ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

飛田ショウマの憂鬱 (19)

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 ドラマやマンガでは、登場人物が会社を辞めるとき、退職願や退職届、または辞表を上司に提出することになっている。黙って手渡す場合もあれば、痛快なセリフと共に叩きつけることもある。飛田はどの行動も取らなかった。水曜日の午後、近藤課長、に9 月末で会社を辞めることにしたので異動には応じられない、と告げただけだった。人生における一大イベントにしては少しも劇的ではないな、と思った飛田だったが、近藤課長の反応はそれに輪を掛けて味も素っ気もないものだった。

 「転職ですか」近藤課長は小さくため息をついた。「一応ききますが、考え直す気はないんでしょうね」

 「ありません」

 「長谷部くんからも、同じ時期での退職の意向を伝えられています。ひょっとして何か関係があるんですか? それとも偶然ですか?」

 「偶然ではないですが、詳しいことはお話できません」

 「そうですか」近藤課長は、それ以上慰留の言葉を口にせず、事務的な態度で応じた。「では、9 月末ということで人事に伝えます。近いうちに連絡があるでしょう。引き継ぎについては、また改めて相談ということで。ドキュメントなどをまとめておいてもらえると助かりますね。大きいところだと八十田建設さんですか。後は青山フラワーアレンジメントあたりですね」

 その2 社については、10 月からも引き続き担当することになるはずだったが、飛田は黙って頷いておいた。

 「飛田さんの人生なので、私がとやかく言うことではありませんが」近藤課長はメガネを外してクロスで拭きながら言った。「一つだけ忠告させてもらってもいいですか?」

 「もちろんです」

 「友人は大切にすべきです。困ったときに損得勘定抜きで力を貸し借りできる間柄ですからね。会社帰りや休日に酒を飲んだり、時には一緒に旅行をしたり、冠婚葬祭に出たりできる相手がいるのは人生を豊かにします。でも、たとえ親友と言える間柄だとしても、2 つだけやるべきではないことがあります。何だかわかりますか?」

 「いえ」飛田は首を横に振った。「何でしょう」

 「借金の連帯保証人になることと、一緒に起業することです」

 飛田は眉をひそめて近藤課長の顔を見た。

 「親しい友人同士で会社を立ち上げる」近藤課長は、どこか悲しげな声で続けた。「最初は明るい未来しか想像できないでしょう。お互いの意見を尊重しあい、スタートアップに付き物の困難を乗り切っていくうちに、これまでなかったような連帯感も生まれてくるかもしれません。でも、そんなハネムーン期間は長くは続かないものです。人が増え、仕事量が増えてくると、比例して意見の衝突も増えてきます。特に互いの立ち位置が異なる場合ですね」

 この人はどこまで知っているのか、と飛田は疑問に思ったが、何も言わずに傾聴し続けた。

 「仕事というのは、特に、会社の経営というのは、友情の延長線でやれるものじゃないんです。時には、親友に意に添わない仕事を命じなければならなくなるかもしれません。純粋な雇用関係であれば、仕事だから、と割り切れるようなことが、親友同士、という要素がからむと、ワインの底に残った澱のようなわだかまりになる」

 「......」

 「それをうまく解消したり発散できればいいのですが、どちらかが耐えてしまうと、いつか困った事態の引き金になる。大抵の場合、片方が会社を去る、という結果になってしまうんです」

 「......そういう経験がおありなんですか?」

 「私は社会人一年目からずっと、この会社にいるので、起業の経験はありませんよ」近藤課長は微笑んだ。「ただ、そのような例を2 回ほど見てきたので、差し出がましいですが忠告をさせてもらったまでです」

 「ありがとうございます。3 例めにならないように気を付けます」

 俺が感じ続けている違和感は、これなんだろうか。そう思いながらミーティングルームを出た飛田は、頭を切り換えようとリフレッシュルームへと足を向けた。件数は減っているものの、いくつかの案件で機能追加や修正が山積している。9 月末までは、シグマファクトリーの社員である以上、仕事の手を抜く気はなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 長谷部の起業話を聞いた後、飛田はずっとその話を真剣に考え続けた。長谷部から送られてきた新会社の資本金や役員構成などの資料を検討し、ベンチャー企業の成功例と失敗例をそれぞれ30 以上読み、経営が悪化した場合の収入のシミュレーションまで作ってみた。疑問点は長谷部にメールで質問すると、1 時間以内にはレスポンスがあった。

 確かに長谷部は、起業について長い時間をかけて準備をしてきたらしく、少なくとも素人の目ですぐに見つかるような計画の矛盾や齟齬などは見当たらなかった。飛田が最も気になっているのは、もちろん自分の仕事がどんなものになるのかだったが、シグマファクトリーの下請けとして受注見込みの開発案件が10 以上リストアップされ、具体的なサブシステム名や受注見込み金額、納期まで明記されていた。

 無理矢理にでも難点を探すとしたら、シグマファクトリーに依存しすぎていて、不当な人月単価を甘受しなければならないのでは、という点だったが、その懸念は長谷部によって明確に否定された。シグマファクトリーの資本が入った子会社が赤字経営になれば、出資を承認した役員の責任問題にもなるので、一定の利益が確保できるような単価設定になるはずだ、とのことだった。

 それでも飛田は、どこかで何かを見落としているのではないか、という思いを捨てきれなかったが、明確な問題点として具体化することができないまま、火曜日を迎えてしまった。システム屋として、喉に骨が引っかかったような状態で結論を出すのは不愉快だったが、「何となく」は長谷部の真剣なオファーを断る理由にはならないし、信義にもとる。飛田は朝一番で長谷部に承諾のメールを送ったのだった。

 その日、長谷部は直行直帰で顔を合わせることができなかったが、昼過ぎに感謝のメールが届き、こちらはすでに退職を近藤課長に伝えた、とあった。飛田が話をする時期は任せるが、できるだけ早い方がいい、とも書かれていた。

 こうして、飛田は人生初の転職に向けて動き出すこととなった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 近藤課長に話をした後は、諸々の手続きは、まるで飛田が言い出すのを待っていたかのように順調に進んだ。人事の担当者は、退職日付について確認した後は、規程の書類一式を渡し、署名捺印してもらう箇所を説明しただけだった。書類の内容は、社会保険、企業年金、各種手当の手続きに関するものがほとんどで、残りは機密保持関連の説明となっていた。ソースや仕様書の持ち出しはもちろん厳禁だし、顧客の内部情報を転職先で利用することもできない。

 飛田と長谷部の退職は、9 月1 日に正式発表となった。カナも同じく9 月末日で会社を去るため、全国に散らばっている同期からは一斉に「どういうこと?」という内容のメールが3 人に殺到することになった。もちろんシステム開発課内でも驚愕が席巻した。

 「驚きましたよ」野見山は飛田に恨みがましい口調で言った。「言ってくれればいいのに」

 2 人はリフレッシュルームにいた。飛田が野見山に呼び出されたのだ。

 「すまん」

 「実は3 人揃って退職するってウワサは聞いてたんですけど、何かの間違いだとばかり思ってました。長谷部さんと同時期なのは、何かあるんですか?」

 「ああ。長谷部が起業する」飛田は簡単に説明した。「俺も参加することにした」

 「やっぱりそういうことですか」

 「知ってたのか?」

 「いえ」野見山はかぶりを振った。「そんなことじゃないかな、と思ってただけです。長谷部さんが起業セミナーに参加してた、って話を聞いたことがあったんで。やっぱりIT ベンダーですか?」

 「そういうことだ」

 「まあ、飛田さんが参加するなら、それしかないでしょうけどね」野見山はリフレッシュルームの中を見回した。「ぼくも10 月1 日から梅田だし、エルロンド会議もこれで終わりですね」

 飛田は頷いた。この場所で、いくつかの重要な決定を行った記憶がノスタルジックに脳裏を去来する。

 「新しい会社って、何て名前ですか?」

 「まだ決まってない。いくつか候補は出てるんだが」

 「場所は?」

 「目黒になりそうだ」

 「石黒も退職するらしいと聞きましたが、やっぱり?」

 「ああ。長谷部が誘ってた。俺たちの一カ月後に離職となるだろうな」

 「やれやれ」野見山は諦めたように苦笑した。「まんまと長谷部さんに踊らされた感じですね。ぼくたちも、会社も。で、社長は誰がやるんですか? 飛田さんですか」

 「俺がやれるわけないだろう。長谷部だよ」

 「でしょうね」野見山は笑い声を上げた。「まあ、あの人は、そういうことに向いてるのかもしれませんね。中間管理職で苦労するぐらいなら、トップになって2 倍苦労した方がマシってタイプですよ」

 「お前は誘われなかったのか?」ふと思いついて飛田は訊いてみた。

 「誘われてないですね」野見山は肩をすくめた。「金融証券部への異動は、都落ちってわけじゃなくて、チャンスだと捉えることにしてますから。長谷部さんにもそう言ったんです」

 「そうか」

 「まあ、仮に誘われても行かなかったと思いますけどね」

 「ほう」飛田は興味を惹かれて訊いた。「なぜだ?」

 「前に言ったかもしれませんが、長谷部さんって基本的にいい人なんですよ」

 「それのどこが悪い?」

 「悪くはないです。でも、人生を預ける気にはなれません」

 「俺たちを切り捨てたからか? 同じように経営が悪化したら切り捨てられるかもしれないと言いたいのか」

 「切り捨てるぐらいの気概があるなら、逆に安心できるんですけどね。そうじゃなくて、長谷部さんは、会社も従業員も全て守ろうとして、結果的に全員を少しずつ不幸にしそうじゃないですか」

 「首藤課長のときは......」

 「切り捨てた? いえいえ、あれは自分を守っただけですよ。それも中途半端に。やるなら、もっとすごいスキャンダルをでっち上げてでも、完全に会社から追い出すべきでしたよ。飛田さんだったら、冷酷非情にドブに落として、上からセメントを流し込むぐらいやったんじゃないですか?」

 「......」

 「ま、ぼくの個人的な意見ですけどね」野見山は笑った。「飛田さんは、そう思いませんか?」

 「どうかな。少なくとも事業計画はしっかり立てているようだが」

 そう答えた飛田だったが、またしても正体がわからない不安が再燃し、かゆい場所にギリギリで手が届かないような苛立ちを感じた。長谷部に非情に徹しきれないところがあるのは、飛田自身も承知していることだから、そのことが要因ではない。こればかりは、必要なテストデータを作ってデバッグ環境で試してみるというわけにはいかないのがもどかしい。

 飛田の葛藤を察知したのか、野見山は申し訳なさそうな表情になった。

 「すいません。別に飛田さんの決断にケチをつけるつもりじゃなかったんです」

 「いや、俺も完全に不安がないかと言われるとウソになるからな」

 「とにかく、余計なことに煩わされずに、技術的なことに専念できる環境で仕事ができるといいですね。つまらん雑用で飛田さんの才能を浪費しないように」

 「ああ、お前もな」

 「ま、今月末までは退職を撤回できないこともないですから」野見山はニヤニヤしながら言った。「いつでも戻って来てください」

 「一度カードを切ったら、もう戻すことはできんよ」飛田は、近藤課長の言葉を部分的に借りて答えた。「でも、ありがとう」

 これが最後のエルロンド会議となった。野見山は、金融証券事業部での業務を速やかに開始するために、週のうち半分は梅田支店に出向いて、業務知識や、既存システムの構成などを勉強しているので、システム開発課に座っていること自体が少なくなっていたのだ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 9 月も半ばを過ぎた。長谷部は有休消化と称して会社を休むことが多くなっていたが、飛田は残務を片付けたり、引き継ぐ協力会社との打ち合わせに出たりと、名残を惜しむ余裕もない日々が続いていた。これまで自分が書いたコードを持って行くわけにはいかないので、使えそうなロジックなどは暗記していかなければならない。たとえば八十田建設案件は、新会社で開発を継続する予定だったから、プロジェクトの中に必要なソースを紛れ込ませておく、という手もあったが、飛田はそれをよしとしなかった。自分で組み上げたロジックなら再現する自信はあったからだ。

 ソリューション事業部、システム開発課からは、それぞれ送別会が企画されたが、飛田は長谷部と相談して、どちらも固辞することにした。主役となれば、さすがに乾杯後5 分で退出するわけにもいかないし、かといって2 時間もの間、上座でぼーっとしているのも耐えられそうにないからだ。同期による送別会の話も持ち上がったが、これは長谷部が代案を出した。11 月1 日の新会社立ち上げパーティに、同期一同を招待しようというのだ。飛田も賛成した。

 こういった相談は、主にメールでやり取りされていた。長谷部は新会社設立準備で朝から晩まで飛び回っているが、新オフィスの準備や、各種手続き、銀行関係者との打ち合わせ内容などを細かく知らせてきていた。カナも長谷部と行動を共にしていたから、送信者がカナになることもある。飛田は、土日に少し手伝ったことを除けば、ほとんど設立準備に携わることがなかったが、二人からの連絡が密なおかげで、進捗状況を手に取るように知ることができていた。

 その状態が変化したのは、退職までの残日数が7 日になった日だった。飛田が朝から送った8 通のメールのうち、返信があったのは最初の1 通だけだったのだ。長谷部の予定を訊いたメールに対して、午前中はシグマファクトリーの経理課と資本金関連の打ち合わせ、午後から銀行と施工業者を回る、と返信があったのが最後だ。18 時を過ぎても何の音沙汰がなく、カナにメールをしてみても、やはり応答がなかった。直接、電話をしてみたが、留守番電話サービスが応答するだけだった。

 もしかして事故にでもあったか、と不安に駆られ始めた頃、ようやく長谷部からのメールが届いた。だが、それは午前中から飛田が送信していたメールに対する返信ではなく、明日の午前中に話がしたい、という内容で、場所と時間が指定されていた。具体的な内容は書かれていない。飛田はすぐに電話をかけたが、長谷部が応答することはなかった。

 翌日は土曜日で、朝から小雨がパラつく肌寒い日だった。朝食を済ませた飛田は、最寄り駅の駅ビルにあるカフェレストランに足を踏み入れた。長谷部とカナが同棲しているマンションは7 つ先の駅にある。飛田は「そっちまで行こうか?」と申し出たが、長谷部は「こちらが呼び出すんだから」と譲らなかった。この時点で、飛田は長谷部の話というのが、いい話ではないことを察した。

 長谷部は奧の席に座っていた。テーブルの上にはコーヒーカップが置かれているが、中身は空になっている。どうやら、かなり前から待っていたようだ。

 「おはよう。待たせてすまん」

 飛田は腰を下ろしながら言った。長谷部は強張った笑みを浮かべて、小さく頷いただけだった。飛田は、メニューを手に近付いてきたウェイトレスに紅茶を注文すると、ジャケットを脱いで、熱いおしぼりで両手を丁寧に拭った。

 「今日、カナは?」

 「ああ」長谷部は顔を上げた。「あいつは実家に行ってる。引っ越しの準備でな」

 「本当に式は上げないつもりか」

 「当面はな。会社が軌道に乗ったら、新婚旅行と一緒に考えるつもりだ」

 紅茶が運ばれてきた。飛田は香りを楽しんでから、ティーカップに口をつける。身体の中心部に暖かみが広がり、良くない話を聞く心構えができた。

 「さて」飛田は長谷部の顔を見た。「話って何だ」

 いきなり、長谷部がテーブルに額がつくまで頭を下げた。

 「すまない」くぐもった声が聞こえた。「お前を新しい会社に迎えることができなくなってしまった」

 

 こんなことになるんじゃないか、と無意識の中で予想していたのか、飛田はそれほど衝撃を感じなかった。

 「理由を聞かせてくれ」

 飛田の声が平静だったことに安堵したのか、長谷部は頭を上げた。その顔に浮かんでいるのは、自分自身への嫌悪感のようだ。

 「すまない。本当に何といってわびればいいのか......」

 「いいから」飛田は遮った。「とにかく理由を聞かせろ。その後で、怒るか笑うか泣くか決める。それから謝るのはやめろ」

 昨日の午前中、長谷部はシグマファクトリーの経理課に打ち合わせに行った。そこで告げられたのは、出資の件に社内で異論が出ている、という話だった。長谷部にとっては青天の霹靂であり、しばらくの間、開いたままの口を閉じることも忘れていたぐらいだ。

 打ち合わせには、経理課の課長と共に、飛田たちの2 年先輩にあたる中井が同席していた。長谷部の退職と起業にあたって何かとサポートしてくれた人である。茫然自失から醒めた長谷部は、中井に訴えた。こんな直前になってはしごを外されても困るし、これまでの数度にわたる打ち合わせの中で異論が出たなどという話は聞いたこともない。具体的に誰が反対しているのか。

 中井は一連の部署名と職位を口にした。福岡支店第2 営業部ファシリティセンター 課長補佐。

 「つまり」飛田は人物名を補足した。「首藤か?」

 「そうだ」長谷部は頷いた。「あいつだ」

 正確には、首藤が直接反対しているわけではない。反対意見は、部門会議の席で、営業統括事業部の部長と、工業アプリケーションシステム開発部プラント課の課長から出たのだ。ただ、どちらも首藤課長の人脈につながる人物だ。彼らが反対する根拠として上げたのは、新会社の技術部門のトップが飛田であるという点だった。

 「俺?」

 「ああ。盲点だった」

 会議の出席者からは、飛田のスキルの高さが指摘されたが、反対派の主張は変わらなかった。あいつは単なる技術バカだ。プログラミングスキルは高いがコミュニケーションスキルは低い。上の指示を無視して自分で何でも決めてしまうし、スキルが低い人間を蔑む傾向もある。シグマファクトリーのような大きな会社であれば、どこかでチェックが入るから大事には至らないが、小さなベンチャー企業では命取りになるのではないだろうか。

 では、技術部門のトップを別の人間にすればいいのでは、との意見が出たが、反対派はそれにも反発した。飛田がそんな人間の指示に従うはずがないし、長谷部も飛田を支持するだろう。とにかく自分勝手なやつだからな......

 会議では首藤の名前は出なかったが、その意が反映されていることは疑う余地がなかった。反対派は、飛田が新会社に参加するのであれば、出資の話は受け入れられない、と強固なまで主張したのだ。客観的に見れば難癖以外のなにものでもないが、議事録も残る部門会議での発言を無視することはできず、議論は混乱を極めた。

 長谷部の話を聞きながら、飛田は自分が感じていた違和感の正体をやっと掴んだと思った。見落としていたのは、首藤の存在だったのだ。自他共に認める強烈な出世主義者の首藤が、福岡支店に異動になったぐらいで、野望の炎を消してしまうはずがないことを予想すべきだった。首藤は捲土重来を期して秘かに暗躍していたに決まっている。もちろん自分を嵌めた飛田に対する憎悪は、強まりこそすれ弱まるはずもない。長谷部に対してもそうだ。MITSUHIDE プランでは長谷部の名前が表に出ることはなかったが、その気になって調べれば関与は明らかだし、たとえ不明のままでも、自分の異動の際、全く擁護しなかったという事実だけでも敵認定するには十分だ。

 部門会議では意見の統一を得られず、結論は役員会議に委ねられた。そこで出た結論は、首藤を歓喜させたことだろう。新会社に飛田が参加するならば出資は見送り、業務委託の件も白紙、と決定したのだ。

 「資本金は1 円でもいいんだろう」飛田は長谷部に訊いた。「500万円なら当座の運転資金としては十分じゃないか。それに、1,000万円未満だと消費税と法人税が有利になるんじゃなかったか?」

 長谷部は力なく首を横に振った。

 「シグマファクトリーの取引規程が、資本金の最低額を1,000万円にしているから、仕事を回してもらうためには、それをクリアする必要があるんだ。銀行にしても、自己資金が低いと融資額も低く抑えられてしまう」

 「新創業融資制度は利用するんだろう」

 「親会社がシグマファクトリーということで、事業計画を出しているからな。手を引かれたら再審査になる。そもそも業務を委託してもらえなかったら、まず営業から始めなければならん。いずれはシグマファクトリーに頼らず、営業的に自立するつもりだったが、ゼロスタートでは火の車になるのが目に見えている」

 「つまり、こういうことか」飛田は言った。「予定通り、新会社をスタートさせるためには、俺の存在が邪魔だと」

 「そうなる」

 「全く、怒ればいいのか、笑えばいいのかわからんな。会社にいるのも、あと何日ってときに」

 「オレだって素直に引き下がったわけじゃない。再度、会社と交渉してみたがダメだった。会社がお前に悪意を持っているというより、これ以上、ゴタゴタするのを嫌ったんだろうが。首藤の野郎が、こんな汚い手を使ってくるとは、想像もしてなかった。会社を追い出すまでのことはないと思って、手加減してやったのに」

 「こっちも汚い手で嵌めたんだから、お互い様だ」飛田は紅茶を飲み干した。「わかった。俺のことは気にせず、会社設立を進めてくれ」

 「いいのか?」

 「俺は独身だし、結婚の予定もない。扶養家族もない。手に職もある。次の仕事を見つけるのは難しくない。お前は家族の問題もあるし結婚間近だ。今さらシグマファクトリーに残ることはできないだろうしな」

 長谷部はもう一度深々と頭を下げた。

 「いつか」長谷部は目に涙を浮かべながら言った。「いつか、シグマファクトリーと完全に手が切れたら、お前を技術部部長に迎える。約束する。それまで......」

 「いや」飛田は長谷部を制した。「それはないと思ってくれ」

 「え?」

 「俺の腕を買ってくれるのは嬉しいが、俺は改めて働く場所を探す。次の就職先がどこになるのかわからないが、いつかお前の会社で、なんてことを考えていては、新しい職場に対して不誠実だからな。それに......」

 「それに?」

 「少しキツイことを言ってもいいか」

 「言ってくれ。お前にはその権利がある」

 「お前に振り回されるのは、これを最後にしたい」飛田はきっぱり告げた。「お前には人を引っ張っていく力があると思うし、人も付いてくるとも思う。でも、技術者を駒のように考えているところがあるんじゃないか? 仕事を回すために必要なパーツに過ぎないと思ってないか? 確かに適切な人員管理はトップの重要な責務だと思う。だけど、俺は技術者としてプライドを持って仕事をしたいし、そういうチームを作りたい」

 「......」

 「俺がお前の話に乗ったのは、一つには、自分が一から開発部門を作るのであれば、プログラマがプライドを持って働ける環境を構築することができるかもしれない、と思ったからだ。ゼロの状態からだったら、それができたかもしれない。だけど、何年か時間が経過した後では無理だろうな。安定してしまった流れには、それを維持しようとする力が働くものだ。職場環境や人間関係を再構築するには、かなりのエネルギーが必要だ。知ってると思うが、俺はそういうことが苦手なんだよ。面倒になってしまう。それぐらいなら、一プログラマでいた方がいいぐらいだ」

 「本当にすまん」長谷部は涙を拭こうともせずに言った。「お前と一緒に仕事をしたかった」

 「謝るなって言っただろ」飛田はジャケットを掴んだ。「別にお前を恨んでるわけじゃない。じゃあ、もう行くよ。ここはお前のおごりでいいか」

 「もちろんだ」

 「お前たちの新しい会社がうまくいくことを願ってる」

 飛田は立ち上がった。

 「システム会社をやるつもりなら、手っ取り早く利益だけを求めて、技術を軽視するなよ。あと石黒を大切にしてやってくれ」

 「約束する」

 長谷部が手を差し出し、飛田はその手を握った。長谷部の顔に何か言いたそうな表情が浮かんだが、飛田は手を離すと背中を向け、そのまま歩き出した。

 

 外に出ると、雨は止んでいたが、空には憂鬱になりそうな色の雲が垂れ込めていた。とりあえず帰って転職サイトでもチェックするか、と自宅の方に足を向けたとき、ポケットの中でスマートフォンが振動した。取り出したスマートフォンの表示を見て、飛田は少し驚いた。滅多に使ったことがないLINE の着信だったのだ。

 「はい、飛田です」

 『お久しぶりです』聞き覚えのある穏やかな声だった。『篠崎です』

 「お久しぶりです。お元気でしたか?」

 『おかげさまで。実は野見山さんから聞いたんですが、飛田さん、会社をお辞めになるそうですね』

 「実はそうなんです。今月末で」

 『転職先は決まっているんでしょうか』

 「いえ」1 日前なら別の答えができたのに、と飛田は苦笑した。「まだです。篠崎さんはどうですか?」

 『実は私、今、大阪で働いてるんですよ。契約社員ですが』

 「そうですか。システム関係ですか?」

 篠崎はモバイルアプリ作成の会社で、Android アプリを作成しているという。ベンチャー企業だが、社長がプログラマ上がりなので、プログラミングスキルを重視した雰囲気で仕事をすることができているそうだ。

 『来年度から、正社員にならないかと誘われています。少しは管理職的なこともやることになりそうですが』

 「それはよかった」飛田は心から言った。「エンジニアを大切にしてくれる会社は貴重ですからね」

 『ありがとうございます』そう言った後、篠崎は口調を改めた。『今日お電話したのは、飛田さんを勧誘するためなんです』

 「篠崎さんの会社にですか?」

 『いえ、そうじゃないんです。こっちに来て、ある組織と出会ったんですよ。ベンチャー企業の社長が代表をやっているんですが......』

(続)

Comment(24)

コメント

西山森

おおっ、ついにイニシアティブ登場か!?

匿名

ここからあの飛田になるルートが見えない……

匿名

反対してた人は首藤と業務上の繋がりでも有ったんですかね。
まったく関係無い部課の人間が反対するのは現実味が無いのですが…。
出資可否を、この規模の会社で部門会議の議題にするのも変ですけど。

m

ここで首藤か!ここで篠崎さんか!
そしてやっぱり野見山視点のスピンオフが見たい!
 
しかしここは怒ってもいいところでしょ飛田は。
なんとなくの予感があって、衝撃を感じなかったと言っても、怒っていいタイミングのはず。
・・・もう怒る気力も長谷部に見出せなかったのかな。振り回されてる自覚はあったようだし。

匿名

そうきたか、結果として中途半端な事したツケが
ここでまわってきちゃったか長谷部の所に。
次回いよいよ例の組織に出会って、どんなやり取りが
あるのか楽しみですねー

へなちょこ

人を呪わば穴二つ。信長の逆襲ですな

匿名

他社のイチ社員の有無で決定がひっくり返る会社と
それを押し通せない長谷部と
重要な説明の場に同席しないカナと
環境を望むばかりで戦おうとしない飛田と
みんな残念で、なんか割り切れない話

jo

この流れ、嫌いじゃない

匿名

どっちかというと、長谷部の会社のほうが後味悪い結末にならないか不安だけどなぁ。
船出から当てにしていた技術の柱を欠き、代替案も見つかっていない状況って、死亡フラグにしかみえません。

匿名希望

そろそろ締めに入ったところかと思っていたのにやられたー。
これはまた来週が待ち遠しい!

匿名

第十六話の引用だが、

> 結局、飛田と言葉を交わすことなく、首藤課長は九州行きの飛行機に乗った。以後、飛田がこの男と会うことはなかった。

なるほど、見事な叙述トリックだな。
「飛田がこの男と会うことはなかった」とは書いてあるが、「この物語から完全に退場した」とは一言も書いてないし、首藤の妨害工作は面と向かって行われるものと限ったわけでもない。
これは作者にしてやられた。

匿名

お疲れ様でした。


うんうん、飛田君は、役員や管理職になんかならない方がいいよ。
立派な箱庭を作りたいと希望は持っていても、
外との交渉を忌避するようでは、その資格はない。
箱庭を維持するためには、イヤなことでも飲まなきゃならない場面も
あるはずだが、近藤課長に指摘を受けても、
理想主義者なところは抜けきってないようだし。

2017/03/21 13:15

やっちまった・・・orz


>お疲れ様でした。


いや、ここで終わっておいた方がいいんじゃないかってのも本心ではあるんですがね。
イの字の長広舌だけで終わらないことを願ってます。(-人-)

運転式としては
運転資金としては でしょうか?
違ったらスルーして下さいー。

飛田さーん、ああああああああ!
人にはそれぞれ過去という背負ってきたものがあるのだなと思いました。
憂鬱終わったら前回のやつ読み直そうと思います。
毎回面白い展開をありがとうございます。

匿名

飛田くんはどうなっていいから首藤には爆発四散してほしいです!!

匿名

火曜更新なんですね。来週かと思いました。

今回の話、面白かった。
ある組織っていうのはきっとイニシアチブだろう。
この流れだと、この後に打ちのめされてあの飛田になったのではなくて、イニシアチブの考えに共感して、あの飛田になったとしても違和感はないように思えてきた。
なんでだろう。
話の運びがうまいなあ。

別れ際の長谷部の何か言いたそうな顔というのは気になるけど、大したことなくてもいい気がしてきた。その後の飛田に影響を及ぼすものではなかったりして。

(これ以上ひどい目にあわせないでくれという思考停止)

匿名

お疲れ様でしたと書かれている方がいるが、自分もここで終わる雰囲気を感じてしまったw
飛田が思ってることを長谷部にいってスッキリしたし、長谷部は結局悪い人じゃなかったんだ。きっと、たぶん…
後日談で、技術の柱を無くした新会社は…と書かれても、石黒の才能が開花して新会社は…と書かれても、なんだかきれいに終わりそうな気がしてしまった。
いずれにしろ来週以降も楽しみです。

リーベルG

弟さん、ご指摘ありがとうございます。
運転資金でした。

匿名

首藤すごいな、セクハラパワハラで左遷くらったら周りの人間は離れていきそうなものなのに。

山無駄

会社が上流に特化するためにか開発部隊をなくすとか、社長が決めた出資について部長会の反発で反故になる(しかも個人に向けた批判で!)なんては、フィクションとしても、ちと無理があるのではと思ったりしたが、現実の会社でおこるもっと不思議な事を目の当たりにすると、笑えない…。

匿名

>セクハラパワハラで左遷くらったら周りの人間は離れていきそうなものなのに


そもそも、左遷先のスタッフに対して、左遷の事情を客観的かつ誠実に説明しなきゃいけない義務なんて、首藤には無いだろうしなあ。
大方、「自分は会社のために頑張ってきたのに、自分の業績を疎ましく思った部下が自分を裏切って自分を追放した」とでも事情を説明して、
現地のスタッフを味方につけるとかやってたんじゃないか?
首藤視点からみれば、こういう説明でも嘘を言ってることにはならないだろうし。

匿名

なるほど、上流工程に移行しようとする会社の方針に添わず、
自分の席を守ろうと固執するプログラマに、
後ろから撃たれたって理屈ですか。ありそうですね。

toanna

>>バージョンアップ完了
首藤は結局3年以上苦しむはずの飛田を開放しちゃったな。これより先に復讐の機会を狙うと博打になっちゃうから今しかないんだろうけど、復讐にしては甘すぎてやるせないなーとか、もっと面白いコメントを楽しみにしています。前話のコメントにある「横領ついでに夜逃げして、残った飛田に諸問題を全部押し付ける」についても放置せずに主張し続けてほしいですよね。

匿名

>立派な箱庭を作りたいと希望は持っていても、
>外との交渉を忌避するようでは、その資格はない。
騙されやすそうですね。飛田採用反対派はこんな感じかな。
飛田氏は顧客対応はできる人でしょう。

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