ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (30) 血のバレンタイン

»

 その後、クラウドサービスがダウンすることはなかったが、レイテンシは高い状態で維持されたまま回復することはなかった。サブリーダーの一戸さんは何度も改善を申し入れていたが、2 月上旬になると半ば諦め顔だった。
 サービスのダウンの原因が明らかにされなかったこともあって、開発センター内では、Q-LIC の嫌がらせではないかとウワサされるようになっていた。グリーンリーブス社がくぬぎ市のICT 環境を提供するようになったのは、前市長の小牟田氏が市のICT 戦略の一環として選定したためだ。その際、設備整備費、設備維持費という名目で、多額の税金が投入され、業績が低迷していたグリーンリーブス社が息を吹き返すことになった。現在、小牟田氏はQ-LIC の子会社の社長だ。Q-LIC がグリーンリーブス社に圧力をかけることは不可能ではないだろうが、どちらの企業もそんなことを公に認めるはずもない。
 「ここだけの話なんだけど」二人だけのとき、草場さんは私にこっそり教えてくれた。「例のクラウドダウンの件、白川さんから鳩貝に調査を依頼したんだよ」
 「やっぱり嫌がらせだったの?」
 「そこまではわからなかったみたいだ」草場さんは笑った。「鳩貝だって、グリーンリーブス社のネットワークに侵入できるわけじゃないからなあ。いや、彼ならできるかもしれないけど......」
 「逆にこっちが不正アクセスで訴えられるわね」私も笑った。「じゃあ、何もわからなかってこと?」
 「Vilocony 環境を構成する個々のゲストOS までは普通にログインできるから、そのレベルで調べたんだけど、例のダウンしている間、ホストOS から何も操作されてなかったらしい。データ通信が途絶えてたってことだな。ゲストOS のコントロールに何か問題があったのか、そもそも何もしてなかったのかまではわからんけどね」
 「闇の中か」
 正体不明の相手に怒るわけにはいかないから、プログラマたちの間では、Q-LIC 陰謀説が人気だった。インテグレーションテストとユーザテストが2 日間止まってしまったことによって、その遅れを取り戻すため、多くのプログラマが1 月最後の土日に予定外の作業を入れることになったので、怒りを向ける相手が必要だったのだ。
 2 月に入り、私たちの労働条件はさらに悪化していた。22:00 を過ぎても、ほとんどのプログラマが開発センターに残り、その半数は日付が変わってもキーを叩いていた。2 階の宿泊施設はフル稼働状態で、私自身、息子の顔を見られるのは3 日に一度、という日々が続いた。東海林さんなどは、1 月27 日から2 月の7 日までの間、一日も帰宅できなかった。家庭の危機を訴えた細川くんを奥さんに会わせてあげるため、細川くんの担当分を引き受けていたからだ。
 ニュースではインフルエンザ流行を連日のように伝えていた。もはや、私たちが積み重ねてきた経験は、今から他の誰かに引き継ぐことができないレベルに達していたから、もしインフルエンザ・ウィルスが開発センター内で猛威をふるったら、テストが不十分なままで3 月末を迎えざるを得なかっただろう。だが、プログラマたちの中でインフルエンザで休みを取ったのは2 人だけだった。開発センター内に大型の加湿器が何台も設置されていたことと、ほぼ全員が車で通勤しているため、通勤電車の中で感染する危険が避けられたことが大きかっただろうが、私たち自身が気力でウィルスを寄せ付けなかったからかもしれない。これまで私が加わった大きなプロジェクトでも、忙しければ忙しいほど、病気などで倒れる人は少なかったものだ。プログラマの身体構造は、免疫学の常識を超えた何かになっているのかもしれない。
 だが、いくら身体が健康でも、精神的な疲労の蓄積は避けようがない。決して悪意があったわけではなかっただろうが、エースシステムのテストチームから上がってくる、無数の修正依頼は、どう考えても普通にこなせる限界を超えた数だった。
 「午前中だけで4 つよ」2 月9 日のランチの席で、ユミさんが嘆いた。「これで貯金7 つ。どうやってこなせっていうのよ。頭と腕がもうワンセット欲しいわ」
 「私も10 個貯まってるのよ」キョウコさんも胸肉のソテーをフォークで突き刺しながら言った。「今週の土日も出勤かな。ああ、だんながまたブツブツ言うなあ」
 「テストが佳境に入ってるのはわかりますけど」食欲だけは失わないチハルさんが、暗い顔で言った。「嫌がらせじゃないかと思いますよ、ホント。ムダになっちゃったことも何回もあるし」
 並行してテストをしているため、テストチームから上がってきた依頼を修正対応した後、タスクフォースからの要望で元に戻ってしまったこともある。協力して進めてくれれば、と思うのだが、それぞれのテストをスポイルしないために、という理由で両者がテスト内容をすり合わせることはなかった。元々の役割分担としては、エースのテストチームがホワイトボックステスト、タスクフォース側がブラックボックステストのはずだが、明確な取り決めがあるわけではないから、両者のテスト範囲がしばしば重なることもあった。タスクフォースのメンバーにも、HTML の知識がある人が何人かいて、JavaScript やCSS の記述方法で修正を要求してくることが増えてきたのだ。
 ユーザテストも細かさの点では、インテグレーションテストと大差なかったが、プログラマたちの敵意が向いているのは、もっぱらエースシステムのテストチームの方だった。リーダーの丸尾さんに、テストのスケジュールが遅れている原因を、私たちプログラマのスキルのせいにする言動が目立つためだ。瀬端さんをはじめとするタスクフォースのメンバーが、一様に礼儀正しく、くぬぎ市のICT 戦略を共に改善しようとしてくれる仲間として扱ってくれているのに比べると雲泥の差があった。
 「あっちはあっちで仕事をしてるだけなんでしょうけどねえ」チハルさんはため息をついて、デリバリーのカレーを大きなスプーンですくいあげた。「で、あの人たちにはどうしますか。やっぱりあげるべきですかね」
 チハルさんが言っているのは、翌週の水曜日に迎えるバレンタインデーのことだった。去年の2 月14 日は、開発が開始されたばかりで互いにまだ距離があったが、1 年を経過した現在では、苦楽を共にした同志だ。キョウコさんの提案で、女子でお金を出し合って全員にチョコレートを贈ろうか、ということになったのだ。高価なチョコレートは無理だが、こういうのは気持ちの問題だ。
 タスクフォースのメンバーと、エースシステムのSE にも、それぞれ女性が2 名ずついる。キョウコさんが声をかけたところ、どちらも賛同してくれた。白川さんもメッセンジャー経由だったが、参加を表明してくれたので、女性の人数は9 人となった。対する男子の数は90 人以上だ。
 「テストチームにだけ渡さなかったら」私はサンドイッチを頬張りながら指摘した。「それこそ決定的に空気が悪くなるじゃない」
 「ま、そうですね」チハルさんは口をもぐもぐやりながら、スマートフォンを出して計算した。「じゃ、全部で99 人分ですね。一人300 円として29,700 円。9 人で割ると、一人頭3,300 円ですね。キリがいいところで、3,500 円にしますか」
 私たちは頷いた。キョウコさんが、なぜか私を見てクスリと笑った。
 「なんなら、川嶋さんの割り当ては少し減らす?」
 「え、なんで?」
 「だって、別に本命チョコをあげる人がいるんでしょ」
 「もう」私は頬が少し熱くなるのを感じながら、努めて冷静に応じた。「ご心配なく。私も同じだけ負担しますから」
 すでにゴディバのアソートメントセットを購入済みであることも、14 日の夜は、仕事を早めに切り上げてデートの予定であることも言わなかった。草場さんは甘党ではないので、6 粒入りの小さい箱だ。
 「じゃあ月曜日までに集金して」チハルさんはスマートフォンをしまった。「火曜日に買ってくることにしましょうか。といっても、この辺だと売ってないかもしれないから、横浜駅あたりでですかね。誰が買いにいきますか?」
 私たちの視線が申し合わせたようにチハルさんに集中した。チハルさんは小さくため息をついて肩をすくめた。
 「わかりました。じゃあ、あたしが。選別は任せてくださいね」
 「あまり趣味が悪いのはダメよ」ユミさんがからかうように言った。
 「趣味が悪いって、たとえばどんなのですか」
 「うんこドリルチョコとか」
 「ちょっと」チハルさんは自分のカレーと、ユミさんの顔を交互に見た。「食べてる途中ですよ」
 私たちは笑い声を上げた。
 「まあ、いろいろお店が出てると思うから」キョウコさんが優しく言った。「何種類か混ぜるといいかもね」
 「14 日はどうやって配るのがいいかな」私は誰にともなく言った。「お昼とかに、配って歩く?」
 「お昼もバラバラの時間だしねえ。ま、いない人は机の上に置いておけば......」
 ユミさんが言葉を切ってブレイクルームの入り口を見た。私もそちらを見て、少し驚いた。白川さんが入ってきたところだった。
 「あら、女子のみなさん、どうも」相変わらず顔色は良くなかったが、私たちにかけてくれた声は穏やかだった。「ランチ中ですか。気にせず続けてください」
 「あ、白川さん」ティーサーバへ向かう白川さんに、私は声をかけた。「バレンタインの件、ありがとうございます」
 「いえ、当然ですよ。私だって一応女子の一人ですから」白川さんはホットの緑茶を紙コップに注いだ。「当日、買い出しに出るなら、仕事の途中で抜けても構いませんよ」
 「いえ、前日に狭山さんが買いに行ってくれるそうですから」
 「そうですか。あ、お金を渡しておきましょうか。私も席を外していることが多いですから。いくらになります?」
 チハルさんが金額を伝えると、白川さんは財布から千円札を出しながら訊いた。
 「狭山さんが配ってくれるんですか?」
 「どうしようかなと思って」チハルさんは自分の財布から100 円玉を何枚か探しながら言った。「お昼に順番に配っていこうかと」
 「せっかくのお昼休憩を潰してしまっては気の毒です。ティータイムにしてはどうでしょう」白川さんは提案した。「15:00 に30 分ぐらい全員で休憩にしましょう。うちで飲み物を用意するから、そこで配れば」
 「いいんですか?」
 キョウコさんが心配そうに訊いたのは、テストのスケジュールが遅れていることを心配してのことだろうが、白川さんは笑って首を横に振った。
 「こちらにもメリットがあるんですよ。毎日、テストテストで単調な日が続いていますから、そういうイベントはみんな大歓迎するはずです。男なんて単純な生き物ですから、女性からチョコをもらえるだけで、モチベーションが大幅にアップするでしょうし。ウィンウィンというわけです」
 それなら、と私たちは頷いた。
 「後で全員に通知しておきます」白川さんはそう言った後で、悪戯っぽい笑みを浮かべた。「いえ、男性には当日の朝に連絡した方が面白いですね。では、チョコの方はよろしく」
 白川さんが出て行くと、キョウコさんが私たちに向き直った。
 「ね、気付いた? 痩せた、というより、やつれたよね」
 「いつもきれいにルージュ引いてたのに」ユミさんも言った。「端がちょっと落ちてたね。ファンデで隠してたけど、肌も荒れてたみたい」
 「実は......」チハルさんが小声で言った。「たまたま見ちゃったんですけど、白川さん、トイレで何か薬飲んでたんです」
 「サプリか何かじゃないの?」
 「ピルケースに入れてたんですよ。一週間分のやつ。うちのおばあちゃんが、腎臓悪くしたとき、忘れないように使ってたんです」
 「訊いてみた?」
 「いえ、南側のトイレだったから、ちょっと声かけづらくて」
 このビルの6 階のトイレは3 ヵ所。私たちが多く利用するのは、ブレイクルームのすぐ近くと、エレベータ近くのどちらかだ。残りの1 つは南側の非常階段脇で、どのドアからも遠いのでほとんど利用されない。ただコマンドルームからはドアから出てすぐなので、白川さんはもっぱらこちらを利用しているようだ。私たちが業務時間中も白川さんと顔を合わせることが少ない理由の一つだ。
 「なんでそっちのトイレに行ったの?」
 「ほら、この前、そこのトイレで水があふれて午後いっぱい使用禁止になったじゃないですか」チハルさんは頭を掻いた。「エレベータ横のはふさがってたんで。ちょっと緊急事態だったから、そっちへ」
 「他の人には言っちゃダメよ、そういうことは」キョウコさんがたしなめた。「何か持病があっても、他人に知られたくない場合だってあるんだから」
 「気を付けます」チハルさんはそう言いながら、また自分のカレーを見た。「っていうか、なんで食事中にトイレの話なんかしてるんでしょう」
 「始めたのはあんたでしょうが」ユミさんが肩をこづいた。「いらないなら、あたしが食べてあげようか」
 「これポークカレーですよ」
 私は白川さんが出て行ったドアを見た。これだけの激務だ。体調を崩しても不思議ではないが、取り替えの効く人材ではない。昨日まで元気に仕事をしていたのに、ある日突然入院した人を何人か見てきた。白川さんがそうでないことを私はひそかに祈った

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 2 月14 日は雪が降りそうな寒波に襲われたが、私は楽しく出社した。一緒に出勤した細川くんは、私の様子に気付いたようだが、何も言わなかった。
 15 時からのちょっとしたパーティタイムの準備は、こっそり女性だけで進められていたが、何人かの男性は何となく気付いていたのではないかと思う。それでも、10 時に白川さんから連絡されると、一斉に歓迎の声が上がり、開発センター内に控えめながら浮かれた雰囲気が満ちた。テストチームの丸尾さんでさえ、遅れているテストスケジュールのことなど口にせず、心なしか楽しげだ。誰もが、単調な毎日に変化をもたらすイベントを歓迎しているらしい。
 14 時30 分、全ての女性が一斉に仕事を中断してフリースペースに集合した。準備の様子が見えないようについたてを立ててフリースペースの一角を囲い、テーブルを3 つつなげた上に、あらかじめ用意されていたテーブルクロスが広げられた。中心に置かれたのはチハルさんが買ってきた100 個近いチョコの山だ。モロゾフ、ゴンチャロフ、リンツと取り混ぜて買ってきてくれたおかげで、とても華やかだ。エースシステムの女性SE が紅茶やコーヒーのポットを運んできて、紙コップとともに周辺に配置した。加えて、高杉さんからの差し入れ、ということで、デメルのチョコレートケーキも10 個ほど届いていたので、給湯室で手分けして切り分けた。普段は、ほとんど交流がないエースシステムの女性SE たちも、このときばかりは一人の女子に戻って、歓声を上げながら私たちと準備を楽しんでいる。
 15 時になると、都合がつく全員がフリースペースに集まった。キョウコさんが進み出ると、厳かな顔で咳払いした。
 「えー、今日はバレンタインデーということで、女子一同からささやかながら、チョコや飲み物を用意しました。短い間ですが、楽しんでください。言うまでもないことですが、ホワイトデーには相応のお返しを期待していますからね。では、どうぞ」
 陽気な笑い声とともに、短いパーティが始まった。男性たちはそれぞれチョコを選び、私たちの方に紙コップを掲げて謝意を表した。私はチョコレートケーキの皿と紅茶を手にして近くに座り、疲れた身体に糖分を補給していたが、東海林さんと細川くんが近付いてきたので顔を上げた。
 「ごちになってます」細川くんが選んだアソートを見せた。「これ、誰のセレクトですか」
 「狭山さんよ。バラエティに富んでいていいでしょ」私は東海林さんを見た。「甘い物、大丈夫ですか?」
 最近、お腹に肉がついてきた東海林さんは、糖質制限とやらを実施していると聞いたことがある。東海林さんは苦笑した。
 「これぐらいで大した差は出るもんか。それより草場さんはいいのか」
 「もう」私は憤慨したふりをした。「どうしてみんな、ご親切にあたしと草場さんのことを心配してくれるんですか」
 草場さんは少し離れた場所で、数人のプログラマと、エースの女性SE とタスクフォースの女性を交えて談笑していた。
 「それにしても、よくエースの方から許可が出たもんだな」
 「提案してくれたのは白川さんなんですよ」私は言った。「最初は、ただチョコを配るだけにしておこうって考えてたんですから」
 「まあ、こういうちょっとした息抜きはいいことだ。脳をときどきリラックスさせるのは大切だからな。ところで、その白川さんは参加しないのか」
 「そういえばいないですね。顔は出す、って言ってたんですけど」
 私は立ち上がると、タスクフォースの男性に囲まれてケラケラ笑っているチハルさんに近付いた。
 「ね、白川さん見た?」
 「午後からは見てないですね。気にせず進めてくれってメッセージは入ってましたけど」
 チハルさんは男性たちとの会話に戻ったが、妙に気になった私は足早に自分の席に戻った。PC のスクリーンロックを解除し、メッセンジャーで白川さん宛にメッセージを送信した。

>> 白川さん、少しだけでも顔を出せませんか?

 少し待ってみたが、返信はなかった。コマンドルームにいるとき、白川さんは大抵、即座に返信をくれる。たてこんでいる場合はその限りではないが、今の時間、開発関係者はチョコレートに群がっているはずだ。
 私は廊下に出ると、エレベータの前を通って、滅多に足を向けない南側のトイレに向かった。何かの薬を飲んでいた、というチハルさんの言葉が頭から離れなかったのだ。
 トイレのドアを押し開けた私は、思わず立ちすくんだ。
 「白川さん!」
 洗面台の真下の冷たい床に白川さんの華奢な身体がうつ伏せに倒れていた。私の言葉が耳に届いたのか、白川さんはゆっくりと顔を上げた。その口元には鮮血がべっとりとつき、半開きの唇から唾液まじりの血液が床に滴りおちた。
 それでも意識が混濁しているわけではないらしく、白川さんは手を挙げて私の接近を制すると、慎重な動作で身体を起こした。床に点々と落ちた血の跡を避けて、壁にもたれるように座ると、私の方に顔を向ける。死人のように蒼白だった。
 「川嶋さん、ごめんなさい」かすれた声が血で染まった唇から洩れた。「悪いけど、ペーパータオルを何枚か取ってもらえます?」
 私は急いで洗面台に近寄ると、壁に設置されているホルダーから、ペーパータオルをつかみとり白川さんに渡した。白川さんは礼を言うように頷くと、ペーパータオルで乱暴に顔を拭ったが、それは血の範囲を広げただけだった。私はさらにペーパータオルを取ると、洗面台の一つで水を出しタオルを濡らした。血を踏まないように気を付けながら白川さんに近づき、メイクを落とす要領で口の周りの血を軽く叩く。
 「お手数をおかけして申しわけないです」
 「ち、血を吐いたんですか」私は当然のことを訊いた。
 「ええ」白川さんは頷いた。「でも、大したことじゃないですから」
 「大したことじゃないわけないでしょう」私は白川さんの口元を拭いながら、怒った声を出した。「すぐ救急車を呼びますから」
 「待って」思いがけず強い口調が、立ち上がろうとする私を止めた。「このことは内密にしておいてください。お願いします」
 「何をバカなこと言ってるんですか」
 白川さんは汚れていない右手で、私の肩をぎゅっと掴んだ。強烈な意志を秘めた視線が、正面から私を射貫く。
 「今、病院のベッドなんかで寝ているわけにはいかないんです」文字通り、血を吐くように白川さんは訴えた。「お願いします。誰にも言わないでもらえますか」
 「どうしてそこまで......」
 「とにかくお願いします」白川さんは小さく頭を下げた。「もう大丈夫です。立たせてもらえますか」
 私は白川さんに手と肩を貸して、立ち上がらせた。手を離したら、また倒れるのではないか、と心配になったが、白川さんは一瞬だけふらついたものの、洗面台に両手をついて身体を支えた。出しっ放しの水を両手に受け、しっかりした手つきで自分の顔を洗い始める。
 少しだけ安心した私は、洗面台の上に散らばる錠剤とピルケースに気付いた。チハルさんが目にしたものだろう。顔を上げた白川さんは、私の視線を追うと肩をすくめた。
 「ちょっと体調を崩してしまって」ルージュが落ちた唇で笑いかける。「だからサプリを飲んでるんです」
 私はじっと白川さんの顔を見つめた。白川さんは諦めたように頷いた。
 「ええ、サプリなんかではありません。処方された薬です」
 「どこが悪いんですか」
 「まあ、いろいろと。それよりパーティの途中でしょう。戻ってください。私は大丈夫です」
 「大丈夫なもんですか。病院に行きましょうよ」
 「プロジェクトが終わったら行きます」
 「まだ一カ月以上先じゃないですか。死にたいんですか」
 「まだ死にたくはないですよ、もちろん。でも、大丈夫です。自分の身体の状態は把握していますから」
 「とてもそうは見えませんけど」
 とはいえ、白川さんの意志は固そうだ。救急車を呼んでも、病院に運ばれることを拒否するかもしれない。意識を失っていれば、無理矢理病院に送り込むこともできるが、思考は明晰だし、口調もしっかりしている。
 「わかりました」私は諦めた。「白川さんがそこまで言うなら。本当に大丈夫なんですね?」
 「大丈夫です。なんなら、このビルの周囲を逆立ちして回ってみせましょうか」
 「......」
 「感謝します、川嶋さん」白川さんは私の手を握った。「パーティに戻ってください。私の分まで楽しんで」
 そう言うと、白川さんは私をトイレから押し出し、目の前でドアを閉ざした。再び水を流す音がドアの向こうから聞こえてきた。しばらくの間、私はドアの前で躊躇していたが、やがて諦めて開発センターに戻った。
 パーティは続いていた。おそらく草場さんを別にして、私の不在を気にした人は誰もいなかったらしい。白川さんの不在を不審に思った人も皆無だっただろう。何人かに声をかけられ、私は無理矢理笑顔を作ったが、心の中は不安が満ちていた。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(26)

コメント

通りすがり

無数に修正依頼➡無数の修正依頼
ですかね?

えいひ

鮮血だと、呼吸器系ですかね。。。

aoix

もうフラグ立ちまくりじゃないですか…


>「お昼に順場に配っていこうかと」
順番、でしょうか。

>ウィンウイン
ウィンウィン、ですよね。

西山森

呼吸器からの出血なら鮮血、消化器からの出血ならどす黒い血になるはずですね。

SQL

どう見ても無理なのに本人は「大丈夫」っていうの、
実際の現場でも見てきた
 
実体験と重なる・・・

ランド

自分の代わりはいない状況を作り、自分を心身ともに限界を超えるまで追い込む...これは白川さんの命を削った復讐なのかも。

第一話の3月下旬まであと少し、白川さんの安否が気になりますね。

匿名

忙しいプロジェクトだと気力で持つのはあるあるですよね

リリースの目処がたった途端にバタバタ倒れたりするのもセットで。。。

匿名

6年前の私ですね。
大丈夫ですといった30分後に救急車で運ばれましたけど・・

匿名

今作のサブタイトルは一瞬ガンダムから来たものかと思ったが、
アル・カポネの引き起こした事件の方が元ネタかな、作者の趣味的に考えて。

user-key.

血液が胃液と混ざってしばらくすれば変色し黒くなるので、胃から出血していても比較的短い時間での吐血であれば結構赤いです。(体験者)

やわなエンジニア

喀血といえば結核しか思いつかない……ですが
白川さんが咳き込んでるって記述は今までなかったですよね。
いや、コマンドルームは咳の音も外に漏らさないくらいの完全防音?!

匿名

コメント欄の闇が深い・・・

tuberC

> 喀血といえば結核しか思いつかない
白川の喀血の原因が仮に結核でビンゴだとすると、こうまでして病状を隠そうとするのはある意味納得はいく。
結核が確認されると、最悪の場合強制入院措置が待ってるし、恐らくエースシステムの就業規則にも、法定伝染病に罹患した場合は就業を禁止する、って規定もあるだろうし、
ここでバレたら白川にとってはマズいことになる。

ただ、喀血の症状が起こるほど病状が進行しているとなると、
恐らく排菌(痰から結核菌が検出されること)も起きているだろうから、
白川はこの職場で結核菌をまき散らすという無差別バイオテロを実施していることに……
……まさか、それが狙いなのか!?

リーベルG

通りすがりさん、aoix さん、ご指摘ありがとうございます。

匿名

皆さん、吐血ネタはあるあるなのですね。。。
私もデスマーチ中にトイレから帰ってこない同僚の様子を見に行ったら、個室で意識を失っており救急車搬送したことがありますわ。相手はおっさんでしたが。

匿名 

デスマーチ中は無遅刻無欠勤だったが終了して保守に移った途端前から後ろから血が出て不整脈も襲ってきた。
気力で持ってるのは持ちこたえてるんじゃなく前借りなんだなと悟ったよ。
川嶋さん実の息子とは3日に1度だけど、草場さんのとは高頻度で会ってそう……

匿名

胃潰瘍と十二指腸潰瘍を併発して毎日便器を真っ赤に染めながら開発していた20年前を思い出しました。
1ヶ月で12kg体重が減りプロジェクト終了と同時に入院しました。

匿名

草場さんと二人だけの時ってのが。。。
ピロートークとか?想像しちゃいます

匿名

> 白川さんがそうでないことを私は秘かに祈った
私は密かに祈った。
でしょうか?

リーベルG

匿名さん、ありがとうございます。
「秘かに」は変ですね。

やわなエンジニア

いや待てよ、白川さんが16話で交通事故にあって肋骨骨折と診断されたんだから、
その時上半身のレントゲン写真を撮ったはず、肺結核ならその時に見つかりますよね、
ということは結核の可能性はないのかなあ。ううむ。

3STR

虫を見つけるために松葉杖で殴り倒した女だという事を忘れてはいけない
これも何かの布石なのかも

tuberC

> ということは結核の可能性はないのかなあ。ううむ。
それに、喀血が起こるほどまでに結核の病状が進行していたら、同時に発熱や倦怠感などの症状も起きているはず。
はっきり言って、常人だったら立っているのも辛いレベルだろうし、周りが勘付かないのがおかしいんじゃないかと。

もちろん、素手でディスプレイを一撃粉砕できるだけの腕力を誇る白川が「常人」の範疇に入るどうかはまた別の話だし、
魔女の気合と根性で、人前に出ているときは症状を抑えきってる可能性もワンチャンあるかも知れない。

匿名

こりゃホワイトデーで何が起きるか楽しみだな

さかきよ

白血病の線はないですか?
徐々に蝕まれいって、1話の時点では既に亡くなっている…。

さかきよ

白血病の線はないですか?
徐々に蝕まれいって、1話の時点では既に亡くなっている…。

コメントを投稿する