◆ はじめにおことわり ◆
今回のテーマは「わたしがプログラマという職業を選んだ理由」で、実は1行で書こうと思えば書けるんですけど、それだとかなり意味不明になってしまって、ちゃんとわかるように書こうとするとやたら長くなります。
自分で言うのもなんですけど、わたしはちょっとレアな人なので普通な人(←表現がおかしい気もするけど、適切な表現が思いつきません)に読んでいただいても、進路選択の参考にはならないと思いますが、もしかしたら、昔のわたしと似たような問題にぶちあたってる人の目に留まるかもしれません。そんな偶然が存在して、なおかつ、この出会いがほんの少しでもよい方向に作用することを期待して、この文章を書きました。
少々、重いお話になるので、そういうのが苦手な方はここで引き返すことをおすすめします。せっかくきてくださったのに、申し訳ありません。
◆ 10才のわたしは20才の自分に絶望していた ◆
10才の時のことだったと記憶しているんですけど、わけがわからないまま母親に連れていかれた病院で、医者にこんなことを言われました。
「この子はへたすると20才ぐらいで歩けなくなります」
簡単に言っちゃえば、骨の形がおかしいので体重をうまく支えられず、その無理は累積されて最悪20才で破たんする、ということです。まあ、当時のわたしには当然、そんなこと理解できなくて、単純に「足が悪い」とだけ説明されていましたけど。
駆けっこはいつもビリだったし、よく転んでいるという自覚もありましたが、それは運動神経が悪いせいだと思っていて、足そのものが悪いとは考えたこともありませんでした。
医者の指示は「走るのも、跳ぶのも、蹴るのも、重いものを持つのもダメです。それと、体重が増えると負担が増すので太らないようにしてください。でも、それ以外のことは今までどおりにしてください。立ったり歩いたりすることもやめたら、筋肉や骨が弱って歩けなくなります」というものでした。
しかし、そんな話をきいても、ことの深刻さをいまいち理解できていなかったらしく、わたしは病院から家に戻ってすぐに、近所の子に誘われて鬼ごっこに参加してしまい、家のすぐ前を走り回っていたら、母親が「走っちゃダメって言ったでしょ~!」と叫びながら、ものすごい形相でかけよってきました。
わたしは生まれてはじめて「怖さのあまりに立ちすくむ」という経験をし、一緒に遊んでいた子たちはみんなどこかに逃げてしまいました。
母親のあまりもの迫力に、おそまきながら「大変なことになった」と思いました。
その日から母親は「おまえは普通じゃないんだから、普通の子と同じようにしたいと思っちゃいけない」と言い続け、わたしもおとなしくその言いつけを守りました。とにかく母親が怖かったんです。すると、一緒に遊んでくれる子が一人もいなくなりました。雨の日でも外で遊んでいるような土地柄だったので、走ったり跳ねたりできない、というのは、遊び相手にならない、ということだったんですね。
ちょっと話がそれますけど、「最近の子供たちは公園で携帯ゲーム機で遊んでいる」という話題に対して「気味が悪い」とかいう感想がでてるのを読んだんですけど、わたしは「うらやましい」と思いました。わたしが子供の頃に携帯ゲーム機というものが存在していたら、あの輪の中から外れずにすんでいたかもしれないなあ、と。
結局、遊び相手になってくれるのは、姉とか叔父とか身内ばかりになって、「友達が1人もいないままで、いつか歩けなくなって、何もできない人になるのかなあ」と考えるようになりました。今はさすがにそんなこと考えてませんけど、当時のわたしは、歩けなくなる=何もできなくなる、と感じていたんですね。
時々、むしょうに走ったり飛びはねたりしたくなることがあって、そんな時はそういうことをしてしまわないように、しゃがんでやり過ごします。ひざを抱えて丸くなっているとどうしても「こうやってがまんしてても、そのうち歩けなくなるのに、なんでがまんしてるんだろう」と思ってしまいます。1歩1歩、歩くごとに「おしまいの日がまた近づいたのかなあ」と思ってしまいます。
イヤなことを考えたくないので本ばかり読んでいたら、ある夜、父親がわたしを庭に連れ出し、こんなことを言いました。
「手に職をつければ、歩けなくなっても自分の稼ぎで喰っていけるぞ!」
正直、なんでこんなことを言うんだろう、と思いました。突然、働く話をしだすって変ですよ。そもそも、テレビドラマだったら「心配するな。お父さんがずっと守ってやるから」とか言い出す場面でしょう、これ(笑)。
それでも、「やってはいけないこと」と「できなくなること」ばかり言われていたところに、「できるようになること」を話してもらって、ちょっとだけ安心しました。
「何もできない大人にならない道もあるんだなあ」と。
◆ 17才のわたしは唐突にコンピュータ業界に入ることを選択した ◆
中学時代にはいろんなことがありましたが、一言で済ませるとすれば「暗黒期」でした(←延々と鬱展開が続くだけなのではしょります)。
重苦しい中学時代がようやく終わって、通学で足に負担がかからないように近場、かつ、お金がかからないように公立、という理由で選ばれた高校に進学しました。わたしの人生の大事は半分以上、足基準で選ばれています(苦笑)。
結果からいうと、心の底から、その高校を選んで良かったと思っています。
なぜかといえば、高校ではあっさりと友達ができたからです。友達ができると学校ってパラダイスなんですね(笑)。それを知らないまま学生時代を終えずにすんだことは、わたしの人生最大のラッキーでした。高校生活の思い出は、楽しかったことばかりで埋まっています。
そんなこんなで、浮かれ気味な高校生活もやがては終わります。その先触れとして、進路希望調査表とかいうものの提出を求められました。
その時点で、20才という当初のリミットは先送りできそうだ、という話になっていて、少しは猶予があるから歩けるうちは働かなきゃいけないなあ、とは思っていたんですけど、将来に対する具体的な希望は持っていませんでした。ずっと、「将来がある」ということを信じられなかったの
で、リアルに考えてこなかったというか。
友達に「やりたい仕事ってあるの?」と訊ねられたわたしは、「本屋の店員さんになりたい」と答えました。「ずっと本に囲まれてるっていいよなあ」くらいの軽い気持ちだったんですけど、友人はわりと深刻な感じで「書店員はむずかしいんじゃないかな?」と言いました。理由を尋ねたら、「店員さんって、重そうな本を持って店内歩いてるし、レジでも立ちっぱなしだから」という答えがかえってきました。言われてみればそのとおりです。そんなことに気づかない自分がバカでした。
その時に思ったんですよ。「わたしに職業選択の自由はないんじゃない?」って。
まあ、あるにはあるんですけど、普通の人よりも選択の幅が狭いのは確実です。その時に唐突に子供の頃にきいた父親の言葉を思い出しました。
「手に職をつければ、歩けなくなっても自分の稼ぎで喰っていけるぞ!」
歩けなくなるまでは働こう、ではなく、歩けなくなっても働ける仕事を探さないといけない。やりたいとかやりたくないとか、好きとか嫌いとかは問題にしちゃいけない。自分ができる仕事を探さなきゃいけない。
そう思ったわたしは進路指導室にこもり、そこにあった求人票や専門学校の案内のほぼすべてに目を通しました。その中で、座りっぱなしでできそうな気がする職種をピックアップし、さらに、図書館でその職種の具体的な仕事内容を調べて確認をとりました。
そんな中で候補にあがったのが、コンピュータ業界の仕事でした。
コンピュータ関係の専門学校のパンフレットを進路指導室で発見した時は、「コンピュータの仕事って専門学校出でもできるもんなの?」と思いました。だって、わたしにとってコンピュータはSFの中の存在で、それがそんな手が届くような場所にあるとは思いもよらなかったんですよ。中学生の頃にインベーダーゲームの大ブームがあったんですけど、まったく興味がなくって完全スルーでしたしね。調べてみたところ、任天堂のファミリーコンピュータが発売されたのが、ちょうど、わたしが17才の時です。当時、コンピュータが一般家庭に入り始めた頃だったんですね。
最終的にコンピュータ業界を選んだのは、候補にあがっていた他の仕事(計理士とか行政書士とか)は、いかにも上がつまってそうにみえたからです。コンピュータ業界は業界自体が若いので、働いている人たちの平均年齢も若いはずです。歩けなくなっても仕事がもらえるように、歩けるうちに経験を積んで、できるだけはやく上位レベルまであがっておきたい、という考えがあって、それなら層の薄そうなところを狙った方がいいんじゃないか、という考えでした。
「コンピュータの専門学校に進むことにした!」と宣言したところ、友人たちに「へえ、そういうものに興味があったんだ」と言われ、「いや、触ったこともないからよくわからない」と答えたら「それで大丈夫なの?」と心配されてしまいました。
もっと心配してくれたのは教師で、「この成績で理系に進むとか、何、考えてんだ」と言われました。文系教科(英語を除く)は学年内でもそこそこの成績をとってる(←子供の頃から本ばっかり読んでたから)生徒がなんで成績が芳しくない理系に進路をとるんだ、というわけです。この心配はもっともだよなあ、と思ったんですけど、考えはゆらぎませんでした。
自分の稼ぎで喰っていける道への糸口をみいだした、ということと、家族以外でも自分のことを大事にしてくれる人たちがいる、ということは、わたしをずいぶんと前向きな気持ちにしてくれていました。
◆ 20代のわたしはさまよっていた ◆
高校と専門学校を卒業したわたしは、無事、プログラマとして就職することができました。
「足がダメになる前に、仕事ができる人にならなければ」と働き続け、何度も何度も「この仕事は自分に向いてない」と思いましたけど、そのたびに「でも、他の仕事じゃ稼げないし」と思いなおしました。自分に「好きで選んだ仕事じゃないけど、自分が選んだ仕事なんだし」と言い聞かせながら、プログラマという職業にかじりついてましたね。
一度、なんかもういろいろとイヤになって、オペレータとかヘルプデスクの仕事をやってみたんですが、これならばまだプログラマの方が向いてるっぽい、と思って半年ぐらいでUターンしてしまいました(苦笑)。
Uターンした段階で派遣の道を選んだんですが、一番、大きな理由は「正社員になったらSEにされちゃう」ってことでした。プログラマに戻る気はあっても、マネージャ職になる気がまるでなかったので。それと、足がどういう状態になるかわからないので、期限を区切った方がどのような状況になっても対応しやすいだろう、という判断もありました。
足の方は、専門学校時代からじわじわと痛みがではじめ、20代の半ば頃に毎日どこかしらが痛くなるという状態になって、ようやく「歩けなくなる」というのは「足が動かなくなる」ではなく「足の痛みを我慢できなくなって歩けなくなる」という意味だったんだな、ということに気づきました(←遅すぎるから)。まあ、逆を言えば、我慢している限りは歩ける、ということです。
そんなこんなで意地で働き続けていたら、365日24時間痛い、という状態になってしまって、さすがに厳しいので在宅勤務の道を探そうか、と考え始めた頃、医者から「手術をしませんか?」という提案が出てきました。
それまで「手術」なんて言葉が出てきたことは一度もなかったので、かなり驚きました。「手術で治るものなんですか?」ときいたら「普通の人と同じになるのは無理ですけど、痛みは軽減できるはずです」という説明でした。手術後のリハビリに時間がかかる、という話も出たので「少しでも状況がよくなるんなら受けたいんですけど、もうちょっとお金を貯めてからでもいいですか?」と訊いたら、「あなたが痛みを我慢できるんなら先延ばしにしてもいいですよ」という答えでした。
そんなわけで手術を保留にしたまま働き続けたわけですが、ある日、突然、我慢が限界に達しました。からだのしびれと呼吸困難で動けなくなって、駅のベンチでフリーズしてたら、救急車出動の騒ぎになってしまったんですね。
駆けつけてくださった救急隊員さんが、「たまにね、ストレスためこんで、それでも外側を攻撃できない人が、内側を攻撃しちゃって、こんな症状を起こすんですよ。他人を傷つけるのは絶対にダメですけど、自分を傷つけるのもダメですよ。自分を大事にしないと」というお話をしてくださいました。自分の限界をまったく把握できてなくて、駅員さんや救急の方々にご迷惑をおかけしてしまったことを猛省しました。
「これが今のわたしの限界だ。もしお金が足りなくなったら、未来のわたしにがんばってもらおう」と決意して、すぐに病院に行って、その時点で契約していた仕事の最終日以降で、もっともはやく手術できるスケジュールを組んでもらいました。
そんなわけで、30才になってすぐに1回目の手術を受けることになりました。最初に言われた20才を10年も超えたのは、最初に診てくださった医者がヘボかったのか、温存作戦が予想以上に効いたのか、さだかではありません。
◆ 30代のわたしは新たな選択をした ◆
1回目の手術を受けて、ようやくリハビリにはいれるようになった時点で、足の筋肉はほとんど落ちてました。骨と皮ばかりとはこのことか、って感じで、これでホントに歩ける状態まで戻せるのか、と不安になりましたけど、1年くらいかけて杖なしでも歩けるところまで回復しました。
病院で知り合った方々と話をしていると、「これから先、仕事がどうなるか心配だ」という話題がよくでてきます。先に退院した方たちの話をきくと、みなさん、再就職に苦労していらっしゃいました。退院はしたもののいろいろと無理がきかない状態なので条件面でおりあわないとか、杖をついて歩いてるのをみた途端に断られたとか、なかなかシビアな話をきかされて、自分も仕事みつけられるのかなあ、とちょっと心配していたんですが、杖なしでは1歩も歩けない状況ながらもなんとか働けるんじゃないか、というところまで回復したところで次の派遣先を探したところ、意外とあっさりと次の仕事は決まりました。
この仕事を選んだかいがあった、高校生のわたしは間違ってなかった、と思いましたね(笑)。実際、通勤には難儀しましたけど、それ以外の仕事上の不都合はありませんでしたし。
以前よりも歩くのが下手にはなったけれど痛みはかなり軽減され、そのストレスから解放されたせいなのか、20代の頃の「この仕事に向いてない」と言いながらも積み上げてきた経験値がようやく使えるレベルに達しただけなのか、仕事が「わかる」ようになってきました。20代の頃につながらなくてもやもやしてた情報が、スムーズに統合できるようになったというか、頭のまわし方を覚えたというか。
たまたまおもしろい仕事にめぐりあえた、というのもあって、コーディングが急速に楽しくなってきて、C++を覚えたらそれに拍車がかかりました。
そして、「わたしはプログラマという仕事がとても好きなのかもしれない」と思えるようになっていた35才の時、仕事仲間に「きみをみてると、この人ってプログラマが天職だよなあ、って思うよ」と言われて、自分ってそういう風にみえるのか、とびっくりしました。
高校生の時に単なる消去法で決めた仕事を、「喰っていかなきゃいけないから」という理由でやめられなくて、「仕事ができる人になるんだ」と働き続けた結果、よくわかってないのに選んだ仕事は「天職」になりました。
その時に思ったわけです。「17才の自分には好きなことを仕事にできる意志も力もなかったけど、今の自分が意志をもって行動すれば、このまま好きな仕事を続けられる力を手にいれられるんじゃないか」と。
今度こそ、「好き」で仕事を選ぶことを、自分に許してやってもいいかもしれない。「自分の稼ぎで喰っていく」という目標を「自分の好きな仕事の稼ぎで喰っていく」に変えてみよう。
そんな決意は、今でもわたしを支えてくれています。
ところで、40才になった時に計算してみたところ、30代の10年間で、4回手術して、合計で半年入院して、リハビリ期間も含めて1年半も仕事を休んでいました。
そんな生活をしていたので、40才になるというのに貯金はほとんどないし、年金も未納部分が多いし(←だってお金がなかったんだもん)、自分の老後は大丈夫かいな、と思ったけれど、意外と悲壮感はなかったです。「借金せずにすんでるし、好きな仕事を続けられてるなんて、自分はラッキーだな」くらいに思っていました。
◆ そして、40代のわたしはいまだにプログラマで生きている ◆
そんなこんなで46才になっちゃった現在、わたしはまだプログラマとして働いています。
母親はわたしが30才の時に亡くなったんですが、ずっと「足の悪い娘を働かせなきゃいけないなんて」と嘆いていました。父親はそういったことを一度も言わなかったけれど、わたしが40間近になった頃、ぽつんと「おまえもそろそろいい年だし、足のこともあるし、あんまり仕事をがんばらなくてもいいんじゃないかな」と言いました。
もしかして本心ではわたしを働かせたくないと思っていたのかなあ、と感じましたが、「でも、仕事が好きだからがんばりたい」と答えたら、「そうか。仕事が好きなのか。なら良かった」と言ってくれました。多分、20代の頃のわたしだったらそんなこと言えませんでした。「好きだから」とウソでも強がりでもなく言える自分になれててよかったなあ、と心底から思いました。
足はたまに痛みますけど、状態は安定しているようです。「10センチの高さを落ちただけでも病院送りになる可能性があるから気を付けて」と注意されるくらい耐衝撃性能が低い足なので、油断はできませんけど。
「スポーツはしない。旅行やレジャーも足に負担がかかるからあんまりやらない。よっぱらって暴れたりこけたりするのがこわいからお酒は飲まない。太ると足に負担がかかるからあまり食べない。少しでも体調を崩すと歩けなくなるので、できるだけ規則正しい生活をしている」という話をしたら、「そんな生活してたらストレスで死ぬ!」とか言われたんですけど、ストレスで死ぬ気配は今のところありません(苦笑)。
そんなわけでわたしは「健常者」と「障がい者」のグレーゾーンを、杖を頼りによろよろと歩き続けています。不安や不満がないと言ったらウソになるけど、「好きな仕事で生活できている自分って結構、幸せな人なんじゃないの?」と思います。
生まれた時の状況で、どうしようもなく決定してしまうものは確かにあります。けれど、それだけでその子の人生のすべてが決まってしまうなんてことはなくて、親をはじめとした周囲の人々が子供にどのようなメッセージを送るか、の方がよっぽどその子の幸不幸に影響を与えるんじゃないんでしょうか。
わたしなんて父親から「かわいい」「好きだ」「大事だ」と言われ続けて育ちましたからね(←いまだに言われてるし)。そのおかげでこんな妙な感じに楽観的なキャラになりました(爆)。
ところで最初の話題に戻りますと、わたしがプログラマという職業を選んだ理由は「足が悪かったから」です。以上。