「自動車」の未来
このコラムでは、ITと人々の関わり方がこれから未来に向かってどう変わっていくかを、日常的なトピックを交えながら(希望も込めて)予測してみようと思います。最初のトピックとしては、日々の生活に関わる道具であると同時に、日本の製造業を支える重要な工業製品でもある「車」を取り上げてみたいと思います。
最近の石油価格の高騰で、「車」を日常的に使わなければならない人々の負担増は大変なものだと思います。自動車メーカもハイブリッドカーや電気自動車など環境負荷の少ない新しい「車」の開発に取り組んでいますが、技術開発が進んでそういった新しい「車」が世の中に普及することで石油価格の問題が解決の方向に向かうのかどうか、今はまだ分かりません。果たしてこれからの「車」はどうなっていくのでしょうか?
わたしは、「車」のエネルギー効率が向上して、新興国の人々の暮らしがより豊かになっても、その結果として、今の何倍もの人々が自由に「車」に乗るような未来になると考えることにはそもそも無理があるのではないか、と思っています。つまり、全世界の人々が今の米国人と同じように「車」に乗り続けられるような未来は有り得ないと思うのです。だからといって、「車」が世の中から無くなってしまうとも思っていません。むしろ、まったく違った形に進化していくのではないか、と期待しています。
「車」の未来を考える上で重要なのは、人々が何のために「車」に乗るか、ということです。もちろん、人や物の「移動」のためだと思いますが、では人や物を移動させるのは何のためでしょうか。それは、一言では言えないかもしれませんが、人や物や場所に関わるいくつかのパターンでほぼカバーできるのではないかと思います。例えば、人が人に会うため、人に物を届けるため、人が物をある場所で使いたいため、人がある場所でやりたいことがあるため、あるいは、プライベートな空間を占有/共有したいため、などなど。こういったパターンのうち、全てではありませんがある程度は、移動をしなくても、あるいは移動をより少なくしても、同じ目的を達成できる可能性があります。例えば、会って話をする代わりにテレビ会議(ビデオチャット)をする、ある物を遠くまで運ぶ代わりに目的地の近くの同じ物を届ける、ある物だけを運ぶ代わりに他の物とまとめて一緒に運ぶようにする、ある場所でやりたいことをその人の近くでできるようにする(病院に行く代わりに、遠隔医療が受けられるようにするとか)、あるいは、どこでもプライベートな空間を作れるようにする、などなど。
「車」は、これまで、リアルな世界の中での移動を容易にする道具として、様々な人や物や場所を密接につなぐことにより、人々の目的の達成を支援してきました。しかし、人のやりたいことを場所によらずに実現したり、物の移動を最適化するのは、情報通信技術が今まさに取り組んでいる課題でもあります。それも踏まえて、これからは、移動手段としての「車」よりも情報通信技術の方が、様々な人や物や場所をつなぐ上で、より重要な役割を果たすようになるのではないでしょうか。別の言い方をすれば、リアルな世界の中の移動技術だけでなく情報通信技術も合わせて、様々な人や物や場所をつなぐワンストップのサービスを実現することが、未来の「車」の役割になるのではないでしょうか?
そういった観点で「車」の未来を考えてみると、今ある2つの技術の先に何かそれらしきものが見えてくるように感じます。1つは、ポータブルナビゲーションシステム。もう1つは、ホームシアターです。
車載のナビゲーションシステムは、もちろん、目的の「場所」に辿り着くための移動経路を(途中のガソリンスタンドやレストランやトイレの情報提供等も含めて)支援するシステムです。ポータブルナビゲーションシステムも、基本的には同じものですが、車に固定的に設置せずに人が持ち運べるようにしたものだと言えるでしょう。ワンセグの地上波デジタルテレビを見ることが出来たり、フラッシュメモリカード等で地図データの追加更新ができたりします。そんなことは携帯電話でもできるし、通信/通話機能もない割に大きくて持ち運びに不便だと思う人もいると思いますが、まずはこれを車載のナビゲーションシステムと携帯電話の間に位置づけて、「ナビゲーション」機能を持ち運べる(いつでもどこでも使える)ようにしたもの、と考えてみることにします。
「ナビゲーション」機能を実現する上で一番重要なのは「地図」データです。そして地図上の「場所」には、道路・鉄道・施設・店舗など様々な別の関連情報が紐付けられています。「場所」はそこに紐付けられた「関連情報」を代表するものだと考えることもできます。わたしは、既に「場所」がそういった「関連情報」を表すための記号(シンボル)になりつつあるのではないかと思っています。青山、渋谷、原宿、新宿、銀座、有楽町、日比谷……といった場所に行ってみれば、そこに紐付けられた「関連情報」に実際にアクセスすることができますが、そこに行かなくてもその「関連情報」にアクセスできるようになったらどうでしょうか。あるいは、神宮外苑で友達とテニスを、その友達と一緒に帰り道に渋谷でちょっと買い物を、といったことがそこに行かなくてもできるようになったらどうでしょうか?
究極のナビゲーションは「瞬間移動」だと思いますが、物理的には不可能でも、情報通信技術を使えば移動の目的をほぼ満たすことができる場合もあります。リアルな場所に設置された無数のカメラとマイク、あるいはリアルな街をそっくりそのままコピーした(または架空の街の)バーチャルな3Dデータを使って、緯度と経度(と高さ)を入力するだけで自分の周りにその場所の音と映像を作り出すことは現在の技術でもある程度可能です。こういったことを実現する際に必要になるのが、もう一つの「ホームシアター」の技術の先にある世界です。現在のホームシアターは、大画面テレビやプロジェクターとサラウンドスピーカを組み合わせて、放送やDVDなどのメディアで提供されるコンテンツを視聴するためのものですが、全周囲スクリーンで臨場感を増したり、カメラやマイクを加えて双方向のコミュニケーションを可能にすることも技術的には可能です。必要な設置スペースを「車」より少し大きい程度にすることも無理ではありません。場所が無ければ、ヘッドマウントディスプレイとサラウンドヘッドホンを装着するだけでもいいでしょうし、体を思い切り動かせるような大きめのスペースが必要な場合のために、(カラオケルームやレンタルスタジオのような形で)レンタルシアターが様々な場所にあって気軽に使えるようになることも十分に考えられると思います。
例えば、ポータブルナビで友達を選んで瞬間移動し(ビデオチャットで)時間があったら一緒にテニスをしようと誘います。友達からOKの返事をもらったら、それぞれ家の(あるいは家の近所にあるスポーツ用のレンタル)シアターに入って、神宮外苑のテニスコートを入力して一緒に瞬間移動し(リアルなテニスにそっくりのネットゲームの)テニスをして遊びます。テニスに飽きたら、そのまま一緒にバーチャルな「車」で渋谷に移動します。お互いのシアターには、青山通りに沿ってリアルな街の音と映像が時速50kmで(あるいは誰かのリアルな「車」の移動に合わせて)流れます。渋谷に近付いたら、目に付いたお店の近くで友達に声を掛けて一緒に「車」を降り、歩いて(歩行速度でバーチャルに移動しながら)お店に入ります。リアルなお店の中のリアルな商品の映像がシアターに表示され、ジェスチャーで商品をピックアップして詳細を確認したり、友達の意見を聞いたりしながら、気に入った商品があればそのまま購入でき、翌日に指定したリアルな場所まで配送されてきます(あるいは、レンタルシアターを出る際に商品を受け取ったり、近所のピックアップステーションで数時間後に受け取ることができます)。こういったことは、技術的には現実性のある話です。
もう少し空想を膨らませてSF的な話をするなら、都市部では人間と同じ身体能力を持つロボットや自律移動能力を持つ無人車がリアルな街に配置されていて、必要な時に必要な場所のロボットに(瞬間移動で)自分を接続してその時のその場所を体験したり、たまたま同じルートでリアルな移動が必要な他の多くの名前も知らない人々と一緒に、周囲にいる無人車をシェアしながら必要な人や物が自動的に運搬されたり、といったことも考えられます。リアルな人や物のやり取りや乗換えのために、あるいはリアルからバーチャルへの接続のために、人や物やロボットや無人車が集まる「ステーション」がコンビニやガソリンスタンドよりも高密度で至る場所に置かれて、ステーションより先のリアルな移動は人々からは見えなくなる(見る必要が無くなる)ようになるのかもしれません。
そういった、リアルな場所を覆い尽くすセンサーやアクチュエータのネットワーク、リアルな場所の空間的情報やそれに紐付けられる様々な関連情報のコンテンツデータベース、それらをつないで最適化するナビゲーション機能、それを人々が気軽に体験できるようなシアター機能(バーチャルリアリティー機能)、場合によってはロボットや無人車などのリアルな移動を支援する新しい技術、そういったものの全体によって成立つシステムが未来の「車」になっていくのではないでしょうか?
「車」からエンジン音が消えるのは時間の問題かもしれません。そして「車」からタイヤが消えることも、それほど遠い先の話ではないかもしれません。もちろん、現在の「車」自体に価値がある、と思う人もたくさんいます。ステータスシンボルとして、あるいは、コレクターとして、現在の「車」がクラッシックカーと呼ばれる頃になっても、それを愛する人はいつまでもどこかにいて欲しいと思います。そして、誰もが移動する必要のあった昔を懐かしく思い出すような未来がいずれ訪れることを願っています。