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「魔法の天使クリィミーマミ」に見る職業観

2010/01/20 17:30:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2007年1月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。

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 日本でも、企業の吸収・合併・解散が増えてきた。自分の職業人生の将来に不安を覚える人も多いだろう。職業というのは「食っていければ何でもよい」というものではない。誰でも、自分がこうありたいと望む姿を思い描いているのではないだろうか。これを「自己実現」と呼ぶ。今月は、自己実現について考えてみよう。

●「魔女の宅急便」に見る自己実現

 日本が、世界に誇る文化と言えば、いまや「アニメ」と「マンガ」である。そして、現在活動中のクリエーターで、世界で最も評価されているのが宮崎駿である。彼の作品で、筆者が最も好きなのは「魔女の宅急便」である。ただし、マニアの間では「魔女宅」(マニアはこう略す)は必ずしも高い評価ではないようだ。むしろ「風の谷のナウシカ」の方が人気は高い。理由は筆者には分からない。

 筆者が「魔女宅」で最も気に入っている点は、主人公が特別な力を持たないことと、職業を持って自立していることである。主人公のキキは、魔女といっても見習いで、ほとんど唯一の能力が「ほうきで空を飛ぶ」ことだ。しかし、キキは自分の唯一の能力を生かし「宅急便」を開業する。

 角野栄子氏の原作によると、配達の固定料金を設定せず、顧客から「お裾分け」をいただくというビジネスモデルまでも作り出している(映画では「お裾分けモデル」についての詳細は言及されていない)。

 原作2作目で、キキは自分のあるべき姿をいったん見失うが(このあたりには映画版の影響が見られる)、最終的に宅急便ビジネスを継続し、新しい市場にも進出する。別のことをやりたいからといって、現在の仕事を辞めたりはしない。着実にキャリアを積んでいるようだ。

 「自分のあるべき姿を具体化すること」を「自己実現」と呼ぶ。自己実現は、偶然できるものでも、誰かが与えてくれるものでもない。数少ない自分の能力を伸ばした結果として獲得するものである。仕事に向き不向き、好き嫌いはあるが、それを見極めるのは一定の努力のあとにしたい。

●「魔法の天使クリィミーマミ」に見るプロ意識

 宮崎作品ほど有名ではないが、筆者の好きなアニメに「魔法の天使クリィミーマミ」という作品がある(ちょっと変わった表記で間違えやすいが「クリーミィ」ではなく「クリィミー」)。小学生の少女(森沢優)が、「夢嵐」に巻き込まれた「フェザースターの船」を助けたことから、お礼に1年間の期間限定の魔法をもらう。

 多くの魔法少女アニメは、最初から魔法が使える上、何らかの使命を帯びているか、勝手に使命感を持つ。

 しかしクリィミーマミではこうした使命とは無縁だし、使える魔法も「17歳の女性に変身する」くらいである(ただし、ドアの鍵を開けるなど、細かい魔法は時々使えるようだ)。

 状況は、割れた鏡の供養をしたお礼に変身コンパクトをもらう「ひみつのアッコちゃん」に近い。しかし、アッコちゃんはコンパクトで何にでも変身できるし、筆者の記憶する限り、魔法の力を自分の好奇心を満たすためだけに使ったりはしない。けっこうまじめなのであるが、その代わり人間としての魅力にも乏しい。

 森沢優は、もらった魔法を単純に面白がって使う。そのうち、成り行きでアイドル歌手としてスカウトされ「クリィミーマミ」として仕方なくデビューしてしまう。ところが、アイドルの仕事を始めてから徐々にプロ意識が芽生える。偶然得た仕事であるにもかかわらず、引き受けたからには最後までやり通す。その理由は「他の人が困るから」だ。小学生とは思えないしっかりした考えである。

 与えられた自分の能力を生かし、成長していく姿に感動した人は多いらしい。特に、女性からの支持は圧倒的だという。GYAOでの配信に続き、2006年9月からは「Yahoo! 動画」での配信も始まった。それだけファンが多いということだろう。たとえば10月22日現在で、GYAOのレビュー満足度評価ランキングは2位。ただし、1位の評価者は全部で3人なのに対して、2位、つまり、クリィミーマミの評価は439名なので、実質的には1位である。ちなみに3位は109名だった。

●人に認められるということ

 「フェザースターの船」を助ける方法も示唆に富む。森沢優は、単にフェザースターの船を「見た」だけだ。道案内をしたわけでも、地図を渡したわけでもない。ただ「見て認識した」だけだ。フェザースターの船は、他者が認めることで、進むべき進路を発見できたという。

 最近、学校にも行かず、定職にも就かない、いわゆる「ニート」が増えているらしい。「ニート(NEET : Not in Education, Employment or Training)とは、15から34歳の非労働力人口のうち、通学や職業訓練などを行わない者を指す。ニートが本当に増えているのか、増えている理由はなぜか、その理由は普遍的なのか、また、失業状態なのか、それとも就職する気がないのか。そうした分析は筆者の手に余るが、1つ思うことがある。あくまでも「想像」であるが、ニートの多くは人から認められた経験が少ないのではないだろうか。人から認められるには、それなりの努力が必要だ。認められるには時間がかかる。時には、自分で意識していない部分が認められることもある。しかし、どんな面でも、他人に認められることは、励みになるし、もっと頑張ろうと思うのが普通だ。

 調べてみると、運動会の徒競走で順位付け廃止が流行したのが10年ほど前だという。ニートの学生・生徒時代とちょうど重なる。順位付けを廃止しても、足の遅い子が速くなるわけではないので、足の遅い子の劣等感が解消されるわけではない。筆者の経験から言うと、劣等感のピークはゴールの瞬間にあり、表彰台ではない。そもそも表彰されないのだから、何も感じないわけだ。しかし、表彰をなくすことで、足の速い子のやる気は確実にそがれたことだろう。

 公の場で評価されるのが、試験の結果だけだとしたら、受験勉強の不得手な人の成功体験はほとんどなくなる。同じ運動でも、中学高校になればクラブ活動の成果として評価される。そうなると、レベルも上がり、徒競走で一等だった人も埋もれてしまうことが多いだろう。そのため「成績はそれほどでもないけどクラスでちょっと運動ができる」生徒が評価されることはない。

 ニートをサポートするためのインターネットラジオ「オールニートニッポン」では、以下の4つのコンセプトを掲げてニートをサポートするという(命名はオールナイトニッポン世代なんでしょう)。

  1. リアルタイムでダイレクトな情報提供を行う
  2. 同世代のひきこもっている若者、働けない若者、生きづらい若者、頑張っている若者の現状やストーリーを取り上げる
  3. 双方向のコミュニケーションを重視する
  4. 若者の出会いや何かをやってみる場所としてオールニートニッポンを提供する

 こうしてみると、他者との関係性に重点を置いていることが分かる。特に2のコンセプトは、その人を認め、評価することにつながるだろう。日本の労働人口は減少傾向にある。こうした試みが成功し、不就労者がいくらかでも減少することを願う。

●今、何をすべきか

 読者のみなさんの中には、転職を考えている人もいるだろう。転職を視野に入れて仕事をすることは決して悪いことではない。自分の能力を客観的に評価できるからだ。

 しかし、実際に転職する前に考えてほしいことがある。今の仕事に真剣に取り組んだかということだ。どんな仕事でも、真剣に取り組んでみないと、その良さは分からない。自分の能力の限界も判断できない。「自己実現」は、自分のやりたいことを自分の能力のバランスを取りながら獲得するものだ。

 それから無職の方へ。「自己実現」は、最近流行のキーワードである。あるべき自分の姿を見つけるために旅に出るという話も聞く。確かにチェ・ゲバラのように、旅行中に自分が成すべき使命を獲得する人もいるだろう。しかし、中途半端な観光旅行などしてもしょうがない。まずすべきことは就労である。

 定年退職した人にも言いたい。定年をすぎても老後は長い。趣味に走るのもいいし、そばを打つのもいいが、今の時代、隠居するにはちょっと早い。今までの経験を生かして、後輩指導にあたって欲しい。そういえば、IT系の雑誌記事の著者陣は、ここ数年来、あまり代わり映えしない。会社というしがらみを離れた定年後こそ、経験に裏打ちされた記事を書くチャンスではないだろうか。

 ニートにしても定年退職者にしても、無職の人がやるべきことはこれだ。

 自分探すな職探せ

■□■Web版のためのあとがき■□■

 少女アニメで、女性にも人気があるものと言えば「魔法のプリンセスミンキーモモ」だ。2010年1月時点でのWikipediaには「どんな職業の大人にでも変身できるという設定は、文字通り女の子に夢を与え、かなりの人気を博した」とある。

 「ミンキーモモ」が放送されたのは1982年から1983年。日本が女性差別撤廃条約に署名したのが1980年、批准に伴う男女雇用機会均等法の施行が1985年である。こうした動きが子ども番組にも影響していたのかもしれない。ちなみに、本文中で登場した「クリィミーマミ」は1983年から1984年の放映であるので、やはり雇用機会均等法の時期である。

 その他に、女の子に人気のあったアニメといえば「キャンディ・キャンディ」(1976年から1978年)を忘れてはいけないだろう。孤児院で育ったキャンディス・ホワイトも、大人になってから看護婦として働く。女性の職業としては少し古い感もあるが、あまり先進的な職業にするとストーリーが脇道にそれてしまったかも知れない。今どきのアニメは、職業を持たなければ支持されないと断言しても良いだろう。

 ただし、こうした傾向は独身女性に限られる。もう何年も前から、既婚女性の過半数は働いているにもかかわらず、「働く母親」はもちろん「働く既婚女性」すらほとんど登場しない。アニメばかりか、ドラマでもそうである。

 まれに登場したとしても、必要以上に気負った存在だったりする。見ていて「そんなに頑張って仕事せんでもええんちゃうの」と思わず関西弁に戻ってしまうくらいである。

 今の時代、女性がキャリアを求めるのは、そんなに大変なことではない。もちろん「ガラスの天井」と呼ばれる障壁があり、暗黙の圧力により昇進の道が閉ざされている現状はある。しかし「ふつうに」仕事をしている女性が多いこともまた確かである。アニメやドラマにも、もっと「ふつうの」女性が登場してもいいのではないだろうか。

 「魔法のプリンセスミンキーモモ」には、同タイトルの続編が1991年から1992年に放映されている。Wikipediaには「この時期には女性が社会で活躍するというのが普通になってしまい」とあるように、大人に変身する魔法はほとんど使われなくなった。「女性が職業を持つ」ことがテーマにならないなら、次は「母親が職業を持つ」ことがテーマになると思うのだが、いかがだろうか。

ITエンジニアのキャリアパス

2010/01/05 19:15:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年12月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。

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 IT業界には実にさまざまな職種がある。その中には、IT業界に入って最初に務める職種もあれば、一定のキャリアを積んでから務める職種もある。また、意図的、あるいは偶然に職種転換を行うこともある。

 今月は、ITエンジニアの職種転換、つまりキャリアパスの話である。誌面の都合で今回はプログラマ系の職種に限定するが、他の職種でも成り立つ部分があるはずだ。

●ITエンジニアの職種

 同じITエンジニアであっても、職種によってステータスが違う。高いステータスの職種は、それだけ多くの経験が必要とされているからだ。筆者が日頃から感じている主観的序列は以下のとおりである。

  1. コンサルタント(顧客の潜在的な要求を具体化する人)
  2. アーキテクト(その要求を実現する方法の全体像-アーキテクチャ-を決める人)
  3. システムエンジニア(そのアーキテクチャに従って、具体的な実現方法を決める人)
  4. 上流プログラマ(具体的な実現方法に従って、プログラムの構造を決める人)
  5. 下流プログラマ(プログラムの構造に従って、実際のプログラムを作る人)

 IT系エンジニアとして仕事を始める場合、通常は下流プログラマからスタートする。「下流」といっても「二流」の意味ではない。IT業界ではハードウェアに近い方を「下」、顧客に近い方を「上」と呼ぶ習慣がある。

 下流プログラマは、コンピュータで動かすプログラムを直接作る作業を担当する。与えられた条件で、最高の性能を実現し、読みやすいプログラムを作成することが下流プログラマの仕事である。

 ただし下流プログラマの仕事の中には、本当に単純な作業も含まれる。最初に担当する仕事はそういう作業だ。

 下流プログラマの経験を積んだら、上流プログラマに徐々に移行する。上流プログラマは、与えられた問題解決の手順(アルゴリズム)やデータの表現方法(データ構造)を考える。抽象度の高い仕事なので、プログラムの動作を深く理解していないと務まらない。コーディングを知らない上流プログラマは実現不可能な案を提案しがちだし、アルゴリズムとデータ構造を知らない下流プログラマは保守性の悪いプログラムを作りがちである。レベルの高いエンジニアになるには上流・下流両方のスキルが不可欠である。

 システムエンジニア(SE)は、上流プログラマの仕事の一部も担当するが、主な仕事は顧客にインタビューして、顧客が何をしたいのかを明らかにすることである。そういう意味ではコンサルタントの仕事も含まれる。コンサルタントは、顧客の潜在的な要求を引き出し具体化する人だ。

 最近では、1つのプログラムが巨大化しているし、複数のプログラムを連係して使うことが増えてきた。そのため、プログラムの全体像を、首尾一貫した整合性の取れたものにしておかなければならない。こうした仕事をする人がアーキテクトである。

 アーキテクトの仕事は元々SEや上流プログラマが行っていたが、最近は独立した職種になってきた。一般的にはSEや上流プログラマの次のステップとされている。アーキテクトからコンサルタントに移行する人もいる。

 さて、こうして列挙してみると、ITエンジニアのキャリアパスは、5から1へ向かっていることが分かる。ステータスもそれにつれて高くなる。このように、キャリアパスとステータスが連動しているのは健全な姿である。

 もちろん、プログラムを書くのが好きな人もいるだろう。そういう人は下流プログラマに留まっても構わない。ただ、自分の作ったプログラムが、システム全体でどのように役立っていて、作ったシステムが顧客のビジネスにどのように影響を与えているかを知っておくことは、良質な仕事をする上で不可欠だ。そのためには、SEやアーキテクトとしての仕事を知っておくことは悪くない。

●ITエンジニアのキャリアパス

 実は、多くのエンジニアが悩むのはエンジニアのキャリアパスではなく、マネージャになるかどうかの選択である。多くの人は、SEを務めたあたりで一般管理職にならないかという打診がある。

 ほとんどのエンジニアはここで迷う。マネージャになると、自分の好きな技術から遠ざかってしまうからだ。中には「プレイング・マネージャ」として活躍する人もいるが、それで成果を出せる人は決して多くない。マネージャとしての仕事とエンジニアとしての仕事を両立させるのは非常に困難である。

 一流スポーツ選手が一流監督になるとは限らないように、一流エンジニアが一流マネージャになるとは限らない(*1)。マネージャになっても成功するとは限らないという不安があるので、迷いはますます大きくなる。

 もっと問題なのは、いったんマネージャになったら、エンジニアに戻る方法が事実上ないということだ。多くのIT系企業は、「マネージャとエンジニアは対等であり、職種転換は可能である」と主張する。しかし、実際にはエンジニアからマネージャへの転換は多くないような印象を筆者は受けている。一般には、エンジニアからマネージャへの転換「降格」という印象を持つ人が多いことも原因の1つだろう。

●まずやってみる

 しかし、そうしたリスクがあったとしても、もしマネージャになる機会があれば、受けた方がよいと思う。もしかしたら、自分の隠れた才能を引き出してくれるかもしれないからだ。最悪でもマネージャの仕事が何なのかを知ることができる。これは、今後の職業人生に大きなプラスになる。

 ただし、マネージャとして成功しなかった場合や、マネージャの仕事にどうしても興味を持てなかった場合のリスク対策は必要だろう。まず、成果を出せなかったらエンジニアに戻してもらうように言っておく。もっとも、こうした約束はあまり期待しない方がよい。すぐ反故にされる。

 転職は1つの選択肢だ。何かが嫌で転職することはおすすめしないが、何かしたいことがあって転職するのは悪くない。ただし、転職先の本当の状況は分からないという大きなリスクもある。

 筆者がおすすめする方法は、自分が進みたい方向の業績で、社外で有名になることだ。ただし、社外「だけ」で有名になると、社内での評判を落とし、自分の意見が通らなくなるので注意して欲しい。

 社内に有名人を抱えていると、経営者は、その力をもっと発揮させたいと思うものだ。さらに直接的には、重要な得意先の、なるべく偉い人にお願いするという方法もある。「ところで、XXXさん、最近現場に出てないようだけど何してるの」と聞いてもらう。

 圧力をかけるような言い方だと反感を買うかもしれないが、最悪の場合はそれも選択肢の1つだ。この時、自分の直属上司ではなく、さらに上の職位の人、たとえば事業部長と話をしてもらおう。事業部長は、きっと「XXXって、誰だ」ということになるだろう。調べたら、どうも一流エンジニアだったのに、マネージャになって成果が出ていないらしいということになる。「だったら、いっそエンジニアに戻そう」と話が進む(かもしれない)。これでうまくいかなければ、自分の力量が足りないということだ。別の方法を探して欲しい。

 有名になる方法で、手っ取り早いのはオンラインコミュニティへの参加である。Windows系のエンジニアなら、Microsoft MVPになるというのも効果的だ。最近は人数が増えてきて、MVPの価値も相対的に低下したようなきらいもあるが、それでも効果はある。少なくとも、マイクロソフト社内での知名度向上には貢献する。

 オンラインコミュニティで頭角を現し、MVPに選出されるには、それだけの技術力と自分の技術力をアピールする力が必要なことはいうまでもない。単に「有名になりたい」だけではだめだ。だからこそ効果があるのである。優れたエンジニアは、自分のキャリアパスを自分で選択できる。しかし、そうでなければ選択の余地がないどころか、首を切られる恐れすらある。厳しいようだが頑張って欲しい。

 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。[マタイによる福音書25章29節(新共同訳)](*2)

 (*1)「優秀なマネージャになったエンジニアはいない」とマイクロソフト社員に言われたので「Bill Gatesがいるじゃないですか」と答えたら「それはどうかなあ」と返された。経営者としては優秀だが、マネージャとしてはそうでもないかもしれない。古川享氏のブログを読んでそう思った。

 (*2)これは、与えられたタラントン(当時のお金の単位、英語ではtalent)を使って儲けた人と、何もしなかった人についてのエピソードである。タラントンは、タレント(才能)の語源となった。

■□■Web版のためのあとがき■□■

 エンジニアのキャリアパスが問題になるのは、上級エンジニアのステータスが低いからではないかと思う。では、エンジニアのステータスを上げるにはどうすればいいだろう。筆者は2つの条件があると考える。第1に「上級エンジニアの給料が上がること」、第2に「上級エンジニアが尊敬の対象になること」である。

 上級プログラマの生産性は、初級プログラマの10倍に至ることも珍しくない。数ある職業で、これほど差の付く分野はそれほど多くない。にもかかわらず、給与はせいぜい2倍だ。おそらく部長の給料よりは安いだろう。これではやる気も出ないし、目指すべきキャリアパスとは言えない。

 給料が安くても、社会的なステータスが高ければ満足できる人もいるだろう。しかし、エンジニアは尊敬の対象となるだろうか。同じ技術系でも、科学系だと大学教授のような名誉職がある。大学教授の給料は決して高くないが社会的ステータスは高い。たまに不祥事を起こす人もいるが、ニュースになるということ自体ステータスの高さの表れだろう。ところが、エンジニアが工学系の大学教授になったという話はそれほど多くない。筆者の知人に限れば数人である。決して少なくはないが、一般的なキャリアパスではない。

 筆者自身、答えは持っていないが、そろそろ引退の時期を模索する年齢が近づいてきた。継続的に考えていきたい。

お持ち帰り残業

2009/12/25 19:52:11

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年11月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。

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 かつて「ふろしき残業」というものがあったらしい。書類をふろしきに包んで自宅に持ち帰るからだという。今は多くの書類が電子化されているため、持ち帰り残業はもっと手軽になった。先月に続いて、IT業界の労働習慣について考えてみたい。

 以前、「公私混同」という話をした。時代もその方向に進んでいるようだ。たとえば「社員ブログ」。対外的には「社員による個人的なブログ」という位置づけだが、実際には明らかにマーケティングあるいは宣伝活動の一環である。主観を交えた記述をしたり、企業活動とは直接関係ない内容を書くことで「個人」を強調する。読者がブログの作者に親近感を抱いてくれれば戦略の半分は成功である。次のステップは「広告よりも友人の情報を信用する」という性質を利用して、売り上げに貢献することだ。

 社員ブログを書いている時間は勤務時間なのだろうか。労働法上は勤務時間と言えるだろう。会社の方針に基づいて遂行される業務だからだ。しかし、実際の社員ブログでは、業務とは全く関係ないことを書く場合も多い。「親近感を抱かせる」という大きな目的を遂行するためだが、そのために残業代を支払うのは変だと思う人も多いだろう。

 「勤務時間にのみ給与が発生する」という概念を捨て「公私は密接に結びついていて、明確には分離できないグレーゾーンがある」ということを認めれば、給与体系の問題は残るものの、倫理的な問題は解決する。筆者の会社でも社員ブログを始めたので、暇ならのぞいてみて欲しい(諸般の事情でブログとしての使い勝手はかなり悪い)。もちろん個人的なものである(ということにしておく)。

 社会全体として見ると、公私混同は必ずしも歓迎されていないようだ。2006年8月15日付朝日新聞朝刊(東京本社版)によると「メール残業」の広がりが懸念されているという。

 「メール残業」は「添付ファイル残業」とも呼ばれ、個人用メールアドレスに会社の書類を送り、自宅で会社の仕事を続けることを指す。自宅から会社のメールを読み書きするのも「メール残業」だ。私用メールアドレスあるいは私用PCで、私用時間に仕事をするのは公私混同だといえる。

 朝日新聞は、メール残業に否定的だ。しかし、筆者は「メール残業」のすべてが悪いとは思わない。確かに無理な長時間労働を強いられる側面はある。知らず知らずのうちに過労に追い込まれることもあるだろう。過労状態に家族ですら気付かないということもあるかもしれない。だから、メール残業の強制には筆者も反対である。だが、公私混同と過労とは別の問題だ。

 メール残業には利点も多い。筆者は、夜(なるべく)早めに帰り、食事をしてから会社のメールを読む。簡単なものにはその場で返事をするが、通常は仕事の優先順位を付けるだけに留める。翌日は、優先順位にしたがって仕事を片付ける。電子メールが普及してから「必要だけど優先順位は低い」という連絡事項が増えた。こういうものを前夜に片付けておくことができれば、仕事が楽になる。

 自営業をしていた筆者の父の勤務時間は9時から12時、14時から18時、そして21時から23時だった(ただし、日によって、また季節によってかなりばらつきはある)。高校野球のシーズンと大相撲の時期は生産性が30%程度(筆者推定)低下していたようである。

 会社勤めをしている筆者も、気が付くと似たようなパターンになってきた。高校野球も大相撲も見ないが、ドラマは時々見る。昼休みは2時間も取らないし、夕方仕事を切り上げるのももう少し遅い。しかし、だいたい似たような傾向である。

 ところで、この朝日新聞の記事、よく読むと突っ込みどころ満載である。だいたい朝日新聞は昔からハイテクに対して冷淡である。言いがかりのような反論も多い。そのあたりを突っ込みながら読むのが筆者の楽しみでもある(*1)。今回も突っ込んでみよう。

 まず、本記事の中心となる「メール残業」については「広がりへの懸念が、労働相談の現場で増している」とある。増しているのは「懸念」であって、実際に「メール残業」が広がっているわけではないようだ。また、記事には「日本労働弁護団が6月に1日だけ実施した『残業・労働トラブルホットライン』にこんな相談が寄せられた」とある。たった1日のイベントである。十分な告知はあったのだろうか。

 しかも「相談総数419件のうち、99件が長時間労働について」ということで、その割合は4分の1以下である。他にどのような相談があったか分からないので、多いか少ないかは判断できない。その他の内容がどれも5%以下だというなら多いだろうが、70%を超える内容があるなら多いとはいえない。

 さらに、弁護士の話として「添付ファイル残業の悩み相談が、ここ3~4年で目立ち始めた」とある。「目立っている」ではないし、「急増している」でもない。これでは多いのかも増えているのかも分からない。

 記事にはもう1つ「休日も携帯電話で心理的に拘束される」ことが問題視されている。しかし、これはメール残業とは無関係である。40代システムエンジニアの妻の話として「夫は、休日も自宅で仕事。寝る時も携帯電話を近くに置き、システムトラブルが起きないか、と常に心臓がドキドキしている」とある。

 だが、携帯電話がなければ出社することになるだろう。むしろ、携帯電話によって条件が良くなっているのではないか。本来なら交代制のところが、携帯電話によって1人で対処しなければならなくなったのだろうか。だとしたら確かに大変だが、記事からはそういう背景が読み取れない。

 メール残業により、会社が従業員の労働時間を把握できなくなることは問題だと思う。従業員が、過労状態に気付きにくくなることも問題だと思う。しかし、最初から従業員の労働時間を適切に管理していない会社も多い。

 IT系ではないが、かつて過労で倒れた友人は「自己管理ができていない」と叱られた。本来なら、労働組合が適切な監視を行うべきだろが、組合が柔軟性に欠けるのは先月書いたとおりである。契約社員に至っては、ほとんどの場合組合員ではないため、はじめから無視されている。

 日本労働組合総連合会(連合)では、パートタイマー社員や派遣社員、契約社員も組合員として組織化すべきだと主張しているが、現実には難しいようだ。現在の正社員の地位は、非正社員の犠牲の上に成り立っている企業が多いからではないかと筆者は想像している。

 労使なれ合いの企業内組合が非正社員を取り込むのはおそらく無理だろう。偽装派遣の問題も、本来なら労働組合が先に指摘すべきだったはずだ。

 労働組合は、産業革命後の労働条件の向上には大きく寄与したことは認める。昔は週72時間を超える勤務が当然だったが、段階的に労働時間が制限され、現在、多くの国で週40時間労働となっている。こうした流れに労働組合が大きな力を果たしたことは間違いない。

 しかし、機械の稼働時間を短縮すれば、労働時間もほぼ自動的に短縮される工場労働者と異なり、ホワイトカラーの労働はそう簡単ではない。そのため、米国ではホワイトカラーの労働時間には制限を設けていない(*2)。日本でも、ホワイトカラーについての法規制は順次緩和されている。法規制の緩和は、労働者自身が望んだことでもあるので、その傾向は変わらないだろう。規制緩和というのは「自由にやっていい代わりに、自分で責任を取ってね」という意味だ。

 日本IBMは、先進的なワークスタイルを提案・実践する会社として知られている。同社の堀田一芙常務取締役は、月曜日は自宅で仕事をするようにしているという(*3)。そして「これは(仕事する時間と生活の時間の区別があいまいな)“公私混同型”のワークスタイルだ」と言う。IBM社員もこうしたワークスタイルを実践できる。ただし、それには「社員のモラルと責任感が要求される」としている(堀田常務)。

 実際のところ、個人ブログで企業情報を流出させないといったモラルの問題や、納期に影響するほど仕事中に遊んでいるといった責任感の問題はそれほど深刻にはならないと筆者は予想する。

 ホワイトカラーの多くは「プロフェッショナル」と呼ばれる存在だ。そして、そもそもプロフェッショナルは、高いモラルと強い責任感を持つ人だ。むしろ、問題になるのは、公私が混同された中で、いかに過労を防ぐかだろう。いわゆる「ワークライフバランス」である。

 同じ量だけ仕事をしても、過労になるかどうかは個人差がある。公私が混同されているので、労働時間は過労の目安にはならない。さてどうしたらよいだろう。筆者が心がけているのは実に簡単なことである。

 疲れたら休む。

(*1)朝日新聞といえば、日経新聞とともに世界で初めて新聞電子組版システムを実現した会社である。電子組版により失業したであろう文選工(活版に必要な活字を用意する職人)の失業問題はどのように報道したのだろうか。

(*2)ビジネス・レーバー・トレンド研究会「ホワイトカラー・エグゼンプションについて考える― 米国の労働時間法制の理念と現実 ―」(島田陽一・早稲田大学法学学術院教授)

(*3) 2002年7月18日WIRELESS JAPAN 2002講演より

■□■Web版のためのあとがき■□■

 本文で紹介した朝日新聞の記事は、連載当時Webで公開されていたのだが今は読めない。残念である。

 読者からは「疲れたら休む」というのは、実は極めて難しいことだと指摘された。過労の中には知らず知らずのうちに過労になっていて、倒れて初めて気付くということもあるようだ。「公私混同」のライフスタイルを実践できる人も少数派だという指摘もいただいた。

 確かに、よほど強い意志がないと単に遊んでしまって1日が終わるかもしれない。逆に、つい働きすぎて身体を壊すということもあるようだ。

 そう考えると、入社2年目くらいまでは、時間で働く習慣を付けた方がいいかもしれない。1年目は人について仕事ができることを目標にし、2年目は1人で仕事ができることを目標にする。公私混同で成果を出すのはそのあとだ。もちろん、人によっては1年目に1人で仕事をこなせるようになるかもしれない。そうしたら、公私混同は解禁だ。

 ただし、公私混同が、逆に過労を生む可能性も知っておいてほしい。特に、責任ある仕事をしている人ほどこうした傾向が強い。それは、ひとえに仕事が面白くなるからだ。言われた仕事をするより、自分から仕事をした方が楽しい。責任が重くなればなるほど、自分から仕事を進められる機会が増える。

 「過労」というと「働かされすぎた」というイメージが強い。しかし、中には自分から働いている人もいる。本当に恐いのはこっちである。自分の限界に気がつかなくなるからだ。仕事(work)と生活(life)を混在させつつ、両者のバランスを取りながら、メリハリを付けて働けるようになったら一人前である。IT業界で働く米国人は1つのモデルだろう。彼(彼女)らは、追い込みに入ると本当に寝食を忘れて働く。しかし、休むときはしっかり休む。そして周囲もそれを認めている。

 日本の企業では難しいかもしれないが、周囲との調和を取りながらぜひ試みて欲しい。この時、自分だけではなく、同僚も休めるように考えて欲しい。そうでなければ、結局、自分が気楽に休めなくなる。日頃から、同僚の仕事の一部をカバーできるようになっておくのが理想だ。お互いのカバー範囲が増えれば長期休暇も取りやすい。そうすれば、自営業では得られない、会社勤めのメリットが生かせる。フリーのエンジニアや独立起業した人にはない特典である。

ITエンジニアの労働環境

2009/11/13 18:00:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年10月号)をお求めください。もっと面白いはずです。

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 労働環境の改善といえば、昔は労働組合の仕事だった。確かに有給休暇の徹底や不当解雇の回避など、成果はあったのだろうと思う。しかし、最近では弊害の方が大きいような気もしてきた。今月は労働組合を含めた労働環境の話である。

 「なぜ、それほど一所懸命働くのか」。昔、友人と議論したことがある。結論は「仕事が楽しいから」だった。楽しいからつい働きすぎてしまうのだが、それによって失われるものも多い。仕事には締め切りがあるし、一定の品質も求められる。これはけっこうなストレスにもなる。ただし、締め切りもないし品質の要求もないとすると、あまり面白くないような気もするので、バランスが難しい。

●ITエンジニアの時給はマクドのバイトより安い?

 ITエンジニアの労働環境は、一般的に言って悪いらしい。筆者は他の業界を知らないが、「時給換算だとマクドナルドのアルバイトより安い」という声はよく聞く(本当はIT業界の平均賃金は全業種平均を上回る)。年俸制や裁量労働制が増え、残業代が支給されない会社が増えてきたためだろう。

 実際には、年俸制でも、年俸に含まれていない残業代は支払わなければならない。裁量労働制であっても、休日出勤や深夜残業の割り増しは必要だ。逆に裁量労働制だと、勤務時間が自由になるはずだが、それほど自由ではないところも多い。もっとも、この辺の問題は、年俸制・裁量労働制固有の問題で、IT業界に限らない。

 経営者と労働者を比べた場合、力関係としては労働者が圧倒的に不利である。そのため、労働者にはいくつかの一方的な権利が認められている。労働組合による団体交渉権はその例である。しかし、IT業界で労働組合が活躍した例はあまり聞いたことがない。不当解雇の撤回なんかはあるのだろうが、IT業界は自在の流動性が高いため、解雇される前に転職する方が多いような気もする。逆に、悪い話はよく聞く。

 同業者が「研修時間は5時までですので、絶対に5時を超えないでください」と強調されたことがあったらしい。尋ねたら「組合の規則です」とのこと。確かに、研修という名目で労働者を不当に拘束することもあるかも知れない。しかし、彼らが担当したのは、社員のスキルシフトを行うプロジェクトである。

 ベテラン社員のスキルは会社の財産である。不採算部門に埋もれさせておくことは、会社の損失だし、本人の利益にもならない。特に、古い時代に教育を受けたエンジニアは基礎がしっかりしているので、新しい技術の飲み込みも早い。苦手意識さえなくせば、若手よりも早く伸びることが多い。つまり、この研修は会社だけでなく、社員の価値を高める重要な業務なのである。

 これが、午前9時から午後10時までの研修というのであれば、反対するのは分かる。それは通常の労働条件ではない。しかし「午前9時から昼休みを1時間はさんで午後6時まで」くらいなら許容範囲ではないだろうか。おまけに、1時間に1回、15分程度の休憩も取るようにしている(でないと講師が疲れる)。ここで、無理に時間短縮を主張することで、社員(労働者)に対して損害を与えていることに気付かないのだろうか。

●産めよ増やせよ?

 女性の労働環境についてもピントがずれている。最近、政府は特殊出生率の低下を心配している。それに伴い、育児休暇の延長も議論されているようだ。しかし、育児期間中は休職することを前提にしていることがそもそも間違っている。労働組合も、基本的には政府方針に同意していて話にならない。

 実際に聞いてみると、すべての女性が育児休暇を望んでいるわけではない。そうではなく、ゼロ歳児保育、病児保育、そして夜間保育の充実こそを希望している人も多い。通常の保育園は、子どもがちょっとでも熱を出すと、すぐ親(たいていは母親)に呼び出しがかかる。これでは仕事に集中できない。会社内に託児所を作る企業もあるが数は少ない。そもそもゼロ歳児を通勤ラッシュの電車に乗せるのは健康上のリスクが高い。また、企業内保育所に病児保育まで要求するのは難しいだろう。専門知識のない保育士が病児保育を担当するのは無理がある。

 女性の労働力率が高い国ほど出生率が高いというデータがある(*1)。米国で女性の社会進出が増えたのは、離婚が増えたからだという説もある。両者がリンクできるとすれば、離婚しやすい環境を整えれば、女性の社会進出が進み、出生率が増えることになる。具体的には、男女の賃金格差縮小(現在の日本では、女性の平均賃金は男性の2/3程度)、保育所の充実、暗黙の職種強制の撤廃などだ。スウェーデンで出生率が増加しているのは、シングルマザー(またはファーザー)でも子育てを支援する環境があるからだとも言われる。

 実は、日本の世帯あたり希望子ども数は、緩やかに低下しているものの、ここ数十年ほとんど変化がなく、未だに2人を超えている。子どもを望んでいないわけではないのである。子どもを産まないことではなく、結婚しないことの理由を考えた方が良いと思うのだが、あまり話題にならない。

●公私混同は悪いこと?

 話を組合に戻す。労働組合は、1970年代の高度成長期に大きな成果を上げたことは分かる。といっても、筆者自身はそのころ子どもだったので、本当のところはよく分からない。しかし、工場労働者にとっての勤務時間短縮や有給休暇の増加は、生活の質を向上させるのに直結したと想像する。実際の有給休暇消化率は低かったにしても、一定の意味はあっただろう。

 しかし、ITエンジニアにとってはどうだろう。有給休暇はいいとしても、勤務時間の一律な短縮はあまり意味がない。忙しい時期とそうでない時期で極端に勤務時間が違うからだ。システムのメンテナンスのため、勤務時間をずらしたり、休日を移動したりしたいことも多いだろう。裁量労働制は、適切に運用できれば、ITエンジニアにとって良い制度だと思う。しかし、前述の通り、正しく運用されているとは言い難い。

 筆者は、昔から「ホワイトカラーは公私混同してもよい」と主張している(*2)。仕事のアイデアはどんなときに思いつくか分からない。勤務時間中に読んだmixiの日記が大きなビジネスにつながることだってあるだろう。その代わり、深夜に会社のメールを読んで、顧客トラブルに対応することもあるはずだ。本来、裁量労働制というのは、こういう公私渾然とした勤務形態のために用意されたもののはずだ。

 そういうと「じゃ、勤務中にWeb経由で映画を見たりエッチな画像を見てもいいのか」と反論する人もいる。筆者は、周りの人に迷惑をかけず、電話などの割り込みにも対応できるなら、映画は見てもいいんじゃないかと思う。ただし、エッチな画像は常識の問題だ。会社という公共の場では、表示すべきでない画像というものがある。

 現在のように、公私の区別が強調され始めたのは、工場の稼働時間に合わせて働くようになった時期、つまり産業革命以降ではないのだろうか。家内制工業の場合は、家庭行事のため臨時休業というのはよくあった。自営業をしていた筆者父の勤務時間は9時から12時、14時から18時、そして21時から23時だった。ただし、高校野球のシーズンと大相撲の時期は生産性が30%程度低下していたようである(筆者推定)。こういういい加減な勤務態勢を嫌がる人も多いだろうが、職種によって、また人によっては許されるのではないか。何より、その方が楽しいではないか。

●政党の意見は?

 試しに「裁量労働制」を、各党のWebサイトから検索してみた。自民党は該当なし。いくら何でもそれはないだろう。ホワイトカラーの労働環境は重視していないのだろうか。公明党は1件。「製造業全盛期とは時代が違うので、労働者を保護しつつ解禁」、つまり筆者の主張とほぼ同じだ。

 野党を見てみよう。民主党は22件。こちらは「政府案」に対する反対論調が目立つ。裁量労働制そのものの評価はよく分からなかった。共産党は170件で絶対反対論調。しかも古い労働感が目立つ。「自立労働の幻想振りまくな」というタイトルも目に付いた。確かに幻想かもしれないが、理想を求めることは悪くないはずだ。理想を求めた共産主義革命だって幻想だったが、資本主義の修正には役だった。

 ところで、社民党のWebサイトには検索機能がない。論外である。筆者は、昔から福島みずほ氏のファンであるだけに残念だ。仕方ないので、Googleの助けを借りて調べたところ、裁量労働制の「範囲拡大」に対して反対論調だった。歴史を振り返ってみると「自由化」「多様化への対応」という名目で、労働環境が悪化したことが多い。野党の反応も分からないでもない。しかし、乱用に歯止めをかけながら、メリットを生かす方法を考えるのが野党の役目のはずだ。ちょっと情けない。

●あなたの意見は?

 筆者は労働組合の存在を否定するものではない。集団で交渉しなければならないときは、労働組合を作る必要があるだろう。しかし、既存の労働組合は現状を正確に認識していないようだし、組合が支持する政党も当てにならないようだ。

 では、自分の労働環境を守るにはどうしたらいいだろう。それは、自分自身が、会社にとってなくてはならない存在になることしかない。IT技術者という専門職ならそれができるはずだ。自分の力を自然に(あくまで自然に)アピールすることも忘れてはならない。「最近、システムトラブルが少ないからIT要員を減らそう」と思われては困る。

 自分が会社にとって重要な存在になれば、多少のわがままは通る(あくまで「多少」だろうが)。もちろん、妥協すべきところは妥協する必要がある。雇用主である会社の利益が減れば、自分の給与も減ってしまうからだ。

 雇用主と被雇用者は契約で結ばれた関係である。契約には、お互いの妥協点を見つけて合意することも必要だ。誰かが決めた契約に同意するだけでなく、自分で契約書を作るくらいの気持ちを持って欲しい。転職は1つの選択肢だが、長く勤務している人の方がわがままを通しやすいことも事実である。

 どんなに良い会社でも、また、どんなに政治が良くなっても、追求されるのは「最大多数の最大幸福」でしかない。「あなた」の幸福は「あなた」がつかむしかないのだ。筆者が中学に入学した日、担任の教師が黒板にこう書いた。

 「自分の足で歩け」

 (*1)男女共同参画社会の正確な理解のために

 (*2)MVPインサイダー

 資料

 平成16年度女性雇用管理基本調査

 平成16年版働く女性の実情

理想のパーソナルコンピューティングとは

2009/10/19 19:01:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年9月号)をお求めください。もっと面白いはずです。

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 そもそもPCは、中央集権型のコンピュータに対するアンチテーゼとして登場した。ところが、いまはどうだろう。今回は「パーソナルコンピューティング」について考えてみたい。

●現在のPCは

 本誌の読者なら、自分のWindowsマシンを持ち、日常的にWebブラウズや電子メールの読み書きをしているだろう。自宅のPCは、自分の好きなように使っているはずだ。

 しかし、会社のPCはどうだろう。完全に自由に使っている人は多くないはずだ。たいていの組織は、何らかのルールを持っている。場合によっては、かなり不自由な環境で利用している人もいるだろう。この不自由さは一体なんだろう。

●そもそもPCとは何か

 PCが登場した当時「これで計算機センターに行かなくても、自分の好きなようにコンピュータが使える」と思った人がいた。当時のPC性能は、大型機に比べ圧倒的に低かったが、そんなことは問題ではなかった。コンピュータを自分で所有すれば、いくらでも時間があるからだ。

 若い読者のために、1980年代以前の非UNIX環境について説明しておこう。IBMに代表される大型コンピュータは、空調の完備した部屋に備え付けられ、「オペレータ」と呼ばれる人が管理していた。コンピュータに触れられるのはオペレータだけ。入出力装置の代表は、パンチカードと磁気テープ(いずれも過去の装置であり見たことのない人も多いかもしれない)、出力装置の代表はプリンタであった。

 コンピュータを使いたい人は、プログラムと入力データをオペレータに渡し、あとで実行結果のプリントアウトを受け取った。その間を「提出してから結果が戻るまで」という意味で「ターンアラウンドタイム」と呼ぶ。1980年代前半まで、ターンアラウンドタイムは短くて数分、長ければ1日程度であった。

 筆者が大学1年生の時、さすがに日常的な処理は対話的に行うことができたが、パンチカードを使っている人も多かった。磁気テープ装置がユーザーに開放されたのは修士課程に入ってからだった。

 UNIXだけはこうした一括処理と無縁であり、対話的に使うことができた。しかし、それでも複数のユーザーが1台のコンピュータを共用していることには変わりなかった。しかもUNIXは研究所を中心に導入されており、ビジネス用途で使われることはほとんどなかった。ビジネスアプリケーションがほとんど存在しなかったからだ(米国にはあったらしい)。

 PCは、こうした環境を一変した。PCは、いつでも好きなときに使えるし、エラーを起こしても誰にも迷惑をかけない。仮に性能が100分の1であっても、100倍の時間をかければ同じことができるだろう。

 こうして、多くの人はワクワクしながらPCを使い始めたのである。手作業の仕事を自動化することで「個人の力を増強する」これがPCの本質であった。

●企業システムとしてのPC

 その後PCは、価格を下げ、性能を上げ、アプリケーションをそろえて企業システムに組み込まれた。

 それに伴い、PCのセキュリティが重視されるようになった。安全で信頼性の高い環境を維持するため、PCの利用は制限され、利用者が自由に使うことはできなくなった。さまざまな情報流出の被害が続出しているが「そもそも、会社のデータを個人のPCに置くのが悪い」と主張する人も多い。

 今でもPCは個人の力を増強するツールであるが、それは、会社が想定した範囲内で増強するだけである。個人のアイデアを実現するには、面倒な手続きを踏まなければならない。PCは企業内システムの一部であり、昔のように勝手に操作しても良いわけではない。

 自宅のPCは相変わらず自由であるが、本当に自由かというとちょっと疑わしい。ウィルス対策ソフトは必須だし、セキュリティ更新プログラムを適用しないと、悪意のあるプログラムに乗っ取られて、こっちが犯罪の手助けをしてしまうことになりかねない。要するに、家庭内のPC利用者全員がIT管理者にならなければいけないのだ。何とも面倒な時代になったものだ。

●ブラックリストとホワイトリスト

 「ブラックリスト」という言葉はご存じだろう。「要注意人物」のことだ。PCでは「起動してはいけない(プログラムなどの)一覧」という意味で使う。

 多くの組織でWinyはブラックリストに入っているだろうし、チャットのプログラムもそうかも知れない。PCの場合、ブラックリストの登録はファイル名や、ファイル内容の固有値(ハッシュ値と呼ばれる)で行う。しかし、ファイル名の変更は容易だし、ファイルの末尾に余分なデータを追加するだけでハッシュ値は変わる。

 そこで「ホワイトリスト」という概念が登場した。ホワイトリストは「安全な(プログラムなどの)一覧」という意味だ。実行を許可するプログラムをホワイトリストとして登録し、それ以外のプログラムをすべて拒否する。ホワイトリストにはハッシュ値が活躍する。ハッシュ値は、ファイルの内容を1バイトでも変更すれば値が変化するからだ。

 これで、悪意を持つプログラムの実行を完全に抑えられる。だが、それでいいのだろうか。自分のPCなら、ホワイトリストの修正は自分でできる。特に不自由はないだろう。しかし、企業で使うPCではどうか。

 もう一度、歴史を振り返ってみよう。最初にPCの可能性に注目した人は、Basic言語で簡単な業務支援アプリケーションを作った。DOS時代には、Lotus 1-2-3などのアプリケーションで業務分析を始めた。こうした人は職場のヒーローだったに違いない。縦横集計をするだけでも業務効率は格段に進歩したはずだ。

 当時の人たちの多くは、自腹でPCを購入し、職場に持ち込んでいた。ネットワークはまだ一般的ではなく、セキュリティ上のリスクもほとんどなかった。今はどうだろう。個人のPCを職場に持ち込み、業務に使うのは、少なくともマスコミからは非難されている。かといって、職場のPCは規則ばかりで新しいことは何もできない。ホワイトリストに基づく管理をしているからだ。

●OSベンダはどう考える?

 マイクロソフトは、市場の要求することは何でも試みる会社だし、さまざまな実行制限機能を用意しているが、本質的には「個人の力を増強する」指向の強い会社である。これは“Your Potential, Our Passion” (あなたの隠れた力を引き出すことがわたしたちの使命です:筆者意訳)という言葉にも表われている。

 次期WindowsであるWindows Vistaでは、ホワイトリストに頼らず、未知の悪意あるソフトウェアからWindowsを守る仕組みがいくつか用意される。完全ではないが、こうした試みは評価に値する。ぜひ、安全で自由なPC環境を実現して欲しいものだ。

 アップルはどうだろう。2006年3月号で、森健氏との対談(Webでは掲載していない)で触れたとおり、スティーブ・ジョブズ氏は、個人志向の極めて強い人である。Windowsと違い、Macには企業内での環境統一機能はそもそも備えていない。そういう意味では安心である。

 一方、Linuxはどうだろう。UNIXの流れをくむLinuxは個人の生産性を重視している。こちらもそれほど心配することはないようだ。

 こうして並べてみると、利用者の自由を制限しようという積極的な意図はあまり感じない。唯一、マイクロソフトだけが、制限機能をオプションとして提供しているだけである。

●IT部門はどう考える?

 IT部門はどうだろう。IT部門は、会社の資産を守り、費用の最小化と利益の最大化を行うことが使命である。

 個人活動を自由に許可すると、トラブルが増えたり、機密情報が流出したり、ろくなことがない。どうやら、ここがPCの利用を制限しようとしているようだ。

 Windowsは、Active Directoryと組み合わせることで、さまざまな利用制限を設定できる。ホワイトリストに登録されたプログラム以外の実行を禁止することもできる。こうした機能はIT部門の要請に応えて設定されたという。

 もちろん、IT部門が「悪い」わけではない。IT部門の使命を考えると、全く正しいアプローチである。しかし、それだけに余計困る。よく、悪気のない人ほど始末に負えないというが、IT部門は悪気がないどころか、大義名分まである。実際には、心あるIT部門は、組織の運用ルール上どうしても必要な構成だけを強制し、可能な範囲で自由にPCを利用できるように運用している。IT部門だって頑張っているのだ。

●そして、あなたはどう考える?

 PCは個人の能力を引き出し、最大化するツールである。個人の能力の最大化は、企業にとってもメリットがある。しかし、無秩序なPCの利用はセキュリティを中心に多くの問題がある。

 筆者は、こうした問題を解決する鍵は、最小限の強制と、十分なIT教育だと思う。万一を考えて、致命的な問題を引き起こすリスクは排除すべきだが、その他は自由にさせればいいと思う。そして「自分が何をやっているのかをはっきり意識できなければやってはならない」という常識を身につけさせる。

 自分が何をやっているのかが分かっているか分かっていないかを識別できるスキルを身につけさせることで、多くの問題が解決できるのではないかと思う。

 もちろん、これは完全な解ではない。十分なスキルが身についたかを適切に判断できるかどうかは疑問だし、そもそもどこでそのスキルを身につければ良いというのか。それでも、IT業界に従事するものは、完全なシステムを目指していくしかないのである。さて、読者のみなさんはどうお考えだろうか。

 『あなたはお若いのに珍しく完全を求める人間だ』(ファウスト博士)

 中公文庫『喪失』(福田章二)

■□■Web版のためのあとがき■□■

 「PCを使って個人の力を強化する」というのは、筆者の永遠のテーマである。

 しかしコンピュータが身近になればなるほど、悪用する人が増える。そして、それに対抗するための労力が余分にかかるようになるのは本当に残念だ。

 例えば、Excelのマクロを使えば、専門的なプログラミング知識がなくても一連の手続きを記述できる。しかし、マクロウイルスが世界中に大きな被害を与えていることも事実である。

 PCを防御するためには、アンチウィルスソフトをインストールし、定期的にウイルス情報を更新しなくてはいけないようになった。それは「自分の身は自分で守る」ということだろうが、「自分の身を守る」ために必要な知識が高度すぎるように思える。

 人口が増えれば犯罪も増える。空き巣が増えてきたら、玄関の鍵を強化することは当然の責任である。しかし、鍵の場合は専門家のアドバイスが簡単に得られるし、そのアドバイスもそれほど難しいわけではない。さらに、おおざっぱに言って、高価なものは安全性が高いと考えてもそれほど問題はないだろう。しかも、一度設置した鍵は新しい侵入技術が発見されるまでは有効だ。

 PCはどうだろう。アンチウィルスソフト間の違いはよく分からない。パーソナルファイアウォールの詳細な設定は、筆者でもそれほど簡単ではない。価格差が機能の差になるというわけでもないようだ。おまけに、PCの侵入手口は日々新しいものが発見されており、毎週のようにアップデートが必要である。アップデートが自動化されているのは助かるが、日常的にこんな保守作業が必要な家庭向け製品はないだろう。全く困ったものである。

 この状態は永久に続くのであろうか。

プロフェッショナルの条件

2009/10/05 18:00:00

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 4月に入社した人も、そろそろ1人で客先に訪問するようになったかも知れない。1人で行動できるのはプロフェッショナルとして最低限の条件だ。しかし、もちろんそれだけで良いわけではない。今回は、プロフェッショナルについて考える。

●プロとアマの違い

 筆者が子どもの頃、父と「プロとアマの違い」という話になった。どういう文脈だったかは忘れたが、結論ははっきり覚えている。「プロとアマの決定的な差は品質ではなく信頼性である」というものだ。

 具体的には「安定した品質」と「納期」なのだという。特に重要なことは納期だと主張していた。

 筆者の実家は、個人経営の印刷所である。父は元々機械系のエンジニアだったらしいが、家庭の事情で退職したと聞いている。

 筆者が生まれた頃は京都の中堅印刷所の営業担当で、その後独立して開業した。夫婦2人でやっている小さな印刷所が35年以上やっていけたのは、納期に厳しかったからかもしれない。

●納期

 アマチュアでも、良いものを作る人はいる。アマチュアが作ったソフトウェアは、無料あるいは安価で数多く出回っている。市販のものと比べて遜色ない機能を持ったものも多い。

 しかし、決められた機能を決められた期日に納品することを保証できるだろうか。また、致命的なバグ、たとえばセキュリティ上の問題点が発見されたとき、迅速な対応ができるだろうか。

 別の例で考えてみよう。筆者は、翻訳に関しては素人であるが、外注した翻訳文に誤訳を発見し、自分で訳文を作ることもある。その一文に関しては、筆者はプロ以上の技能を持つ。しかし、それだけではプロフェッショナルの仕事とは言えない。何しろ、筆者の翻訳は、プロフェッショナルの翻訳者に比べて圧倒的に作業が遅いのだ。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは数々の名画を残しているが、雇い主の評判は悪かったらしい。製作途中で興味を失うと、そのまま放置したからだそうだ。ダ・ヴィンチは芸術家としても技術者としても優秀だったことは間違いないが、どうもプロフェッショナルとは呼べないようだ。

 なぜそれほど納期が大切なのか。それは、ほとんどの仕事に後続過程が存在するからだ。納期が遅れれば、後続過程の人に迷惑をかける。顧客に納品したあとですら後続過程がある。顧客は納品された品物やサービスを使って、自分の仕事を行う。納品が遅れれば予定していた仕事ができない。つまり、売り上げや利益が上がらない。だから納期を守る必要がある。零細印刷業は分業が徹底しているため、納期に対する要求は特に厳しい。1)版下を作り、2)製版するとともに、3)必要な紙を手配し、4)裁断し、5)印刷して、6)製本する。こうした一連の作業のすべてが別の会社で行われることさえある。そのため、特定の行程での遅れが、他の多くの人に迷惑をかけることになる。同じ会社でも別の部署と連係して仕事をするのなら、事情は変わらない。

●安定した品質

 プロフェッショナルとしてのもう1つの条件は「安定した品質」である。必ずしも高品質である必要はない。価格に見合った安価な製品というものもプロフェッショナルの仕事である。

 買う側も、その品質が予測されたものであれば対応は可能だろう。ハードウェアであれば、代替品を事前に用意しておくとか、24時間サポート契約を行うなどの方法で、低品質を補える。重要なことは「価格に見合う品質」と「一定の品質」である。

 「ブランド物」と呼ばれるものの多くは安定した品質を売り物にしている。ただし、必ずしも最高の品質とは限らない。たとえばユニクロ。ユニクロの洋服は値段の割には高品質だが、決して最高級ではない。しかし、どれも同じような品質である。

 筆者の勤務先には、新人研修トレーニングパッケージ「NEW TRAIN」(*)がある。

 NEW TRAINには報告書作成などのサービスレベルに応じて、松・竹・梅の3段階が用意されている。もちろん、価格も違うので、顧客は必要なレベルと予算から適切なものを選択する。常に最高の品質を提供するのではなく、価格に応じた安定した品質というところが重要である。

●適正価格

 価格についても考えてみよう。不況になると、価格競争になりがちだ。顧客にとっては喜ばしいことだろうが、ちょっと待って欲しい。

 価格が下がると利益が減り、新しい技術への投資が減る。場合によっては社員の給与も減るだろう。その結果、新製品が出なくなり、社員は流出してしまい、結果として顧客の不利益につながる。いわゆる「デフレスパイラル」である。なるべくなら単純な価格競争にはしたくないものだ。

 適正な価格がどうやって決まるのか。資本主義社会では市場が決定することになっている。いわゆる「見えざる手」だ。ただし、それには「十分な情報が公開されていること」という条件がある。粉飾決算が厳しく非難されるのは、それが資本主義経済というシステムに対する犯罪だからである。

 インターネット、特に検索エンジンが普及してから、製品情報の入手は容易になった。昨今のブログブームで、実際の使い勝手も分かるようになった。だからこそ、価格に見合った品質を提供することが重要である。

 そして、プロフェッショナルを目指すなら、自分の価値を金額で評価する習慣を付けて欲しい。製品価格が、品質に見合っているかどうかで評価されるように、プロフェッショナル個人の給与は、自分の仕事に見合っているかどうかで評価されるべきだ。

 給与に見合わない仕事をすべて断る必要はないが、適正な価格かどうかは意識するようにしたい。

●自立した行動

 もう1つプロフェッショナルに求められることがある。それが「自立した行動」だ。職業倫理に基づき、自分の意志で適切な発言を行うことは、プロフェッショナルとして重要な行動の1つである。

 ただし、若いエンジニアの中には「自立」について勘違いしている人がいる。たとえば、本来10日間かかる仕事を1日でやってくれと顧客から言われたとしよう。営業担当者は、そんな仕事でも受注したいと思っている(ある意味でプロフェッショナルかもしれない)。このとき「できません」と突っぱねるのは、プロフェッショナルとして適切な行動ではない。

 プロジェクトのトレードオフは、品質、予算、納期だという。10日を1日でやれ、というのは納期の問題である。納期が短くなれば、品質を下げるか、予算を上げる必要がある。同じ品質で機能を落とすことも考えられるだろう。顧客の優先順位を引き出し、要望を整理し、顧客と自社の双方の利益につながるような再提案ができること、これが、プロフェッショナルの条件である。

 世の中には、しばしばプロフェッショナルの立場を利用した犯罪が起きる。免許制の業務に多いようである。耐震偽装事件なんかは典型的な例だ。耐震偽装により、一時的には利益が得られただろうが、長い目で見ると大きな損害となる。言うべきことは言う、それがプロフェッショナルの責任である。

●顧客優先主義

 プロフェッショナルが最優先すべきなのは顧客である。元IBMのSEマネージャ馬場史郎氏は「顧客が51、会社や自分が49」と繰り返し主張する(顧客が49ではない)。「そんな条件ではできない」と突っぱねるのは、顧客優先主義ではない。しかし、だからといって限界を超えた値引きや安請け合いも顧客優先主義ではない。できないことをできると偽って受注することは、結果的に顧客の迷惑になる。あまり無茶をすると、自分が仕事を続けることができなくなるかもしれない。これも迷惑な話である。

 真の顧客優先主義は、いわゆるWin-Winの関係を維持することである。顧客が満足する(勝利する:Win)ことで、自社の利益が上がる(Win)関係こそ、プロフェッショナルの目指す方向である。

 筆者の父は間もなく78歳になる。さすがに体力も衰えてきたので、商売をたたむことにしたらしい。新しい仕事から徐々に断りはじめ、父が以前勤務していた印刷会社に引き継ぎをしているところだ。

 ところが、その過程でさまざまなことが分かってきた。IT業界の言葉で言えば、カスタマイズ案件が非常に多かったのだ。母は、売り上げと利益を管理していたものの、すべての案件の内容を完全に把握していたわけではないようで「こんな短い期間で、こんな少量の印刷物を、こんなにたくさん受注していたのか」と、少々あきれていた。どうやら、短い納期で、少量で多様なニーズに応えていたようだ。

 35年以上続けられたのは、納期を守っていただけではなく、徹底した顧客志向にあったのだろう。実は、父の経営する印刷所の顧客には、役所関係や公的機関がかなり多い。地方支部とはいえ、日本でも有数の組織まである。そうした組織が、70歳を超えた「おじいちゃん」のやっている会社に仕事を発注しているのは常々不思議に思っていた。どうやら、その秘密は顧客志向にあったようだ。

●プロの仕事

 プロフェッショナルが担当する多くの仕事は、始まりと終わりがある(有期性)。また、毎回内容が異なる(独自性)。

 有期性と独自性は「プロジェクト」の基本的な特徴とされる。つまり、プロフェッショナルには常にプロジェクトの遂行が期待されているのだ。そこで、今回は、マイクロソフトのプロジェクト管理手法MSF(Microsoft Solutions Framework)から引用しよう(*2)。

  • 予算や納期の目標が達成されても、顧客のニーズが満たされていなければプロジェクトが成功したことにはなりません。
  • いくら機能や内容が豊富であっても、対象ユーザーが使えるものでなければ、その製品は失敗と見なされます。
■□■Web版のためのあとがき■□■

 父はどんな仕事でも絶対に「できない」とは言わなかったそうだ。顧客の要望に合う業者を探し、価格や納期の調整をして、納品していたらしい。やはりプロフェッショナルである。

 もっとも、プロフェッショナルらしくない部分もあった。友人から受けた仕事からは利益が出ないのだ。友人が農家の場合は利益以上の野菜を買った。母校から注文を受けたときは、それ以上の寄付をした。「友人から儲けてはいけない」というのが口癖だった。

 そんな父は、この記事が雑誌に出る直前に他界した。この記事を本人に読ませることができなかったのが唯一の心残りである。

■□■

補足

 「芸術家の納期」については「職業芸術家には納期がきちんとあるし、ある程度一定の品質も要求される」と反論された。

 言われてみれば確かにそうだ。職業ミュージシャンは、営業部が決めたアルバム発売日に間に合わせるため、一定の品質の曲を一定の数だけ作らないといけない。職業写真家は来年のカレンダーに合わせて毎年12枚1組の新しい写真を撮らないといけない。

 もっとも、井上ひさしは、戯曲の脚本が上演に間に合わないことがしばしばあるそうだ。まったくプロらしからぬ行動である。

失敗は成功のもと

2009/08/27 19:23:05

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年7月号)をお求めください。もっと面白いはずです。

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 そろそろ新人研修を終え、現場に配属された人も多いだろう。グローバルナレッジネットワークの田中淳子氏によると「新人に一番喜ばれるのは体験談、一番嫌われるのは自慢話」だそうだ。そこで、今月は筆者が実際に体験した失敗談を披露しよう。なお、先月も書いたとおり、筆者の本業はIT教育コースの講師である。そのことをふまえて読んで欲しい。

●電車を乗り間違えて遅刻した

 名古屋のお客様に、新人研修を行っていたときだ。2日目の朝、名鉄名古屋駅で電車を乗り間違えた。途中で気付いて電車を降りたが、戻る電車はしばらく来ない。あわててタクシーを捕まえようとしたが、駅前にタクシーがいない。数分後、無事タクシーに乗り客先へ向かった。

 客先に到着すると、人事部による朝礼は終わっており、受講生がおとなしく待っていた。事情を話すと「名鉄はしょうがないですよ」となぐさめられた。実は事前に「名鉄のホームは間違えやすい」と聞いていたのだが、2日目になって気がゆるんだようだ。

 ご存じのない方のために書いておくと、(当時の)名鉄名古屋駅は、同じホームから違う行き先の電車が発車する上、途中で車両を切り離して別々の目的地に向かう場合もあった。どうやら前の日と違う車両に乗ったので違う行き先に向かったらしい。

 ところで、普通、講師が遅刻すると、研修担当者は講師の会社にすぐ連絡するものである。しかし、あとで聞いても何も連絡はなかったという。おおらかな会社である。

 さて、このような場合、本来はどうすべきか。もちろん、まず客先に電話するべきだ。ただし、当時は携帯電話がなく、公衆電話から電話をすることで、さらに遅刻するというリスクがあった。携帯電話が普及した現在でも、圏外にいる場合は同じ問題がある。筆者自身は新人時代に「遅刻の可能性があるなら、さらに遅刻してでも連絡しろ」と教わったが、実際の判断は難しい。実はこのとき筆者は電話をしなかったが、いったん電車を降りた時点で電話すべきであった。反省している。

●しゃべりすぎで「もう結構」と言われた

 浜松で講習会を実施したときである。質問に対して丁寧に対応していたら「すみません、それ以上答えないでください」と言われた。あんまりたくさん言われても覚えられないのだという。

 当時、筆者は入社2年目くらい。持っている知識をすべて伝えるのが「良い」講義だと思っていた筆者は反省した。すぐに必要としていない知識は、言わなくてもいいどころか、言わない方がいいこともあるのだ。

 そういえば、筆者の同僚は「体調が悪いとは、意外に受講生の評価が高い」とぼやいていた。気持ちが悪いので、本当に重要なことしか言わないからだという。

 もちろん、お客様が必要としていることは伝えなければならない。しかし、必要以上の情報を出した場合、喜んでもらえる場合と、そうでない場合がある。これ以来、質問に対する回答は、受講者の表情を見ながら行うことにしている。

●相づちはよく考えて

 これは筆者の元同僚が起こした伝説の大失敗である。お客様先の教育担当者が「私なんか、もう年なので、新しい技術はなかなか覚えられません」と言ったところ「ええ、そうですねえ」と相づちを打ったらしい。

 さすがに筆者にはそんな失敗はないが、対応に困る質問はあった。「横山さんは、自分が講師に向いていると思いますか」と聞かれたのだ。聞きようによっては「あんたは向いていない」という意味になる。

 「どうなんでしょう、向き不向きは分かりませんが、この仕事は好きです」と答えた。これが模範解答かどうかは分からないが、どんな嫌味に聞こえても怒ってはいけない。だいたい、嫌味だと思っても、ほとんどの場合、相手は何も考えていないものである。

 筆者は、少しむっとした表情を見せてしまったかも知れない。反省している。こういうときは、できれば冗談で返したいものだ。

●アンケートの意味を良く考えて

 失敗談というほどでもないが、ぜひこの場を借りて書いておきたいことがある。講習会の評価アンケートでは、そのアンケートがどう使われるかを考えて書いて欲しい。

 時々いるのが「内容は期待通りでしたか」に対して最低評価をする人。ああ、期待はずれだったのかと落胆してコメントを見ると「期待以上でした」とある。そのコメントはありがたいのだが、アンケートは集計され、統計処理されることを理解して欲しい。満足したのなら遠慮せず、ぜひ高い評価をお願いしたい。

 最近では「講師の説明は分かりやすいか」という質問に「説明は大変よく分かったが、スピーカーの前に座ったため、大音量で聞きづらかった」と低い評価を付けられたことがあった。確かに、音量の調整は講師の責任だ。気配りが足りなかったことは反省する。けれども、内容が分かりやすかったのなら、素直に良い評価を付けて欲しい。スピーカーの問題も重要だが、それは設備の評価にしていただけると幸いである。

●最悪の評価をいただいてしまったとき

 さて、最後は結構深刻な失敗である。仕事の上では筆者の人生最大の失敗である。少し長くなるが背景から説明しよう。

 X Window Systemは、UNIXなどで広く使われているウィンドウシステムで、MIT(マサチューセッツ工科大学)で開発された。当時勤務していた(古き良き時代の)Digital Equipment社(DEC)は、IBMとともにXの開発プロジェクトの主要スポンサーであり、自社製品としてXをカスタマイズしたDEC Windowsを提供していた。当時Microsoft Windowsのバージョンは2.1で、まだ使いものにならず、Macintoshが一般に使える唯一のウィンドウシステムだった。しかし、Macintoshの開発環境は高価な上、ビジネス分野の実績はほとんどなかった。

 DECの主力開発プログラム言語はFortranであったため、XにもFortranインターフェイスがあった。Fortranという言語は、科学技術計算のために設計された言語だが、DECは言語仕様を大幅に拡張していたため、ビジネスアプリケーションでさえFortranで記述することがあった。ポインタも構造体もちゃんと使える。ただしXはUNIXで動作させることが多かったため、実際にはC言語を使うことが多かった。C言語はUNIXの標準開発言語である。

 そんなとき「X Window Systemプログラミング」という教育コースを筆者が実施することになった。1989年のことである。米国で開発されたテキストに含まれる言語は2つ。1つは英語で、もう1つはC言語であった。

 ところが、担当営業は何を思ったか「テキストはCだが、口頭でFortranについても補足する」という約束で、某重工系会社向けのコース実施を受注してしまった。その会社の標準プログラム言語はFortranだというのがその理由だ。問題は3点。(1)日本語のテキストがまだできていない、(2)Fortranのサンプルプログラムがない、(3)担当者(筆者である)は、ウィンドウプログラミングを知らない。

 (1)は、製本原稿をコピーしてバインダに綴じることで、印刷製本行程の分だけスケジュールに余裕を作って解決した。(2)は、Fortranを使う上での注意事項を口頭で説明することで了承してもらった。ところが(3)だけはどうしても解決しない。当時の筆者はウィンドウプログラミングの基本であるイベントループすら知らない素人である。テキストとサンプルソースコードだけではとうてい理解できない。テキストを見ながらなら、一応のプログラムは書けるのだが、その意味が全く分からないのである。しかも日程の問題で受講の機会がない。

 最終的に、プログラムのスタイルは理解したのだが、本質的な部分の理解が深くないため、説明に説得力が出ない。その結果、コース評価はさんざんなものであり、先方から担当営業にクレームが上げられた。こうして、当時の上司と一緒にお客様先まで謝りに行くことになった。

 どういう言い訳をしたのかは覚えていない。ただ、すべて上司が話をしてくれ、筆者はほとんど何も言わなかったことと、出されたアイスコーヒーの味だけは覚えている。上司は筆者を責めなかった。無理なスケジュールで準備させたことを知っていたからだろう。

 当時、筆者は自分の力不足を自分で責めた。そして、無理なスケジュールの仕事を受注した営業担当者を恨んだ。しかし、今考えると、本当に反省すべき点は、理解が進まなかった時点で上司に相談しなかったことだ。もし相談していれば、先行して勉強している他の講師や、他部署のエンジニアから、効果的な学習方法のアドバイスが得られたかもしれない。実際、後日先輩エンジニアのコースを受講することで、短期間で理解度は大幅に向上した。

●再発を防ぐには

 実は、この話を書くべきかどうか最後まで迷った。十数年も前の話であるが、同じ失敗が他の人で繰り返されていると思われると困るからだ。現在は、初めて実施するコースの前に、担当講師の知識チェックやレビュー(講義の一部を社員に披露し、全員で評価する)が随時行われているため、大きな問題は起きていないはずである。

 誰でも失敗することはある。失敗を恐れていては新しいことはできない。能力を伸ばすにはある程度の負荷が必要だ。当時、冷や汗をかきながらウィンドウプログラミングをマスターしたことは、後にMicrosoft Windowsを学習するときにずいぶん役にたった。

 開き直るわけではないが、組織に所属している場合は、1度の失敗で人生を失うようなことはほとんどない。ただし「誰かがフォローしてくれる」という甘い考えは捨てた方がよい。失敗の予防や失敗したときの対処は考えておく必要がある。

 もっとも新入社員の場合は、自分がどう対処すればよいか分からないだろう。どうしても上司や先輩社員に頼らなければならない。適切なフォローをしてもらうには、早めに危険信号を出そう。筆者の場合は、明確な危険信号を出さなかったことが最大の反省点である。

 組織で仕事をする場合、上司や先輩には常に現状の報告を行い、問題が起きそうになったら連絡し、必要に応じて今後の相談をすること。それが組織で仕事をする場合の鉄則である。と、NHKドラマでロッカーのハナコさんも言っていた。

 ただ、幸いなことに、若い頃の失敗は許容される範囲が広い。前向きな失敗なら、それほど責められないだろう。グローバルナレッジネットワーク設立当時、日本法人の社長をしていた住忠明氏はよく言っていた。「失敗しても命まで取られるわけではない」。そして、社員ミーティングの最後はいつもこの言葉だった。

Enjoy Business as a Game (ゲームのようにビジネスを楽しもう)

部門売却

2009/08/14 19:20:57

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 最近のことだから、会社の合併や部門売却、あるいは倒産を経験した人も多いだろう。もう10年以上も前の話になるが、筆者もその1人である。今月は、会社について考えてみる。

●なぜ買収が行われるのか

 IT業界では、日常的に企業合併や買収、いわゆるM&Aが行われている、ということになっているが、実際のところ、他業種に比べて本当にM&Aが多いかどうかは調べていない。しかし、企業買収を繰り返す企業が存在することは確かである。その代表はライブドアやソフトバンクで「ITはITでもInvestment Technology(投資技術)だ」と揶揄されるくらいだ。

 買収の目的はさまざまである。マイクロソフトがよくやるのは、特定の会社が持つ技術が欲しい場合である。シェア拡大を狙って、同業他社を買収することもある。業務そのものを拡大するため、異業種企業を買収するのはライブドアの得意技だった。非主流派部門が、独立を求めて買収してもらうこともあるし、単に金に困って部門を売ることもある。

●IT業界らしい買収の例

 さて、実際の例として筆者の勤務先「グローバルナレッジネットワーク」を紹介しよう。この会社、そもそもは、デジタルイクイップメント社(DEC)の教育部門であった。PC技術に乗り遅れたDECは、1990年あたりから資金繰りが悪化し、1993年に希望退職プログラムが始まるとともに、さまざまな部門を売却し始めた。

 当時、Oracle社のOracleやIBM社のDB2と並んで、世界最高クラスの性能を誇ったDEC Rdbは1994年にOracleへ売却され、その技術はOracleデータベースの機能と性能向上に貢献したらしい。一方DEC Rdbチームの中心メンバーであったジム・グレイ博士は、後にマイクロソフトのSQL Server 7.0の開発に多大な影響を与えた。

 ストレージ部門はクアンタム社に買収された。これにより、テープドライブ規格DLTが業界標準となった。それまではDEC製のサーバにしか搭載されていなかったのだ。考えてみれば当然である。

 そんな頃、教育部門が売却された。買ったのは米国の投資会社で、部門が丸ごと1つの会社となった。これがグローバルナレッジネットワークの起源である。その後、米国との方針の違いから、日本の投資会社の助けを借りて日本だけが独立した。いわゆるMBO(マネージメントバイアウト:経営者による自社買収)である。

 名称が変わっていないので気付いていない人も多いが、現在グローバルナレッジは「外資系」ではない。さらに、2006年には資金調達のためインターネット総合研究所(IRI)と提携した(*1)。

 さて、かつてのDECはどうなったか。多くの部門を売却し、身軽になったDECはCompaqの買収提案を受け入れた。一連の部門売却は、資産価値を減らし、Compaqが買いやすくするためのものであったという噂もある(あくまで噂である)。DECの創業者であるケン・オルセンは「PCはおもちゃだ」と公言してはばからなかったが、結局、そのPCメーカーに買収されたのである。そして、そのCompaqはHPに買収され、現在に至っている。

 競合他社に買収された場合、当面の資金繰りには心配ないが、重複部門の人員整理は避けられない。一方、独立した(させられた)場合は、人員整理の心配はないものの、そもそも利益が出るかという基本的な心配がある。どちらがいいとは言い切れないが、筆者は独立して良かったと思う。DECの教育部門は、本社から見ると傍流であり、十分な投資を受けられなかったからだ。

 何度かの希望退職の実施や、部門売却、企業合併を繰り返した結果、DEC出身者はIT業界全域に広がることになった。もともとDECは営業力や大局的な戦略には弱かったが、エンジニアとしては優秀な人が多い。こうしてDEC出身者はIT業界全体の底上げに寄与した。DEC出身者を集結すればIT業界を征服できるというジョークもある。

 ところで、筆者は昨年(2005年)、あるパーティでジム・グレイ氏としゃべる機会があった。データベースは専門外だが、せっかくの機会なので少し話をした。「DECに10年ほどいた」と言うと「古き良き時代だな(Good Old Days!)」と返された。他のDEC出身者に聞くと、どうやらDECの話をするときの「お約束」らしい。

●会社がなくなるということ

 部門売却や希望退職は、業界にとって決して悪い話ではない。もちろん経営者や株主にとってもそうだ。そもそも部門売却や合併は株主の利益になるから行われるのである。

 では、従業員にとってはどうだろう。否定的な意見が多いのではないだろうか。しかし、ちょっと考えて欲しい。筆者の頃は、資本関係のない会社への移籍は強制できなかった(今はできるらしい)。そこで、移籍の同意書にサインを求められた。1996年のゴールデンウィーク前、ちょうど10年前である(執筆時点)。

 独立してやっていけるのかという大きな不安はあった。そのため、移籍しない人ももちろんいた(現在も同業他社で活躍中である)。移籍しない場合、DECに残り、グローバルナレッジに出向するか、DEC内の他部門に移籍することになる。筆者は移籍を選んだ。

 部門売却を行う場合、通常は期間を区切ってその分野に参入しないことを約束する。グローバルナレッジの場合は、5年間だった。つまり、DECに残る場合、5年間は教育の仕事ができない。出向するよりは社員として働いた方が楽しいだろう。会社への愛着もあったが、それより仕事に対する愛着の方が大きかった。結果的に、ほとんどすべての社員が移籍した。

 移籍して良かったことは、自分たちで自由に事業計画が立てられたことである。また、自分たちの仕事が自社の本流であるという意識も、モチベーション向上につながった。傍流の仕事とはやりがいが違う。ここ10年を振り返っても、売却当時が最もやりがいがあり、楽しい時期だった。

 筆者がさまざまなメディアに実名で登場し始めたのもこの頃だ。最初は(そして今でも)会社を有名にするために何ができるかを考えた結果である。何しろ「グローバルナレッジネットワーク」というのはいかにも怪しげである。マイクロソフト系の教育で言えば、当時から現在に至るまでのメジャープレーヤーはNEC(現在のNECラーニング)やNRI(現在のエディフィストラーニング)などである。両社のブランドと張り合うには、実績を積み、知名度を上げるしかない。ちなみに、NECもNRIも現在は教育部門が独立しているが、関連会社の地位は保っているようだ(NRIはNRIラーニングネットワークを経て、キヤノンマーケティングジャパン傘下の会社となった)。

 もしみなさんに、部門売却の話があったら、最初から敬遠せずに、ぜひ詳細に検討してみて欲しい。売却先の会社が本気でその事業をするつもりであれば、きっと今より楽しい仕事ができるはずだ。

 ケネディ大統領の就任演説に「国家が何をしてくれるかではなく、国家のために何ができるかを問いたまえ」という有名な一節がある(*2)。国家を会社に置き換えてみよう。会社は、何かをしてくれるところではなく、自分が何かをするところである。転職をする場合は、自分の能力を最も生かせる場所がどこかを考えるべきだろう。筆者の場合、別の技術部門に移っても高い能力を発揮できるとは思えなかったが、教育部門であればそこそこの力を出せると考えた。

 一方、移籍して戸惑ったのは、経営者との会話が成り立たなかったことだ。それまではせいぜい事業部長としか話をしなかったし、会社経営の知識も皆無だった。しかし、新しく来た社長をはじめとする経営陣は、常に「数字」を求めた。ちょうど、希望退職で部長クラスの多くが退職したあとでもあり、残されたマネージャの方たちは苦労されたことだろう。数字に責任を負わない我々グループリーダークラスでも苦労したのだから、部門長を任された人たちはなおさらである。

 そんなマネージャたちも徐々に退職し、今年の2月末には、10年前最初に移籍に同意したマネージャたちも退職された。衝突もしたが、新しい企業を立ち上げるための努力は大変なものであったと思う。現在、当時の社員で残っている者はほとんどいないし、仕事のスタイルもカルチャーもずいぶん変わった。それでも、どこかに当時の心が残っていると信じて仕事を続けていきたい。

 今月は、有名なシャンソン「詩人の魂」の歌詞で締めくくろう。

longtemps après que les poètes ont disparus
Leurs chansons courent encore dans les rues
(詩人がいなくなっても、その歌は街にあふれている)

(*1)http://www.iri.co.jp/jp/ir/column/61.html

 この記事では、IRIの社長は「DECの」という点を評価しているように読める。実際には、当時ですらDEC出身者は数人しか残っていないし、DEC時代のスタイルは大方消えている。なお、その後IRIがオリックスと経営統合された結果、グローバルナレッジもオリックス傘下に入った。

(*2)オリジナルはローマの政治家キケロの言葉らしい。

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 「詩人の魂」などというシャンソンの歌詞を登場させたが、別に筆者はシャンソンを聴く趣味はない。高校時代、経済の教師がシャンソン好きで、授業中に時々歌っていたのだ。この先生の一番のお気に入りが「詩人の魂」だった。歌詞の意味まで考えたことはなかったが、卒業文集に書いた先生の文章で「人間は去っても、思想は残る」という意味を知った。

 ところで、この先生、なぜかインド国家もよく歌っていた。なぜだろう。未だに分からない。そもそも、教師が授業中に「今日は歌を歌います」というのも変な話だ。これではまるで「だいたひかる」である。

 さて、この号が出版された翌日(2006年4月25日)に役員の何人かが交代した。そして、なぜか筆者が取締役に任命された(もちろん事前に打診があった)。肩書きは「取締役技術担当」で、「現場の声を経営に直結させる」というのが筆者の仕事である。正直、筆者につとまるとも思えないが「自分ができることをやれ」と書いた手前、思い切って引き受けることにした。

 ところで、取締役というのは、社員ではないので、いったん退職することになる。退職金は出るが、その後、取締役になってしまうと、失業保険を含め、労働者が持つ権利の多くが剥奪される。もともと労働法は、被雇用者の権利を守るものなので、経営者である取締役は保護対象ではないのだ。

 実際には、いくつかの条件を満たせば、雇用保険の対象になるのだが、筆者の場合は適用されないようだ。こうなったら覚悟を決めて、やれることをやっていくつもりだ。もっとも、相変わらず講習会も担当しているので、筆者の教育コースを受講したい人も安心して欲しい。そんな人がいたら、の話であるが。

原典にあたろう

2009/07/28 19:01:22

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 先月は、Googleの功罪について書き「Googleで検索できるから正しいとは限らない」と書いた。例としてアインシュタインの言葉を紹介したが、タイムリーなことに実例を見つけてしまったので報告したい。

●百年の謀(はかりごと)

 他誌のことで恐縮だが、2006年3月から日経BP社のWebサイト「IT Pro」で連載を担当することになった(2009年2月で終了)。タイトルは「100年Windows」である。変わったタイトルだが、詳しいことはIT Proを見てほしい。

 さて、このタイトルを付けるためにGoogleを使って調べた言葉がある。

諺に曰く、一年の謀ごと(はかりごと)は穀を植ゆるに在り、十年の謀ごとは木を植ゆるに在り、百年の謀ごとは人を植ゆるに在り
(http://www.doshisha.ac.jp/information/outline/pdf/dosh_set.pdf の最後)

 1888年、新島襄が同志社大学を設立するときの宣言文である(前身の同志社英学校は1875年設立)。この下りは、同志社の入学式や卒業式には必ず朗読される有名な部分である。もちろんGoogleでも検索できる。「一年・穀・十年・木・百年・人」のキーワードで検索すると4万3200件ヒットした。

 ところが、どうもオリジナルは違うらしい。筆者の上司が年始のミーティングで披露した言葉は以下の通りである。

一年の計は穀を樹(う)うるに如くはなし、十年の計は木を樹うるに如くはなし、終身の計は人を樹うるに如くはなし(管子)

 最初は引用ミスかと思ったのだが、管子(中国の古典)と、出典まで書いてあるので信憑性は高い。そこで、もう一度Googleで調べてみた。どうやら本当は「百年」ではなく「終身」が正しいらしい。

 「終身の計」が「終身刑」を連想させるので「百年」に変更したという説も発見できた。管子では「一たび樹えて百たび獲るものは人なり」と続くこと、一、十と来れば次は百と思い込んでしまうことから誤解が生じたらしい。

 ところが「一年・穀・十年・木・終身・人」のキーワードで検索すると2万2400件のヒットしかない。「百年」の半分である。よく、Googleでのヒット数が多いことを正しいことの証拠として挙げる人がいるが、ヒット数では真偽は分からないことも分かった。

 ただし、検索結果を注意深く調べると「終身」には出典が記述されているのに「百年」では記述されていないことも分かった。つまり、Googleの結果を慎重に吟味すれば誤解することはない。

 それにしても、同志社の卒業生は100年以上も間違った言葉を聞いていたことになる。新島襄は「諺に曰く」と出典を示していないが、周囲の人は教えてあげなかったのだろうか。あるいは、当時知識人の間では「百年」として広く知れ渡っていたのだろうか。

●原典にあたろう

 引用をするときは、可能な限り原典を参照したい。明治期であれば、これは大きな労力を必要とした。まず図書館に行き、1ページずつ調べる必要があるからだ。原典となる書籍名が分からなければ、もっと難しい。先の「百年」にしても単に「中国の古典の言葉」だけであれば、検索のしようがない。中国古典に詳しい人に聞くしかないだろう。

 幸い、現在では多くの文献がインターネットで検索できる。オリジナル文献全体を参照することは難しいが、部分的な引用は極めて多い。著作権の切れた古典なら全文検索ができることもある。

 実際に原典にあたってみると、世間で言われていることが実は間違いであることに気付くこともある。話はITに戻るが、例えばRISC(縮小命令セットコンピュータ)プロセッサである。RISCとは命令体系を単純にすることで動作速度を向上させ、総合性能を向上させるアーキテクチャである。パターソン博士らによりRISCが提案されるまで、プロセッサの主流はCISC(複雑命令セットコンピュータ)であった。CISCは複雑な命令体系を持つ代わりに命令数を削減することで総合性能を向上させるアーキテクチャである。

 ところがパターソン博士の最初の論文では、プロセッサを1チップに納めるため(大学の研究室で作るので安く上げたい)仕方なく命令を単純にしたというのである。当然、性能の低下を予想していたのに、ふたを開けると当時の最新鋭マシンVAX-11/780の4倍という速度が出たのだという。しかも、この論文は高速になった根拠を明確に示せていない。実に不完全な論文なのだ。

 さて、ここで白状すると、筆者自身、この論文は目を通していない。今書いたようなことは、情報処理学会の会誌で知ったのである(「情報処理」2005年3月号「20世紀の名著名論」五島正裕)。しかし、少なくとも直接の引用文献まではさかのぼれた。これだけでずいぶん信憑性が高くなる。

●根拠を求めよう

 「オープンソースのプログラムを使えば安全である」「オープンソースのプログラムを使えばベンダーの都合に左右されない」。こんな意見を時々目にする。Windows Server Worldで見かけたときも驚いたが、もっと驚いたのは、情報処理学会の会誌で見かけたときだ。

 情報処理学会といえば、会員が減少を続けているものの、今でも日本のIT界を代表する学会である。にもかかわらず、根拠のない意見が堂々と載ることに恐ろしさすら感じる。実際のところ、筆者自身はオープンソース否定派ではない。特にフリーなソフトウェアについては、ソースコード公開の重要性について15年以上前から主張しているくらいだ。

http://www.vector.co.jp/vpack/browse/person/an001090.html

 オープンソースをめぐる誤解は、インターネットコミュニティに多い。もともとインターネットのシステムもカルチャーも、オープンソース的発想から生まれているから無理はない。それはコミュニティの特性なので問題ではないが、検索エンジンはインターネットからしか検索しないため誤解が生じる。

 さらに誤解を助長しているのは、オープンソース支持派は個人が多く、否定派は企業が多いことである。個人の主張には金銭的な利益関係がないため、より信用できる。会社の主張はビジネスが絡むため鵜呑みにはできない。そう考える人が多いようなのだ。それは確かに一理ある。しかし、すべてではない。

 対立する2つの意見がある場合は、その根拠を調べてみよう。例えば、WindowsとLinuxを比べるとする。セキュリティホールの少ないのはどちらか。セキュリティホールが見つかってから対策ができるまでの期間はどれくらいか。セキュリティ情報の入手は迅速か。それらのサポートに対して費用はかかるのか。こうしたことを総合的に判断した場合、単純にLinuxがよいとは思えないはずだ。

 また、ベンダーの都合に左右されずシステムを展開するには、それなりの費用をかけるか社内に技術者を抱える必要がある。もちろん、ほとんどのオープンソース製品は、オンラインコミュニティによる無償サポートが受けられる。しかし、回答期限の保証やサポート期限については明確なルールがあるだろうか。

●時代を生きる

 「情報」という日本語には3つの意味がある。DataとInformationとIntelligenceである。

 銀行に初めてコンピュータが導入された当時「情報処理」は「Data Processing」と呼ばれた。EDP室(Electronic Data Processing室)という部署名をいまだに使っているところもあるだろう。

 現在よく聞くITは「情報技術」と訳されるが、こちらは「Information Technology」である。Dataは現場で発生した生の数値を意味し、それを見やすく加工したものがInformationである。

 さらに、Informationを基に戦略的な決定を行うことがIntelligenceである。CIA (Central Intelligence Agency)は、中央情報局と訳される。これがInformationだったら「中央観光局」である。もっともIntelligenceはスパイ活動を連想させるため、Knowledgeという言葉を使うこともあるようだ。

 現在はIT時代と言われているが、インターネット上にあふれる大量の情報はDataの域を脱していないように思える。Googleに代表される検索エンジンを使って、データの統計(検索ヒット数)や関係(リンク情報)を入手して初めてInformationとなる。しかし、Intelligenceについてはどうだろう。冒頭で紹介した「百年」も、もし「終身」という言葉を知らなければ、正解にたどり着くことはできなかったかもしれない。何しろ、Googleには「百年」の方が多くヒットしたのだから。
IT時代を生きるには、InformationではなくIntelligenceを活用する必要がある。

 では、Intelligenceを活用するにはどうすればよいのか。今のところ、Intelligenceは人間固有の活動とみなされているため、機械的な方法はない。筆者が思うに、Intelligenceを身につける方法は2つ。1つはあらゆる面で基礎を学ぶこと。そして、もう1つは専門以外の知識を身につけることである。これこそが、IT時代を泳ぎ切る力になるはずだ。

 そこで、今月は、Windows NT開発チーム内で使われたことで有名になった言葉で締めくくろう。

Swim or Sink (泳げないやつはおぼれろ)

Googleの功罪

2009/07/16 19:05:00

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 筆者がWebサイトへのアクセスを始めたのは1994年頃だったと思う。あれから12年、当時からは想像もつかないくらい便利になったが、解決できていないこともある。今回は、特にインターネット検索エンジンに焦点を絞って、得られたものとまだ得られていないものについて考えてみたい。

●インターネット検索エンジン

 先日フリーライター森健氏(『Windows Server World 2006年4月号』で対談の相手をしていただいた方)に、インターネット検索エンジンの歴史について取材された。そのとき「インターネット検索エンジンがない頃は、どうやってWebサイトを探していたのですか?」と聞かれた。

 筆者がWebアクセスを始めたのは1994年、ブラウザはX Window System上のNCSA Mosaicだった。Internet Explorerはもちろん、Netscape Navigatorもなく、検索エンジンすら世の中になかった時代である。

 当時、Webアクセスに必要なURLを入手するには、以下の方法が一般的だった。

  • 電子メールで聞く
  • ニュースグループやパソコン通信などの掲示板システムで聞く
  • 知っている人に直接聞く

 この方法の利点は、Webサイトの評価も同時に得られることだった。後述するように、今でも、真に役立つ情報は信頼する個人からしか得られないのは変わらない。

 米国でYahoo! サービスが開始したのは1995年である。Yahoo! のサービスは人手による登録であり、ジャンル分けの信頼性は高い。しかし、当時は未登録のWebサイトも多かったうえ、サイトの内容についての信頼性はまったく保証されなかった。そもそも、この種のディレクトリサービスの必要性に懐疑的な人も多かった。筆者もその1人であり、先見性のなさを恥じている。

 プログラムに自動登録機能が登場したのは、1995年末のAltaVistaからであろう。ただし、当時のAltaVistaは検索結果の上位に有益なサイトが来るとは限らず、目的とするWebサイトを特定できないことも多かった。

 AltaVistaの反省をふまえ「ページランク」というアイデアを武器に登場したのがGoogleである。Googleは、いまや、英語でも日本語でも「インターネットで検索する」という意味の動詞となっている(日本語は「ググる」)。

●Googleが情報のすべてではない?

 当然であるが、Googleの検索結果が情報の全てではない。しかし、その便利さから情報検索にはGoogleしか使わない人も増えているようだ。最近は週刊誌の記事でも、Googleと「2ちゃんねる」だけで構成されたのではないかとおぼしき記事が登場しているくらいだ。

 もちろん、Googleにない情報も存在するが、Googleから検索できない情報は存在しないのと同じになっているのが現状ではないだろうか。たまにGoogleにない情報を知っていると、ちょっとしたヒーローである。

 Googleで恐いのは、GoogleがWebサイトの内容について真偽判定をしないことである。Googleの基本的な評価基準は「多くのサイトからリンクを張られているサイトは重要度の高いサイトである」点にある。「多くの人(Webサイト)が重要だとみなしている(リンクしている)人(Webサイト)の意見は重要度が高い」というわけだ。Googleのアイデアが素晴らしいのは「重要度」を「被リンク数」に置き換えたことである。

 しかし、重要かどうかと正しいかどうかは同じではない。アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言い、量子力学を受け入れなかった。「アインシュタインは量子力学を理解できなかった」という事実は重要であるにしても、アインシュタインの意見自体は間違っている。また、米国の一部の州では、進化論を否定する人が多数派だそうだが、ほとんどの科学者は生物が進化したことは事実と考えている。

 Googleは「重要であろうWebサイト」を提示してくれるわけで「正しい情報」を提供してくれるわけではない。ググっているとつい忘れてしまうが、このことは深く心に留めておきたい。

●Googleがすべての情報を握る?

 とはいえ、Googleが持つ情報を利用することで「正しい」情報を得ることも可能だ。重要なWebサイトの内容を比較し、矛盾があれば少数意見を排除する。こうすれば「現在の多数派意見」を取得できる。今の技術では、そこまでの自動解析は困難だが、無理な話ではないだろう。

 厳密な言語解析をしなくても自動化可能なこともある。たとえば、世界中のどの人間も、6人の人を仲介すれば必ず知り合いになると言われている。このような少ない人数で済むのは、一部の「顔の広い人」が「ハブ」になるためだという。

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 Googleのリンクをたどっていけば、ハブが誰かは容易に分かる。もし、ハブとなっている人に対して集中的な宣伝活動をすれば、それは多くの人に大きな影響を与えられるだろう。

 もっと恐いこともある。「横山哲也 グローバルナレッジネットワーク」でGoogleイメージ検索をすると、著書の表紙とともに筆者の写真が登場する。これで筆者の顔が特定できた。あとは画像解析の技術を使って、Google内の全画像インデックスに対して再検索すれば、筆者の行動を追跡できるかもしれない(できればそういうことはやめて欲しい)。画像検索は便利かも知れないが、「余計なサービスを始めたものだ」というのが率直な感想である。

●信頼できる情報とは

 では、信頼できる正しい情報を確実に入手するにはどうしたらよいだろう。実はそんな方法は存在しない。

 Googleのページランクは、多少いい加減なところはあるにしても、信頼度の指標にはなると考える人も多いだろう。しかし、Webサイトの内容が正しいかどうかを保証しないGoogleでは、厳密にいうと「多くの人が支持(リンク)している」ということが分かるだけだ。ほとんどの場合はこれで十分だろうが、本当に正しいかどうかは保証されない。内容は自分で判断する必要がある。ちなみに筆者の評価基準は「論理に一貫性があって、(筆者の知る範囲で)正しい根拠に基づいている」ことである。

 筆者は、本当に重要なことについては、原データにあたるようにしている。たとえば「WindowsのバグはLinuxより多い」(第8回参照)ことは、実際にセキュリティ情報を公開している第三者機関のWebサイトを参照した。

 時間的その他の制約により、原データに当たれないときは、筆者が信頼している人や信頼するコミュニティに質問することにしている。何のことはない、インターネット検索エンジン登場以前のスタイルと同じである。

 念のため書いておくが、筆者はGoogleを否定するものではない。むしろ積極的に使っていきたいと思っている方だ。ただ、無条件に信用するのは危険であるということである。先に書いたとおり、Googleは重要なWebサイトを検索してくれるが、Webサイトに含まれる内容の正誤を判断しない。誤解しないようにしたい。

●ソーシャルネットワーク

 最近、SNS(ソーシャルネットワーキングシステム)が話題である。2005年のインターネット大賞はSNSの1つmixi(ミクシィ)であった。

 SNSの面白いところは、人とのつながりだ。たとえば、mixiには「コミュニティ」を作ることで、同好の士を集めることができる。コミュニティは誰でも作成でき、何の審査もない。「既存のコミュニティと内容の重複を避けるように」という注意書きがあるだけだ。

 試しに調べてみた。同じアニメ番組のコミュニティで「魔法の天使クリィーミーマミ」「魔法の天使 クリーミィマミ」「クリィミーマミ」3つがある。このアニメ、正しくは「クリィミーマミ」なのだが、ちょっと変わった表記のため放送当時からしばしば間違えられていた。放送終了後20年以上たってもやっぱり間違われているのがおかしい。

 これは、単に表記の揺れが引き起こした問題だが、表記をわざと微妙に変えることで、別コミュニティとして登録している例もあるようだ。そして、事務局はこれを黙認している。

 筆者が思うに、mixiのコミュニティは、「同じ話題について語り合うグループ」だけではなく「人と人のつながりによるグループ」の機能も持たせようとしているのではないだろうか。人間のコミュニケーションは、会社、学校、クラブ、同好会など、特定の話題や組織で結びつくだけではない。組織を離れても付き合いを続けることもあるだろう。これを一般に「友だち」と呼ぶ。同じ話題に興味があっても「知らない人とコミュニケーションを取るのはいや」という人は結構多い。mixiのコミュニティは、こうした人を受け入れるため、内容の重複について黙認していると推測している。

●検索エンジンの将来

 今年あたり、SNS的な要素を持った検索エンジンが登場するのではないかと筆者は予測している。単なるインターネット検索エンジンはGoogleの1人勝ちである。Ask.jpなどの特徴あるサービスも出てきているが、実際の検索結果はGoogleとそれほど変わらない。だとしたら後発企業が生き残るのは難しいだろう。

 「SNS的な要素」が具体的に何かというのは、筆者にも予想できないが(予想できたらビジネス特許でも取る)、リンク数による評価でも、専門性による評価(これはask.jpが使っている)でもなく、人と人とのつながりを評価する仕組みになるのではないかと漠然と思っている。それはたとえば、従来の検索システムとは異なり、メールベースになるかもしれないし、個人のPC内部を検索するP2Pシステムかもしれない。プライバシーやセキュリティの問題はあるだろうが、公開するフォルダを限定すれば解決できるだろう。SNSのような個人の関係をベースにしたシステムならそれも可能だと思う。友だちが困っていて、自分ができることなら助けてあげたいのが人情である。

 例えば、筆者のPCには今までWindows Server Worldなどの媒体に書いた記事が多数保存されている。権利関係の問題とHTML化の煩雑さから、どこにも公開していないが、友人になら公開しても良いと考えている。こういう例は結構多いのではないだろうか。

 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 「ルカによる福音書」第11章10節(新共同訳)

■□■

 どうもmixiの「コミュニティ」は、既存コミュニティとの重複を暗黙のうちに許可しているのではないかと思う。

 「魔法の天使クリィーミーマミ」「魔法の天使クリーミィマミ」「クリィミーマミ」(もっと増えているかもしれない)などの重複の他、「XXXと○○の好きな人のコミュニティ」なんかもある。XXXと○○のコミュニティは別にあるのに、である。結局のところ、テーマは人間が結びつくための口実に過ぎないと、筆者は思っている。事務局はどう考えているのだろう。

 ところで、Google中国は検索情報の結果を恣意的に選別していることをご存じだろうか。中国国内から「天安門」をググっても、観光案内しか出てこず、天安門事件は表示されない。

 Googleだけではない、MSNやYahoo! も同様である。Googleは「検索結果を削除することはGoogleのミッションに違反するが、何の情報も提供しないよりはマシ」と主張しているらしい(「論座」2006年5月号「世界は検索され尽くすのか」森健著)。

 しかし、こうした「検閲」は人間がやっているのだろうか? 政治的な主張を含むかどうかの判断を自動的に行うのは難しそうだ。自動的にやっているとしたらWebページの解析技術は大したものだ。Googleは、Webサイトのコンテンツ生成に人手を使わないことを信条としているようなので、もしかしたら自動かもしれない。人手でやっているとしたら……ご苦労なことである。中国人の人件費はまだまだ安いのだろうか?

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コラムニスト プロフィール

横山哲也
グローバルナレッジネットワーク株式会社で、ITプロ向け教育コースを担当。取締役になっても現役講師です。会社のブログもどうぞ。

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