ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

星野アツコのプログラミングなクリスマス (終)

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 12 月24 日。

 世間的にはクリスマスイブと呼ばれ、様々な楽しいイベントの口実となる日だ。今年は金曜日であり、多くの企業で給料日でもあるだろうから、経済効果も大きいだろう。アツコ自身は、今日は仕事を入れていなかった。昼までゆっくり寝て、午後からローストチキンやキッシュやラザニアを作り、ケーキやクッキーを焼いて、夜は家族とフィギュアスケートを観ながらのんびりする予定だった。

 残念なことに、それらの予定の大部分は中止にせざるを得なくなった。アツコが作成を依頼されたプログラム数は、合計174 本。10 分で組み上がるものもあれば、1 時間近く頭を酷使しそうなものもある。佐藤によれば、量子もつれポイントを崩壊させるために必要なプログラムばかりだが、どれかが欠けたら全く動作しない、というものでもないそうだ。

 「ラザニアみたいなものです」と佐藤はたとえた。

 「ラザニア?」

 「ラザニアは生地を何枚も重ねますが、それが4 枚でも5 枚でもラザニアには違いないですよね。生地が多ければボリュームがあって美味しいというだけです」

 「じゃあ本数が多い方がいいってことですか?」

 「そうとばかりも言い切れないのが面倒なところで」佐藤は肩をすくめた。「ラザニアにミートソースが必須であるように、それがないと効果が落ちる、というものもいくつかあるんですよ。問題なのは、それがどれなのか、組み合わせてみないとわからないことです。とにかく全部アップしてもらえるのがベストです」

 アツコは全体をざっと通覧して、難易度に応じて分類した。試験問題と同じで、1ヵ所にこだわるより、数を稼ぐことを重視したのだ。そうして作業手順を決めると、ひたすらプログラミングに没頭した。

 東海林は、異世界に消えてしまった戸川の代役をしていた。アツコがアップしたプログラムを、チェッカーツールを通して実行せずにチェックした後、佐藤が設計したロードマップに合致するように、つなぎのスクリプトを書いていくのだ。面倒なのはテストであっても実行ができないことだった。実行すると観測したことになるらしく、その時点で量子もつれポイントに影響を及ぼしてしまうのだ。可能なのは「実行しないまま」ソースを解析し結果を表示するシミュレータソフトで内容をチェックするぐらいだ。手間のかかる作業であり、アツコは聞いただけで身震いした。東海林は、その手の作業が苦にならないらしく、すぐにコツを飲み込んで作業を進めていた。アツコは東海林がいてくれることに心から感謝した。

 23 日の21 時30 分時点で、174 本のうち、81 本がアップできた。アツコの予想より遅いペースだった。このペースだと、24 日の16 時に帰る、というアツコの予定を実行するのは困難になりそうだった。アツコは忘年会から帰宅した夫に、24 日夜の夕食の準備を頼まざるを得なかった。ひょっとしたら、夜は遅くなるかもしれない、というアツコの話に夫は理解を示してくれたが、中学校1 年生の娘の方はそうはいかなかった。

 「せっかくイブの誘いを全部断って予定を空けたのに」娘は予定がびっしり書き込まれた装飾過剰の手帳をふりかざして抗議した。「ママがいないってどゆこと?」

 「ごめん、悪かったわよ。できるだけ早く帰ってくるし、25 日は予定通りお出かけするから......」

 「なんでクリスマスイブなんかに仕事入れるのよ」

 アツコも心から同意したい気分だったが、まさか他の世界からの侵略を防ぐためだとは言えない。

 「本当に悪いと思ってる。25 日は埋め合わせするから」

 そう口走った途端に後悔したが、聡い娘はその言葉を聞き逃さなかった。

 「ホント? じゃあ、プレステのVR 買ってくれる?」

 話を聞いていた夫の顔色が青ざめるのが見えた。

 「あれはちょっと高いんじゃ......」

 「買ってくれないなら、あたし、25 日はデートにする」娘はスマートフォンをつかんで宣言した。「相手は不自由してないから。えーと、誰にしようかな......」

 「わかったわかった」アツコは両手を挙げた。「買ってあげるから」

 歓喜した娘が自分の部屋に消えていった後、アツコはPlayStation VR の価格を調べ、夫に劣らないほど青くなった。一足先に出費を覚悟したらしい夫は苦笑した。

 「あのしたたかさは、一体、誰に似たんだか」

 「半分はあなたのDNA でしょ。とにかく、明日の夜はお願いね」

 24 日は、8時に出勤したが、佐藤と東海林はすでに仕事を始めていた。東海林によると、彼が10 分前に出勤したときも、佐藤はすでに来ていたらしい。23 日の夜、東海林が終電ギリギリで退社したとき、帰る素振りを見せなかったという。

 「ここに住んでるんでしょうかね」

 「そもそも」東海林は笑った。「このアーカム・テクノロジーというのが企業なのか、財団法人なのか、政府機関なのか、全くわからないですからね」

 アツコは頷いた。その点は、昨日、何度か質問してみたが、その都度、はぐらかされてしまったのだ。

 途中、スターバックスで買ってきたティーラテをすすりながら、アツコは仕事を再開した。

 午前中は比較的順調に本数をこなすことができた。昨日1 日でコツがつかめたのか、たくさんある制約事項を、自然に回避することができるようになってきたためだ。アップした何本かは東海林が差し戻したが、どれも大した修正ではなかった。

 「r55 ですが、クイックソートではなくて、バブルソートに変更してください」

 「これですが、円周率は、3.14159 が使えないので、41 を13 で割った値に変えてください」

 「さっきのs701 ですが、再帰を使うとダメみたいなんで、べた書きしてください。すいません」

 13 時になったとき、佐藤がモニタールームから出てきて、進捗状況を賞賛した。

 「すごく順調ですね。午後もこの調子でお願いします」

 昼食はカフェテリアに用意されていた。クリスマスイブ、という日に配慮したのか、チキン照り焼き弁当だった。佐藤はモニタールームに閉じこもったままなので、アツコは東海林と二人でランチを楽しんだ。

 「昨日、言ってましたよね」アツコは食べながら訊いた。「何か違和感があるって。あれ、何のことですか?」

 「ああ、あれですか」東海林は苦笑して、自分の手を眺めた。「タブレットのソフトウェアキーボードって、どうも苦手なんですよ。ノートPC の薄いキーボードすらダメで、キーをしっかり叩けるキーボードじゃないと効率が落ちるんです。でも、昨日、タブレットでコーディングしたとき、指がデスクトップPC のフルキーボードを叩いてるときみたいにスラスラ動いたので、ちょっと気になって」

 「違和感があったと言うより、なかったってことですか」

 「そうとも言えますね。星野さんは、タブレットはどうですか?」

 「最近はモバイルファーストで、まずスマホ、タブレットでの表示が前提、って開発案件もあるので」

 「ああ、最近の若者は、そもそもPC をあまり使わないですね」東海林は笑った。「うちの娘もタブレットばかりで」

 「うちもですよ。娘さんはおいくつなんですか?」

 「5 歳です。来年、小学校で。星野さんのとこは?」

 「うちは中一です」

 それから二人で子供の話で盛り上がった。アツコが、クリスマスプレゼントに、PlayStation VR をねだられた話をしていると、疲れた顔の佐藤が入ってきた。

 「おつかれさまです」佐藤はコーヒーメーカーに直行した。「いい話と悪い話があります」

 アツコと東海林は顔を見合わせた。

 「まず、いい話の方ですが」佐藤はマグカップになみなみと注いだ濃いコーヒーを、うまそうにすすった。「別の支部で人員を確保できたので、星野さんに頼んでいるプログラムの何割かを回せそうです」

 「よかった」アツコは安堵した。「何本ぐらい渡せそうですか?」

 「確か、難易度の高そうなプログラムを残してあるんでしたね。後ろの方から、とりあえず10 本渡してください。これでかなり負担が減ると思います」

 アツコは思わずにんまりした。リストの後ろの10 本は、boids アルゴリズムや、球体の表面を移動するルート計算など、一から組むと面倒なものばかりだったからだ。

 「それで悪い話とは?」東海林が訊いた。

 「お二人のどちらかに、現場に出てもらう必要がありそうです」

 「現場?」たちまち嫌な予感に襲われながらアツコは訊いた。「どこですか?」

 「赤レンガ倉庫です。今回の量子もつれポイントは、そこなんです」

 「そこで何をするんですか」

 「昨日と同じです。タブレットを放り投げてもらう。それだけです」

 ってことは、必然的にあたしじゃないか。先ほどまでの楽しい気分が吹き飛んでしまったアツコは、不機嫌な声で訊いた。

 「今からですか?」

 「いえ」佐藤は時計を見た。「19 時以降になりそうです」

 「赤レンガ倉庫って、クリスマスイベントやってるんじゃないですか?」

 「やってますね。さっきドローンで確認しましたが、今時点でかなりの人が来てます。今夜は天気もいいようなので、夜はさらに人が増えるでしょう」

 「そこに、昨日みたいな腕やら触手やらが出現するってことですか? 大騒ぎになるじゃないですか」

 「そういうことは後で心配すればいいです」

 「よりによって」アツコは天を仰いだ。「クリスマスイブに来なくてもいいのに」

 「私もそう思うんですが、Separated World からの大規模な侵略は、大きなイベントがあって人がたくさん集まるような日時と場所に行われることが多いんです。海外でクリスマスにテロが起こったというような場合は、大抵、侵略ですね。理由はわかりません。案外、売れない芸人の類いのパフォーマンスで、見てもらいたいだけなのかもしれませんが。事実、今夜は札幌、表参道、神戸で、それぞれ侵入が予想されています。繁忙期ってわけです」

 冗談のつもりだったとしたら失敗だった。東海林がお義理で短く笑っただけで、その後は沈黙が続いた。

 「とにかく」佐藤は咳払いした。「今後の予定を説明します。まず、星野さんには、18 時までに残りのプログラムをアップしてもらいます。その後、タブレットを持って赤レンガに行って下さい。みなとみらい周辺は渋滞になるでしょうから、電車か自転車でお願いします。赤レンガ倉庫に着いたら、どこか暖かい場所で連絡を待ってください」

 気は進まなかったが、アツコは渋々頷いた。

 「東海林さんの作業は変わりませんが、状況に応じて、臨時でスクリプトを書いてもらうこともあるはずです。他支部から送られてくるプログラムのマッピングも、並行して発生します。量子もつれポイントがアクティブになる予想時刻は、20 時14 分、プラスマイナス29 分で算出されています」

 東海林は頷いた。

 「今回の侵略予想時刻は、他のポイントとタイミングが一致しています。これが偶然なのか、大規模侵略の企てなのかはわかりません。同時にポイントを崩壊させる必要があるので、実行時刻が前後するかもしれません。星野さんは、ポイントがアクティブになるのを目撃しても、じっと耐えて合図を待ってください。合図をしたらタブレットを放り込みます」

 「もし失敗したら?」

 「保険を使うことになりますが、できるなら使いたくないので、失敗しないでいただけると助かります」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 19 時30 分、アツコは赤レンガ倉庫に到着した。自転車を舗道に停めたアツコは、貸与された、Bluetooth ヘッドセットのピックアップに言った。

 「星野です。着きました。すごい人ですよ」

 クリスマスイベントのおかげで、歩くのが難しいほどの人手だった。

 『了解です』佐藤が答えた。『ツリーが見えますか?』

 「もちろんです」

 臨時に設置されたモミの並木の向こうに、いくつかの店が出ていた。その向こう、海に近い方に、高さ10 メートルのツリーが見える。本物のモミの木だということだ。

赤レンガ.jpg

 明日の夜、アツコは家族とここにも来る予定だ。夫と娘のことが思い出された。ついでに娘に買ってやる約束をした、PlayStation VR のことも。これが成功したら派遣会社を通して振り込まれるはずの報酬の他に、VR の代金に相当する金額を、必要経費として要求してやろうと決めた。

 まだ時間には少し余裕があるので、アツコは人並みをかき分けて店に近付き、ローストビーフのホットドッグとホットミルクを買い、立ったままパクついた。ビールやホットワインにも心惹かれたが、頭をすっきりさせておく必要があるので諦めた。

 19 時 52 分。佐藤から連絡が入った。

 『星野さん、タブレット出してください』

 アツコはリュックからタブレットを出した。

 『dx76 と、nn87 のソースを開いて、Integer の変数を、全部Long に変更してください。ちょっとこっちが手一杯で』

 「わかりました」

 アツコは人混みを避けて2 号館の壁にもたれると、タブレットでソース編集を開始した。周囲にはスマートフォンやタブレットで、イルミネーションの写真や動画を撮影している人であふれている。おかげでアツコの姿は全く目立たなかった。

 「できました」アツコは完了報告をした。

 『受け取りました』東海林が答えた。『佐藤さんは、別件で手が離せなくて。ああ、はいOK です』

 アツコは通話を切ろうとしたが、東海林の声に手を止めた。

 『星野さん』なぜか躊躇いがちな声で東海林は言った。『つい今し方、作戦ファイルを覗いてみたんです。ファイルのアクセス権が戸川さんのままになっていたので。佐藤さんが言っていた保険についてなんですが』

 「ああ、あれですか。何かわかったんですか?」

 『作戦要綱Byakhee というファイルに、プランB としてN の使用による消滅を勧告、とありました』

 「N ?」

 『確信はないんですが、nuclear、つまり核兵器のことかもしれません』

 気温とは別の要因でアツコの背筋が凍った。

 「冗談でしょう?」

 東海林が答える前に、別の声が割り込んだ。

 『正解です』佐藤だった。『保険というのは、2 キロトンの核爆弾です。理論的にはポイントを消滅させられると思われます。地上爆発なので、それほど広範囲に被害が及ぶことはないです。半径1 キロ圏内が更地になる程度です』

 「こ、ここ」言葉がもつれた。「ここにあるんですか? そのN が」

 『設置済みです』佐藤は冷淡に告げた。『場所はほぼ誤差なしで予測できるので』

 反射的にアツコが考えたのは、自転車に飛び乗って、全速力でここから走り去ることだった。電動アシスト自転車で5 分走れば、2 キロ以上離れることができる。だが、作戦を実行する人間がいなくなれば、否応なしにプランB が実行されることになる。

 「戻ったら」アツコは低い声で告げた。「佐藤さん、あなたをぶん殴ります。それからプレステVR を2 台、用意しておいてください」

 佐藤が何か訊き返したが、アツコは通話を切った。

 20 時 06 分。再び連絡が入った。

 『ツリーにできるだけ接近してください』佐藤が緊張した声で言った。『それから、タブレットの右隅のアイコンを起動。☆型のボタンを押してください』

 アツコはタブレットを操作しながら、ゲラゲラ笑っているカップルや、赤い顔で陽気に歌っているおじさんグループをよけてツリーに近付いた。胸が張り裂けそうなほど高鳴っている。凍てつくような気温なのに、少しも寒さを感じない。これが本当にドッキリで、プラカードを持ったTV クルーが叫びながら現れてくれたら、何もかも許してハッピーなクリスマスを楽しめるのに。

 『1 号館側です』佐藤が指示した。『地上から1、2 メートルぐらいに出現するはずです』

 その言葉が終わらないうちに、アツコの目の高さの空間が縦に1 メートルほど裂けた。血のように赤い亀裂だ。アツコはグリッドに展開するのを待ち構えたが、亀裂はそのまま上下に伸びていった。上はツリーの頂点を遙かに越えて、下は路面を貫いて。

 「え?」

 アツコがひるんだ隙に、グリッドが一気に出現した。昨日、見たパターンとは異なる。複数のグリッドが前後にも展開していた。色も均一で、中心部らしき箇所が特定できない。

 「どこに投げればいいの」

 『くそ』佐藤が罵った。『特定します。少し待って下さい』

 アツコの周囲で、陽気な歓声とは別のざわめきが広がり始めていた。ツリーのイルミネーションとは明らかに異なるグリッドの出現に気付いた観光客たちが、何なのかわからないまま、写真や動画に収めているのだ。

 「ちょっと」アツコは囁いた。「まだ? すごく目立ってるんだけど」

 『わかりました。手前と後ろのグリッドはシールドです。中央のグリッドを見てください』

 真ん中のグリッドの色が漆黒に変化しつつあった。

 「このまま投げたらどうなるの?」

 『シールドに阻まれます』

 「横に回ったら?」

 『横方向からは見えません。今、サポートを送ります』

 「サポート?」

 訊き返したが、返事はなかった。代わりにガラスが細かく割れるような音が聞こえてきた。アツコは視線を上げ、グリッドの中央から出現しつつあるものを見て、腰を抜かしそうになった。

 上から下まで20 メートル以上に展開したグリッドから、無数の触手が伸びていた。1 本1 本は人の身長ほどだが、その数は数百、いや数千にもなるかもしれない。さらにおぞましいことに、触手に続いて巨大な山のような肉塊がゆっくりと姿を現している。その表面にはさらに細かい繊毛がびっしり生えていた。それらは、グリッドから出て夜の空気に触れた途端、急速に成長して触手になっていく。

 周囲のざわめきが、次第に不審そうな呟きに、次いで恐怖と嫌悪の叫びに変わっている。何? 撮影? と言った声も聞こえるが、危険を察知した何人かは、すでに悲鳴を上げながら逃げていったようだ。

 『シュブ』佐藤の畏敬に満ちた声が届いた。『シュブ=ニグラスだ。千匹の仔を孕みし森の黒山羊。まさかこいつが......』

 今見えているのが腕か足だとしたら、とアツコは半ば麻痺した脳で考えた。こいつの全長は100 メートル以上になる。いや、ひょっとしたらあれは指の1 本でしかないのかも。だとしたら本体は......

 触手の生えた巨大な前肢らしきものは、5 メートルほども実体化していた。無数の触手はゆっくり揺れていたが、いくつかの先端が丸く膨らんでいることにアツコは気付いた。他の触手も次々に同じ形状に変わりつつある。目を背けるのも、直視するのも、どちらも恐ろしかった。神様、とアツコは普段信じてもいない存在に祈った。

 何かが弾けるような音が聞こえた。球状に膨らんだ触手の先端が二つに割れ、そこに眼球が生まれている。まぶたも瞳孔も虹彩もない暗赤色の目が、しかし明らかな知性を宿してアツコを見た。確かに見た。

 アツコの精神の耐性が限界に達する寸前、佐藤の冷静な声が告げた。

 『お待たせしました』

 ハッと我に返ったとき、アツコの両脇を数人の男たちが走り抜けていった。いずれもスーツ姿で、佐藤がかけているようなスマートグラスをかけている。手に持っているのはタブレットだ。男たちはタブレットを前に掲げてグリッドに突進していく。

 最初の2 人が前面のグリッドにぶつかると、一部分の色が明るく変化し、男たちの姿は跡形もなく消失した。続いて次の2 人が同じようにぶつかる。グリッドの一部が消失した。

 アツコは何が起こっているのか悟って戦慄した。男たちは自らの命を犠牲にしてシールドに損傷を与えているのだ。

 「やめて!」アツコは叫んだ。

 『彼らは』佐藤が言った。『サポート部隊です。このために待機していたんです。シールドが部分的に消失しているはずです。長くは持ちません。すぐタブレットを投げてください』

 最後の2 人が音もなく消失したとき、アツコの正面のグリッドに、1 メートル四方ぐらいの空白部分ができていた。アツコは涙を流しながら、自分でもわからない叫び声を上げながら、アンダースローでタブレットを放った。

 タブレットはシールドにできた空白部分を通り抜け、<旧支配者>が出現しつつあるグリッドに吸い込まれていった。

 あんな巨大なものに効果があるのか。そんなアツコの不安に答えるように、佐藤が安堵した声で言った。

 『お見事。正常に作動しています』

 その言葉の正しさはすぐに実証された。巨大なグリッド、巨大な肉塊と触手、その全ての輪郭が不意にぼやけた。まるで真夏の蜃気楼のように、急激にリアリティさを失っていく。数秒で、それら全てが消失した。

 『そこから離れて』佐藤が言った。『建物の中に入ってください。最後の仕上げをします』

 アツコが1 号館の方に後ずさりすると、何かが空気を切り裂いて飛来する音が聞こえた。次の瞬間、ツリーが一気に燃え上がった。

 『司法当局とマスコミ向けのカモフラージュです』佐藤は満足そうに言った。『事故ということに落ち着くでしょう。おつかれさまでした。戻ってきてください』

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ATP ビルに戻ったアツコは、まず最初にやるべきことをやった。出迎えた佐藤の顔面に、渾身の力を込めて拳を叩き込んだのだ。佐藤はあっけなく吹っ飛んだ。

 「すまなかった、星野さん」

 そう言ったのは、佐藤の横に立っていた白髪の50 代の男性だった。上から下まで、オーダーメイドらしいスーツで隙なく固めている。片手にファブレットを持っていた。

 「あなたは?」アツコは痛む拳を無視して訊いた。

 「ここの責任者で、山田という者だ」山田は床で身体を起こしつつある佐藤を見た。「彼に責任はない。全ての作戦は私の指揮で実行された」

 「どうでもいいです」アツコは自分のカバンを掴んだ。「帰らせてもらいます」

 もう22 時過ぎになっていた。乗っていった自転車は、誰かが盗んでいったか、壊されたかしたらしく見当たらなかった。警察と消防の車両が一帯を封鎖したおかげでタクシーを捕まえることもできず、アツコは徒歩で帰還したのだ。

 家では、もうとっくに夕食を終えているだろう。カバンの中に入れてあったスマートフォンを確認すると、メールと電話がそれぞれ20 本以上着信していた。アツコは素早く「ちょっとトラブル対応してた。これから帰る」と夫にメールした。

 「東海林さんはどうしたんですか?」

 「さっき、帰宅しました」痛そうに右目をハンカチで押さえながら、佐藤が言った。「星野さんに、よろしくと言ってましたよ」

 「そうですか。じゃあ、これで」

 アツコは踵を返しかけたが、山田の声に呼び止められた。

 「まあちょっと待ってくれないか」山田はファブレットを見た。「後処理に興味はないか?」

 「ないです」アツコは顔だけ振り向いた。「明日の新聞で読むことにします。それとも今夜、ネットでかな」

 「どちらにも載らないですよ」佐藤が言った。「なかったことにしますから」

 「その説明なんか聞きたくないですよ。どういうふうに隠蔽するのか楽しみです」

 「そういうことじゃなくて」佐藤は山田に頷いた。「我々が事情を知っているあなたを、このまま黙って帰すとでも思ってるんですか?」

 アツコは振り返った。

 「どういうことですか?」

 「これを見たまえ」

 山田がファブレットの画面をアツコに見せた。赤レンガ倉庫のツリーの画像が映っている。

 これが何か? そう訊こうとしたとき、画面全体がぐにゃりと歪んだ。続いて閃光が両目を射貫く。アツコは意識が遠のくのを感じた。

 「これで4 回めだろう」山田が話している。「どれぐらい使えるんだ」

 「必要とあれば何回でも」佐藤が答える声が遠くに聞こえた。「彼女は優秀です。東海林さんもね。使い捨てにできる人材ではありません......」

 全ての知覚がバラバラに分解されていく。再構成プログラムを組まなければ。アツコが最後に感じたのは、そんな思いだった。やがて何もかもが暗く深い闇に吸い込まれていった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 12 月25 日。

 アツコは夫と並んで、マークイズの3F を歩いていた。一歩離れた後ろを、娘がついてくる。娘はLINE で友達とやり取りしているらしい。さっき、娘がよそ見をしているときに盗み見したら、今日は親に付き合ってやってる、などと言っていた。やれやれ。

 クリスマスで土曜日の午後とあって、マークイズの中は人で賑わっていた。3 人は、4F のいしがまやハンバーグでスペシャルセットを食べた後、娘の要望に応えてプレゼントを買うために3F に降りてきた。

 「この後どうしよう」夫が話しかけてきた。「赤レンガは行けなくなったからな」

 アツコは頷いた。赤レンガ倉庫は、昨夜発生したガス爆発事故の影響で、全面的に封鎖されている。朝のニュースで、視聴者提供のツリーが赤々と炎上している映像が、繰り返し放送されていた。アツコは赤レンガ倉庫のレストランbills を1ヵ月以上前から予約してあったのだが、確認の電話を入れるまでもなかった。一応、いくつかのレストランにキャンセル待ち登録をしてあるが、ほとんど期待していなかった。

 「いいレストランは、どこもいっぱいでしょうね」

 「そごうあたりで、何か買って、うちで食べるか」

 「そうね」アツコは微笑んだ。「あたしは昨日、食べそこなっちゃたし」

 23 日、24 日と臨時の派遣業務に行ったアツコは、ちょっとしたシステムトラブル対応に巻き込まれ、帰宅したのが23 時近くになっていた。娘はとっくに自分の部屋に引っ込んでいたし、テレビを見ながら待っていた夫が用意してくれたのは、ほとんど骨だけになったローストチキンと、温め直したラザニアの残りだけ、というさんざんなクリスマスイブだった。娘はアツコが約束を破って、夕食の時間に間に合わなかったことに、相当腹を立てていたらしい。朝になって顔を合わせたときも、まだその痕跡が顔に残っていた。

 ノジマに向かって角を曲がったとき、トイザらスから親子連れが出てきた。小学生ぐらいの女の子の手を両親が握っている。アツコは、子供はあれぐらいの年が一番可愛いのよねえ、と微笑ましく思ったが、父親の顔を見たとき妙な既視感に襲われ足を止めた。

 相手も同時にアツコに気付いたらしく、どこかで会ったかな、と記憶を辿っているような顔になった。アツコも脳内の知り合いデータを、public、private の両方から検索してみたが、該当する人物はヒットしなかった。

 「知り合い?」夫が訝しげに訊き、アツコは笑って首を横に振った。

 「ごめん。知り合いかと思ったけど違ったみたい」

 アツコは親子連れに軽く会釈した。相手も曖昧な表情のまま会釈して、そのままエスカレーターの方へ歩いていった。

 ノジマのすぐ手前で、サンタの格好をした男性が近寄ってきた。

 「メリークリスマス!」サンタ帽子から白髪が覗いていた。「これ、無料福引券になっております。そこで1 回ガラガラポンできますよ。どうぞ」

 アツコは礼を言って受け取った。サンタは「メリークリスマス」を連発しながら、歩いていった。娘が後ろから覗き込んだ。

 「何、それ」

 「福引券だって」アツコは券を渡した。「あ、ほら、あそこだ。やってきたら?」

 ノジマの入り口に赤と緑で装飾されたテーブルが出ていて、ガラガラが置かれている。やはりサンタの格好をしたメガネの男性がいて「福引はこちらですよ」と声をかけている。

 「どうせティッシュぐらいでしょ」娘はバカにしたように言って券を返した。

 アツコは内心で娘の予測に同意したものの、あえて強気の発言をした。

 「そう? ママはこういうの得意なのよ」

 そう言って、アツコはサンタの男性に福引券を渡した。メガネの男性はニッコリ笑うと「どうぞ」とガラガラを示した。

 アツコはゆっくりハンドルを回した。八角形の箱の中で、抽選球が攪拌される音が響いた後、コトンと球体が転がり出る。途端にサンタはベルを掴んで、ガランガランと勢いよく鳴らした。

 「大当たり! 二等賞、PlayStation VR 2個セットです!」

 娘がウソ、と呟いた後、アツコに抱きついてきた。

 「すごい!」娘は興奮して叫んだ。「ママ、すごいよ!」

 「ね、強いでしょ」平静を装って答えたものの、アツコは娘に負けないぐらい驚いていた。

 「おめでとうございます」サンタの男性がにこやかに言った。「こちらが引換券となります。ノジマのレジで出していただければ、景品をお受け取りになれます。お受け取りの際、住所と氏名をご記入いただきますので、何か身分を証明できるものをご用意ください」

 「ありがとうございます」

 そう言ったとき、サンタの男性の右目の周囲が赤黒くなっていることに気付いた。まるで誰かに殴られたかのようだ。酔っ払ってケンカでもしたのだろうか。ひどい奴もいるものだ、と同情しつつ、アツコはもう一度礼を言ってその場を離れた。娘は早速スマートフォンの上で指を踊らせている。今しがたの奇跡を友達に報告しているのだろう。

 「びっくりしたよ」夫は驚きながらも喜びの表情で囁いた。

 「ホント」アツコも囁き返した。「これで一生分の運を使い果たしたんじゃないといいんだけど」

 「VR は重いから帰りに受け取ることにして」夫は笑いながら言った。「一度、そごうに行って、夕食を見つくろうとしようか」

 アツコが頷いたとき、スマートフォンが振動した。ポケットから取り出してみると、メールが着信している。仕事関係じゃないといいけど、と思いながら開いて見ると、インターコンチネンタルホテルのイタリアレストランからだった。

 「うそ......」

 「どうした?」

 「インターコンチの<ラ ヴェラ>、キャンセルが出た」アツコはさらにメール本文を読み進めた。「え、しかも、何かキャンセル待ちの不具合があって、ご連絡が遅くなってしまったお詫びで、コース料理が半額で、シャンパンとケーキもサービスだって」

 夫は驚きを通り越して呆れてしまったようだ。

 「本当に異常なぐらいついてるな」

 「日頃の行いがいいからね。昨日、苦労したし。とにかくこれで、夕食は決まったわね」

 アツコはそう言って、夫と娘と腕を組んで歩き出した。今年の締めくくりとしては最高だ。来年もきっといい年になるに違いない。

(終)

 この物語はフィクションです。

 「高慢と偏見」「罪と罰」などに登場している星野アツコさんのスピンオフを書いてみました。クリスマスなのに、ちょっとおどろおどろしい話になってしまいましたが、まあ、たまにはこういうのもいいかな、と思いまして。「ハローサマー、グッドバイ」もそうでしたが、プログラマが主人公だと、どうしても室内のデスクか、せいぜい会議室が舞台となってしまうので、たまには動き回る話が書きたくなるのです。

アツコさんが登場する「罪と罰」が「レッドビーシュリンプの憂鬱」と名前を変えて出版されます。

Comment(18)

コメント

レモンT

1話読んだ時から予想はしてましたが、ラブクラフトやダーレスというよりアーカムホラーですよね、これ(笑)。
まあ、アツコさんと東海林さんのPOWと初期SAN値がいくらだったにせよ、SAN値直葬にならなくてよかったよかった、ということで(^^;;

white

楽しませて頂きました。リーベルGさんのスターシステムは威力抜群ですね。

drumath

ストーリーが面白くて、読みながら楽しませてもらいました!

m

すごく面白かったです!
3話の短編なのにそうと思えないボリュームに感じました。
逆に3話じゃ足りない、もっと読みたい、とも思うような。
「ハローサマー、グッドバイ」でも思いましたが、
「会社でプログラミングする話」だけではなく、物語としてすごく面白い。
リーベルGさんの文章力に脱帽です。

個人的には東海林さんのファンなので、彼の活躍がまた読めて嬉しかったです。

as

面白いですね! 一気に読みました。

「r55 ですが、クイックソードではなくて、バブルソートに変更してください」
クイックソード → クイックソート

…アツコは東海林を二人でランチを楽しんだ。
東海林を二人で → 東海林と二人で

でしょうか?

tom

楽しませていただきました。ありがとうございます。
「クイックソード」・・・戦うので、剣のアルゴリズム・・なわけないですね。

fanaby

24日が金曜=去年?ということなら、最後の
>来年もきっといい年になるに違いない。
が前振りにしか見えない!
今年も記憶を消されながら戦っているんでしょうか・・・スーパープログラマーに休みなし(悲

匿名

面白かったです。思わぬクリスマスプレゼントをもらった気分です。ありがとうございます!

リーベルG

as さん、ご指摘ありがとうございました。
クイックソート、です。もちろん。

偉鷹 仁

初期の頃からROMしてましたが、まさかのクトゥルフネタにたまらず書き込ませていただきました!
テーブルトーク「クトゥルフの呼び声」で長年キーパーをしてきましたのでこの展開は会社の昼休みに机で静かにお弁当を食べながら内心、狂喜乱舞しました(笑)
日本古典のクトゥルーオペラ等に通じるような、邪神の侵攻に科学で対抗する展開は燃えますね~♪
しかもリーベルGさんらしく、主人公はプログラマのあの二人とは!
これからもいろんな引き出しからの宝物を楽しみにしてます!!

ーー

読み返してたらもうひとつ
妙な既視感を襲われ

リーベルG

--さん、ご指摘ありがとうございました。

うーん面白かったです。終始にやにや笑いが止まりませんでした。
アーカムテクノロジーはアフターサービスもしっかりしてますねー。きっと来年もアツコさんの25日の運勢は最高になるでしょう(確信)
いつも面白い話をありがとうございます。

夢乃

まさかの、あの話(だよね?)とのコラボレーション。次は是非、玲子との共演を。あとカイ うぁ  なにす・ヤメ※たすケ・%☆¥※◎€〆★

アルテ

ラブクラフト物も書けるとは素晴らしいです!
ルルイエ阻止と、ハウンド阻止期待しております。

jo

映画みたいな素敵なエピローグ

読者

罪と罰は電子書籍の販売はされないのでしょうか。
また、冷たい方程式など販売終了になってしまった書籍の再販予定などは?

リーベルG

読者さん、どうも。
今、聞いている限りでは、当面、紙の本のみ、ということでした。
過去に販売終了になったものは、再編集してKDP で出そうかなと思っていますが、いつになるのかはわかりません。

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