ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

高村ミスズ女史の事件簿 結婚詐欺篇 (終)

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 午前4時を回ったころ、そのウワサは2chのみならず、Twitterや、ブログでも話題になり始めていた。「シルバースプーン」と「人工知能」で検索すると、少なからぬ数がヒットし、時間の経過とともに少しずつ増え続けている。もっともネタがネタだけに、真剣に取り合っているネットユーザはほとんどいないようだった。これが4月1日だったら、完全にジョークになっていたところだ。

 迷惑だったのは「タカミス先生が調査中」などとデマを書いたヤツがいたおかげで、私に対して、知り合いから何本もの問い合わせのメールが届いたことだ。私というのは、もちろん高村ミスズのことだ。とりあえず放置してあるが、そろそろ方針を決める必要がありそうだった。

 MITの研究所で人工知能の研究をしていたトーマス日下が、帰国後、アメリカに本社がある軍需産業のグループ会社に勤務していた。その後、日下は結婚相談所を経営するが、そこで10人の男性会員が結婚詐欺を訴えている。訴えてきていない会員を含めればその数はもっと多いかもしれない。日下はひき逃げに遭って入院中。折しも結婚相談所に高度な人工知能が存在しているというウワサがネットを駆け巡る。

 これがテクノスリラー小説なら、トーマス日下は合衆国政府の秘密プロジェクトに従事していて、ハウンド・メカニカルで軍事用AIの研究を行っていたとなるところだ。政府の陰謀だか何だかに巻き込まれて退職、結婚相談所を隠れ蓑に研究を続けていたところ、軍需産業の工作員によってひき逃げに遭ったため、秘かに研究をしていたAIがネットに解き放たれたしまった、とか。

 私は苦笑して妄想をやめると、濃いめのカプチーノを淹れた。そして、キサラギからの情報を待つ間に、自分でも別の方向からの調査を続けた。

 

 キサラギからの情報は、午前6時に届いた。それを読んだ私は、いくつかの補足情報を調査した後、これからの計画を立てた。まず、高村ミスズとして、職場に体調不良による欠勤のメールを入れることで、この件を調査する時間を24時間ほど確保した。次に、ユカリに電話を入れた。

 「変わったことはなかったか?」ユカリが電話に出ると、まず私は訊いた。

 『うん、今のところは。ごめんね、ボス。心配させちゃって』

 「いいんだ。また頼みたいことがある。やれるか?」

 『やるよ、もちろん。何をすればいいの?』

 私は指示を伝えて電話を切ると、10時まで睡眠を取った。幸い、何の夢も見なかった。

 

 午前11時、ユカリは五反田にある総合病院にいた。地味な黒のビジネススーツに身を固め、胸元も脚も露出を控えている。損害保険会社の社員という役どころを、ユカリはよく理解しているようだった。

 ユカリは誠実そうな笑顔で、病院の受付職員からトーマス日下が入院している病室を聞き出した。保険会社の名刺が役に立ったのか、相手は疑いもしなかった。

 トーマス日下が入院しているのは、一般病棟の2人部屋だった。入り口のプレートには、トーマス日下の名前しかない。これで越えなければならないハードルが1つ減った。ユカリは、ドアをノックした。

 『はい、どうぞ』男性の声が答えた。

 失礼します、と言いながら入室したユカリは、動きを止めた。点滴とモニターに接続されてベッドに横たわっているのは、キサラギが送ってきた写真と同じ初老の男性だった。首から下は、ほとんどが包帯に覆われ、右足と右手はギブスで固められている。

 ベッドの脇にもう1人の男性が座っていた。フレームレスメガネをかけた実直そうな痩せ顔の中年男性。桐野にちがいない。私はその情報をピックアップに囁いた。

 「どちらさまですか?」桐野が訊いた。

 ユカリは丁寧に一礼した。

 「<シルバースプーン>の日下さんですね。そちらは桐野さんでしょうか?私は三村スズタカの代理の者です」

 そう告げると、ユカリは持ってきたノートPCを開いて、食事用オーバーテーブルの上に置いた。続いて、Skypeのアイコンをダブルクリックする。

 数秒後に、私の目の前のモニタの1つに、Skypeの着信マークが点滅した。それを見て、私は準備しておいたヘッドセットをかけて、通話を開始した。

 「はじめまして。三村スズタカです」

 『三村さん!』桐野が慌てたように言った。『どうしたんですか、突然、こんな。病院にまで』

 「すいませんね。調査のご報告をと思いまして」

 『それならここじゃなくて事務所の方で……』

 「日下社長にもぜひ聞いていただきたいんですよ。いや、むしろ、日下社長にこそ聞いていただきたいというべきでしょうか」

 『病人に失礼な……』

 『まあ、待ちなさい、桐野くん』突然、日下が口を開いた。『聞かせてもらいましょうか、三村さん』

 桐野は沈黙したが、どこかから助けが得られないかと、自分の雇い主とノートPCとユカリを交互に見た。私は構わずに話し始めた。

 「日下さん。あなたはアメリカで、ずっと人工知能の研究をしてきましたね。日本に帰国してからも、そのスキルを生かせるような職場を探したんですね」

 『そうだ』日下が答えた。『MITの学歴を持って行けば、どんなIT企業も諸手を挙げて迎えてくれたよ』

 「だけど、あなたはとうとう、自分が満足できる職場に出会うことはなかった。あまりにレベルが高すぎて、使いこなせなかったからだと推測していますが、合ってますか?」

 『そんなところだ』吐き捨てるような答えだった。『バカばかりだよ、日本のIT業界の大手は』

 「だからあなたは、ご自分のAI技術を売り出すための会社を作ろうとしたが、思うように出資者が得られなかった。だから、結婚相談所を作ったんですね。なぜ、結婚相談所だったんですか?」

 日下の顔に笑みが浮かんだ。

 『何でもよかったんだよ。ただ、人間の行動パターンを収集するには、結婚相談所というのはうってつけに思えたな。結婚というのは、人生における大きなマイルストーンの1つと言ってもいいからな。その目標を達成するために、人はいろんな行動を取り、様々な努力や妥協をし、複数の対立した感情を抱く。それを完全にシミュレートできれば、AIとしては成功といっていい。そもそも人工知能というものはだな……』

 日下は専門用語を多用して、人工知能論を語り始めた。

 私はそれを半分聞き流しながら、ユカリのGoogle Glassに”桐野を見ろ”とメッセージを送った。ユカリがさりげなく位置を変えて、桐野の顔を見た。

 モニタに写った桐野の横顔は、自分の雇用者の言葉をうやうやしく拝聴しているようだが、どこか怯えているようにも見える。情報工学の知識のない人間の、自分の専門外の領域に対する畏怖の表情なのだろうか。

 やがて少し疲れてきたのか、日下が言葉を切って息をついだ。そこで、私は口を開いた。

 「それであなたは、何人かの男性会員を利用して、チューリングテストをやったんですね?」

 『そういうことだ。何人かは受け答えが機械的だと思ったようだが、ほとんどは違和感なく会話をしていたようだった。パターン収集を行い、フィードバックを重ねていくことで、その違和感もほとんどなくなってきている。もう少し鍛えれば、他の分野にも応用できるだろうな』

 「たとえば?」

 『たとえば医療の分野だ。トリアージなどを人間に変わってAIが行うことで、医師を治療に専念させることができる。まあ、医療のような専門分野については、まだ越えなければいけないハードルが高いとは思うがな』

 「でも、桐野さんが私に調査を依頼することは想定外だったようですね」

 『私は……その、知らなかったんです』桐野がつぶやくように言った。

 『もう少し完成度が上がったら、きちんと説明するつもりだったんだがな。まさか車にはねられて入院することになるなんてな』日下は笑ったが、すぐに痛そうに顔をしかめた。

 「エンジニア職の人間ばかりを実験台に選んだのは?」

 『1人ぐらいは、ひょっとしたら人工知能なんじゃないか、と疑って、ブログなりTwitterなりSNSなりに書き込みするヤツがいると思ったんだよ。そういう職業なら、新しい技術に興味もあるだろうし、発信しても信頼性が高まるだろうからな』

 「書き込みはされたみたいですが、それほど効果はないようですけどね」

 『まだ始まったばかりだよ。これからだろう』

 「悪評になるかもしれませんよ」

 『悪評だって評判のうちだよ。全く無視されるよりずっといい』日下は、ため息をついた。『まあ、そういうわけだ。三村さんには余計な手間をかけさせてしまったが。ここまでの報酬はきちんとお支払いしますよ』

 「私に仕事を依頼するときの条件は憶えていますよね。面白そうなネタは、高村のブログの記事にさせてもらう、という。この件を書かせてもよろしいですか?」

 『もう少し待ってもらいたいがね』日下は肩をすくめようとして、思い直したようだ。『まあ、書きたいというなら仕方がない。いずれは公式に発表することだからな』

 「書かせますよ。放ってはおけません、こんないいネタを。あなたが男性会員を勝手に実験に使ったこともね」

 『正義の味方のつもりかね?まあ、いい。書きたければ好きにすればいい。私は逃げも隠れもしない。まあ、当分は逃げたくてもできんがね』日下はからうじて動かせる左手で、包帯だらけの自分の身体を示した。『技術の進歩のためには、実験は必要だし、同意を取ったら自然な行動にはならん。仕方がないことだ。三村さんだって、技術者の端くれなら、理解できるんじゃないのかね』

 クスッと笑いを洩らしたのは、脇にどいていたユカリだった。

 『なんかB級SF映画のマッドサイエンティストみたい』ユカリは遠慮のないコメントを、天使のような笑顔でつぶやいた。『まさかリアルで聞けるなんてね』

 日下は気を悪くしたように、吊り上がった鋭い双眸でユカリを睨んだ。

 『技術者同士の話に、知識のない一般人が割りこまないでくれないかね。これは君のような女にはわからん話なんだよ』

 「彼女は私の大事な代理人です」私は冷たく告げた。「そういう言い方はしてほしくないですね。技術というものは、技術者だけのものではありません。全ての人のものです」

 『ふん、それは失礼した。まあ、これで話は終わりだ。そろそろ疲れたから、休ませてもらうことにするよ。高村ミスズ先生のブログの件は、好きにしてくれて構わないよ』

 「わかりました。高村にはそう伝えます。それでは、これで失礼します」

 私はユカリに合図を送った。ユカリは手早くノートPCを回収すると、2人に向かってニッコリ微笑み、一礼して退室した。ドアが閉じる直前に、桐野が何か言いたそうな顔をしているのが、一瞬カメラに捉えられた。

 

 病院の外に出たところで、ユカリは私に呼びかけてきた。

 『ボス、あれでよかったの?』

 「ああ、完璧な演技だった」

 『ありがとう。でも、そうじゃなくてさ。あれって、要するにタカミス先生のブログで宣伝させたい、ってことじゃないの?』

 私は思わず笑った。恵まれた容姿に隠れて目立たないが、実はユカリは頭の回転が速いし、理解力も優れている。私が関わってきた、大半のエンジニアより鋭いぐらいだ。役者などをやらせておくのがもったいない。

 「そんなところだろうな」私は認めた。「桐野さんは、真剣に依頼をしてきたんだろうが、それがなくても、何らかの方法で、リークさせる計画だったんだろうから。桐野さんがオレに依頼したことで、それを知った日下社長は、それを利用することにしたんだろうな」

 『それでいいの?』

 「まあ、そのうちわかる」私は話題を変えた。「今日はここまでだ。いつもながら助かったよ」

 『ありがとう。またいつでも呼んでね、ボス』

 「ああ、じゃあな」

 『あ、ボス?』

 「なんだ?」

 『ねえ、今まで訊いたことなかったんだけど、ボスは結婚してるの?』

 「……そういうことは訊かない約束だろう」

 『そうなんだけどね。あの人が言ってた結婚が人生のマイルストーンだ、って話、ちょっと考えちゃって。あたしは結婚に今のところ興味がないからさ。してる人はどうだったのかなと思って』

 「そうだな……昔、バーナード・ショーという劇作家がいた。新しいものが大好きな、思想に一貫性がないヤツだったんだが、結婚に関して評した言葉がある。知りたいか?」

 『もちろん』

 「結婚するやつはバカだ。しないやつはもっとバカだ」

 ユカリは吹きだした。

 『なにそれ』

 「要するに何事もやってみないとわからない、ってことだよ。結婚というシステムは脆弱性だらけなのに、人類の社会で何千年も持続している制度でもある。ゼロか1かで割り切ることは難しいよな」

 『ふーん、まあいいや。じゃあね、ボス』

 私は微かに良心の呵責を感じながら、ユカリとの通信を切った。いつか、真実を打ち明けたとき、ユカリはどんな顔をするのだろう。

 

 私の予想より長く、桐野はかかっていたはずの重圧に耐えた。だがやはり電話はかかってきた。まるで私に連絡を取る時間を決めているかのように、この日も電話が鳴ったのは真夜中過ぎだった。

 「どうも桐野さん」私は穏やかに挨拶した。「日下社長の具合はいかがですか?」

 『まだ入院しています。その三村さん、今日お電話したのはですね……その、高村ミスズ先生のブログのことなんですが。見たところ、まだ、例の件については書かれていないようですが……』

 歯切れ悪く探りを入れてくる様子にイラッとしつつも、少し気の毒になり、私は回りくどい社交辞令をカットすることにした。

 「今後もずっと書かないでほしい、ってことですね、つまり?」

 『はい……え?じゃあ……』

 「高村のブログは、綿密な調査に基づく正確な技術情報で成り立ってるんですよ。得体の知れない山師が作った人工知能のことなど、書かないでしょうよ、きっと」

 思わず洩れたらしい大きなため息が、電波に乗って届いた。

 『わかっておられたんですね』

 「もちろんです。私を誰だと思ってるんですか」私はこういう言葉を口にする機会は逃さない。「日下さんの言う人工知能なんて存在しないんですよね」

 『……はい、そのとおりです』

 「被害に遭った男性会員とのチャットの相手は、確かにサクラだった。でも、それはAIなんかではなく、人間だったんですね。ちがいますか?」

 『はい』桐野は観念したように答えた。『バイトでした。社長はもう1つ、自分用の口座を持っていたんです。資産の一部をそちらに移して、サクラのバイト代なんかを出していたようです』

 「24時間の受付システムは、確かに自動化されていたんでしょう。でも、あれはどこにでもある入力システムで、人工知能なんて呼べるシロモノじゃない。一定時間が過ぎても入力されないと、客に呼びかける仕組みだってそうです。あんなプログラムは、誰でも書ける」

 桐野は、またもや大きなため息をついた。私は、同情を感じながら続けた。

 「要するに、この案件は、結婚詐欺なんかじゃなかった。結婚相談所詐欺だったんです」

 『どうやらそのようです』桐野は悲しそうに肯定した。『たぶん社長は、自分がすごい人工知能開発技術を完成させた、と世の中にアピールしたかったんでしょう。でも、実は人工知能なんか完成していなかった。私はその方面に詳しいわけではありませんが、人間と同じような思考を持つ人工知能をたった1人で開発するなんてことは、無理なことぐらいわかります。それでも諦められなかった社長は、研究を続ける資金を得るために、こんなバカなことを思いついたんでしょう。どこかの企業なり研究機関なりが、研究資金を出してくれるのを狙って』

 「言ってみれば、ちょっと毛先の変わったステマというわけですね。たとえば専門の研究誌などで発表しても、すぐに専門家から不備を突かれてボロボロになってしまうでしょうから」

 『全くです。社長は頭のいい人なんですが、それぐらいのことがわからなかったんでしょうか。私は素人ですが、結婚相談所のシステムとしては、なかなかよくできていると思うんです。私が何かすることはほとんどないぐらいのものですから』

 「DMの発送なんかはどうしているんですか?」私は気になっていたことを訊いた。「どういう対象に発送しているんでしょう?」

 『そこは私はよく知らないんですよ。社長がどこかから名簿を入手して、それをシステムで何かの条件で絞り込んで、発送リストを出しているんです。私は発送業者に転送するだけです』

 「そうですか」

 『はあ……』桐野は3度目の深いため息を吐いた。『全く、何でこんなことを。たとえ一時はうまく騙せても、すぐにバレたでしょうに』

 「経営者というのは、大企業だろうと、個人商店だろうと、それなりの悩みを抱えているものなんですよ。日下社長は、あなたに心配をかけまいと、自分だけでやっていたんでしょうね」

 『言ってくれればよかったのに』

 「桐野さん、このことで、<シルバースプーン>を辞めたりするつもりはないんでしょう?」

 『もちろんです』桐野の声が少し大きくなった。『社長は、私が求職活動に疲れ果てていたとき、拾ってくれたんです。これぐらいのことで、その恩を忘れることなどできませんよ。それに、間接的にですが、人の出会いのお手伝いをしているというやりがいもあります』

 「奥さんもゲットできたことですしね」

 『もちろんです』

 「じゃあ、いいじゃないですか。これからも、社長と二人で会社のために力を尽くせば。やり方はいろいろ考えた方がいいと思いますけどね」

 『そうですね』桐野は少し気を取り直したようだ。『そうします。ありがとうございました。私のしたことは、結果的に余計なことだったのかもしれませんが、三村さんに頼んでよかったですよ』

 「そう言っていただけると嬉しいですね」

 『では、これで失礼します』桐野は元気を取り戻したような明るい声で別れを告げた。『あ、高村ミスズ先生にもよろしくお伝えください。ブログを楽しみにしています。もう少し更新頻度が上がると、楽しみが増えるんですけどね』

 私は苦笑した。

 「伝えておきますよ」

 『では』

 これが桐野との最後の会話となった。調査料金はきちんと振り込まれ、私は領収書を郵送した。

 やがて<シルバースプーン>の人工知能のウワサは、かまどにくべた藁のように、一瞬燃え上がっただけですぐに消えていった。日下社長のステルスマーケティングは、失敗に終わったわけだ。

 

 数日後、私はキサラギと別の仕事の件で連絡を取った。あるイラク人エンジニアの軍時代の経歴を詳しく調べる必要があったからだ。キサラギは報告の電話をかけてきたとき、ふと思い出したように訊いてきた。

 『そういえば、ボス、この前の日系アメリカ人の社長の件、どうでした?』

 「あれなら片付いたよ。お前の調査のおかげだ」

 『あの男、いつか、本物のすげえ人工知能を完成させるんですかね』

 「そういうのが欲しいのか?」

 『いや、そういうAIをゲームに組み込めたらおもしろいな、と思ったんで』

 「たぶん、それはないな」私はキサラギに見えないのも忘れて肩をすくめた。「たぶん、10年経ってもないな。ゲームに組み込むなら他を当たった方がいいぞ」

 『へえ?でも、MIT出て研究所で人工知能の研究してたんですよね?それからずっと研究を続けてるんだから、さすがにそろそろ何か、実がなる頃じゃないんですか?』

 「トーマス日下は、確かに、MITを出て、その後、研究所に入って人工知能の研究をしてきた。それなりの成果も上げたようだったから、そう言う意味では優秀な研究者だったのかもしれない。でも、それだけだったんだよ」

 『どういうことですか?』

 「世の中には、いくら能力や才能があっても、ついにそれを発揮する機会を得られない人がいる。何かを作り出す潜在能力はあるのに、最後まで潜在したままで終わってしまう人だな。モーツァルトと同じぐらいの才能を持った人は、きっと大勢いたに違いないが、何かのキッカケでそれを開花させたのは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだけだったんだよ。神に選ばれたとでも言うのかな」

 『……』

 「日下は、残念ながら、その他大勢の方だったんだな。お前が調べてくれたように、ハウンド・メカニカルに勤めていたのだって、MIT時代のツテに紹介してもらったからにすぎない。それも研究職じゃなく、事務職でだ」

 キサラギはしばらく黙っていた。絶句していたのか、哲学的な何かを考えていたのか。口を開いたとき、いつもの陽気さは影を潜めていた。

 『でも、ボス。あの男は今でも研究を続けているんですよね?』

 「そうらしいな」

 『じゃあ、たぶん、永久に日の目を見ない研究を、きっと死ぬまで続けるわけですね。言ってやったらどうですか?その方が親切なんじゃないですか?』

 「何て言う?あんたは、人生の半分をムダに過ごしたんだよ、ってか?それが本当に親切だと思うか?これから何かをやり直すには、ちょっと歳を取ってる人に対して。人生を賭けた夢が、絶対にかなうことはないと教えてやるのが親切か?」

 『……』

 私は蜂蜜入りのカプチーノから立ち上る湯気を見つめた。

 「オレやお前みたいな、ほとんどの人間にとって、夢というのは、かなえたいと思っていても、実は本気でかなえようとはしないものだよな。宝くじが当たるといいな、と思っていても、本当に当選するとは思っていない。それがリアルな世界を生きるってことだ。でも、ごくまれに、夢をかなえることそのものが、人生の目的になってしまっている人間がいるんだよ。そういう人から夢の実現の可能性を奪うというのは、魂から大切なパーツを抜き取るようなもんだ。そんなことをしても誰も得しないだろう」

 『そうですが……』

 「いいじゃないか。今のままで。日下は幸せなんだから。それを取り上げる権利はオレにはない」

 『確かにそうですね。釈然としませんが、あの男の人生なんですからね。人工知能の可能性が消えたのは残念ですが』

 「日下が作らなくても、そのうち誰かが作るだろう。それとも、ネットの中の膨大なリソースから、自然発生してくるかもな。オレたちが生きているうちに、それが見られるかどうかはわからんが」

 『ターミネーターの世界が到来するかもしれませんね。それとも、マトリックスか。じゃあ、また、ボス。ご用の向きには、いつでも連絡ください』

 「ああ、またな」

 電話を切った私は、カプチーノをすすった。そして、キサラギに言わなかったことについて考えた。

 桐野は<シルバースプーン>からのDMの宛先は、日下社長が入手した名簿が元になっていると言った。ユカリの住所氏名が何らかの名簿に載っていて、それが抽出条件にマッチしたと考えるのが普通だ。ユカリは役者をやっていることを隠しているわけではないし、私などよりよほど活動的な生活を送っているから、いろんなリストに載っていても不思議ではない。

 だが、それにしては、ユカリがシルバースプーンの受付店舗に行った翌日にDMが届いたというのは、偶然というには、あまりにも不思議なタイミングだ。

 私は1つのバカげた仮定を考えている。この何日か、心の片隅でずっと考え続けている。裸眼で太陽を直視してしまったときの残像のように、なかなか消えてくれない。

 日下が開発し、今も改良を続けているであろうシステムは、ある程度の学習機能を持っていたのかもしれない。インプットを蓄積し、パターンを記録して、システムのふるまいを変えていくようなプログラムを作ることは、よく行われている。身近なところでは、コストベースを使用するデータベースなどがそれだ。日下は独創的な閃きを持つ天才技術者ではないが、実務レベルでは優秀なエンジニアだったらしいから、難しいことではないだろう。ましてや、日下は、結婚相談所という実験場で、人間の行動パターンを蓄積していたのだから。

 クラウドという情報の海に置かれたそのシステムが、何かの拍子――たとえばバグやシステム障害、メンテナンスの失敗――で、あらかじめ決められたインプット以外の情報を、貪欲に吸収する能力を持ってしまったのかもしれない。だとしたら、そのシステムは、データを蓄積するにつれて、創造者の意図を越えた巨大な能力を持つことになるかもしれない。人類が、かつてないほどのビッグデータをもてあそび始めて、まだ10年も経っていない。そこから何が生まれてくるのか、誰も検証などしたことがないのだから。

 たとえば砂粒は単体では無害な鉱物にすぎないが、ひとつかみの砂で床の上に文字を書けば、そこに有意の情報が生まれる。それが愛の言葉であるなら、そこから愛情や信頼といった無限の可能性を持った巨大な力が生まれるだろう。

 <シルバースプーン>の受付システムは、確かに簡単な自動応対機能を備えていた。それが実は、単純なパターン応対以上の機能を持っていたとしたらどうだろう。ユカリが受付画面の前であれこれやっているのを、入会を悩んでいる、と解釈したのではないだろうか。店舗内には、当然、カメラがある。システムはユカリの顔写真を撮影し、ネットで画像検索し、いくつかのデータベースに侵入し、ユカリの個人情報に行き着き、DMの発送情報を作成し、発送業者にメールで送信した。一切、人間が介入することなく。

 もちろん、そんなことが起こる可能性は限りなく低い。そんな状況で知性が生まれるのであれば、この世界は、人類以外の知性体であふれかえっているはずだ。ユカリにDMが届いたのは、もともと届く予定だっただけのこと。

 そう結論づけることにして、私はやるべき仕事に注意を向けた。三村スズタカの元には、すでにいくつか調査依頼が入っているし、高村ミスズとしての活動もある。世の中にはセキュリティの甘すぎるシステムや、データがダダ漏れのサイト、グレーゾーンな個人情報収集ルールが、無数に転がっていて、やらなければならないことがたくさんありすぎる。得体の知れない人工知能だか人工無能だかに、いつまでも関わってはいられないのだ。

 私はカップを手に立ち上がると、窓辺に立って、夕暮れに染まる街を見下ろした。無数の人の営みがそこにあり、無数の情報がその間を流れている。ユカリやキサラギ、桐野や日下もその中にいるはずだ。それぞれの生活や人間関係や感情の上でバランスを取りながら。ハードとソフトの境界が曖昧になってきているように、いつか、人と情報の境界がなくなる日が来るのだろうか。

 カプチーノを飲み干した私は、目の前の現実に向き直った。

(終)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係なく、たとえ実在の人物に似ているとしても偶然です。また登場する技術や製品が、現実に存在していないこともありますので、真剣に探したりしないようにしてください。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 エイプリルフール企画を元ネタとしたこの集中連載は、これで終わりです。元ネタが元ネタだけに、この5回の連載の中には、ウソばかり書いてあります。いくつウソがあるのか分かった方は、@IT編集部までメールをどうぞ。正解者の中から抽選で20名様に、素敵な景品が当たるそうです。当選者の発表は、発送をもって代えさせていただきます。

 この短期集中連載は、また来年のエイプリルフールに登場するかもしれません。

 コメントを寄せていただいた皆様、誤字脱字を指摘していただいた皆様、ありがとうございます。

 なお、5月に予定していました本来の連載は、諸般の事情で6月になりそうです。標準報酬月額が上がってしまうので、年度初めにはあまり仕事をしたくないのですが。

 それでは、また。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「鼠と竜のゲーム」とセットになった電子書籍版が配信中です。

Comment(19)

コメント

abc

最近のDMは出した当日または翌日に届くのか……。
採算取れるのかな。

惜しむらくは、これが嘘なのか、単なる考慮不足かわからない点ですが:-)

norimaki


面白かったです。

素敵な景品が当たる ってのがウソで1個。

みすと

今までの中で一番ファンタジーが多めな作りですね。
みしゅじゅ先生wのキャラも美味しいし、
なんかシリーズ化したら凄く売れそうな気がしますw

aaaa

やっぱり大山鳴動して鼠一匹、ってオチか。
DMの件は、単なる偶然と考えるのが妥当だろうけれどもあるいは……。

BEL

「それを呼んだ私は」は「それを読んだ私は」
ですかね

今回もとても面白かったです。
秀逸な作品をありがとうございました。

6月なんてあっという間。楽しみにしています。

saza

フィクションの中に嘘が幾つ有るか数えるのは大変そうだなぁ・・・
脱字を一箇所「結婚相談所とう場で」で「い」が抜けてますね。

ces

「それなりの成果も上げたようですので」がちょっと変かな、と。

a

いつもと違う作風ながらいつものようにおもしろいです。
4月1日に記事を見てから
ここまでの文章を書けるという筆の速さがうらやましいですね。

毎度誤字脱字の指摘が多いのは業界柄か。

BELさん、cesさん、ご指摘ありがとうございます。
修正しました。

Guzulla

面白かったです。
ウソ探しもしてみました。
- スマホにリダイヤルボタンは無い。発信ボタンでリダイヤル
- 新宿三丁目駅付近にあるマックは、2階もマック
- GAEにデプロイされてるなら、タカミス女史は自宅からアクセスできた?
- GAEでもアプリの脆弱性次第で、外部からクラッキングして何か埋め込めるし、
ソース一式がなくても、サイトの見た目を変えずに何か仕込める
(XSSとかGQL Injectionとか)
- 池袋駅北口付近にミスドは無い

名無し

タカミス先生のところにDMが届いたオチかと思ったらちがうのかー
そういう話も好きなんだけども

seabison

DMの部分は読んでいて、チクリと引っかかっていました。これが終劇に続いていくのですね。面白かったです。

来年の4月は「高村ミスズ女子の憂鬱」ですかね?
ユカリからみた三村スズタカとの会話シーンと、「大概にしろよ、こいつ」と叫ぶタカミス女子の心の声...

歩く良識

この伝で行くと、我らがひろみちゅの方も実は16歳の美少女天才ハッカーだったりする妄想の余地があるなと。

klarnet_ludanto

Wolfgang Amadeus Mozartの"Amadeus"というのは、ドイツ語で書くと"Gotliebt"、即ち「神に愛された」という意味になるようですね。

ストーリーとは関係ありませんが、ちょっとした豆知識を。

名無し

海外ドラマのperson of interest の世界ですね

みすと

新シリーズまだっすか~?

p

やっと読めた
シリーズ化したら面白そうですね
いつも面白い小説をありがとうございます

zhuqing

一気に読み終わりました。
とても面白いです。

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