いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

目に見えるものしか信じない人へ

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見えないのは幽霊とかだけじゃない

私は幽霊を信じる派だ。ただし、巷でやってるようなオドロオドロしいものではない。そこら辺を飛んでる鳥みたいなものだ。人間が意識しないから見えないだけで実在する。実は鳥だって木に止まってる時にしか肉眼で認識することは難しい。飛んでいる時の動きが素早いので、見えているようで実は見えていない。また、保護色が効いているので意外なところに潜んでいることもある。

「目に見えるものしか信じない」という人の話はあまり信じないことにしている。こういう人は目に見えないものに足元をすくわれる傾向が強いからだ。こういう事を言う人に限って、自分に何が見えているか全く考えていない。オカルトな話を持ち出すまでもなく、情報の認知視野や動体視力、思考速度による認知率の変化、一括処理できる情報量等、人間である以上見える範囲の限界がある。

話がかなりぶっ飛んできたので、身近なところで考えてみる。原因不明のトラブルが起きたら、原因が見えない。ずさんな計画を立てれば、行く先が見えない。困難な問題にぶつかると、突破口が見えない。パフォーマンスに問題があると、ボトルネックが見えない。見えないものなんていくらでもある。見えるものを求めるより、見えないものへの対応の方が本質じゃないだろうか。

「その見えるって、視覚じゃないぞ!」とツッコミを入れようとした人。よく考えて欲しい。私たちは見ているのではない。認知しているのだ。目が電気信号として受け取っても、脳が認知しなければ見てないのと同じだ。また、視覚ではなくても脳が認知すればいろいろなものが見えてしまう。見えるというのは感覚だ。目だけで感じるものじゃない。

目に見えるものが真実とは限らない

例えば、システムを構築する際に設計書などを作成したとしよう。Excel方眼紙でゴチャゴチャやっても設計書だ。マークダウンなんかで書いても設計書だ。もちろん、単なるテキストデータで書いても設計書だ。だいたいの人は「情報が網羅されていればOK」という結論を出す。実際に作成した設計書を読めば、データを目で見て確認することができるからだ。

だが、九割の人がここで引っかかる。データの見せ方を考えていないので、同じ情報を書いても認識のされかたが全然違ってくるのだ。まず、同じ情報を記載したとしても情報がカテゴライズされているのといないのとでは、読んだ人の理解度が全然違ってくる。また、視認性を考慮せずにドキュメントを書くと、思わぬ見落としが大量に発生する。

情報は見えているが、見せ方によってこういう差がでる。目に見えるものというより、最終的に認知されるものが全てだと考えている。単に目に映ったものを「見えるもの」と考えるか、どう認知されるかまで含めて「見えるもの」と考えるかによって、目に見える結果に大きな差が生じる。しかし、何をもって見えるとするかは、人によって大きなばらつきがある。

「目に見えるもの」を重視するなら、せめてドキュメントの書式くらいは整えて欲しいものだ。あわよくば、どのように書くと見やすくなるのかは勉強して欲しい。Excelの罫線を表示したままや、改ページプレビューでページ番号がすかしで表示されているようなドキュメントは勘弁して欲しい。「目に見えるものしか信じない」というより、「頭使うのがおっくうなので見てるだけ」になってるように思えてしまう。

既知と未知へのアプローチ

「目に見えるものしか信じない」という人の話を良く聞くと、既知のものを重視するというのがどうも意図だったりする。あとは見た後の裏付けだ。見たという事実とそれが何なのかという情報が一致すれば既知になる。そう考えると、「目に見える物しか信じない」という考え方は堅実だと思う。非常に素晴らしい考え方だが創造性は無い。

もし、既知のものにしか目を向けなければ、自分の認識している事象で未知のものが少なくなる。「人類は世界のほとんどを知り尽くしている」という思考の傾向が強くなる。一方、未知のものに多く目をむけるなら「人類の認知できる世界はこんなにも狭い」という思考の傾向が強くなる。思考の傾向の差で、見えている世界の広さに差が生じてくる。

未知のものに目を向ければ、それだけ見える世界は広くなる。その分、創造性は高くなる。だが、じぶんの思考力を超えた範囲でものを見ると、思考がまとまらなくなって支離滅裂なことを言うようになる。なので、既知のものを重視するか、未知のものを重視するかは一長一短だ。両者のバランスを上手く保っていくことが重要だ。

例えば、システムの障害でLogを確認する時は「目に見えるものしか信じない」でいいと思う。データに出ていない事を想像で語られると困る。しかし、アイディアを出すような場面で「目に見えるものしか信じない」という発想では突き抜けたアイディアは浮かばない。「もしかしたら」や「あっそうだ!」のような根拠のないような発想も重視されるからだ。

見えないものを現実にしていくのがエンジニアだ

個人的な感覚では「目に見えるものしか信じない」という人はあまり好きではない。目に見えないものを形にしていくのがエンジニアだからだ。むしろ「五感を研ぎ澄ませ!」という人の方が好きだ。そのせいか、絵を描く人や楽器をやる人とやたらと話が合う。私は、エンジニアと言いつつフィーリングを重視するので、特異な人の部類に入ると思う。

新しいサービスを始めるにしても、最初からビジョンが見えている人なんていない。そもそも、ビジョンなんて実在するものじゃない。頭の中の想像に過ぎない。想像したものを色々な手法で形にした時に初めて、ビジョンが実体を持つ・・・。と言いたいところだが、実体を持ったらそれはもうビジョンではない。現実だ。

エンジニアが現実を追いかけているのでは遅い。実現した後のものを追いかけてもせいぜいが二番煎じだ。最先端をいきたければ、まだ実在していないものを追求することになる。「目に見えるものしか信じない」では、エンジニアとしてどうしても後手に回ってしまわないだろうか。目に見えないものを見えるようにしていくのがエンジニアだ。

見えないものへのアプローチは、幽霊やUFOを信じるのと似たようなところがある。スタート時点では理論は一切存在しないからだ。好奇心やら悪ふざけの発想、なんとなくな閃き等、理論とはかけ離れた発想からスタートしてイノベーションを起こした人はたくさんいる。未知や非合理的な話を嫌ってばかりではイノベーションは起こせないと私は考える。

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