高村ミスズの事件簿 コールセンター篇(1)
「本日の業務伝達事項は以上です」木原SV は事務的な笑みとともに告げた。「最後になりましたが、先週連絡した通り、本日よりオペレータが1 名加わります。前園さんです。みなさん、仲良くしてあげてください。では、前園さん、一言お願いします」
ユカリは頷いて進み出た。オペレータルームにいる19 名の男女の視線が集中する。木原SV 以外は初対面だ。普通の人間なら多少なりとも緊張するシーンだし、ユカリも例外ではない。ただ、舞台俳優としての顔も持つユカリは、見知らぬ人々の視線を受けることに慣れているので、オペレータたちを観察する余裕があった。
3 名のいずれも若い男性陣は手放しで歓迎している顔だが、これは驚くことではない。ユカリの容姿は、大抵の男性の警戒レベルを数段引き下げる効果をもたらすことが多いからだ。ユカリは自分の大きくくりっとした瞳や、小さめの唇、細めだが豊かな曲線を持つ肢体などの要素が男性受けすることを承知しているし、必要とあればその利点を活用することを躊躇ったりしない。その気になれば、木原SV を含む4 名の男性を女王に奉仕する兵隊のように扱うことも難しくないだろうが、今回はその種の手管を使う必要はなさそうだった。
16 名の女性陣はおおむね好意的ではあるものの、どこか値踏みするような表情を向けている。事前の調査によれば、この会社のオペレータは契約社員として、テレマーケティング業界の水準よりやや上の給与を受け取っている。富裕層のオペレータはいないが、逆に極端に生活に困窮しているオペレータもいない。平均年齢は24.7 才。うち3 人が既婚者だ。ユカリの今日の服装は、それらの情報を考慮した上で選んだものだ。露出度は控えめ、ユニクロのブラウスとフリース、GU のスカートと黒のレギンスを組み合わせ、アクセサリ類もブランド品は注意深く避けている。反感をもたれるほど高級ではないが、バカにされるほど安っぽく見えることはない。
全員の視線はユカリの顔の中心から、10 センチほど左に向けられていた。ユカリが左耳にはめているイヤピースのせいだろう。軽度の難聴という偽りの理由は、木原SV を通して全員に伝わっているはずだ。
「前園です」ユカリはよく通る元気な声で名乗った。「体力には自信あります。いろいろご迷惑をおかけするかもしれませんが、早くみなさんのお役に立てるよう努力します。あ、耳のこれは気にしなくて大丈夫です。普通に話していただければ聞こえます。どうぞ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、パチパチと控えめな拍手がわき、すぐに止んだ。まるで新人を歓迎する拍手は5 秒、と決められてでもいるかのようだ。木原SV は拍手が終わると同時に全員に向き直った。
「では、受付開始5 分前です。各自、ログインお願いします」
オペレータたちは一斉に着席した。パーティションで仕切られたブースの上には、デュアルモニタとキーボードが置かれていて、すでに表示されていたログイン画面にユーザID とパスワードを入力している。片方のモニタの上には、オペレータの氏名と内線番号が印刷されたプレートが、書店などでも使われているポップスタンドで掲げられていた。
「前園さんは、こちらの席になります」
ユカリが座るように指示されたのは、SV 席に近い一番端のブースだった。右隣に座る、20 代後半ぐらいで愛嬌のある丸顔の女性が、キーボードを叩きながら、ちらりとこちらを見て、歓迎の意を表すような笑みを浮かべた。プレートには水野マドカ、の名。名前の末尾にピンクのハートマークが追加されている。
「とりあえず午前中は水野さんを見て、応対の雰囲気を掴んでください。前園さんのヘッドセットで水野さんの通話がモニタできるようになってます」木原SV はユカリに言いながら、1 枚のポストイットを差し出した。「これが前園さんのユーザと初期パスワードです。最初にログインするとパスワード変更画面になりますけど、同じパスワードを入れてください」
「え?」ユカリは木原SV の顔を上目遣いに見た。「自分で決めないんですか?研修のときは、自分で好きなパスワードを決めるように習ったんですが」
「そうです」木原SV は当然のように頷いた。「SV が後で受付内容を修正することもありますからね。じゃ、わからないことは水野さんに聞いてください。水野さん、お願いします」
マドカが頷くと、木原SV はさっさと自分の席に戻っていった。マドカはヘッドセットを装着すると、ユカリに柔和な視線を向けた。
「コールセンターは初めて?」
「そうなんです」事実とは異なる言葉を返したのは、その方がいろいろ質問しても怪しまれないためだ。「よろしくお願いします」
「まあ、すぐ慣れるわよ。研修、どうだった?」
「契約プランが複雑すぎて」ユカリはヘッドセットを装着すると、キーボードに指を載せた。「一応、憶えましたけど、きちんと回答できるか、ちょっと不安で」
「あれはねえ」マドカは心から同意する、というようにウンウンと頷いた。「ホントにわかりづらい。作ってる人も、理解してないんじゃないかって思うわ。でもFAQ あるし、迷ったらエスカレすればいいから」
「1 分前です」木原SV が声を張り上げた。
マドカは最後に元気づけるように微笑むと、モニタに向き直った。
ユカリも自分の目の前に視線を移動させた。かけているGoogle Glass は特注品で、ブリッジ部分に高感度CCD カメラが内蔵されている。ユカリは何度か練習した通り、モニタの全域を捉えるように、慎重に顔の位置を調整した。左手のネイルを眺めるフリをして、指でサインを送った。この位置でOK?
すぐにイヤピースから小さな電子音が1度だけ聞こえた。OK のサインだ。ア・イ・シ・テ・ルのサイン、と古いJ-POP のワンフレーズを口の中でつぶやき、ユカリは次の動作に移った。
まず、デスクの左側に置かれているAVAYA のIP 電話のディスプレイを見て、初期画面になっていることを確認する。オフィスのIP 電話と違い、コールセンターのそれはまずログインが必要だ。ユカリは自分のブースにアサインされた内線番号7419 を入力して最後に# を押した。数秒後、ディスプレイがログイン状態に変わった。ユカリは小さく頷いた。
『おい』イヤピースが囁いた。『あまり頭を上下させないでくれ。酔っぱらいそうだ』
ユカリは左耳のイヤピースをコツンと弾いて応答すると、マウスを握り、左側のモニタを見た。デスクトップの中央に貼られている受付システムのショートカットをダブルクリックすると、InternetExplorer がフルスクリーンで起動し、ログイン画面が表示された。ユカリは渡されたポストイットに手書きされている、数字8 桁のユーザID と、14 桁の英数字のパスワードを入力し、Enter キーを叩いた。数秒後、画面の中央に28 ポイントぐらいの太字で、4 桁の数字が表示された。使っているPC に関連付けられている内線番号だ。IP 電話の内線番号と一致しているはずだったのだが……。
「あれ」ユカリは呟くと、隣に顔を向けた。「すいません。内線番号が一致しないんですけど」
マドカは眉をひそめながらユカリの方に身を乗り出しかけたが、その途端、着信が入ったので、唇の動きでゴメンと伝えてから通話を開始した。
「お電話ありがとうございます。K モバイルお客様サポート、担当水野でございます……」
てきぱきと会話しながら、マドカは片手を上げて、木原SV を手招きした。木原SV が駆けつけると、マドカは受付システムの画面を操作しながら、身振りでユカリのモニタを指した。
「どうしました?」
ユカリは内線番号が一致しないことを伝えようとしたが、木原SV はモニタを一目見て状況を理解したようだった。
「ああ、またか」木原SV は舌打ちすると、ユカリのIP 電話で内線をかけた。「勝呂さん、また内線番号不一致です。来てもらえませんか」
1 分後、オペレータルームのドアが開き、痩せた男性が入ってきた。顔色は良くない、というよりむしろ悪い。足取りもふらついているように見える。何人かが顔を上げたが、勝呂は自分の足元に視線をさ迷わせたまま、誰とも視線を合わせようとしなかった。
「勝呂さん、7419 です」
木原SV が言うと、勝呂は黙ってユカリのブースに向かってきた。ユカリは勝呂の顔を見てにっこり微笑んだ。大抵の男はこれで軟化するのだが、勝呂は何の反応も示さなかった。キーボードに手を伸ばし、Alt + F4 でブラウザを落とすと、コマンドプロンプトを立ち上げて、片手で何かのコマンドを叩いた。ユカリは椅子を少しずらして、勝呂にスペースを空け、さりげなく画面に視線を向けた。勝呂が入力しているコマンドはカメラが捉え、フリースの内側に固定してあるスマートフォンを通して、ユカリのボスにリアルタイム送信されているはずだ。
――つまりこの人が4 人目ってことか。
ユカリはあからさまに注視しないように、勝呂を観察した。近くで見ると、痩せているというより、やつれていると表現が正しいようだ。目の下には隈ができている。髪は耳がすっかり隠れるぐらい長いが、これもヘアスタイルというより、単に理髪店に行く時間がないだけのようだ。よれよれになった薄いブルーのワイシャツの襟には、うっすらと汗染みが浮いている。冬だというのに汗の匂いがして、ユカリは数センチだけ彼我の距離を広げた。
「すいません」勝呂はボソボソと言いながら、コマンドプロンプトを閉じた。「直しました。もう一度、ログインしてみてください」
ユカリはもう一度にっこり微笑むと、素早くログイン操作を実行した。今度は正しい内線番号が表示された。
「ありがとうございました」
ユカリが明るい声で礼を言うと、勝呂は驚いたようにユカリを見たが、すぐに視線を外し、木原SV の席に歩いて行ってしまった。
ちょうどマドカが通話を終えて、後処理に入っていたので、ユカリは小声で訊いてみた。
「あの人、システムの人ですか?」
「うん」マドカは顔をしかめて、木原SV に何やら報告している勝呂の後ろ姿を見た。「この受付システムを作ったシステム会社の人」
「何だか、ずいぶんお疲れみたいですね」
「システムが安定しないとかで、ずっと泊まり込んでるみたいよ。このフロアのエレベータ脇にモニターする部屋があって、そこの椅子の上で寝てるんだって。直接見たことはないけど。ってか、見たくないけどね」
「泊まり込みって……」ユカリは声を低くした。「1 人で、ですか?」
「さあねえ」マドカは興味なさそうに答えた。「少なくとも、あたしのシフトのときは、あの人しか見てないけど。前は別の人だったはずだけど、いつのまにか変わってて」
「ふーん」
「まあ、なんでも……」再び着信が入り、マドカは再び通話モードに切り替えた。「お電話ありがとうございます……」
ユカリが勝呂の方を見ると、木原SV との話を終えて、重い足取りでドアの方に向かって歩き出したところだった。ユカリは勝呂が近くまで来るのを待ち、タイミングを計って顔を上げた。いかにも、たまたま首をめぐらせたら目が合った、という態を装って。
「あ、さっきはありがとうございました」ユカリはあからさまに媚びを売っていると思われないよう、ほんの少しだけ甘えた声を出した。「今日、初めてなんです。いろいろ教えてください」
「え……ああ」勝呂は足を止めると、戸惑ったようにユカリを見た。「はあ、そうですね、何かあれば、その、いつでも……」
最後の数語はごにょごにょと口の中でかみ砕かれ、音声になる前に消滅した。ユカリは気の毒に思う反面、微かな苛立ちを感じ、珍しく次の言葉の選択に迷った。このとき、何でもいいから会話を続けていればよかった、と、すぐにユカリは悔やむことになる。
「おーい、勝呂さん」離れた席で、若い男性オペレータが手を挙げた。「SIM サイズの一覧が更新されてないみたいなんですけどね」
勝呂ははっと顔を上げて、男性オペレータの方を見た。はい、と小さく答えて、向きを変えようとしたが、その足がもつれた。ユカリが、危ない、と思った瞬間、勝呂の上半身がぐらりと揺れた。近くにいた女性オペレータの数人が、小さく悲鳴を上げる。
勝呂はタイルカーペットが敷かれた床に背中から倒れこんだ。ズン、と床が揺れる。その痩せこけた身体が、ビクンと一度痙攣し、それっきり動きを止めた。
ユカリはヘッドセットをかなぐり捨てて駆け寄った。シャツの上から肩に触れると、じっとりと汗で湿っているのがわかった。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ……てす……」
勝呂の青白い唇から、意味不明の言葉が洩れた。ほとんど聞き取れない。ユカリは口元に耳を寄せたが、勝呂はそれっきり何の音声も発しようとしなかった。
ユカリは再度呼びかけたが、返事はない。いや、それどころか、呼吸をしているのかどうかさえ定かではなかった。木原SV が急ぎ足で近づいてきて、どうしたんですか、大丈夫ですか、と頭上から声をかけてきたが、直に様子を確かめようとはしなかった。
「ねえ、どうしたの?」マドカが席に座ったまま、困惑したような声で訊いてきたが、ユカリは返事をするどころではなかった。
「勝呂さん」ユカリは勝呂の肩を、そっと揺すった。「大丈夫ですか?勝呂さん?」
反応はない。まさか、と思いつつ、ユカリはおそるおそる勝呂の首筋に指を当ててみた。脈動はあったが、ほとんど感じられないぐらい微弱だ。
「前園さん?」
「きゅう……」ユカリは何とか声を絞り出した。「救急車、呼んでください」
「え、救急車?呼ぶの?」
「急いで!」
ユカリが舞台で鍛えた声を張り上げると、木原SV は弾かれたように手近の電話に飛びついた。何度か間違えて、ようやく119 番へ発信する。
木原が早口に住所を告げている声を聞きながら、ユカリは周囲に集まってきたオペレータたちに訊いた。
「AED はないの?」
オペレータたちは顔を見合わせたが、マドカが強張った顔で立ち上がった。
「休憩室にあるでしょ。ケイちゃん、取ってきて!」
1 人のオペレータが頷いて駈け出していった。入れ替わりに木原SV が受話器を置いて近寄ってきた。
「救急車を呼んだ」やや落ち着きを取り戻した声だった。「どんな具合?」
「わかりませんが、少なくとも息はしてます」
「そこから動かせそうかな?」
「救急隊員が来るまで動かさない方が……」
「いや、このままだと業務にならないから」
ユカリは気にも留めていなかったが、言われてみれば何台もの電話が着信していた。誰も応答するどころではないので鳴り続けている。SV 席近くの壁に設置されているウォールボードには、赤いLED によって「入電数:8 応答:0 未応答:8」と表示されていた。
「あのですね」ユカリは木原SV を睨んだ。「人が一人倒れてるんですよ。業務の心配してる場合ですか?それより勝呂さんの会社に連絡とかしなくていいんですか?」
木原SV は何か言いかけたが、ユカリの険悪な表情を見て考え直したらしく、口を閉じた。そのままSV 席に戻ると、どこかに電話をかけ始める。どうやらユカリに言われた通り、勝呂の会社に連絡をしているらしい。
「優先順位が間違ってるわ」
独り言のつもりだったが、イヤピースが答えた。
『確かにな。で、その彼は生きているのか?』
ユカリはイヤピースをコツンと叩いた。イエス。他のオペレータたちは、小声でヒソヒソ話をしていたが、とりあえず勝呂が死ぬような事態ではない、とわかると、次第にそれぞれの席に戻っていった。電話を終えた木原SV が戻ってきたので、ユカリは訊いてみた。
「何か持病でもあるんですか、この人?」
「さあ」木原SV は首を傾げた。「そんな話は聞いてないけどな。ここんとこ、24 時間勤務が何日も続いてたみたいだから、疲労がたまったんじゃないかな」
「え、24 時間が何日も、ですか?」ユカリは演技ではなく驚いて訊き返した。「12 時間とかじゃなくて、丸1 日ですか。いつ寝るんですか?」
「そっちの労務管理は、ナツメシステム……あ、勝呂さんの会社の方で管理してるみたいだから、うちは何とも……」
「だからって……」
ユカリがさらに事情を訊こうとしたとき、さっき駈けだして行った若いオペレータが駆け込んできた。胸に赤いバッグを抱えている。
「AED 持ってきました!」
「こっち持って来て」
ユカリはもう一度脈を確認した。心肺機能が回復してきたのか、ユカリ自身が先ほどより落ち着いてきたからなのか、着実な脈動が指に伝わってくるのがわかった。
「今のところ心配ないみたいだけど」ユカリは、怯えた顔の若いオペレータからAED のバッグを受け取った。「救急車が来るまで、いつでも使えるようにしておいた方がいいわね」
「お」木原SV が窓から外を覗いた。「来たみたいだ」
確かに外から救急車のサイレンが聞こえてくる。
「下まで誰かが迎えに行った方がいいんじゃないですか?」ユカリは指摘した。「警備員に止められるかもしれないし」
「そうだな。じゃ、行ってくる。みなさん、電話は保留状態のままで。応答はしないでください。あ、ナツメシステムから電話があったら、ぼくの携帯に転送してください」
木原SV は慌ただしく指示を残すと、駈けだして行った。
2 名の救急隊員がストレッチャーと一緒に入ってきたのは、その5 分後だった。木原SV とユカリの説明を聞きながら、救急隊員たちは手際よく勝呂の身体をストレッチャーに固定すると、オペレータルームから運び出していった。木原SV は、オペレータたちに業務を再開するよう告げると、救急隊員と一緒に出て行った。オペレータたちは、顔を見合わせながらも、それぞれのIP 電話に手を伸ばした。すぐにオペレータルーム内に、落ち着いた声で応対する男女の声が満ちていく。
「ああ、びっくりしたわ」マドカはユカリと顔を見合わせて苦笑した。「でも前園さん、ずいぶん冷静に行動してたじゃない」
「いえ、それほどでも。それより、24 時間勤務って、本当なんですか?このセンターの受付時間は、10 時18 時ですよね」
「日報作成なんかもあるけど、遅くても夜8 時には、みんな帰るわね。私もどうして24 時間、システムの人がいなきゃならないのかはわからないわ。たぶん木原さんも知らないんじゃないかなあ。ナツメシステムが……おっと」
マドカは着信に応答して会話を始めた。ユカリは自分もヘッドセットをかけなおし、マドカがスマートフォンの速度制限に対する質問にてきぱきと答える声に耳を傾けた。
木原SV が戻って来たのは、30 分後だった。ワイシャツ姿の男性と、ビジネススーツを着たやや太めの中年男性が同行している。前者はユカリが面接のときに1 度だけ顔を合わせた館脇センター長だ。普段は上階のオフィスにいるはずだが、連絡を受けて飛んできたらしい。後者の顔には見覚えがないが、ビジネスバッグを抱えていたので、勝呂の会社の人間だろう、とユカリは想像した。3 人は何か話しながら入室してきたが、木原SV は言葉を切ると、ユカリに小声で話しかけた。
「前園さん、助かりました。ありがとう。勝呂さんは命に別状はありません。救急車に乗ったときには、少し意識が戻っていたようです。誰かに聞かれたら、そう言ってください」
「はい」
「それでですね」木原SV は2 人を促してSV 席の方へ歩いていった。「御社の方から病院へ……」
3 人は話しながら座った。ユカリはマドカの応対を観察するふりをして、そちらの会話に耳を傾けた。
「……すぐに交代要員を手配します」男性が手にしたスマートフォンをちらりと見ながら言っていた。「昼過ぎには着けると思いますが」
「それまでの間にシステムが止まったらどうするんですか?」館脇センター長が訊いた。「今野さんが見ていてくれるんですか?」
「いえ、そういうわけにはいかないんですよ。私は別件で約束があって、すでに遅れているぐらいなんですから」
「もう少し、早めに来られないんですか?」
「あいにく、横浜支社には人がいなくて、御徒町から来なければならないので、どうしても昼過ぎになってしまうんです」
「24 時間監視が必要なシステムだから、と人を配置したのは、御社じゃないですか」館脇センター長の声は責めているようではなかった。「システムの改修の方はまだなんでしょうか?そろそろ半年経過しますが」
「鋭意努力していますが」今野は肩をすくめた。「こればかりは、急いでできるものじゃないので」
「まあシステムのことはわかりませんが……」
「本当に申しわけありません。でも、うちもかなりマンパワー的にキツキツなんですよ。ご理解いただければと思いますね」
「まあ、そう仰るならそうなんでしょうがね」
どうも立場が逆のようね、とユカリは不思議に思った。館脇センター長はエンドユーザの立場だというのに、今野に対して遠慮しているような印象を受ける。
「そこで相談なんですが」今野は身を乗り出した。「うちの技術者が到着するまで、どなたかモニタを見ていてもらえないでしょうか」
「うちの人間を使うんですか」木原SV は困ったような顔で今野を見た。「何かあっても対応できないじゃないですか。技術者じゃないんですから」
「いえいえ、そう難しいことはないです。管理ツールを見て、リソースが一定ラインを越えたら、解放してもらえばいいんです。手順は説明します。本来なら自動でできるはずなんですが、まだ準備ができていなくて、そこだけ手動でやらないといけないんですよ」
「いや、そう言われても」木原SV は渋い顔になった。「うちにも余剰人員など……」
『ユカリ』不意にイヤピースから声が届いた。『手を挙げろ。右手だ。急げ』
ユカリは反射的に右手を挙げた。木原SV がそれを見て訊いた。
「前園さん、どうしました」
『あいつのところに行け』声が命じた。『私の言う通りに言うんだ』
ユカリはすぐに席を立った。歩きながらネックチョーカーに囁く。
「ボス、どうしろって言うの?」
『いいから行け』
「どうしました?」木原SV が訝しげに繰り返した。
「あの」ユカリはイヤピースから聞こえる声に従って答えた。「よかったら、あたしがそのモニタ見ましょうか?」
「え、前園さんがですか?」
「はい。以前、少しですが、システム関連の仕事をやってたので」
「そうなんですか?」今野が疑わしげに訊いた。「どの程度、わかるんですか?」
「どの程度って……あ、えーと、これ、使ってるAP サーバは何ですか?トムキャットですか?ジェイボスですか?ワズですか?それとも、アイアイジェイ?」
「え、あ、えーと」今野は少し驚いたらしく反応が遅れた。「Tomcat です」
「リソースの監視はどうやって?ジェイコンソールですか?」
「い、いえ。うちが提供しているツールですが……」
「でも、ジェイエムエックス?」
「あ、はい。たまにメモリを急激に消費して、放置しておくと止まってしまうんで、あの、何でしたっけ、あれをかけるんです、えーと……」
『GC?』
「ジーシー?」
「あ、それです」今野は嬉しそうに顔を輝かせた。「木原さん、いい人材お持ちじゃないですか。ほんの1、2 時間でいいんです。お願いできませんか」
「はあ、そうですね」木原SV は躊躇いながら、ユカリと今野の顔を交互に眺めた。「まあ、前園さんなら、今日のところは受電業務もないし、引き継ぎも必要じゃないですが……」
「とにかく業務が止まるのはまずい」館脇センター長は木原SV の顔を見た。「短い時間だったら、任せてもいいんじゃないのか。きちんと機密保持誓約にサインしてもらってるんだし。大丈夫だよね、前園さん?」
ユカリは幼児のように無垢な表情を作って頷いた。
「そうですね……」木原SV の顔には、まだ迷いがあったが、上司の言葉とユカリの笑顔に逆らうことはできなかったようだ。「じゃ、お願いできますか?」
「はい」内心の不安を隠して、ユカリは微笑んでみせた。「任せてください」
「じゃあ、モニタルームにご案内します」今野は立ち上がった。「こちらにどうぞ。あ、携帯とかスマホは持っていませんね?」
ユカリは頷いた。オペレータは、キャップ付きの飲み物や健康上必要な薬以外、私物を持ち込むことができないことになっている。もちろん、身体のあちこちに隠し持っている、小型スマートフォンやユカリ自身も理解していない各種デバイスのことを話すつもりはなかった。
「では行きましょう。あ、上に着る物持っていった方がいいですよ」
『まさかこんなに早くサーバを直接触る機会が来るとはな』イヤピースから嬉しそうな声が聞こえた。『運がいいな』
本来なら何日かかけて、まずオペレータたちに溶け込んで現状を把握し、並行してシステムの人間に接触するはずだったのだが。ユカリは小さく――ただしネックチョーカーのマイクが拾えるぐらいには大きく――ため息をつくと、今野の後を追った。
(続く)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係なく、たとえ実在の人物に似ているとしても偶然です。また登場する技術や製品が、現実に存在していないこともありますので、真剣に探したりしないようにしてください。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高村ミスズの事件簿を書いたのは、早いもので、もう3 年も前になります。3/4 から漫画版「Press Enter■」の第2 弾として、「エンジニア探偵ミスズのIT 事件簿」が公開されていますが、この第1 話を見たら、ちょっと書きたくなってしまいました。
全5回ぐらいの予定、毎週月曜日の8:00AM 公開です。
漫画版はこちらからどうぞ。
コメント
へなちょこ
新作ですね。待ってました。テンポの良い幕開けで今回も面白そうです。
憂鬱な週明けの唯一の楽しみですので、これからもよろしくお願いします。
BEL
新作嬉しいです。予想外のタイミングでした。
拍手15秒は長いように思います、1.5秒の間違いでしょうか。
↓この句点も間違いですかね。
。「あいにく、横浜支社に
キター!
>「1 人ですか?」
は「1 人で、ですか?」の方が自然かも。
atlan
小説見て漫画版が描かれて、そっち見て小説書かれて・・・