間はテレワークに必要なPC や閉域SIM などの貸与が認められないため、マーズ・エージェンシー社内で行う必要がある。システム開発室には場所がないので、アクリル板と空気清浄機、消毒液とサーマルカメラで感染対策を施した会議室を用意し、ノートPC などを配置し、開発用サーバに研修用のアカウントとデータベースを作成した。この環境設定にも時間を取られたことは言うまでもない。
 二人ともJINKYU 開発から抜けることはできないので、ぼくとマリは1 日交代で研修を担当した。内容は実戦形式で、Java とPython で、以前作成した検温フォームと同じ機能のWeb アプリケーションを各自で構築完了することをゴールにしてある。個々のスキルチェックが目的なので、互いの相談は構わないが、ソースのコピーなどは禁止だ。
 3 日めの朝、会議室に入っていくと、なぜか何人かが、特に2 人の女性がぼくの顔をみてクスクス笑った。顔に何かついているのか、とスマートフォンで確認したが、特に変わりはない。ぼくは作業の続きを命じたが、初日のような緊張感がなく、ぼくと目が合うと笑いをこらえるような顔になる。時間がもったいないので理由を訊くと、女性の一人が面白そうに笑いながら言った。
 「井上さんって、笠掛さんとお付き合いされてるんですね」
 ぼくはマスクの下で、ポカンと口を開けた。我に返るまで数秒を要した。
 「......誰からそれを訊いたんですか」
 「昨日の朝」女性は隣の男性と顔を見合わせて、また笑った。「笠掛さん本人が言っていました」
 詳しく訊くと、マリは昨日の朝、最初に宣言したそうだ。
 「イノウーさん......井上さんは、あたしの彼氏です。そこの2 人の女子、間違っても手を出したりしないように。アプローチも禁止。あ、もちろん男性の方々もですよ。いいですね」
 どうにか午前中の研修を終えると、ぼくはマリを捕まえて、なぜあんなことを言ったのか、と問い質した。
 「みんな緊張してたみたいなんで」マリは悪びれることなく答えた。「ちょっとほぐしてあげようかと。おかげで明るい雰囲気になりましたよ」
 「なにも新人の前で公言しなくても......」
 「どうせ、すぐに知ることになるんだから、少し早まっただけじゃないすか。社内じゃ知らない人はいないんでっせ、だんな」
 「おい」ぼくは青くなった。「知らない人はいないって......いつから......」
 「さて」マリは記憶を辿るように、空中に視線を向けた。「2 月にはもう知れ渡ってた気がしますけど」
 ぼくは呻いた。最近、出社して顔を合わせた人のうち、かなりの人数が何となくニタニタしていたのは、気のせいではなかったのか。
 「あれえ」マリは身体をひねって、ぼくの顔を下から見上げた。「あたしと付き合うことになったのを後悔してるんですか?」
 「そんなことはないけど」
 「ま、そういうことなんで」ぼくの肩をポンと叩いたマリは、満面の笑みを浮かべた。「公認の仲ってわけです。簡単にフッたりしない方がいいですよ。こう見えても、あたしのファンって多いんですから」
 気を取り直したぼくは、新人たちの印象やスキルで気付いたことはないか、マリに訊いた。真顔になったマリは、メモ帳を取り出してパラパラめくった。
 「全員、経験者ってこともあって、スキルはまあ、それなりに。少なくともEclipse って何、とか、コンストラクタっておいしいの、みたいなレベルの人はいませんでしたね」
 ぼくは頷いた。全員の途中経過のコードを見た限り、それぞれのクセはあるものの、素人っぽさはないようだった。
 「ただ、一人だけ」マリは顔をしかめた。「40 過ぎてる人いるじゃないですか。青柳さんでしたっけ。あの人だけは、ちょっと要注意かもです」
 「え、そうなんだ」ぼくは研修中の様子をメモした裏紙を見た。「特に何も思わなかったけどな」
 「イノウーさんは、そりゃあ男ですから。あたしに対しては、あからさまに、何でお前に教わらなきゃいかんの? みたいな顔でしたよ」
 新人は年齢や経験に関係なく、全員が揃って同じ職位からスタートで、ぼくとマリの部下ということになる。年下の上司に反発する社会人はまだまだ少なくない。特に相手が女性だと、条件反射的に経験が浅い、とみなす男性はいまだに一定数存在しているようだ。
 「具体的にはどんな感じ?」
 jQuery のセレクタで効率の悪い記述を繰り返していたので、優しく――あたしはあくまでも優しく丁寧にですよ、とマリは主張した――指摘したところ、あからさまにムッとした顔をして、「私はこういう書き方でやってきたんで」と言ったらしい。
 ぼくは自席に戻ると、PC を起動して、青柳さんの採用情報ファイルを開いた。採用選定のとき人事課から参考資料として受け取ったもので、履歴書と職務経歴書がセットになっている。
 「前職はFCC みなとシステム、か」ぼくは職歴の最後を読んだ。「会社が倒産したって言ってたのは、この人だっけ。経験したプロジェクトは確かに多いな」
 職務経歴は、某自動車部品製造会社部品調達システム構築、某設計会社生産管理システム、のように企業名を伏せた経歴が数十行にわたって記載されている。最後の開発は、某自治体ICT 統合システムリニューアルで、言語はJava となっていた。
 「プログラマとしては、あたしなんかより経験多いのは確かなんですけどね」マリも自席に座った。「Java は手慣れている感じでしたし。でも、フロントの方はあまり深くやってこなかったみたいで。webpack の説明はしたのに、リンクにjQuery やBootstrap なんかのCDN を何行も書いてました。せっかくjs とcss を一個ずつのファイルにして、必要なモジュールは入れてあるのを作ったのに」
 「それ使えって言ったんだよね?」
 「言いましたよ」思い出したのか、マリは眉をひそめた。「でも、これでも動くんだからいいじゃないですか、って。実業務じゃないし、スキルチェックなんだからと思ってスルーしましたけど」
 ぼくは腕を組んで考えた。プログラマの経験は貴重な資産と言えるものだ。ぼくがシステム開発室で残してきた実績は、そのほとんどがサードアイで得た経験に依存している。つまるところ、中途採用の利点は、被採用者に蓄積された経験を入手できるところにあるのだ。
 だが経験に頼り過ぎるのも、ある意味では危険なことだ。経験というのは過去に属する情報でしかないので、常に新しい技術や手法を追加投入していかないと、陳腐化した成功体験だけが残ることになりかねない。ぼくもフロントの知識を持つマリにwebpack を教えてもらわなければ、今でも青柳さんと同じように、HTML にCDN を書いていただろう。
 さらにマリの話を聞く限り、青柳さんの場合には別の懸念もある。もし、年齢と性別に対する根拠のない蔑視感情が根底にあるなら、放置しておくことはできない。
 「わかった」ぼくはマリに言った。「明日もぼくが研修やることにするよ。時間みつけて話してみるから。マリはテレワークで、JINKYU の方、進めておいてくれるかな。部署マスタのツリー表示、Jinja のループじゃなくて、JSON でhidden に吐いておいて、JavaScript で展開するように変更する件、試してみて」
 「了解っす」マリは海軍式の敬礼で答えた。「ツリー表示のライブラリ使ってみます。しっかし、年上の部下も、年下の上司も、どっちもやりづらいもんすね。うちじゃ、あまりなかったんで」
 「年功序列の弊害ってやつかもな」
 ぼくは軽い口調で言ったが、内心には不安が渦巻いていた。青柳さんは、ぼくにとっても年上の部下になるが、ため口や命令口調で話すことなど想像ができなかった。上司というアイテムを使うことなく、また青柳さんの経験を否定することなく、マリの意見を尊重することを納得させなければならない。そんな芸当が可能なのか、自分でも自信がなかった。
 「まあ大丈夫っすよ」ぼくの不安を察したのか、マリは軽い口調で保証した。「案外、イノウーさんの言うことなら、あっさり聞くかもしれないですし」
 「だといいんだけどね」
 残念ながら、ぼくたちの楽観論は、次の日、もろくも崩れ去ることになった。

 (続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。

 ※今回を最終章にするつもりでしたが、終わらなかったので、もう一回だけ続きます。

Comment(14)

コメント

匿名

あー話聞かないやつ…
めんどくさいやつだ…

匿名

青柳…あれか。魔女に出てきたやつか。
やばそうな予感。

匿名

魔女の刻 (13) RFC4180

匿名

CSVのやつか

匿名

よく皆覚えてるな…
ともあれ最終話前とは思えない嫌な予感しかない引き…座してお待ちします。

匿名

マリちゃん、ついにイノウーゲット

匿名

イノウー、結局押し切られてて草

h1r0

イノウー
俺のマリをよろしく頼むぞ

匿名

あー、言うこと聞かない奴おるわー。
いなくなってからそいつのコードほぼ全部書き直したわ

木枯し紋次郎

はなしがながい。 疲れる。
以上

匿名

大竹さんかわいい

匿名

マリちゃんが頑張りそうなクリスマス、年末年始がスキップされたなw

今年も短編あるのかしら。誰かな

へなちょこ

魔女の刻読み直したら、青柳氏って妨害工作に加担してて排除されてた人なのね。
そんで、エースシステムに干されて会社は潰れてしまったか・・・。
これから東海林さんやイノウーとバトルする展開なのだろうか?

ゆう

次回で最終回かー。
どう落着するのか楽しみです。
 
今回は前半と後半で、話の雰囲気というか軸のようなものが変わった気がする。
途中、大竹氏のスピンアウト?サイドストーリーも挟んだけど、
今の流れのままで終わると、あれって何だったのってなりそう。
そこは心配かな。

コメントを投稿する