冷たい方程式(1) 技術力は勘定に入れません
電話が鳴った。
あたしはワンコールで受話器を取り上げた。別に待ちかねていたわけではなく、朝から続くしつこい頭痛に干渉する電子音を一刻も早く断ち切りたかっただけだ。
「はい、日比野です」
『受付です。ホライゾンシステムサービス株式会社様がいらっしゃいました』
「すぐ行きます」
あたしは受話器を置いて時計を見た。14:12。約束の時間より約10分の遅刻だ。
――まあ、遠いから仕方ないか
腰を上げたとたんに立ちくらみに襲われた。椅子にへたりこみそうになるのをぐっとこらえて、窓際の席でヒマそうにしている磯貝課長に呼びかけた。
「課長、ホライゾンシステムさん、いらっしゃいました」
「あいよ!」
磯貝課長の脳天気な返事を後頭部で受けておいて、あたしは頭を揺らさない程度に早足でフロアを出た。さっさと打ち合わせを終わらせて、休憩室で一息つきたい。
追いついてきた磯貝課長は、部下の体調不良には気づかず、あたしがまったく興味のないJリーグの話題などを吹っかけてくる。あたしは適当に「はあ」と「そうですね」を交互に答えていたが、課長は気にする様子もない。あたしは苛立ちを顔に出さないように努力しながらエレベータを待った。この時間帯は、節電のため4基のうち2基しか稼働していないので遅い。
エレベータを待っていると、ようやく話題が変わった。
「ホライゾンさんは、日比野くんの知り合いなんだって?」
「いえ、前の会社の上司の紹介です。私は直接は知りません」
「そっか」課長は頷いた。「で、優秀なところかな?」
――知らんと言っているだろうが!
あたしは殺意をこらえて、力なく笑って見せた。
「さあ。実際に会ってみないとわからないですね」
「午前中に来た、えーと何だっけ、ドル箱さんだっけ?」
「……ドルフィンシステムさんです」
「ああ、そうそう。ドルフィンさんは、ちょっといまいちだったからねえ。見積もりも高かったし」
「そうですね」
あたしたちは先週と今週で、合計5社のSIerの営業担当者と会っていた。これから会うホライゾンさんで6社目。ありがたいことに、これが最後の予定だ。
「今度は日比野くんの知り合いだったら、少しは期待できるといいねえ」
「……」
もはや訂正するのも面倒だった。ちょうどエレベータが到着したので、あたしは返事を省略して、さっさとケージに乗り込んだ。
――気が重いなあ
あたしはこっそりため息をついた。気が重いのは、頭痛のせいばかりではなかった。
あたしの名前は、日比野サオリ。29歳、独身、彼氏なし。モリシタ精機横浜ブランチのITマネジメント課システム開発グループに勤務している。4年前、都内の大手SIerを退職し、1年の休職期間の後、社内SEとして入社した。
モリシタ精機は、K自動車の100%出資で設立された自動車関連部品メーカーで、ブレーキやシャシー関連製品、電子制御部品を製造・販売している。取引の9割以上はもちろんK自動車だけど、最近では他の自動車メーカーにも部品を納品していて、この不景気の中でも、とりあえず業績は落ちてはいないようだ。登記上の本社所在地は恵比寿になっているが、そちらは経営戦略本部と営業部のみ。主力工場、研究開発部門、主要事務部門などは、横浜ブランチに集中している。鶴見に1つ、川崎に2つ、栃木に1つの工場がある。
昨年の冬、長年にわたって、全社員から不評を買ってきた、勤怠管理システムのリプレイスプロジェクトが承認され、次年度の予算がついた。期首朝礼で通達があったとき、稟議をあげた人事部はもちろん、社員全員から拍手が上がったほどだった。
あたしも別の理由でうれしかった。ここしばらく、うちの主力製品の制御系システムの研究・開発予算は下りても、社内の業務システム開発に予算がつくことがなかったからだ。これまで、既存のシステムのメンテナンスや、小規模な機能拡張や、使い捨ての小システム作成ばかりを手がけてきたあたしは、久々のまともな業務システム開発に胸を高鳴らせた。
早速、磯貝課長をプロジェクトリーダーとする、開発プロジェクトが発足し、開発グループからは、あたしと亀井くんという男性社員がメンバーに選ばれた。あとは人事部門の担当者、現場の事務担当者などが加わっている。
最初に決まったことの1つがカットオーバー時期で、人事部の要望で来年の2月となった。3月は次年度の異動者の処理のため人事部の繁忙期にあたるし、4月は異動にからんで勤怠承認処理でイレギュラー処理が多く、また前年度の評価も行う必要があるからだ。
続いて、システム開発内容について、GW に入る前に開発グループ内で数回にわたって打ち合わせが行われた。
まず、開発言語とデータベースについて討議された。最近のK自動車の方針により、新規に開発する業務システムが、Java+Oracleで統一されつつあるので、子会社や関連企業もそれにならう傾向があった。その傾向にあえて逆らう理由は何もなく、開発言語はあっさりJavaと決まった。
あっさり決まらなかったのは、開発の方針についてだった。
磯貝課長は「すべて内製で」と主張し、開発グループ内からも特に反対意見は出なかったが、本社の経営戦略本部――組織上、ITマネジメント課は経営戦略本部の下になる――から懸念が伝えられた。いろいろ難しい言葉で装飾されていたものの、一言に要約するならこうだ。
「本当にできるのか?」
本社が問題視したのは、開発グループの人的リソースだ。開発グループのメンバーは8人いるが、まともにJavaの開発を経験したことがあるのは、あたしと亀井くんだけ。あとのメンバーはPHPやVB.NETばかりで、辛うじてJavaの研修を受けたとか、誰かの手伝いをしたことがあるとかで、今回の開発に使えるレベルではない。
一時は「社内でしか使わないシステムだし、PHPで構築するという選択肢もあるのでは?」という意見も出たが、これは磯貝課長が反対した。落ちてもいい簡易システムならともかく、勤怠管理システムともなれば、最終的には社員の給与支給にも関係してくる重要な基幹システムだから、PHPでは不安だというのだ。C言語、VB6、とコンパイル言語畑を歩いてきた人なので、スクリプト言語を信用していないらしい。
結局のところ、これだけの規模のシステムを、2人で開発することは難しい――というか危険――という当然の結論になった。あたしは体力に自信がないし、家庭の事情であまり長時間の残業ができない。この開発以外の業務を免除されるわけでもないので、あたし自身は大賛成だった。
となると、次は外部協力会社――要するに下請けさん――を探す必要が出てくる。ただしこれに関しても、これまた経営戦略本部から、
「丸投げは絶対に、繰り返すが絶対に不可」
と釘をさされていた。初期開発費用は仕方がないとしても、カットオーバー以後、絶対に発生する機能追加やささいな修正ぐらいは社内でできるようにしておくべきだとのこと。まあ、これも当然といえば当然だ。それぐらいできなくては、何のための開発グループなのかわからない。
このため、次のような方針で進めることになった。
- 基本設計書は社内で作成する
- 勤怠の主要機能(業務系)は、社内で設計・作成する
- 人事部しか使わないマスタメンテナンス画面などの機能(管理系)は外注する
方針が決まると、あたしたちは早速、5月のGW明けから人事部との打ち合わせを開始した。
平行して、磯貝課長とあたしが6月から行っていたのは、外注先の選定だった。探すといっても、ネットで会社情報を参照したり、過去に開発を依頼した実績のある会社に打診したりするぐらいだ。どこに頼んでもそれほど差はないような気もするし、選定を間違えると大問題になりそうな気もする。コンビニでよくある三角くじの箱に手を突っ込み、指先の感覚だけで当たりを引き当てようとするようなものだ。
選定が難航した理由の1つが、いわゆる大手SIerには、最初から声をかけなかったことだった。誰でも知っているような有名SIerだと開発費用が高くなりがちだし、うちの実装ルールに乗っ取ってというのも難しいだろう。でも、最大の理由は、現在稼働している評判の悪い勤怠管理システムを5年前に開発したのが、エースシステムエンジニアリングという、全国的に有名な大手SIerだったからだ。あたしがこの会社に転職してくる前の話だ。
その開発はかなり難航し、納期を5カ月もオーバーした。経理課長がヒステリー性の発作を起こしかけたほどの開発費用をかけたわりに、納品されたのは、使いづらく、遅く、拡張性に乏しいという三重苦のシステムだったそうだ。社員からの評判も芳しくなく、エースシステムを選定した当時の開発グループのGL(グループリーダー)は、今は別の部署に異動となっているそうだ。それ以後、開発グループにはGL職が不在で、磯貝課長が兼務している。
その後、何度か機能追加をせざるを得なかったのだが、そのたびに法外な費用を要求されたので、とうとう当時の経営戦略本部長より「これ以上の金をかけるな!」と厳命が下った。以後、VB6.0で作成された、この勤怠管理システムの保守は、開発グループが少しずつソースを解析しては、動作しますようにと祈りながら実施してきた。あたしも入社してから、いくつかの機能を追加/修正している。きちんと祈るのも忘れなかった。
この苦い経緯から、うちの会社には、大手SIerに対するトラウマというか、忌避感のようなものがあるのだった。それがいいか悪いかは別として、中小SIerとなると、横浜市内だけでも無数に存在するので、新たに選定するのはかなり大変だった。
それでも何とか数社の候補に絞り、各社の営業にコンタクトを取り始めた7月の最初の月曜日の朝のこと。この話をどこからか聞きつけた、前の会社の上司が突然電話をかけてきた。てっきり、見積に参加させてくれ、と言ってくるのかと思っていたら、元上司の用件は似て非なるものだった。
『おれの知り合いで名古屋でSIerやってるやつがいるんだが、この不景気だろ、なかなか仕事がなくて困ってるんだ。見積もりだけでも出させてやってくれないかな』
「名古屋ですか……」あたしは横浜と名古屋の距離を思い浮かべた。「ちょっと遠くないですか? 定期的に打ち合わせとかも発生することなりますけど」
『それぐらいは覚悟の上だそうだよ』元上司は電話の向こうで笑った。『とにかく仕事がなくて困ってるみたいだから頼むよ』
こういうのはあまり好きではなかったものの、退職時にはいろいろお世話になったこともあり、むげに断るのもはばかられた。
「じゃあ、その会社の担当者から、私にメールさせてください。私のアドレス教えて構いませんので」
『すまんね』
メールは30分後に届いた。送信者はホライゾンシステム社長兼技術部長の八木氏からだ。
本文には、何やらお礼の言葉がつらつらと並んでいたが、あたしはそれを読み流して、シグネチャーの会社のURLをダブルクリックした。ホライゾンシステムのホームページが立ち上がる。中小のソフト会社には、自社のホームページに無頓着なところが多いが、ここも例外ではなく、Google Chromeで開くと、微妙にデザインが崩れていた。FacebookとTwitterのアカウントもあるようだが、「いいね!」のカウントは1ケタ、ツイートは数回程度。
あたしは、ガイドメニューから≪会社概要≫を開いてみた。
設立は6年前。資本金2000万円。従業員数20名。
≪業務案内≫のページを開くと、過去の開発事例がずらりと並んでいた。C言語、VB4、VB5、VB6、VB.NET、VB2005、VB2008、Java、C++、PHP、Delphiなどなど、万遍なく手がけてはいるようだ。データベースも、Oracle、SQL Server、PostgreSQL、MySQL と、メジャーなものは押さえられている。今回の開発は、JavaとOracleなので、一応条件には合っている。
あたしは返信のメールに、システムの概要とサンプル画面の機能説明書を添付し、概算見積算出を求めた。すぐに届いた返信には、やはり「できれば一度お会いして……」と書かれていた。その後、数回メールをやりとりした後、この日に来社してもらうことが決まった。
ただ、前の会社との関係を引きずっているようで、あまり気は進まなかったし、物理的な距離が遠いことも不安要素だった。前の上司には悪いが、あたしは何かの理由をつけてホライゾンシステムを選定しないことにしようと、すでに半ば以上決めていた。
「はじめまして。ホライゾンシステムの八木でございます」
八木社長は、40代後半ぐらいの、痩せぎすの男性だった。頭髪はかなり薄くなっている。屋外の気温は32度以上だというのに、律儀に上下グレーのスーツにネクタイ。イントネーションには、少しだけ関西方面のリズムが感じられる。いかにも人あたりが良さそうな営業マンという印象が、社長兼技術部長という名刺の肩書きと、ややミスマッチだった。
彼は1人ではなかった。
八木社長の一歩後ろで、緊張した面持ちで立っているのは、あたしよりも小柄な女性だった。年齢はあたしよりかなり若く見える。大きめのメガネが印象的だ。太めというほどではないが、全体的にふっくらしていてスリムともいえない。八木社長と同じく、黒のビジネススーツを着ている。さすがにネクタイは着けていない。
「片寄です。よろしくお願いします」
磯貝課長と名刺交換したときは固い声だったが、あたしと相対すると、同性同士ということで安心したのか、その表情が和らいだ。敵だらけの戦地で、思いがけず味方を発見したような顔だ。あたしも同じような経験があるので、その気持ちはよくわかった。
「”かたよせ”さん、ですね」あたしは、いただいた名刺を見ながら確認した。片寄ムツミと印刷されている。「ちょっと珍しい名字ですね」
「はい」ふっくらした丸顔に笑顔がよぎった。「よく言われるんですよ」
全員の名刺交換の儀式が終わったところで、あたしたちは腰を下ろした。同時に総務の女性社員がペットボトルのお茶を人数分運んでくる。
「このたびはお声をかけていただき、ありがとうございました」八木さんが深々と頭を下げた。「本日は見積を出させていただくにあたり、少し細かい部分をお聞かせいただければ、と思います」
「わざわざ遠いところからありがとうございました」と磯貝課長が返し、あたしを見た。「こっちの日比野が、今回の開発についての主担当者です。詳しいことは日比野から説明させます」
八木社長と片寄さんは、そろって意外そうな顔をした。
「え、あ、日比野さんが、ですか」
どうやら、あたしのことは、単に雑用担当の下っ端女子社員だとでも思っていたらしい。
――まあ、いつものことだけど
あたしは、もともと童顔で、大抵のシーンで実年齢より若く見られる。プライベートではいろいろメリットもあるが、ビジネスシーンでは、どちらかといえばデメリットの方が多い。つまり、よくなめられるということだ。
「ええ、日比野はJavaがわかるので」
磯貝課長のフォローも力不足だ。ウソでもいいから、Javaはかなり経験があります、とか言ってくれればいいのに。
「あ、そうでしたか。てっきり磯貝課長が指揮を執られるのかと思っておりましたので」
八木さんの言葉に、磯貝課長は、ハハハと笑った。
「いやあ、私の知識はVB6で止まっておりますのでね」
謙遜しているようだが、これが謙遜ではないのを、あたしは知っている。磯貝課長がシステム開発に携わったのは、VB6が最後で、それ以後はマネジメントの方に回っている。
「そうですか」八木社長もお義理で笑った。「わかりました。よろしくお願いします」
「じゃあ日比野くん、お願い」
「はい」
あたしは、用意してきた数枚のプリントアウトを配った。システムの概要は先にメールで添付しているので、これはスケジュールと必要な画面数を簡単にまとめたものだ。
「おおまかに言うと、10月に開発スタート、12月末で実装完了、1月中でテストと社員に対する教育、2月に一応カットオーバーですが、2月中は平行稼働します。新システムへの完全移行は、3月からです」あたしは早口で説明した。「2月以降は、こちらで対応する予定なので、10月から1月末までの、5カ月で結合テストまですべて終えていただく必要があります」
ちらりと見ると、八木社長も片寄さんも、真剣な顔でメモを取っている。メモも取らずにわかった気になって、後で何度も同じ質問をしてくるエンジニアがたまにいるが、この人たちは違うようだ。あたしは少し安心した。
「必要な画面数は、40から50画面ほどになる予定です。画面のサンプルはメールでお送りしていますが、ごらんになっていただけましたか?」
「拝見しました」
「どうでしたか? 1つの画面を、どれぐらいで実装できそうでしょうか?」
「片寄さん、どうかな?」
片寄さんはメモから顔を上げ、あたしを見ながら訊いた。
「フレームワークは何ですか? Strutsですか?」
「すみません。まだ決めていません」
これは半分ウソだった。完全に決めたわけではなかったが、WebフレームワークはSeasarプロジェクトのTeedaを使おうと考えていた。画面のHTML部分だけは、開発グループのメンバーで、デザインが得意な社員に任せるつもりだったのだけど、JSPだとそいつが拒否反応を示すからだ。
「それが決まらないと正確にはわかりませんが……」片寄さんは了解を得るように八木社長の顔を見た。「1画面4日間というところでしょうか」
「4日ですか?」あたしは自分の耳と相手の正気を疑った。「4日で単体テストまでできますか?」
「ええ、まあ、大丈夫だと思います」
「でも、フレームワークによって変わってきませんか?」
「大抵のものはできると思います」
「それはすごいですね」磯貝課長が感嘆した。「別の会社のSEさんは、1画面7日と言ってたんですよ」
「うちには優秀なのがそろってますから」八木さんが自慢そうに言った。
「仕様書はいただけるんですよね?」片寄さんが聞いた。
「それほど細かい仕様書は作れませんが、大丈夫ですか?」あたしは確認した。
これはアプローチしたどの会社にも聞いていることだった。期間的にも、工数的にも、画面毎の細かな仕様書など書いている余裕はない。うちは概要だけ伝えて、実装からテストまでやってもらえるのがベストだった。これまで会ったSIerの中には、あからさまに嫌そうな顔をしたところもある。確かに、仕様の食い違いなどが発生したときの責任の所在が不明確になるので、気持ちは理解できるといえばできるけど。
「大丈夫です」片寄さんは答えたが、念のため、というように付け加えた。「途中で仕様が大きく変わったりしなければ、ですけど」
「そういうことはないと思います」
外注しようとしているのは管理系で、マスタメンテナンス画面がほとんどだ。項目の増減ぐらいはあるだろうけど、仕様自体が大幅に変わることは想像しにくい。そう伝えると、片寄さんは明るい顔でうなずいた。
「それなら大丈夫です」
「まあ、わからない部分は、随時、相談させていただくということで」八木さんがまとめた。「片寄が窓口になりますから」
もう1つ、確認しておかなければならない点がある。
「ちょっと心配なのが、横浜と名古屋の距離なんですが……」あたしは懸念していたことを口にした。「何度か打ち合わせなども必要になってくると思いますが、毎回、こちらまで足を運んでいただくのは……」
「ああ、そのことでしたら大丈夫です」八木社長は笑った。「実は、来月、東京営業所を開設するんですよ。首都圏の仕事も取っていきたいのでね。で、片寄は、しばらくそっちで開発をやってもらう予定です」
「なるほど、そういうことですか」それなら距離的にはたいしたことはない。「場所はどちらに?」
「二子玉川です。駅から10分ぐらいの新しいビルなんですよ」
「にこたまですか。田園都市線ですね」
「ええ、こちらに来るのも、それほど時間はかかりませんよ」
――おたくに決まれば、だけどね
あたしは心の中でつぶやいた。
その後、技術的なポイントを数カ所確認した後で、話は費用面へと移った。八木さんは、持参してきたノートPCに想定工数や、画面数などを打ち込み、あたしたちに画面を見せた。
「大体こんなところでいかがでしょう?」
合計金額を見た磯貝課長が、驚きの声を上げた。
「え、これでできるんですか!」
Excelシートに表示された金額は、これまでに話を聞いたSIer各社の提示金額と比較すると、一番安かった会社と比べても、実に70%以下になっていた。想定工数が少なめであるためだろうが、人日単価も相当安く設定しているようだ。
「本当に大丈夫ですね?」
あたしは念を押した。もし前の職場で、こんな見積もりを出したら、ただのドMにしか見られないだろう。
――これで赤字にならないのかねえ
よほどこの仕事を受注したいのだろう。あたしは少し気の毒になった。
今後も継続した受注が期待できるのなら、最初は赤字覚悟で実績を残し、次の案件で利益を出していくことも営業手法の1つだろう。でも、この規模の新規開発が発生することは、この先数年はまずありえない。今回の勤怠管理システムのリプレイスだって、人事部が何年も稟議をあげていたらしいから。もちろん機能追加や変更は発生するだろうけど、小規模な開発なら、開発グループ内でやってしまうだろう。二次開発という規模になれば、同じ会社に発注するだろうけど、あるかどうかも定かではない話だ。
「がんばらせていただきます。どうかよろしくお願いします」
八木社長と片寄さんは、深々と頭を下げた。
打ち合わせは30分ほどで終わり、八木さんたちは期待感あふれるお辞儀を残して帰って行った。横浜――名古屋間の交通費を考えると、もったいない気もする。
「どう思いましたか?」
あたしはITマネジメント課に戻りながら、磯貝課長に訊いてみたが、返ってきた答えは予想通りだった。
「ホライゾンさん、いいじゃない」声が弾んでいる。「この金額は予想外だったねえ。こんなに安くやってもらえるなら、言うことないよ。さすが、日比野くんの知り合いだけあるねえ」
――だから違うってば
「……金額は確かに安いですね」
「何か問題があったかな?」あたしの声が冷静すぎたのか、磯貝課長は不思議そうな顔で訊いてきた。「技術力とか?」
「技術力は、結局、話だけでは何とも言えないですよ。あたしが心配なのは、想定工数です」
「工数? 工数の何が?」
「ちょっと少なく見積もりすぎじゃないかな、と」
サンプルとして渡した画面レイアウトは一般的なマスタメンテナンス画面だったが、それでも入力画面、確認画面、完了画面の3画面があり、入力画面には検索機能やExcel形式でのダウンロード機能、PDF形式での印刷機能、CSVファイルからのインポート機能などの各種機能のボタンもある。いくつかのコードは、ポップアップ形式で他のマスタや、XMLファイルから値を選択する仕様だ。すべての画面でこれらの機能が必要なわけではないが、あたしとしては、最大限、これぐらいの機能を実装しなければならない可能性がある、という意味を持たせたつもりだった。仮にあたしが受注する立場で積算するとしたら、原価工数として8人日、営業工数として10人日あたりが妥当かつ無難な線だろう。
あたしが説明すると、磯貝課長は少し困ったような顔をした。
「それだけ技術力に自信があるってことじゃないの?」
「そうかもしれませんが、フレームワークも決まってないんですよ? まったく経験のないフレームワークだったら学習コストもかかるでしょうに」
あたしたちはITマネジメント課のフロアに戻った。
「どんなフレームワークでも、それなりに対応する自信があるんじゃないかなあ」磯貝課長は課長席に座りながら、あたしの懸念を軽く流した。「まあとにかく、これで候補はそろったわけだね」
「そうです」
「じゃあ、時間もないし、今日中に選定しちゃおうか。これまでの候補会社一覧に、ホライゾンさんのデータを入れて、まとめておいてよ」
「わかりました。ちょっと休憩してからやります」
1時間後、あたしは、候補となった会社の一覧表を前にして、ミーティングスペースに座った。頭痛のやつは一杯の甘いミルクティーと、2錠のナロンエースアールで、なんとか押さえつけている。携帯電話をいじりながら待っていた磯貝課長は、あたしの顔を見るとパチンと携帯を閉じた。
「よし、じゃあ、さっさと片付けようかね」
「はい」
あたしは、これまで面接した6社の特徴と見積金額を順番に読み上げていった。とはいえ、磯貝課長のイチ推しがホライゾンシステムであることは明らかだった。技術面ではあたしの意見が有効なのだが、正直なところ、あたし自身がどの会社も大差なし、という印象しか受けなかったので、決め手にはならなかった。
「じゃあ、もう、金額面で決めるしかないんじゃないかな」20分ほど検討した後、面倒になったらしい磯貝課長は、強引にまとめにかかった。「他にこれといって差が見られないわけだしね。安くあげられるなら、いろいろ有利だよ」
課長が言外に匂わせているのが何なのかは、よくわかっていた。経営戦略本部からは「できるかぎり安く!」と念を押されている。一応の予算は確保されていたが、ホライゾンシステムの見積を選択すれば、大幅に安く開発できる。それはあたしたちにとって、有利な評価となりうるのだ。
――そういうのはボーナス査定に影響ありそうだしね
もともと開発グループは、期末の査定に有利な評価材料を出しにくい。新規の開発は少ないし、あっても社内向けなので売り上げがあるわけでもない。業務システムの保守も同じだ。逆にシステムトラブルが発生し、対応をミスれば、確実に減点対象となる。
もしも、この開発プロジェクトを、想定より安く完成させられれば、あたしにとって、久しぶりのプラス評価材料だ。
「まあ、確かに、そうですね……」
あたしは金の力の前に膝を屈した。あたしたちは、勤怠管理システムのリプレイスを、ホライゾンシステムに発注することに決めた。
この決定を、その後、あたしは何度も後悔することになる。
(続く)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術・製品の優位性などを主張するものではありません。
コメント
豚
新作キタ━(゜∀゜)━!!
embedor
キタワァ.*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!☆
elseorand
これからの連載楽しみにしております。
ただ、「ソースを見ずに開発者を決める」という最初から暗雲立ちこめる展開に、怖気を感じてしまいます。
みなさま、どうも。リーベルGです。
今回はちょっと視点を変えて、社内SEの立場からの物語となります。
第1章は話の切りどころが見つからず、少し長めになってしまいましたが、第2章からは、もう少し短めになる予定です。
毎週、月曜日(祝日の場合は翌日)の朝、公開です。
FIRE
新作が始まりました。
今回も、何かきっかけがつかめればと思い、
楽しみに読ませていただきます。
作者も、体調不良などにお気をつけてください。
panda
展開が楽しみです。「あたし」が目について読みづらく感じましたが、そのうち慣れるかな(^^;
tk
楽しみにしています!
rurie
初回打ち合わせに1秒でも遅れてくる会社は必ず納期を破る。
コレ豆な。
レモンT
おお、新作開始ですね。しかしまた例によってしょっぱなからタイトルが強烈ですね。勘定に入れないのはせめて犬にしてくださいな(といいつつ元ネタ読んだ事は実は無いんですが。これも一つの機会だし読んでみようかな)。
『あたし』はもしかして新井素子さんリスペクトでしょうか。昔よくやったなぁ。
それでは、次回以降も楽しみにしています。
vier
私も「あたし」が気になりました、、
しかし、エースシステムはほんとにダメだなw
BEL
今なぜかこのページがアクセスランキング8位に。
どこからかリンクされたかな?
そういえば新作6月って言ってたけど、もうそろそろかな。
はど
軍用のロジスティクスですか。
要求仕様がどんな感じになるのか気になります。
MILスペック準拠になるんでしょうかね。