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言葉は正確に

2010/03/11 18:15:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2007年4月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。

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 若い人としゃべっていると、同じ言葉でも違う意味で使われることがあり戸惑う。仲間内だけの流行語を、目上の人に使ってしまう人もいる。また文法の乱れも気になる。今回は、こうした言葉にまつわる思いを書いてみたい。

●若者は常に乱れた言葉をしゃべる

 若者の言葉の乱れは今に始まったことではない。平安時代、清少納言は「枕草子」で、若者の「ト抜き言葉」を嘆いた(*1)。「言わんとす(る)」を「言わむずる(言わんする)」という具合らしい。

 今でいうなら「ラ抜き言葉」か。もっとも「ラ抜き」はすっかり定着しており、間違いを指摘しても何が問題なのか理解してもらえないようになった。国語学者の金田一春彦によると「ラ抜き」は日本語の自然な進化の過程なのだそうだ(*2)。

 「ラ抜き」が問題になったのは1990年代前半のようだが、筆者の子どもの頃には既に登場していたように思う。これだけ長い年月をかけて普及しているのだから、単なる流行とは言えないだろう。清少納言が嘆いた「ト抜き言葉」も後に定着したそうである。

 寿命が短いのは、誇張や強調の表現である。筆者の学生時代は「すごい」が流行した。本来「すごい」は「恐ろしい様」を示す言葉だ。

 そのあとに登場した強調語は「超」。元々は、形容詞の意味を持つ名詞に付く接頭詞で「超大型」「超高速」のように使う。これを純粋な形容詞や形容動詞に適用したところが斬新だった。「超かわいい」などが典型で、今でもよく使われる。

 最近の流行は「半端ない」だそうだ。さらに崩して「半端ねえ」から「パネぇ」にまで変化しているという。「半端なことではない」の変形らしいが、どこかの方言なのだろうか。

 新しい表現や普通ではない使い方をした言葉は、それだけで印象が強い。強調するために次々新しい言葉が登場するのは必然である。しかし、改まった場所での使用は避けたい。馴れ馴れしい感じがするということもあるが、流行語を多用するのは「自分で言葉を考えていない」=「頭が悪い」と思われるからだ。

●慣用句は正確に

 慣用句やことわざの誤用も目立つ。大げさな表現は、普通ではないことを示すために普通でない使い方をするわけだから、本来の意味から少々逸脱するのは当然である。仲間内なら使ってもいいだろう。しかし、誤用は、相手に誤解を与えることになり、コミュニケーションに支障が出る。

 古いところでは「枯れ木も山の賑わい」。これは、年配者が自分を謙遜した言葉である。前回は「飲み会に上司を誘おう」と書いたが、間違っても「枯れ木も山の賑わいですから来てください」などと言ってはいけない。ただし、この誤用は相当古くからあるので、もしかしたら上司も間違って覚えているかもしれない(そんな上司は尊敬できないが)。

 最近聞いたのは「なれの果て」だ。あるソフトウェアを改良して新しいビジネスに結びつけたプロジェクトの発表会での発言である。「わたしたちの成果を見たら、元のソフトウェアを開発した人も『これが我々のプログラムのなれの果てか』と思うでしょう」と結んだ。

 「なれの果て」は「落ちぶれた結果」という意味なので、筆者はそのプロジェクトが最終的に失敗したのかと誤解しそうになった。

●理系・文系という言い訳

 「理系だから、言葉の使い方や文章が下手だ」という人がいる。その考えは間違いだ。文系・理系という分類もいい加減なものだが、その話はやめておく。

 あらゆる学問で、最も必要な技能は論理的な思考能力と、それを表現する技術である。理系とか文系は関係ない。

 筆者は工学部だったので、学生時代は毎週実験レポートを書いた。レポートで最も重視されるのはデータではなく、データから得られた結論である。データが示す値が、どのような物理現象を表しており、それがどのような意味を持つのか。これを、いかにうまく文章にまとめるかが大事なことである。「文章の書けない理系学生」は、単なる劣等生であり、一般的な傾向ではない。

 同じことは文系に対しても言える。文系であっても、レポートには客観的で論理的な記述が要求される。「文系だから」は、論理的な文章が書けない言い訳に使われることが多いが、そもそも論理学は文系の学問だ。

 仕事をしていく上で、最も必要な能力は文章力である。SEは顧客の要求を聞き取り、それを仕様書として文章にまとめる。プログラムを書いているときは、必要なコメントを簡潔に記述しなければならない。

 トラブルが発生したら、その状況を適切に説明しなければならないし、解決したら報告書が必要になる。日々のコミュニケーションも、最近ではほとんどが電子メールであり、簡潔で正確な文章を書くことが要求される。

●文章力を付けるには

 では、論理的な文章を書けるようになるにはどうすればいいだろう。まずは読書である。音楽を聴かずに作曲家になる人はいない。小説を読まずに作家になる人もいない。同じように、文章を読まずに文章を書けるようにはならない。筆者の場合、学生時代は年間100冊程度読んでいた。残念ながら今はだいぶ落ちて10冊くらいだ。

 どんな本を読めばいいか。基本的にはなんでも良い。ただ、作家にもよるが、小説は論理的な文章表現を修得するにはあまり向かないかもしれない。微妙な表現や、わざと論旨をぼかした表現を学ぶ必要はない。

 筆者のお薦めは、良質のノンフィクションである。ただし、良質かどうかの見極めはけっこう難しい。とりあえず、たくさん読むことだ。ベストセラーになる本は良質なことが多いが、あまり期待しない方が良い。最近はタイトルが良ければ、内容が平均レベルでも売れる場合もあるからだ。

 次に心がけたいのは、自分で文章を書くことである。最初のうちは短くてもいい。長い文書を書くのが苦手な場合は、箇条書きを利用すると良い。箇条書きの多いレポートは読みやすく、論旨を明確にしやすい。

 内容は何でも構わないが、最初は事実だけを書いた方がいいだろう。やってみると分かるが、事実だけを書くのはけっこう難しい。事実と予想や想像、そして意見を明確に分離することは非常に重要である。筆者自身も必ずしも守れていない時がある。事実だけを書くことができれば、事実と意見を区別することも容易になるだろう。

 書いた文章は他の人に読んでもらおう。発表の場はブログでもいいが、最初のうちはmixiのような仲間内のネットワークをお勧めする。読者は友人なので、すぐに感想を書いてくれる可能性が高いからだ。何かを学習するとき、フィードバックは常に重要である。ただし、仲間内にしか通じない表現は使わないように注意したい。

 文章を書くことに慣れてきたら内容を考える。この時、5W1H(when:いつ、who:誰が、where:どこで、what:何を、why:なぜ、how:どんな風に)に注意する。特にhowとwhyを重点的に書いてみよう。いつどこで誰が何をしたかというのは、客観性が高く、データを見れば誰でもだいたい分かることが多い。しかし「なぜ」「どんな風に」というのは、書き手の解釈が含まれる。最も重要な部分であり、個性の出る点である。ただし主観であっても根拠としての事実を示すことを忘れないように。

 流行語と慣用句の使用は避けよう。流行語には強い力がある。その力に負けないだけの自分の言葉を探すことは文章力を高める。実は慣用句にも同様の力がある。慣用句を避けることで、自分の文章について深く考える力が養われる。同時に、間違って覚えている慣用句を披露する失敗も防げる。一石二鳥だ(おっと、これは慣用句だ)。

 そして最後に。文章力や論理的な思考能力は才能ではない。練習すれば身につく技能だ。イチローの恩師である仰木彬は、イチローに関してこう言ったという。

 あれだけ練習すれば誰だって打てますよ(*3)。

(*1) http://ja.wikipedia.org/wiki/日本語の乱れ

(*2) http://ja.wikipedia.org/wiki/金田一春彦

(*3)そのあとに「まあ、普通の人はあれだけの練習ができないでしょうけどね」と続く。

■□■Web版のためのあとがき■□■

 「すごい」「超」の何がおかしいのか分からないという意見をいただいた。

 「すごい」は本来「恐ろしい様」を示す。人を脅すときの「すごむ」や「すごみをきかせる」と同じ語源だ。「凄惨」という熟語にも含まれる。

 ただし宇津保物語(平安時代中期)で既に「形容しがたいほど素晴らしい」の意味で使われていたようだから(「広辞苑」第5版)、間違いというわけではない。単に「大げさすぎるから多用するのはやめなさい」ということだったのだろう。

 「超」は、本文で書いたように、形容詞の意味を持つ名詞(普通は漢語)に付く接頭詞だが「超人」や「超合金」のように純粋な名詞に付くこともある。

 しかし、やまと言葉に付くことは少ないし、名詞以外の言葉に付くことはない。流行語としての「超」が斬新だった点は、やまと言葉の形容詞や形容動詞に適用したところだ。今でも会話ではよく使われる。もう一般化したと思ってよいだろう。

 ついでに「半端ない」についていろいろ調べてみたら「半端ない」は「はしたない」「やるせない」などと同じで、文法的には形容詞なのだそうだ。そのため「半端ない」の逆は「半端ある」ではなく「半端なくない」だという。

 ちなみに「はしたない」は「端(はした)がない」、つまり中途半端なこと(現在は「行儀が悪い」という意味で使う)。「やるせない」は「遣る瀬(船を着ける瀬)がない」、つまり「行き場がない」という意味である。いずれも、形容詞化しているので「はしたある」や「やるせある」にはならないし、「やるせぬ」にもならない。古賀政男作詞の「影を慕いて」では、藤山一郎が「月にやるせぬ我が思い」と歌うが、これも誤用である。

 流行語の多くは、既存の言語体系からはみ出したものが多いが、文法の枠組みから完全に外れるものは少ない。「半端ない」も、基本的な部分では日本語文法に従っているということである。「言葉の乱れ」といっても、所詮は基本文法の範囲内でしかない。若者よ、人と違う表現をしたければ、もっと斬新な言葉を発明してみなさい。

 なお、イチローのエピソードは、Wikipediaの「天才」の項目に掲載されていたが、その後削除された。「個別の天才のエピソードを挙げていたらきりがない」からだそうだ。もっともである。

漫才コンビは私生活でも仲が良いわけではない

2010/02/24 17:15:00

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 人気漫才コンビの多くは、私生活では一緒に遊ばないという。「仲が悪い」と言い切る人もいる。どこまで本気のコメントか分からないが、ある程度は真実なのだろう。今月は、仕事上での付き合い方について考える。

 インターネット総合研究所代表取締役の藤原洋氏は、グループ企業向けのイベントで「ベンチャー企業で最も避けなければならないのは仲間割れだ」と力説したが、続けて「仲良しになる必要はない」と言った。

 思うに、必要以上に仲良くなると、相手の悪い面が見えなくなるからだろう。「あいつとは一緒に遊びたいとは思わないが、あいつの能力は信頼している」という関係が、適度な緊張感を生み、高い生産性を発揮するようだ。

 仲良しグループで作った会社は、いったん人間関係がこじれるとひどいことになるらしい。同僚が以前勤務していた会社では、派閥ごとに秘密会議が開かれ、互いに相手を陥れようとしていたと聞いた。

 そんな状態で業績が伸びるはずもなく、間もなく部門売却などを繰り返し、会社は事実上解体したという。単なる仲良しグループではなく、好き嫌いを超えて評価できる能力をお互いに認め合っていれば、会社が解体することはなかったかも知れない。

 ただし、実際に仕事を円滑に進めるには、私的なコミュニケーションもある程度はあった方がよい。多くのプロジェクトで、スタート時にパーティが計画されるのはそのためだ。

 プロジェクトは、目的と期間が決まった仕事である。ほとんどのプロジェクトは、いくつかの工程に分割され、ある工程を終了して始めて次の工程に進める。こうした工程の区切りでも小規模なパーティ(宴会)が行われることがある。

 会社の日常業務では明確な工程の分離がないので、半期や四半期といった会計上の区切りで宴会を行うことが多い。こういう場にはなるべく参加した方がよい。仲の悪い漫才コンビも、出演番組の打ち上げには参加するだろう。番組スタッフと交流を深めることが次の仕事につながるからだ。

 仕事をしていると、正式な業務ではなく、非公式な形で相談したいことも多い。このような場合、私的な関係が役に立つ。

 無理な仕事を依頼するときも、相手の性格を知っていれば便利である。情に訴えかけると弱い人には泣き落としで迫る。自分のキャリアに役立つかどうかを重視する人には、その仕事でどのようなキャリアを積めるのかを明示する。あくまでも部署の業績にこだわる人には、仕事の結果得られる利益配分を調整する。こうした対策を考えておくことができるからだ。

 仕事仲間と飲みに行くのは日本だけではない。韓国ドラマ「冬のソナタ」に「ぼくは、君と一緒にいたいから食事に誘っているんじゃない、その方が仕事がしやすくなるから誘っているんだ」という台詞があった。

 米国でも、プロジェクトの要所要所でパーティが開催される。筆者は、Windows XPの開発が大詰めを迎えた頃にマイクロソフト本社で研修を受けた。そのとき、同じクラスだったマイクロソフト社員に「金曜日はパーティがあるから一緒に行こう」と誘われた。正直言って、趣旨はよく分からなかったが、毎週金曜日はWindows XPの開発チームを中心に、社内食堂を使ったパーティが行われていたのだった。

 その場で、友人の友人ということで紹介してもらったのが、マイクロソフトの教育コンテンツを提供している部門のマネージャだ。おかげで、日本の状況を直接伝えることができた(筆者の本業は、マイクロソフト製品の教育コンテンツの企画・開発・実施である)。キーパーソンと直接コミュニケーションできるのもパーティのいいところだ。

 部門の飲み会を企画するときは、直属上司だけではなく、さらにその上司も呼ぶといい。可能なら役員クラスの人でも呼んでみよう。ちょっと緊張するかもしれないが、現場の声を伝えるいい機会である。

 江戸時代、指揮系統の秩序を乱すということで、直訴は(訴え自体は検討されるものの)厳罰の対象だった。今はもちろん(多くの会社では)そんなことはない。多くの経営者は現場からの直接の声を聞きたいと思っている。経営者の方も、社員と話をするきっかけを探しているものだ。

 事前に企画されたものではなく「仕事帰りにちょっと一杯」は、日本の会社における伝統的なコミュニケーションである。俗に「飲みュニケーション」と呼ぶ。

 一緒に食事をすることは人間関係の構築に効果的である。毎回とは言わないが、時間があれば時々は参加してみよう。仲良しになるのが目的ではない。今後の意思疎通をしやすくするための調査だと思って欲しい。

 一時期(特にバブル景気頃)、「飲みュニケーション」を拒否する人が増えた。飲みに行っても、主な話題は仕事上の愚痴、上司の悪口、部下への説教、同僚のうわさ話ということになっているからだろう。確かにそうだとしたら、あまり楽しいものではない。

 しかし、実際には「飲みュニケーション」が楽しいかどうかは相手による。当然の話である。初めての人と飲みに行く場合、以下の点に注意して参加しよう。

1.セクハラ対策

 厚生労働省作成のリーフレットによると、男女雇用機会均等法では、セクシャルハラスメント対策が義務づけられている。

 勤務時間外でも会社の行事や、会社の業務との連続性があれば「社内セクハラ」とみなされる。慣れるまでは、同性でも異性でもいいので信頼できる人と一緒に行くのが一番良い。

 逆に、加害者とみなされる可能性のある人(必ずしも男性とは限らない)は、親しくなるまでは1対1になるような誘い方は避けた方が無難である。また、個人的な人間関係や容姿について、あまり深く詮索しないように心がけたい。

 セクハラで恐いのは報復人事である。もちろん、法律で明確に禁止されているのだが、しばしば発生する。まず上司、次に人事部に相談し、それでだめなら社長と直談判する。

 ただし、筆者の知っている例では、セクハラを人事部長(女性)に訴えたら「あなた、何が目的なの」とひどいことを言われた人もいる。同性だからと言って安心はできない。

 結局、被害者が自ら退職するという最悪の結果になったそうだが、別の社員が全社的な問題に広げて、正式に謝罪をさせたと聞く。再発を防ぐ効果はあっただろう。

2.アルコール強要の回避

 最近はずいぶん減ったように思うが、会社によってはまだまだあるようだ。「アルコール飲めません」シールなどもあるようだが、そんなものを使わなくても「飲めません」と言えばよい。

 「オレの酒が飲めないのか」と言われたら「あなたの酒だから飲めないんです」と言ってやればよい。いや、それは言い過ぎか。体質によっては、アルコールの過剰摂取で死ぬこともある。

 自分にとっての適量をきちんと把握しておこう。セクハラと違って、報復人事はあまりきかないので心配はいらない(たぶん)。

3.上司の悪口・部下の説教・同僚の愚痴の聞き流し方

 最も困るのがこれである。愚痴の中には、会社の状況を改善するためのヒントも隠されているので、完全に無視することは適切ではない。適当に聞きつつ、適当に聞き流すスキルが必要である。担当を決めて交代で対応するのもいいだろう。

 筆者の場合は、いったんトイレに行ってから別の席に逃げることにしている(その後、近くにいた別の誰かが犠牲者になる)。

 それでも、上司の悪口や同僚の愚痴はまだいい。適当に相づちを打っておけばいいからだ。問題は自分への説教である。これはなかなか逃れられない。うまい方法があったら教えて欲しい。もっとも「良い上司」と呼ばれる人は、あまりくどくど説教しないものである。無駄に長い説教をされそうな人を見分ける嗅覚は養った方がいいだろう。

 私的な人間関係は仕事の幅を広げる。無理のない範囲で「飲みュニケーション」を図って欲しい。

 ただし、忘れてはいけないことがある。プロは仕事の内容で勝負することが第一だ。一般に、プロフェッショナルは、高い専門能力を持った人には敬意を払うが、できないやつとは表面的な付き合いしかしない。単に飲み会に出席するだけではなく、並行して自身の能力を高めていきたい。

 最近は、飲みニュケーションに積極的な若者が増えているそうだが、単に酒を飲んで世間話をして終わりなら意味がない。

「アマは和して成し、プロは成して和す」

■□■Web版のためのあとがき■□■

 「冬のソナタ」に続いて、韓国ドラマをいくつか見た。シリーズ全話を見るほど熱心ではないが、どれもけっこう面白かった。

 よく指摘されるように、韓国ドラマには、1970年代の日本のドラマ手法のいくつかがそのまま使われている。「冬のソナタ」を見ているとき「これで、本当は2人が兄妹だったらお笑いだな」と思っていたら、実際に兄妹疑惑が持ち上がった。実に分かりやすい展開である。

 1970年代のドラマの定番は、主人公たちは「実は親子」「実は兄妹」であり、一方(たいていは女性)が不治の病にかかる。病名が告知されることはない。

 白血病は、当時は不治の病だったので「再生不良性貧血」ということになった(再生不良性貧血も恐い病気だと知ったのは後の話である)。ガンも、当時既に種類によっては不治の病ではなかったのに、絶対に告知されない(が、主人公は必ず気付き、肉親を問い詰める)。

 分かりやすい展開が悪いわけではない。山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズなど、毎回同じストーリーを踏襲しながら、見るものを引きつける。筆者は、わざわざ映画館で見ようとは思わないが、テレビで放映していたらつい見てしまう。

 2時間枠のサスペンスドラマや、時代劇なんかも同じである。「水戸黄門」も「暴れん坊将軍」も、5分見たら、つい(少なくともしばらくは)見続けてしまう。どれも、ストーリーは毎回大差ないのに、いやストーリーが大差ないからなのだろうか、実に素晴らしい演出である。

 ところで、これら定番の作品の演出に比べ、一般のTVドラマやTVアニメの演出は少々控えめに思える。「「魔法の天使クリィミーマミ」に見る職業観」の原稿は「魔法の天使クリィミーマミ」のDVDを見ながら書いていたが、それほど気は散らなかった。

 大方のストーリーを知っていたせいもある。しかし、それだけではない。その証拠に、付録として収録されていたオリジナルビデオに切り替わったとたんに仕事ができなくなったのである。以前見たことがあり、ストーリーも知っているのに、まったく眼が離せないのである。

 制作費を抑えると演出の質が落ちるということは、かつてビデオ教材の制作で体験したことがある。

 アニメの制作費は意外に安いと聞くが、そのことがTVシリーズの演出にも影響しているのであろうか。また、同じ低予算でも、オリジナルビデオの場合は、スタッフの意気込み違うのだろうか。よく分からないが、新たな発見であった。

ホワイトカラー・エグゼンプション

2010/02/12 20:00:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2007年2月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。

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 多様化した労働形態に追従するため、労働法が徐々に変わってきている。しかも、変更内容は労働者に不利な項目が目立つ。

 中でも、ITエンジニアの労働形態に直接影響を与えそうなのが「ホワイトカラー・エグゼンプション」である。今月は「ホワイトカラー・エグゼンプション」が実施されても生き残る方法を考えてみたい。

●「ホワイトカラー・エグゼンプション」とは

 「ホワイトカラー・エグゼンプション」とは、1938年から米国で採用されている規則で「一定の条件を満たしたホワイトカラーの労働時間は、法規制の対象から除外(エグゼンプション)する」というものだ。一定以上の地位にいるホワイトカラーは、自分の労働量を自分でコントロールできるというのがその根拠である。

 そもそも労働法は、産業革命の頃、労働者を保護するために、資本家への規制として生まれた。当時想定していたのは主として工場労働者である。そのため、ホワイトカラーのような知的労働者には不適切なルールもある。こうしたことから、今までにも多くの規制緩和が行われてきた。フレックスタイム制と裁量労働制がその代表である。

 フレックスタイム制は、勤務時刻を労働者が自分でコントロールできるようにするための制度だ。ただし、フレックスタイム制を導入しても総労働時間は労働法の規制を受ける。

 一方、裁量労働制は、労働時間も自分でコントロールできる。裁量労働制では「みなし労働時間」を定め、実際の労働時間にかかわらず、その時間働いたとみなす。会社が勤務時間についての具体的な指示をすることは禁止される。

 裁量労働制は「平均的な能力の社員がみなし労働時間だけ働いたときの成果」に対して賃金が支払われる。能力が高ければ、実際の労働時間が短くなるし、低ければ長くなる。しかし、実際には、人件費を節約する目的で、みなし労働時間を短く設定することも多いという。

 「みなし労働時間」は労使協定で決めるが、IT業界では労組がほとんど機能していない企業が多い。経営者が提案した時間をそのまま受け入れることも多いようだ。

 みなし労働時間を大きく超える残業があった場合、会社には代休付与の義務があるし、休日出勤や深夜残業の超過勤務手当も必要である。しかし、これも守られているかどうかはかなり怪しい。

 「ホワイトカラー・エグゼンプション」は「自律的労働時間制度」とも呼ばれる。他の制度と違い、そもそも勤務時間の概念がない。完全な成果主義である。裁量労働制と異なり、休日出勤や深夜残業手当もない。

 容易に想像できるように、この制度は単なる賃下げの口実に使われる可能性が高い。何らかの法的な歯止めはできるだろうが、現在の裁量労働制の運用を見ているとほとんど期待できない。

 厚生労働省では、自律的労働時間制度対象者の要件として、(1)労働時間では成果を適切に評価できない仕事をしている、(2)重要な権限と責任を相当程度伴う地位にある、(3)年収が相当程度高い(1000万円程度)などを挙げている。

 しかし、仕事の内容は年収で決まるものではないだろうし、他の2つの条件は極めてあいまいだ。経団連は年収400万円以上を対象にしたいとしているが、経済同友会は自律的労働時間制度そのものに反対と、産業界でも意見が分かれている。

●自律的労働時間制度を生かすには

 筆者は、前にホワイトカラーの勤務時間概念のあいまいさを指摘した(「お持ち帰り残業」)。そして「公私混同型」の勤務形態を提案した。

 しかし、それには2つの条件がある。まず、自分で仕事の量をコントロールできること。次に、会社が完全な自由を認めてくれることである。

 さて、現実にそんなことができるだろうか。幸い、筆者はこの2つを実現できた。いくつかの幸運もあったので、誰にでも実行できるわけではないが、紹介しておこう。

 筆者が公私混同型スタイルを実践しようと思ったのは、会社ができたばかりで知名度も低かった頃である。広告を出す予算もなかった。そもそも広告で信頼が得られる時代でもない。

 そんなとき、知人からの紹介でWindows Server World誌(当時はWindows NT World)から、原稿の依頼があった。筆者は上司に掛け合い、記事に社名を出してもらうことを条件に、勤務時間外に会社の機材を使うことを許可してもらった。

 勤務時間外といっても、既にフレックスタイム制が導入されていたので、コアタイム(筆者の会社は午後3時)以降なら勤務時間外とみなせる。

 当時のWindows NT Worldは著者の所属組織を書かない方針だったのだが、これも当時の編集長と掛け合って記事末尾に社名を入れてもらった。

 幸い、その記事は好評で、続けていくつかの記事原稿の依頼があった。原稿を書くのは自分の勉強にもなるので、技術知識も増えていき、ますます良い記事が書けるようになった。マタイの法則(「ITエンジニアのキャリアパス」)である。

 「社名を入れる代わりに、会社の機材を使っても良い」「本業に悪影響を与えない」この2つの原則は今でも不文律として生きている。

 自分の書いた記事が増えると、社外で認められるようになり、結果として社内での存在感が増す。もちろん「原稿書いている暇があったら、会社の仕事をしろ」などと言われないように注意した。

 幸い、本業であるITトレーナと技術記事の執筆は極めて近い関係にあった。記事を書くための勉強は本業でも活かせたし、その逆もあった。特集記事の内容を、ほぼそのまま教育コース製品にしたこともある。実に効率のいい仕事であった。

 原稿を多く書いていると、作業時間の見積もりも正確になってくる。その結果、仕事の量も自分でコントロールできるようになった。できない仕事は、最初から「できない」と断るからだ。

 多くの人は与えられた仕事を断れないかもしれない。しかし、社内での地位を築いておけばそれも可能だ。

 こうして、自分の仕事量をコントロールし、自分の地位向上ともに、社内での自由も獲得した。マネージャではない、一介のエンジニア(*)でもここまでできる。

 重要なことは、他の誰にも負けない高い能力を身につけることである。もう少し正確に言うと、誰にも負けない能力を持っていると経営者に思わせることである。

 「自己実現」といった実体のないものに一所懸命になる暇はない。生き残るためには勉強するしかない。

●転職の機会は積極的に利用しよう

 資本制社会の人間は、生産手段を私有しない「プロレタリアート」と、産業資本家である「ブルジョアジー」に大別される。しかし、ITエンジニアなどの知的労働者(ホワイトカラー)はいずれにも属さない。「プチブル(プチブルジョア)」の蔑称もある。

 ホワイトカラーにとっての「資本」とは何か。それはもちろん「知的能力」である。工場労働者に代表されるプロレタリアートは、生産手段を所有していないため、法律で身分を保障してもらい、集団で交渉する権利が認められた。しかし、知的能力という資本を持った労働者は、その気になれば資本家と対等な交渉を行うことも不可能ではない。

 理不尽な要求に対抗する最終手段は転職である。何かから逃げるための転職は、一般的にはおすすめしない。しかし、別の会社の方が自分の能力を伸ばせると思えば移ればよい。自分の能力が十分高ければ、会社は引き留めてくれるだろう。運が良ければ、こちらの条件を受け入れてくれるかもしれない。ただし、引き留められない可能性もあるので事前の準備は必要だ。転職先を決めてから交渉した場合、慰留を受け入れると転職先に迷惑がかかる。かといって、転職先を決める前に交渉した場合、失業してしまう恐れがある。

 人材会社、いわゆるヘッドハンターも積極的に活用すればいい。人材会社の担当者と相談することで、自分の知的能力つまり資本が、どれくらいの価値があるのかを客観的に算定できる。これにより、今の会社での扱いが正当なものかどうかも判断できる。評価が不当に低ければ転職すれば良い。自分に欠けているスキルを判断するにも他者の目があった方がよい。

 ただし、こうした相談を嫌がる人材会社もあるようだ。担当者にもよるらしいので、相性のいい人を見つけるのに時間がかかってしまうかもしれない。人材会社は、人材を斡旋した会社からの手数料で利益を得ている。相談だけして転職しない場合は、人材会社には一銭も入らないのでやむを得ない。

 Web上でのフォーラムを使うのも1つの方法だ。例えば、アットマーク・アイティの「自分戦略研究所」は、キャリアパスの作り方や転職テクニックの他、電子掲示板でのディスカッションも盛んである。匿名だが、IDが固定されているので、あまり無責任な回答はないようだ。

●エンジニア如何に生くべきか

 資本家は、資本を運用することでさらに資本を増やす。エンジニアは、自分の知的能力を活用することで、さらに高い能力を身につける。知的能力は資本である。資本が資本を生むように、知識は知識を生む。知識はエンジニアの価値を高め、経営者と渡り合う武器となる。頑張ってIT業界を生き抜いて欲しい。

 「知は力」フランシス・ベーコン

 (*)筆者は2006年4月末から取締役になっているが、その前は平社員である。グループマネージャをしていた時期もあるが、長くはなかった。

■□■Web版のためのあとがき■□■

 今回の記事を書いて「プチブル(プチ・ブルジョア)」の本当の意味を初めて知った。

 マルクス主義の用語では、ブルジョアとは資本家を意味する。対応する語は「プロレタリアート」で、資本を持たない労働者階級のことである。

 プチブルは、元々自作農家や、小商店主、職人などを指したらしい。小規模ながらも生産手段を所有している階級である。その後、学生や、ホワイトカラー、専門職も含むようになったという。

 学生は無産階級(プロレタリアートの訳語)だと思うのだが、親の庇護にあるという意味でプロレタリアートではないのだろう。ホワイトカラーや専門職が「知識」という資本を持っていることは本文にも書いたとおりである。

 一般に「プチブル」というと「日和見主義」の蔑称である。プチブルは、大資本も持たないし、完全な無産階級でもないので、政治的立場が浮遊しやすいことに由来しているらしい。

 学生運動が盛んだった1950年代から1970年代まで、学生運動家は「プチブル」と呼ばれるのを非常に嫌った。しかし「プチ・ブルジョア」が単に「小金持ち」位の意味だと思ったら大間違いである。

 さて、ソビエト崩壊以後、いや、その前のソビエト計画経済の失敗以降、マルクス主義は輝きを失ったが、今でも勉強する価値のある理論であることは間違いない。

 特に、資本主義について考察した部分は今でも高く評価されている。問題は「資本主義の次のステップは、社会主義・共産主義であり、それを実現するには革命しかない」という下りである。

 ただし、マルクスは「共産主義革命は成熟した資本主義のあとに起きる」としていた。ソビエトも中国も、資本主義が成熟する前に革命が起きているので、マルクスが想定した姿ではないとする説も根強い。

 ところで、「ナニワ金融道」などで有名なマンガ家の故青木雄二氏は、熱心なマルクス主義者だったらしい。愛読書は「資本論」とプロフィールに書いてあったくらいだ。

 彼のエッセイには「資本主義社会で生き抜くには、資本家になるしかない」「アパートを買うときは一棟買え。資本主義社会で生き残れるのは、資産がある人間だけだ」などと書いていたが、彼一流の逆説だったようだ。

 アパートを1棟買うほどの資本を持つのは難しいが、経営者と渡り合えるような知的資本の蓄積は不可能ではない。頑張って欲しい。

「魔法の天使クリィミーマミ」に見る職業観

2010/01/20 17:30:00

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 日本でも、企業の吸収・合併・解散が増えてきた。自分の職業人生の将来に不安を覚える人も多いだろう。職業というのは「食っていければ何でもよい」というものではない。誰でも、自分がこうありたいと望む姿を思い描いているのではないだろうか。これを「自己実現」と呼ぶ。今月は、自己実現について考えてみよう。

●「魔女の宅急便」に見る自己実現

 日本が、世界に誇る文化と言えば、いまや「アニメ」と「マンガ」である。そして、現在活動中のクリエーターで、世界で最も評価されているのが宮崎駿である。彼の作品で、筆者が最も好きなのは「魔女の宅急便」である。ただし、マニアの間では「魔女宅」(マニアはこう略す)は必ずしも高い評価ではないようだ。むしろ「風の谷のナウシカ」の方が人気は高い。理由は筆者には分からない。

 筆者が「魔女宅」で最も気に入っている点は、主人公が特別な力を持たないことと、職業を持って自立していることである。主人公のキキは、魔女といっても見習いで、ほとんど唯一の能力が「ほうきで空を飛ぶ」ことだ。しかし、キキは自分の唯一の能力を生かし「宅急便」を開業する。

 角野栄子氏の原作によると、配達の固定料金を設定せず、顧客から「お裾分け」をいただくというビジネスモデルまでも作り出している(映画では「お裾分けモデル」についての詳細は言及されていない)。

 原作2作目で、キキは自分のあるべき姿をいったん見失うが(このあたりには映画版の影響が見られる)、最終的に宅急便ビジネスを継続し、新しい市場にも進出する。別のことをやりたいからといって、現在の仕事を辞めたりはしない。着実にキャリアを積んでいるようだ。

 「自分のあるべき姿を具体化すること」を「自己実現」と呼ぶ。自己実現は、偶然できるものでも、誰かが与えてくれるものでもない。数少ない自分の能力を伸ばした結果として獲得するものである。仕事に向き不向き、好き嫌いはあるが、それを見極めるのは一定の努力のあとにしたい。

●「魔法の天使クリィミーマミ」に見るプロ意識

 宮崎作品ほど有名ではないが、筆者の好きなアニメに「魔法の天使クリィミーマミ」という作品がある(ちょっと変わった表記で間違えやすいが「クリーミィ」ではなく「クリィミー」)。小学生の少女(森沢優)が、「夢嵐」に巻き込まれた「フェザースターの船」を助けたことから、お礼に1年間の期間限定の魔法をもらう。

 多くの魔法少女アニメは、最初から魔法が使える上、何らかの使命を帯びているか、勝手に使命感を持つ。

 しかしクリィミーマミではこうした使命とは無縁だし、使える魔法も「17歳の女性に変身する」くらいである(ただし、ドアの鍵を開けるなど、細かい魔法は時々使えるようだ)。

 状況は、割れた鏡の供養をしたお礼に変身コンパクトをもらう「ひみつのアッコちゃん」に近い。しかし、アッコちゃんはコンパクトで何にでも変身できるし、筆者の記憶する限り、魔法の力を自分の好奇心を満たすためだけに使ったりはしない。けっこうまじめなのであるが、その代わり人間としての魅力にも乏しい。

 森沢優は、もらった魔法を単純に面白がって使う。そのうち、成り行きでアイドル歌手としてスカウトされ「クリィミーマミ」として仕方なくデビューしてしまう。ところが、アイドルの仕事を始めてから徐々にプロ意識が芽生える。偶然得た仕事であるにもかかわらず、引き受けたからには最後までやり通す。その理由は「他の人が困るから」だ。小学生とは思えないしっかりした考えである。

 与えられた自分の能力を生かし、成長していく姿に感動した人は多いらしい。特に、女性からの支持は圧倒的だという。GYAOでの配信に続き、2006年9月からは「Yahoo! 動画」での配信も始まった。それだけファンが多いということだろう。たとえば10月22日現在で、GYAOのレビュー満足度評価ランキングは2位。ただし、1位の評価者は全部で3人なのに対して、2位、つまり、クリィミーマミの評価は439名なので、実質的には1位である。ちなみに3位は109名だった。

●人に認められるということ

 「フェザースターの船」を助ける方法も示唆に富む。森沢優は、単にフェザースターの船を「見た」だけだ。道案内をしたわけでも、地図を渡したわけでもない。ただ「見て認識した」だけだ。フェザースターの船は、他者が認めることで、進むべき進路を発見できたという。

 最近、学校にも行かず、定職にも就かない、いわゆる「ニート」が増えているらしい。「ニート(NEET : Not in Education, Employment or Training)とは、15から34歳の非労働力人口のうち、通学や職業訓練などを行わない者を指す。ニートが本当に増えているのか、増えている理由はなぜか、その理由は普遍的なのか、また、失業状態なのか、それとも就職する気がないのか。そうした分析は筆者の手に余るが、1つ思うことがある。あくまでも「想像」であるが、ニートの多くは人から認められた経験が少ないのではないだろうか。人から認められるには、それなりの努力が必要だ。認められるには時間がかかる。時には、自分で意識していない部分が認められることもある。しかし、どんな面でも、他人に認められることは、励みになるし、もっと頑張ろうと思うのが普通だ。

 調べてみると、運動会の徒競走で順位付け廃止が流行したのが10年ほど前だという。ニートの学生・生徒時代とちょうど重なる。順位付けを廃止しても、足の遅い子が速くなるわけではないので、足の遅い子の劣等感が解消されるわけではない。筆者の経験から言うと、劣等感のピークはゴールの瞬間にあり、表彰台ではない。そもそも表彰されないのだから、何も感じないわけだ。しかし、表彰をなくすことで、足の速い子のやる気は確実にそがれたことだろう。

 公の場で評価されるのが、試験の結果だけだとしたら、受験勉強の不得手な人の成功体験はほとんどなくなる。同じ運動でも、中学高校になればクラブ活動の成果として評価される。そうなると、レベルも上がり、徒競走で一等だった人も埋もれてしまうことが多いだろう。そのため「成績はそれほどでもないけどクラスでちょっと運動ができる」生徒が評価されることはない。

 ニートをサポートするためのインターネットラジオ「オールニートニッポン」では、以下の4つのコンセプトを掲げてニートをサポートするという(命名はオールナイトニッポン世代なんでしょう)。

  1. リアルタイムでダイレクトな情報提供を行う
  2. 同世代のひきこもっている若者、働けない若者、生きづらい若者、頑張っている若者の現状やストーリーを取り上げる
  3. 双方向のコミュニケーションを重視する
  4. 若者の出会いや何かをやってみる場所としてオールニートニッポンを提供する

 こうしてみると、他者との関係性に重点を置いていることが分かる。特に2のコンセプトは、その人を認め、評価することにつながるだろう。日本の労働人口は減少傾向にある。こうした試みが成功し、不就労者がいくらかでも減少することを願う。

●今、何をすべきか

 読者のみなさんの中には、転職を考えている人もいるだろう。転職を視野に入れて仕事をすることは決して悪いことではない。自分の能力を客観的に評価できるからだ。

 しかし、実際に転職する前に考えてほしいことがある。今の仕事に真剣に取り組んだかということだ。どんな仕事でも、真剣に取り組んでみないと、その良さは分からない。自分の能力の限界も判断できない。「自己実現」は、自分のやりたいことを自分の能力のバランスを取りながら獲得するものだ。

 それから無職の方へ。「自己実現」は、最近流行のキーワードである。あるべき自分の姿を見つけるために旅に出るという話も聞く。確かにチェ・ゲバラのように、旅行中に自分が成すべき使命を獲得する人もいるだろう。しかし、中途半端な観光旅行などしてもしょうがない。まずすべきことは就労である。

 定年退職した人にも言いたい。定年をすぎても老後は長い。趣味に走るのもいいし、そばを打つのもいいが、今の時代、隠居するにはちょっと早い。今までの経験を生かして、後輩指導にあたって欲しい。そういえば、IT系の雑誌記事の著者陣は、ここ数年来、あまり代わり映えしない。会社というしがらみを離れた定年後こそ、経験に裏打ちされた記事を書くチャンスではないだろうか。

 ニートにしても定年退職者にしても、無職の人がやるべきことはこれだ。

 自分探すな職探せ

■□■Web版のためのあとがき■□■

 少女アニメで、女性にも人気があるものと言えば「魔法のプリンセスミンキーモモ」だ。2010年1月時点でのWikipediaには「どんな職業の大人にでも変身できるという設定は、文字通り女の子に夢を与え、かなりの人気を博した」とある。

 「ミンキーモモ」が放送されたのは1982年から1983年。日本が女性差別撤廃条約に署名したのが1980年、批准に伴う男女雇用機会均等法の施行が1985年である。こうした動きが子ども番組にも影響していたのかもしれない。ちなみに、本文中で登場した「クリィミーマミ」は1983年から1984年の放映であるので、やはり雇用機会均等法の時期である。

 その他に、女の子に人気のあったアニメといえば「キャンディ・キャンディ」(1976年から1978年)を忘れてはいけないだろう。孤児院で育ったキャンディス・ホワイトも、大人になってから看護婦として働く。女性の職業としては少し古い感もあるが、あまり先進的な職業にするとストーリーが脇道にそれてしまったかも知れない。今どきのアニメは、職業を持たなければ支持されないと断言しても良いだろう。

 ただし、こうした傾向は独身女性に限られる。もう何年も前から、既婚女性の過半数は働いているにもかかわらず、「働く母親」はもちろん「働く既婚女性」すらほとんど登場しない。アニメばかりか、ドラマでもそうである。

 まれに登場したとしても、必要以上に気負った存在だったりする。見ていて「そんなに頑張って仕事せんでもええんちゃうの」と思わず関西弁に戻ってしまうくらいである。

 今の時代、女性がキャリアを求めるのは、そんなに大変なことではない。もちろん「ガラスの天井」と呼ばれる障壁があり、暗黙の圧力により昇進の道が閉ざされている現状はある。しかし「ふつうに」仕事をしている女性が多いこともまた確かである。アニメやドラマにも、もっと「ふつうの」女性が登場してもいいのではないだろうか。

 「魔法のプリンセスミンキーモモ」には、同タイトルの続編が1991年から1992年に放映されている。Wikipediaには「この時期には女性が社会で活躍するというのが普通になってしまい」とあるように、大人に変身する魔法はほとんど使われなくなった。「女性が職業を持つ」ことがテーマにならないなら、次は「母親が職業を持つ」ことがテーマになると思うのだが、いかがだろうか。

ITエンジニアのキャリアパス

2010/01/05 19:15:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年12月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。

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 IT業界には実にさまざまな職種がある。その中には、IT業界に入って最初に務める職種もあれば、一定のキャリアを積んでから務める職種もある。また、意図的、あるいは偶然に職種転換を行うこともある。

 今月は、ITエンジニアの職種転換、つまりキャリアパスの話である。誌面の都合で今回はプログラマ系の職種に限定するが、他の職種でも成り立つ部分があるはずだ。

●ITエンジニアの職種

 同じITエンジニアであっても、職種によってステータスが違う。高いステータスの職種は、それだけ多くの経験が必要とされているからだ。筆者が日頃から感じている主観的序列は以下のとおりである。

  1. コンサルタント(顧客の潜在的な要求を具体化する人)
  2. アーキテクト(その要求を実現する方法の全体像-アーキテクチャ-を決める人)
  3. システムエンジニア(そのアーキテクチャに従って、具体的な実現方法を決める人)
  4. 上流プログラマ(具体的な実現方法に従って、プログラムの構造を決める人)
  5. 下流プログラマ(プログラムの構造に従って、実際のプログラムを作る人)

 IT系エンジニアとして仕事を始める場合、通常は下流プログラマからスタートする。「下流」といっても「二流」の意味ではない。IT業界ではハードウェアに近い方を「下」、顧客に近い方を「上」と呼ぶ習慣がある。

 下流プログラマは、コンピュータで動かすプログラムを直接作る作業を担当する。与えられた条件で、最高の性能を実現し、読みやすいプログラムを作成することが下流プログラマの仕事である。

 ただし下流プログラマの仕事の中には、本当に単純な作業も含まれる。最初に担当する仕事はそういう作業だ。

 下流プログラマの経験を積んだら、上流プログラマに徐々に移行する。上流プログラマは、与えられた問題解決の手順(アルゴリズム)やデータの表現方法(データ構造)を考える。抽象度の高い仕事なので、プログラムの動作を深く理解していないと務まらない。コーディングを知らない上流プログラマは実現不可能な案を提案しがちだし、アルゴリズムとデータ構造を知らない下流プログラマは保守性の悪いプログラムを作りがちである。レベルの高いエンジニアになるには上流・下流両方のスキルが不可欠である。

 システムエンジニア(SE)は、上流プログラマの仕事の一部も担当するが、主な仕事は顧客にインタビューして、顧客が何をしたいのかを明らかにすることである。そういう意味ではコンサルタントの仕事も含まれる。コンサルタントは、顧客の潜在的な要求を引き出し具体化する人だ。

 最近では、1つのプログラムが巨大化しているし、複数のプログラムを連係して使うことが増えてきた。そのため、プログラムの全体像を、首尾一貫した整合性の取れたものにしておかなければならない。こうした仕事をする人がアーキテクトである。

 アーキテクトの仕事は元々SEや上流プログラマが行っていたが、最近は独立した職種になってきた。一般的にはSEや上流プログラマの次のステップとされている。アーキテクトからコンサルタントに移行する人もいる。

 さて、こうして列挙してみると、ITエンジニアのキャリアパスは、5から1へ向かっていることが分かる。ステータスもそれにつれて高くなる。このように、キャリアパスとステータスが連動しているのは健全な姿である。

 もちろん、プログラムを書くのが好きな人もいるだろう。そういう人は下流プログラマに留まっても構わない。ただ、自分の作ったプログラムが、システム全体でどのように役立っていて、作ったシステムが顧客のビジネスにどのように影響を与えているかを知っておくことは、良質な仕事をする上で不可欠だ。そのためには、SEやアーキテクトとしての仕事を知っておくことは悪くない。

●ITエンジニアのキャリアパス

 実は、多くのエンジニアが悩むのはエンジニアのキャリアパスではなく、マネージャになるかどうかの選択である。多くの人は、SEを務めたあたりで一般管理職にならないかという打診がある。

 ほとんどのエンジニアはここで迷う。マネージャになると、自分の好きな技術から遠ざかってしまうからだ。中には「プレイング・マネージャ」として活躍する人もいるが、それで成果を出せる人は決して多くない。マネージャとしての仕事とエンジニアとしての仕事を両立させるのは非常に困難である。

 一流スポーツ選手が一流監督になるとは限らないように、一流エンジニアが一流マネージャになるとは限らない(*1)。マネージャになっても成功するとは限らないという不安があるので、迷いはますます大きくなる。

 もっと問題なのは、いったんマネージャになったら、エンジニアに戻る方法が事実上ないということだ。多くのIT系企業は、「マネージャとエンジニアは対等であり、職種転換は可能である」と主張する。しかし、実際にはエンジニアからマネージャへの転換は多くないような印象を筆者は受けている。一般には、エンジニアからマネージャへの転換「降格」という印象を持つ人が多いことも原因の1つだろう。

●まずやってみる

 しかし、そうしたリスクがあったとしても、もしマネージャになる機会があれば、受けた方がよいと思う。もしかしたら、自分の隠れた才能を引き出してくれるかもしれないからだ。最悪でもマネージャの仕事が何なのかを知ることができる。これは、今後の職業人生に大きなプラスになる。

 ただし、マネージャとして成功しなかった場合や、マネージャの仕事にどうしても興味を持てなかった場合のリスク対策は必要だろう。まず、成果を出せなかったらエンジニアに戻してもらうように言っておく。もっとも、こうした約束はあまり期待しない方がよい。すぐ反故にされる。

 転職は1つの選択肢だ。何かが嫌で転職することはおすすめしないが、何かしたいことがあって転職するのは悪くない。ただし、転職先の本当の状況は分からないという大きなリスクもある。

 筆者がおすすめする方法は、自分が進みたい方向の業績で、社外で有名になることだ。ただし、社外「だけ」で有名になると、社内での評判を落とし、自分の意見が通らなくなるので注意して欲しい。

 社内に有名人を抱えていると、経営者は、その力をもっと発揮させたいと思うものだ。さらに直接的には、重要な得意先の、なるべく偉い人にお願いするという方法もある。「ところで、XXXさん、最近現場に出てないようだけど何してるの」と聞いてもらう。

 圧力をかけるような言い方だと反感を買うかもしれないが、最悪の場合はそれも選択肢の1つだ。この時、自分の直属上司ではなく、さらに上の職位の人、たとえば事業部長と話をしてもらおう。事業部長は、きっと「XXXって、誰だ」ということになるだろう。調べたら、どうも一流エンジニアだったのに、マネージャになって成果が出ていないらしいということになる。「だったら、いっそエンジニアに戻そう」と話が進む(かもしれない)。これでうまくいかなければ、自分の力量が足りないということだ。別の方法を探して欲しい。

 有名になる方法で、手っ取り早いのはオンラインコミュニティへの参加である。Windows系のエンジニアなら、Microsoft MVPになるというのも効果的だ。最近は人数が増えてきて、MVPの価値も相対的に低下したようなきらいもあるが、それでも効果はある。少なくとも、マイクロソフト社内での知名度向上には貢献する。

 オンラインコミュニティで頭角を現し、MVPに選出されるには、それだけの技術力と自分の技術力をアピールする力が必要なことはいうまでもない。単に「有名になりたい」だけではだめだ。だからこそ効果があるのである。優れたエンジニアは、自分のキャリアパスを自分で選択できる。しかし、そうでなければ選択の余地がないどころか、首を切られる恐れすらある。厳しいようだが頑張って欲しい。

 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。[マタイによる福音書25章29節(新共同訳)](*2)

 (*1)「優秀なマネージャになったエンジニアはいない」とマイクロソフト社員に言われたので「Bill Gatesがいるじゃないですか」と答えたら「それはどうかなあ」と返された。経営者としては優秀だが、マネージャとしてはそうでもないかもしれない。古川享氏のブログを読んでそう思った。

 (*2)これは、与えられたタラントン(当時のお金の単位、英語ではtalent)を使って儲けた人と、何もしなかった人についてのエピソードである。タラントンは、タレント(才能)の語源となった。

■□■Web版のためのあとがき■□■

 エンジニアのキャリアパスが問題になるのは、上級エンジニアのステータスが低いからではないかと思う。では、エンジニアのステータスを上げるにはどうすればいいだろう。筆者は2つの条件があると考える。第1に「上級エンジニアの給料が上がること」、第2に「上級エンジニアが尊敬の対象になること」である。

 上級プログラマの生産性は、初級プログラマの10倍に至ることも珍しくない。数ある職業で、これほど差の付く分野はそれほど多くない。にもかかわらず、給与はせいぜい2倍だ。おそらく部長の給料よりは安いだろう。これではやる気も出ないし、目指すべきキャリアパスとは言えない。

 給料が安くても、社会的なステータスが高ければ満足できる人もいるだろう。しかし、エンジニアは尊敬の対象となるだろうか。同じ技術系でも、科学系だと大学教授のような名誉職がある。大学教授の給料は決して高くないが社会的ステータスは高い。たまに不祥事を起こす人もいるが、ニュースになるということ自体ステータスの高さの表れだろう。ところが、エンジニアが工学系の大学教授になったという話はそれほど多くない。筆者の知人に限れば数人である。決して少なくはないが、一般的なキャリアパスではない。

 筆者自身、答えは持っていないが、そろそろ引退の時期を模索する年齢が近づいてきた。継続的に考えていきたい。

お持ち帰り残業

2009/12/25 19:52:11

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年11月号)をお求めください。もっと面白いはずです。なお、本文中の情報は原則として連載当時のものですのでご了承ください。

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 かつて「ふろしき残業」というものがあったらしい。書類をふろしきに包んで自宅に持ち帰るからだという。今は多くの書類が電子化されているため、持ち帰り残業はもっと手軽になった。先月に続いて、IT業界の労働習慣について考えてみたい。

 以前、「公私混同」という話をした。時代もその方向に進んでいるようだ。たとえば「社員ブログ」。対外的には「社員による個人的なブログ」という位置づけだが、実際には明らかにマーケティングあるいは宣伝活動の一環である。主観を交えた記述をしたり、企業活動とは直接関係ない内容を書くことで「個人」を強調する。読者がブログの作者に親近感を抱いてくれれば戦略の半分は成功である。次のステップは「広告よりも友人の情報を信用する」という性質を利用して、売り上げに貢献することだ。

 社員ブログを書いている時間は勤務時間なのだろうか。労働法上は勤務時間と言えるだろう。会社の方針に基づいて遂行される業務だからだ。しかし、実際の社員ブログでは、業務とは全く関係ないことを書く場合も多い。「親近感を抱かせる」という大きな目的を遂行するためだが、そのために残業代を支払うのは変だと思う人も多いだろう。

 「勤務時間にのみ給与が発生する」という概念を捨て「公私は密接に結びついていて、明確には分離できないグレーゾーンがある」ということを認めれば、給与体系の問題は残るものの、倫理的な問題は解決する。筆者の会社でも社員ブログを始めたので、暇ならのぞいてみて欲しい(諸般の事情でブログとしての使い勝手はかなり悪い)。もちろん個人的なものである(ということにしておく)。

 社会全体として見ると、公私混同は必ずしも歓迎されていないようだ。2006年8月15日付朝日新聞朝刊(東京本社版)によると「メール残業」の広がりが懸念されているという。

 「メール残業」は「添付ファイル残業」とも呼ばれ、個人用メールアドレスに会社の書類を送り、自宅で会社の仕事を続けることを指す。自宅から会社のメールを読み書きするのも「メール残業」だ。私用メールアドレスあるいは私用PCで、私用時間に仕事をするのは公私混同だといえる。

 朝日新聞は、メール残業に否定的だ。しかし、筆者は「メール残業」のすべてが悪いとは思わない。確かに無理な長時間労働を強いられる側面はある。知らず知らずのうちに過労に追い込まれることもあるだろう。過労状態に家族ですら気付かないということもあるかもしれない。だから、メール残業の強制には筆者も反対である。だが、公私混同と過労とは別の問題だ。

 メール残業には利点も多い。筆者は、夜(なるべく)早めに帰り、食事をしてから会社のメールを読む。簡単なものにはその場で返事をするが、通常は仕事の優先順位を付けるだけに留める。翌日は、優先順位にしたがって仕事を片付ける。電子メールが普及してから「必要だけど優先順位は低い」という連絡事項が増えた。こういうものを前夜に片付けておくことができれば、仕事が楽になる。

 自営業をしていた筆者の父の勤務時間は9時から12時、14時から18時、そして21時から23時だった(ただし、日によって、また季節によってかなりばらつきはある)。高校野球のシーズンと大相撲の時期は生産性が30%程度(筆者推定)低下していたようである。

 会社勤めをしている筆者も、気が付くと似たようなパターンになってきた。高校野球も大相撲も見ないが、ドラマは時々見る。昼休みは2時間も取らないし、夕方仕事を切り上げるのももう少し遅い。しかし、だいたい似たような傾向である。

 ところで、この朝日新聞の記事、よく読むと突っ込みどころ満載である。だいたい朝日新聞は昔からハイテクに対して冷淡である。言いがかりのような反論も多い。そのあたりを突っ込みながら読むのが筆者の楽しみでもある(*1)。今回も突っ込んでみよう。

 まず、本記事の中心となる「メール残業」については「広がりへの懸念が、労働相談の現場で増している」とある。増しているのは「懸念」であって、実際に「メール残業」が広がっているわけではないようだ。また、記事には「日本労働弁護団が6月に1日だけ実施した『残業・労働トラブルホットライン』にこんな相談が寄せられた」とある。たった1日のイベントである。十分な告知はあったのだろうか。

 しかも「相談総数419件のうち、99件が長時間労働について」ということで、その割合は4分の1以下である。他にどのような相談があったか分からないので、多いか少ないかは判断できない。その他の内容がどれも5%以下だというなら多いだろうが、70%を超える内容があるなら多いとはいえない。

 さらに、弁護士の話として「添付ファイル残業の悩み相談が、ここ3~4年で目立ち始めた」とある。「目立っている」ではないし、「急増している」でもない。これでは多いのかも増えているのかも分からない。

 記事にはもう1つ「休日も携帯電話で心理的に拘束される」ことが問題視されている。しかし、これはメール残業とは無関係である。40代システムエンジニアの妻の話として「夫は、休日も自宅で仕事。寝る時も携帯電話を近くに置き、システムトラブルが起きないか、と常に心臓がドキドキしている」とある。

 だが、携帯電話がなければ出社することになるだろう。むしろ、携帯電話によって条件が良くなっているのではないか。本来なら交代制のところが、携帯電話によって1人で対処しなければならなくなったのだろうか。だとしたら確かに大変だが、記事からはそういう背景が読み取れない。

 メール残業により、会社が従業員の労働時間を把握できなくなることは問題だと思う。従業員が、過労状態に気付きにくくなることも問題だと思う。しかし、最初から従業員の労働時間を適切に管理していない会社も多い。

 IT系ではないが、かつて過労で倒れた友人は「自己管理ができていない」と叱られた。本来なら、労働組合が適切な監視を行うべきだろが、組合が柔軟性に欠けるのは先月書いたとおりである。契約社員に至っては、ほとんどの場合組合員ではないため、はじめから無視されている。

 日本労働組合総連合会(連合)では、パートタイマー社員や派遣社員、契約社員も組合員として組織化すべきだと主張しているが、現実には難しいようだ。現在の正社員の地位は、非正社員の犠牲の上に成り立っている企業が多いからではないかと筆者は想像している。

 労使なれ合いの企業内組合が非正社員を取り込むのはおそらく無理だろう。偽装派遣の問題も、本来なら労働組合が先に指摘すべきだったはずだ。

 労働組合は、産業革命後の労働条件の向上には大きく寄与したことは認める。昔は週72時間を超える勤務が当然だったが、段階的に労働時間が制限され、現在、多くの国で週40時間労働となっている。こうした流れに労働組合が大きな力を果たしたことは間違いない。

 しかし、機械の稼働時間を短縮すれば、労働時間もほぼ自動的に短縮される工場労働者と異なり、ホワイトカラーの労働はそう簡単ではない。そのため、米国ではホワイトカラーの労働時間には制限を設けていない(*2)。日本でも、ホワイトカラーについての法規制は順次緩和されている。法規制の緩和は、労働者自身が望んだことでもあるので、その傾向は変わらないだろう。規制緩和というのは「自由にやっていい代わりに、自分で責任を取ってね」という意味だ。

 日本IBMは、先進的なワークスタイルを提案・実践する会社として知られている。同社の堀田一芙常務取締役は、月曜日は自宅で仕事をするようにしているという(*3)。そして「これは(仕事する時間と生活の時間の区別があいまいな)“公私混同型”のワークスタイルだ」と言う。IBM社員もこうしたワークスタイルを実践できる。ただし、それには「社員のモラルと責任感が要求される」としている(堀田常務)。

 実際のところ、個人ブログで企業情報を流出させないといったモラルの問題や、納期に影響するほど仕事中に遊んでいるといった責任感の問題はそれほど深刻にはならないと筆者は予想する。

 ホワイトカラーの多くは「プロフェッショナル」と呼ばれる存在だ。そして、そもそもプロフェッショナルは、高いモラルと強い責任感を持つ人だ。むしろ、問題になるのは、公私が混同された中で、いかに過労を防ぐかだろう。いわゆる「ワークライフバランス」である。

 同じ量だけ仕事をしても、過労になるかどうかは個人差がある。公私が混同されているので、労働時間は過労の目安にはならない。さてどうしたらよいだろう。筆者が心がけているのは実に簡単なことである。

 疲れたら休む。

(*1)朝日新聞といえば、日経新聞とともに世界で初めて新聞電子組版システムを実現した会社である。電子組版により失業したであろう文選工(活版に必要な活字を用意する職人)の失業問題はどのように報道したのだろうか。

(*2)ビジネス・レーバー・トレンド研究会「ホワイトカラー・エグゼンプションについて考える― 米国の労働時間法制の理念と現実 ―」(島田陽一・早稲田大学法学学術院教授)

(*3) 2002年7月18日WIRELESS JAPAN 2002講演より

■□■Web版のためのあとがき■□■

 本文で紹介した朝日新聞の記事は、連載当時Webで公開されていたのだが今は読めない。残念である。

 読者からは「疲れたら休む」というのは、実は極めて難しいことだと指摘された。過労の中には知らず知らずのうちに過労になっていて、倒れて初めて気付くということもあるようだ。「公私混同」のライフスタイルを実践できる人も少数派だという指摘もいただいた。

 確かに、よほど強い意志がないと単に遊んでしまって1日が終わるかもしれない。逆に、つい働きすぎて身体を壊すということもあるようだ。

 そう考えると、入社2年目くらいまでは、時間で働く習慣を付けた方がいいかもしれない。1年目は人について仕事ができることを目標にし、2年目は1人で仕事ができることを目標にする。公私混同で成果を出すのはそのあとだ。もちろん、人によっては1年目に1人で仕事をこなせるようになるかもしれない。そうしたら、公私混同は解禁だ。

 ただし、公私混同が、逆に過労を生む可能性も知っておいてほしい。特に、責任ある仕事をしている人ほどこうした傾向が強い。それは、ひとえに仕事が面白くなるからだ。言われた仕事をするより、自分から仕事をした方が楽しい。責任が重くなればなるほど、自分から仕事を進められる機会が増える。

 「過労」というと「働かされすぎた」というイメージが強い。しかし、中には自分から働いている人もいる。本当に恐いのはこっちである。自分の限界に気がつかなくなるからだ。仕事(work)と生活(life)を混在させつつ、両者のバランスを取りながら、メリハリを付けて働けるようになったら一人前である。IT業界で働く米国人は1つのモデルだろう。彼(彼女)らは、追い込みに入ると本当に寝食を忘れて働く。しかし、休むときはしっかり休む。そして周囲もそれを認めている。

 日本の企業では難しいかもしれないが、周囲との調和を取りながらぜひ試みて欲しい。この時、自分だけではなく、同僚も休めるように考えて欲しい。そうでなければ、結局、自分が気楽に休めなくなる。日頃から、同僚の仕事の一部をカバーできるようになっておくのが理想だ。お互いのカバー範囲が増えれば長期休暇も取りやすい。そうすれば、自営業では得られない、会社勤めのメリットが生かせる。フリーのエンジニアや独立起業した人にはない特典である。

ITエンジニアの労働環境

2009/11/13 18:00:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年10月号)をお求めください。もっと面白いはずです。

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 労働環境の改善といえば、昔は労働組合の仕事だった。確かに有給休暇の徹底や不当解雇の回避など、成果はあったのだろうと思う。しかし、最近では弊害の方が大きいような気もしてきた。今月は労働組合を含めた労働環境の話である。

 「なぜ、それほど一所懸命働くのか」。昔、友人と議論したことがある。結論は「仕事が楽しいから」だった。楽しいからつい働きすぎてしまうのだが、それによって失われるものも多い。仕事には締め切りがあるし、一定の品質も求められる。これはけっこうなストレスにもなる。ただし、締め切りもないし品質の要求もないとすると、あまり面白くないような気もするので、バランスが難しい。

●ITエンジニアの時給はマクドのバイトより安い?

 ITエンジニアの労働環境は、一般的に言って悪いらしい。筆者は他の業界を知らないが、「時給換算だとマクドナルドのアルバイトより安い」という声はよく聞く(本当はIT業界の平均賃金は全業種平均を上回る)。年俸制や裁量労働制が増え、残業代が支給されない会社が増えてきたためだろう。

 実際には、年俸制でも、年俸に含まれていない残業代は支払わなければならない。裁量労働制であっても、休日出勤や深夜残業の割り増しは必要だ。逆に裁量労働制だと、勤務時間が自由になるはずだが、それほど自由ではないところも多い。もっとも、この辺の問題は、年俸制・裁量労働制固有の問題で、IT業界に限らない。

 経営者と労働者を比べた場合、力関係としては労働者が圧倒的に不利である。そのため、労働者にはいくつかの一方的な権利が認められている。労働組合による団体交渉権はその例である。しかし、IT業界で労働組合が活躍した例はあまり聞いたことがない。不当解雇の撤回なんかはあるのだろうが、IT業界は自在の流動性が高いため、解雇される前に転職する方が多いような気もする。逆に、悪い話はよく聞く。

 同業者が「研修時間は5時までですので、絶対に5時を超えないでください」と強調されたことがあったらしい。尋ねたら「組合の規則です」とのこと。確かに、研修という名目で労働者を不当に拘束することもあるかも知れない。しかし、彼らが担当したのは、社員のスキルシフトを行うプロジェクトである。

 ベテラン社員のスキルは会社の財産である。不採算部門に埋もれさせておくことは、会社の損失だし、本人の利益にもならない。特に、古い時代に教育を受けたエンジニアは基礎がしっかりしているので、新しい技術の飲み込みも早い。苦手意識さえなくせば、若手よりも早く伸びることが多い。つまり、この研修は会社だけでなく、社員の価値を高める重要な業務なのである。

 これが、午前9時から午後10時までの研修というのであれば、反対するのは分かる。それは通常の労働条件ではない。しかし「午前9時から昼休みを1時間はさんで午後6時まで」くらいなら許容範囲ではないだろうか。おまけに、1時間に1回、15分程度の休憩も取るようにしている(でないと講師が疲れる)。ここで、無理に時間短縮を主張することで、社員(労働者)に対して損害を与えていることに気付かないのだろうか。

●産めよ増やせよ?

 女性の労働環境についてもピントがずれている。最近、政府は特殊出生率の低下を心配している。それに伴い、育児休暇の延長も議論されているようだ。しかし、育児期間中は休職することを前提にしていることがそもそも間違っている。労働組合も、基本的には政府方針に同意していて話にならない。

 実際に聞いてみると、すべての女性が育児休暇を望んでいるわけではない。そうではなく、ゼロ歳児保育、病児保育、そして夜間保育の充実こそを希望している人も多い。通常の保育園は、子どもがちょっとでも熱を出すと、すぐ親(たいていは母親)に呼び出しがかかる。これでは仕事に集中できない。会社内に託児所を作る企業もあるが数は少ない。そもそもゼロ歳児を通勤ラッシュの電車に乗せるのは健康上のリスクが高い。また、企業内保育所に病児保育まで要求するのは難しいだろう。専門知識のない保育士が病児保育を担当するのは無理がある。

 女性の労働力率が高い国ほど出生率が高いというデータがある(*1)。米国で女性の社会進出が増えたのは、離婚が増えたからだという説もある。両者がリンクできるとすれば、離婚しやすい環境を整えれば、女性の社会進出が進み、出生率が増えることになる。具体的には、男女の賃金格差縮小(現在の日本では、女性の平均賃金は男性の2/3程度)、保育所の充実、暗黙の職種強制の撤廃などだ。スウェーデンで出生率が増加しているのは、シングルマザー(またはファーザー)でも子育てを支援する環境があるからだとも言われる。

 実は、日本の世帯あたり希望子ども数は、緩やかに低下しているものの、ここ数十年ほとんど変化がなく、未だに2人を超えている。子どもを望んでいないわけではないのである。子どもを産まないことではなく、結婚しないことの理由を考えた方が良いと思うのだが、あまり話題にならない。

●公私混同は悪いこと?

 話を組合に戻す。労働組合は、1970年代の高度成長期に大きな成果を上げたことは分かる。といっても、筆者自身はそのころ子どもだったので、本当のところはよく分からない。しかし、工場労働者にとっての勤務時間短縮や有給休暇の増加は、生活の質を向上させるのに直結したと想像する。実際の有給休暇消化率は低かったにしても、一定の意味はあっただろう。

 しかし、ITエンジニアにとってはどうだろう。有給休暇はいいとしても、勤務時間の一律な短縮はあまり意味がない。忙しい時期とそうでない時期で極端に勤務時間が違うからだ。システムのメンテナンスのため、勤務時間をずらしたり、休日を移動したりしたいことも多いだろう。裁量労働制は、適切に運用できれば、ITエンジニアにとって良い制度だと思う。しかし、前述の通り、正しく運用されているとは言い難い。

 筆者は、昔から「ホワイトカラーは公私混同してもよい」と主張している(*2)。仕事のアイデアはどんなときに思いつくか分からない。勤務時間中に読んだmixiの日記が大きなビジネスにつながることだってあるだろう。その代わり、深夜に会社のメールを読んで、顧客トラブルに対応することもあるはずだ。本来、裁量労働制というのは、こういう公私渾然とした勤務形態のために用意されたもののはずだ。

 そういうと「じゃ、勤務中にWeb経由で映画を見たりエッチな画像を見てもいいのか」と反論する人もいる。筆者は、周りの人に迷惑をかけず、電話などの割り込みにも対応できるなら、映画は見てもいいんじゃないかと思う。ただし、エッチな画像は常識の問題だ。会社という公共の場では、表示すべきでない画像というものがある。

 現在のように、公私の区別が強調され始めたのは、工場の稼働時間に合わせて働くようになった時期、つまり産業革命以降ではないのだろうか。家内制工業の場合は、家庭行事のため臨時休業というのはよくあった。自営業をしていた筆者父の勤務時間は9時から12時、14時から18時、そして21時から23時だった。ただし、高校野球のシーズンと大相撲の時期は生産性が30%程度低下していたようである(筆者推定)。こういういい加減な勤務態勢を嫌がる人も多いだろうが、職種によって、また人によっては許されるのではないか。何より、その方が楽しいではないか。

●政党の意見は?

 試しに「裁量労働制」を、各党のWebサイトから検索してみた。自民党は該当なし。いくら何でもそれはないだろう。ホワイトカラーの労働環境は重視していないのだろうか。公明党は1件。「製造業全盛期とは時代が違うので、労働者を保護しつつ解禁」、つまり筆者の主張とほぼ同じだ。

 野党を見てみよう。民主党は22件。こちらは「政府案」に対する反対論調が目立つ。裁量労働制そのものの評価はよく分からなかった。共産党は170件で絶対反対論調。しかも古い労働感が目立つ。「自立労働の幻想振りまくな」というタイトルも目に付いた。確かに幻想かもしれないが、理想を求めることは悪くないはずだ。理想を求めた共産主義革命だって幻想だったが、資本主義の修正には役だった。

 ところで、社民党のWebサイトには検索機能がない。論外である。筆者は、昔から福島みずほ氏のファンであるだけに残念だ。仕方ないので、Googleの助けを借りて調べたところ、裁量労働制の「範囲拡大」に対して反対論調だった。歴史を振り返ってみると「自由化」「多様化への対応」という名目で、労働環境が悪化したことが多い。野党の反応も分からないでもない。しかし、乱用に歯止めをかけながら、メリットを生かす方法を考えるのが野党の役目のはずだ。ちょっと情けない。

●あなたの意見は?

 筆者は労働組合の存在を否定するものではない。集団で交渉しなければならないときは、労働組合を作る必要があるだろう。しかし、既存の労働組合は現状を正確に認識していないようだし、組合が支持する政党も当てにならないようだ。

 では、自分の労働環境を守るにはどうしたらいいだろう。それは、自分自身が、会社にとってなくてはならない存在になることしかない。IT技術者という専門職ならそれができるはずだ。自分の力を自然に(あくまで自然に)アピールすることも忘れてはならない。「最近、システムトラブルが少ないからIT要員を減らそう」と思われては困る。

 自分が会社にとって重要な存在になれば、多少のわがままは通る(あくまで「多少」だろうが)。もちろん、妥協すべきところは妥協する必要がある。雇用主である会社の利益が減れば、自分の給与も減ってしまうからだ。

 雇用主と被雇用者は契約で結ばれた関係である。契約には、お互いの妥協点を見つけて合意することも必要だ。誰かが決めた契約に同意するだけでなく、自分で契約書を作るくらいの気持ちを持って欲しい。転職は1つの選択肢だが、長く勤務している人の方がわがままを通しやすいことも事実である。

 どんなに良い会社でも、また、どんなに政治が良くなっても、追求されるのは「最大多数の最大幸福」でしかない。「あなた」の幸福は「あなた」がつかむしかないのだ。筆者が中学に入学した日、担任の教師が黒板にこう書いた。

 「自分の足で歩け」

 (*1)男女共同参画社会の正確な理解のために

 (*2)MVPインサイダー

 資料

 平成16年度女性雇用管理基本調査

 平成16年版働く女性の実情

理想のパーソナルコンピューティングとは

2009/10/19 19:01:00

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年9月号)をお求めください。もっと面白いはずです。

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 そもそもPCは、中央集権型のコンピュータに対するアンチテーゼとして登場した。ところが、いまはどうだろう。今回は「パーソナルコンピューティング」について考えてみたい。

●現在のPCは

 本誌の読者なら、自分のWindowsマシンを持ち、日常的にWebブラウズや電子メールの読み書きをしているだろう。自宅のPCは、自分の好きなように使っているはずだ。

 しかし、会社のPCはどうだろう。完全に自由に使っている人は多くないはずだ。たいていの組織は、何らかのルールを持っている。場合によっては、かなり不自由な環境で利用している人もいるだろう。この不自由さは一体なんだろう。

●そもそもPCとは何か

 PCが登場した当時「これで計算機センターに行かなくても、自分の好きなようにコンピュータが使える」と思った人がいた。当時のPC性能は、大型機に比べ圧倒的に低かったが、そんなことは問題ではなかった。コンピュータを自分で所有すれば、いくらでも時間があるからだ。

 若い読者のために、1980年代以前の非UNIX環境について説明しておこう。IBMに代表される大型コンピュータは、空調の完備した部屋に備え付けられ、「オペレータ」と呼ばれる人が管理していた。コンピュータに触れられるのはオペレータだけ。入出力装置の代表は、パンチカードと磁気テープ(いずれも過去の装置であり見たことのない人も多いかもしれない)、出力装置の代表はプリンタであった。

 コンピュータを使いたい人は、プログラムと入力データをオペレータに渡し、あとで実行結果のプリントアウトを受け取った。その間を「提出してから結果が戻るまで」という意味で「ターンアラウンドタイム」と呼ぶ。1980年代前半まで、ターンアラウンドタイムは短くて数分、長ければ1日程度であった。

 筆者が大学1年生の時、さすがに日常的な処理は対話的に行うことができたが、パンチカードを使っている人も多かった。磁気テープ装置がユーザーに開放されたのは修士課程に入ってからだった。

 UNIXだけはこうした一括処理と無縁であり、対話的に使うことができた。しかし、それでも複数のユーザーが1台のコンピュータを共用していることには変わりなかった。しかもUNIXは研究所を中心に導入されており、ビジネス用途で使われることはほとんどなかった。ビジネスアプリケーションがほとんど存在しなかったからだ(米国にはあったらしい)。

 PCは、こうした環境を一変した。PCは、いつでも好きなときに使えるし、エラーを起こしても誰にも迷惑をかけない。仮に性能が100分の1であっても、100倍の時間をかければ同じことができるだろう。

 こうして、多くの人はワクワクしながらPCを使い始めたのである。手作業の仕事を自動化することで「個人の力を増強する」これがPCの本質であった。

●企業システムとしてのPC

 その後PCは、価格を下げ、性能を上げ、アプリケーションをそろえて企業システムに組み込まれた。

 それに伴い、PCのセキュリティが重視されるようになった。安全で信頼性の高い環境を維持するため、PCの利用は制限され、利用者が自由に使うことはできなくなった。さまざまな情報流出の被害が続出しているが「そもそも、会社のデータを個人のPCに置くのが悪い」と主張する人も多い。

 今でもPCは個人の力を増強するツールであるが、それは、会社が想定した範囲内で増強するだけである。個人のアイデアを実現するには、面倒な手続きを踏まなければならない。PCは企業内システムの一部であり、昔のように勝手に操作しても良いわけではない。

 自宅のPCは相変わらず自由であるが、本当に自由かというとちょっと疑わしい。ウィルス対策ソフトは必須だし、セキュリティ更新プログラムを適用しないと、悪意のあるプログラムに乗っ取られて、こっちが犯罪の手助けをしてしまうことになりかねない。要するに、家庭内のPC利用者全員がIT管理者にならなければいけないのだ。何とも面倒な時代になったものだ。

●ブラックリストとホワイトリスト

 「ブラックリスト」という言葉はご存じだろう。「要注意人物」のことだ。PCでは「起動してはいけない(プログラムなどの)一覧」という意味で使う。

 多くの組織でWinyはブラックリストに入っているだろうし、チャットのプログラムもそうかも知れない。PCの場合、ブラックリストの登録はファイル名や、ファイル内容の固有値(ハッシュ値と呼ばれる)で行う。しかし、ファイル名の変更は容易だし、ファイルの末尾に余分なデータを追加するだけでハッシュ値は変わる。

 そこで「ホワイトリスト」という概念が登場した。ホワイトリストは「安全な(プログラムなどの)一覧」という意味だ。実行を許可するプログラムをホワイトリストとして登録し、それ以外のプログラムをすべて拒否する。ホワイトリストにはハッシュ値が活躍する。ハッシュ値は、ファイルの内容を1バイトでも変更すれば値が変化するからだ。

 これで、悪意を持つプログラムの実行を完全に抑えられる。だが、それでいいのだろうか。自分のPCなら、ホワイトリストの修正は自分でできる。特に不自由はないだろう。しかし、企業で使うPCではどうか。

 もう一度、歴史を振り返ってみよう。最初にPCの可能性に注目した人は、Basic言語で簡単な業務支援アプリケーションを作った。DOS時代には、Lotus 1-2-3などのアプリケーションで業務分析を始めた。こうした人は職場のヒーローだったに違いない。縦横集計をするだけでも業務効率は格段に進歩したはずだ。

 当時の人たちの多くは、自腹でPCを購入し、職場に持ち込んでいた。ネットワークはまだ一般的ではなく、セキュリティ上のリスクもほとんどなかった。今はどうだろう。個人のPCを職場に持ち込み、業務に使うのは、少なくともマスコミからは非難されている。かといって、職場のPCは規則ばかりで新しいことは何もできない。ホワイトリストに基づく管理をしているからだ。

●OSベンダはどう考える?

 マイクロソフトは、市場の要求することは何でも試みる会社だし、さまざまな実行制限機能を用意しているが、本質的には「個人の力を増強する」指向の強い会社である。これは“Your Potential, Our Passion” (あなたの隠れた力を引き出すことがわたしたちの使命です:筆者意訳)という言葉にも表われている。

 次期WindowsであるWindows Vistaでは、ホワイトリストに頼らず、未知の悪意あるソフトウェアからWindowsを守る仕組みがいくつか用意される。完全ではないが、こうした試みは評価に値する。ぜひ、安全で自由なPC環境を実現して欲しいものだ。

 アップルはどうだろう。2006年3月号で、森健氏との対談(Webでは掲載していない)で触れたとおり、スティーブ・ジョブズ氏は、個人志向の極めて強い人である。Windowsと違い、Macには企業内での環境統一機能はそもそも備えていない。そういう意味では安心である。

 一方、Linuxはどうだろう。UNIXの流れをくむLinuxは個人の生産性を重視している。こちらもそれほど心配することはないようだ。

 こうして並べてみると、利用者の自由を制限しようという積極的な意図はあまり感じない。唯一、マイクロソフトだけが、制限機能をオプションとして提供しているだけである。

●IT部門はどう考える?

 IT部門はどうだろう。IT部門は、会社の資産を守り、費用の最小化と利益の最大化を行うことが使命である。

 個人活動を自由に許可すると、トラブルが増えたり、機密情報が流出したり、ろくなことがない。どうやら、ここがPCの利用を制限しようとしているようだ。

 Windowsは、Active Directoryと組み合わせることで、さまざまな利用制限を設定できる。ホワイトリストに登録されたプログラム以外の実行を禁止することもできる。こうした機能はIT部門の要請に応えて設定されたという。

 もちろん、IT部門が「悪い」わけではない。IT部門の使命を考えると、全く正しいアプローチである。しかし、それだけに余計困る。よく、悪気のない人ほど始末に負えないというが、IT部門は悪気がないどころか、大義名分まである。実際には、心あるIT部門は、組織の運用ルール上どうしても必要な構成だけを強制し、可能な範囲で自由にPCを利用できるように運用している。IT部門だって頑張っているのだ。

●そして、あなたはどう考える?

 PCは個人の能力を引き出し、最大化するツールである。個人の能力の最大化は、企業にとってもメリットがある。しかし、無秩序なPCの利用はセキュリティを中心に多くの問題がある。

 筆者は、こうした問題を解決する鍵は、最小限の強制と、十分なIT教育だと思う。万一を考えて、致命的な問題を引き起こすリスクは排除すべきだが、その他は自由にさせればいいと思う。そして「自分が何をやっているのかをはっきり意識できなければやってはならない」という常識を身につけさせる。

 自分が何をやっているのかが分かっているか分かっていないかを識別できるスキルを身につけさせることで、多くの問題が解決できるのではないかと思う。

 もちろん、これは完全な解ではない。十分なスキルが身についたかを適切に判断できるかどうかは疑問だし、そもそもどこでそのスキルを身につければ良いというのか。それでも、IT業界に従事するものは、完全なシステムを目指していくしかないのである。さて、読者のみなさんはどうお考えだろうか。

 『あなたはお若いのに珍しく完全を求める人間だ』(ファウスト博士)

 中公文庫『喪失』(福田章二)

■□■Web版のためのあとがき■□■

 「PCを使って個人の力を強化する」というのは、筆者の永遠のテーマである。

 しかしコンピュータが身近になればなるほど、悪用する人が増える。そして、それに対抗するための労力が余分にかかるようになるのは本当に残念だ。

 例えば、Excelのマクロを使えば、専門的なプログラミング知識がなくても一連の手続きを記述できる。しかし、マクロウイルスが世界中に大きな被害を与えていることも事実である。

 PCを防御するためには、アンチウィルスソフトをインストールし、定期的にウイルス情報を更新しなくてはいけないようになった。それは「自分の身は自分で守る」ということだろうが、「自分の身を守る」ために必要な知識が高度すぎるように思える。

 人口が増えれば犯罪も増える。空き巣が増えてきたら、玄関の鍵を強化することは当然の責任である。しかし、鍵の場合は専門家のアドバイスが簡単に得られるし、そのアドバイスもそれほど難しいわけではない。さらに、おおざっぱに言って、高価なものは安全性が高いと考えてもそれほど問題はないだろう。しかも、一度設置した鍵は新しい侵入技術が発見されるまでは有効だ。

 PCはどうだろう。アンチウィルスソフト間の違いはよく分からない。パーソナルファイアウォールの詳細な設定は、筆者でもそれほど簡単ではない。価格差が機能の差になるというわけでもないようだ。おまけに、PCの侵入手口は日々新しいものが発見されており、毎週のようにアップデートが必要である。アップデートが自動化されているのは助かるが、日常的にこんな保守作業が必要な家庭向け製品はないだろう。全く困ったものである。

 この状態は永久に続くのであろうか。

プロフェッショナルの条件

2009/10/05 18:00:00

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 4月に入社した人も、そろそろ1人で客先に訪問するようになったかも知れない。1人で行動できるのはプロフェッショナルとして最低限の条件だ。しかし、もちろんそれだけで良いわけではない。今回は、プロフェッショナルについて考える。

●プロとアマの違い

 筆者が子どもの頃、父と「プロとアマの違い」という話になった。どういう文脈だったかは忘れたが、結論ははっきり覚えている。「プロとアマの決定的な差は品質ではなく信頼性である」というものだ。

 具体的には「安定した品質」と「納期」なのだという。特に重要なことは納期だと主張していた。

 筆者の実家は、個人経営の印刷所である。父は元々機械系のエンジニアだったらしいが、家庭の事情で退職したと聞いている。

 筆者が生まれた頃は京都の中堅印刷所の営業担当で、その後独立して開業した。夫婦2人でやっている小さな印刷所が35年以上やっていけたのは、納期に厳しかったからかもしれない。

●納期

 アマチュアでも、良いものを作る人はいる。アマチュアが作ったソフトウェアは、無料あるいは安価で数多く出回っている。市販のものと比べて遜色ない機能を持ったものも多い。

 しかし、決められた機能を決められた期日に納品することを保証できるだろうか。また、致命的なバグ、たとえばセキュリティ上の問題点が発見されたとき、迅速な対応ができるだろうか。

 別の例で考えてみよう。筆者は、翻訳に関しては素人であるが、外注した翻訳文に誤訳を発見し、自分で訳文を作ることもある。その一文に関しては、筆者はプロ以上の技能を持つ。しかし、それだけではプロフェッショナルの仕事とは言えない。何しろ、筆者の翻訳は、プロフェッショナルの翻訳者に比べて圧倒的に作業が遅いのだ。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは数々の名画を残しているが、雇い主の評判は悪かったらしい。製作途中で興味を失うと、そのまま放置したからだそうだ。ダ・ヴィンチは芸術家としても技術者としても優秀だったことは間違いないが、どうもプロフェッショナルとは呼べないようだ。

 なぜそれほど納期が大切なのか。それは、ほとんどの仕事に後続過程が存在するからだ。納期が遅れれば、後続過程の人に迷惑をかける。顧客に納品したあとですら後続過程がある。顧客は納品された品物やサービスを使って、自分の仕事を行う。納品が遅れれば予定していた仕事ができない。つまり、売り上げや利益が上がらない。だから納期を守る必要がある。零細印刷業は分業が徹底しているため、納期に対する要求は特に厳しい。1)版下を作り、2)製版するとともに、3)必要な紙を手配し、4)裁断し、5)印刷して、6)製本する。こうした一連の作業のすべてが別の会社で行われることさえある。そのため、特定の行程での遅れが、他の多くの人に迷惑をかけることになる。同じ会社でも別の部署と連係して仕事をするのなら、事情は変わらない。

●安定した品質

 プロフェッショナルとしてのもう1つの条件は「安定した品質」である。必ずしも高品質である必要はない。価格に見合った安価な製品というものもプロフェッショナルの仕事である。

 買う側も、その品質が予測されたものであれば対応は可能だろう。ハードウェアであれば、代替品を事前に用意しておくとか、24時間サポート契約を行うなどの方法で、低品質を補える。重要なことは「価格に見合う品質」と「一定の品質」である。

 「ブランド物」と呼ばれるものの多くは安定した品質を売り物にしている。ただし、必ずしも最高の品質とは限らない。たとえばユニクロ。ユニクロの洋服は値段の割には高品質だが、決して最高級ではない。しかし、どれも同じような品質である。

 筆者の勤務先には、新人研修トレーニングパッケージ「NEW TRAIN」(*)がある。

 NEW TRAINには報告書作成などのサービスレベルに応じて、松・竹・梅の3段階が用意されている。もちろん、価格も違うので、顧客は必要なレベルと予算から適切なものを選択する。常に最高の品質を提供するのではなく、価格に応じた安定した品質というところが重要である。

●適正価格

 価格についても考えてみよう。不況になると、価格競争になりがちだ。顧客にとっては喜ばしいことだろうが、ちょっと待って欲しい。

 価格が下がると利益が減り、新しい技術への投資が減る。場合によっては社員の給与も減るだろう。その結果、新製品が出なくなり、社員は流出してしまい、結果として顧客の不利益につながる。いわゆる「デフレスパイラル」である。なるべくなら単純な価格競争にはしたくないものだ。

 適正な価格がどうやって決まるのか。資本主義社会では市場が決定することになっている。いわゆる「見えざる手」だ。ただし、それには「十分な情報が公開されていること」という条件がある。粉飾決算が厳しく非難されるのは、それが資本主義経済というシステムに対する犯罪だからである。

 インターネット、特に検索エンジンが普及してから、製品情報の入手は容易になった。昨今のブログブームで、実際の使い勝手も分かるようになった。だからこそ、価格に見合った品質を提供することが重要である。

 そして、プロフェッショナルを目指すなら、自分の価値を金額で評価する習慣を付けて欲しい。製品価格が、品質に見合っているかどうかで評価されるように、プロフェッショナル個人の給与は、自分の仕事に見合っているかどうかで評価されるべきだ。

 給与に見合わない仕事をすべて断る必要はないが、適正な価格かどうかは意識するようにしたい。

●自立した行動

 もう1つプロフェッショナルに求められることがある。それが「自立した行動」だ。職業倫理に基づき、自分の意志で適切な発言を行うことは、プロフェッショナルとして重要な行動の1つである。

 ただし、若いエンジニアの中には「自立」について勘違いしている人がいる。たとえば、本来10日間かかる仕事を1日でやってくれと顧客から言われたとしよう。営業担当者は、そんな仕事でも受注したいと思っている(ある意味でプロフェッショナルかもしれない)。このとき「できません」と突っぱねるのは、プロフェッショナルとして適切な行動ではない。

 プロジェクトのトレードオフは、品質、予算、納期だという。10日を1日でやれ、というのは納期の問題である。納期が短くなれば、品質を下げるか、予算を上げる必要がある。同じ品質で機能を落とすことも考えられるだろう。顧客の優先順位を引き出し、要望を整理し、顧客と自社の双方の利益につながるような再提案ができること、これが、プロフェッショナルの条件である。

 世の中には、しばしばプロフェッショナルの立場を利用した犯罪が起きる。免許制の業務に多いようである。耐震偽装事件なんかは典型的な例だ。耐震偽装により、一時的には利益が得られただろうが、長い目で見ると大きな損害となる。言うべきことは言う、それがプロフェッショナルの責任である。

●顧客優先主義

 プロフェッショナルが最優先すべきなのは顧客である。元IBMのSEマネージャ馬場史郎氏は「顧客が51、会社や自分が49」と繰り返し主張する(顧客が49ではない)。「そんな条件ではできない」と突っぱねるのは、顧客優先主義ではない。しかし、だからといって限界を超えた値引きや安請け合いも顧客優先主義ではない。できないことをできると偽って受注することは、結果的に顧客の迷惑になる。あまり無茶をすると、自分が仕事を続けることができなくなるかもしれない。これも迷惑な話である。

 真の顧客優先主義は、いわゆるWin-Winの関係を維持することである。顧客が満足する(勝利する:Win)ことで、自社の利益が上がる(Win)関係こそ、プロフェッショナルの目指す方向である。

 筆者の父は間もなく78歳になる。さすがに体力も衰えてきたので、商売をたたむことにしたらしい。新しい仕事から徐々に断りはじめ、父が以前勤務していた印刷会社に引き継ぎをしているところだ。

 ところが、その過程でさまざまなことが分かってきた。IT業界の言葉で言えば、カスタマイズ案件が非常に多かったのだ。母は、売り上げと利益を管理していたものの、すべての案件の内容を完全に把握していたわけではないようで「こんな短い期間で、こんな少量の印刷物を、こんなにたくさん受注していたのか」と、少々あきれていた。どうやら、短い納期で、少量で多様なニーズに応えていたようだ。

 35年以上続けられたのは、納期を守っていただけではなく、徹底した顧客志向にあったのだろう。実は、父の経営する印刷所の顧客には、役所関係や公的機関がかなり多い。地方支部とはいえ、日本でも有数の組織まである。そうした組織が、70歳を超えた「おじいちゃん」のやっている会社に仕事を発注しているのは常々不思議に思っていた。どうやら、その秘密は顧客志向にあったようだ。

●プロの仕事

 プロフェッショナルが担当する多くの仕事は、始まりと終わりがある(有期性)。また、毎回内容が異なる(独自性)。

 有期性と独自性は「プロジェクト」の基本的な特徴とされる。つまり、プロフェッショナルには常にプロジェクトの遂行が期待されているのだ。そこで、今回は、マイクロソフトのプロジェクト管理手法MSF(Microsoft Solutions Framework)から引用しよう(*2)。

  • 予算や納期の目標が達成されても、顧客のニーズが満たされていなければプロジェクトが成功したことにはなりません。
  • いくら機能や内容が豊富であっても、対象ユーザーが使えるものでなければ、その製品は失敗と見なされます。
■□■Web版のためのあとがき■□■

 父はどんな仕事でも絶対に「できない」とは言わなかったそうだ。顧客の要望に合う業者を探し、価格や納期の調整をして、納品していたらしい。やはりプロフェッショナルである。

 もっとも、プロフェッショナルらしくない部分もあった。友人から受けた仕事からは利益が出ないのだ。友人が農家の場合は利益以上の野菜を買った。母校から注文を受けたときは、それ以上の寄付をした。「友人から儲けてはいけない」というのが口癖だった。

 そんな父は、この記事が雑誌に出る直前に他界した。この記事を本人に読ませることができなかったのが唯一の心残りである。

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補足

 「芸術家の納期」については「職業芸術家には納期がきちんとあるし、ある程度一定の品質も要求される」と反論された。

 言われてみれば確かにそうだ。職業ミュージシャンは、営業部が決めたアルバム発売日に間に合わせるため、一定の品質の曲を一定の数だけ作らないといけない。職業写真家は来年のカレンダーに合わせて毎年12枚1組の新しい写真を撮らないといけない。

 もっとも、井上ひさしは、戯曲の脚本が上演に間に合わないことがしばしばあるそうだ。まったくプロらしからぬ行動である。

失敗は成功のもと

2009/08/27 19:23:05

 月刊「Windows Server World」の連載コラム「IT嫌いはまだ早い」の編集前原稿です。もし、このコラムを読んで面白いと思ったら、ぜひバックナンバー(2006年7月号)をお求めください。もっと面白いはずです。

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 そろそろ新人研修を終え、現場に配属された人も多いだろう。グローバルナレッジネットワークの田中淳子氏によると「新人に一番喜ばれるのは体験談、一番嫌われるのは自慢話」だそうだ。そこで、今月は筆者が実際に体験した失敗談を披露しよう。なお、先月も書いたとおり、筆者の本業はIT教育コースの講師である。そのことをふまえて読んで欲しい。

●電車を乗り間違えて遅刻した

 名古屋のお客様に、新人研修を行っていたときだ。2日目の朝、名鉄名古屋駅で電車を乗り間違えた。途中で気付いて電車を降りたが、戻る電車はしばらく来ない。あわててタクシーを捕まえようとしたが、駅前にタクシーがいない。数分後、無事タクシーに乗り客先へ向かった。

 客先に到着すると、人事部による朝礼は終わっており、受講生がおとなしく待っていた。事情を話すと「名鉄はしょうがないですよ」となぐさめられた。実は事前に「名鉄のホームは間違えやすい」と聞いていたのだが、2日目になって気がゆるんだようだ。

 ご存じのない方のために書いておくと、(当時の)名鉄名古屋駅は、同じホームから違う行き先の電車が発車する上、途中で車両を切り離して別々の目的地に向かう場合もあった。どうやら前の日と違う車両に乗ったので違う行き先に向かったらしい。

 ところで、普通、講師が遅刻すると、研修担当者は講師の会社にすぐ連絡するものである。しかし、あとで聞いても何も連絡はなかったという。おおらかな会社である。

 さて、このような場合、本来はどうすべきか。もちろん、まず客先に電話するべきだ。ただし、当時は携帯電話がなく、公衆電話から電話をすることで、さらに遅刻するというリスクがあった。携帯電話が普及した現在でも、圏外にいる場合は同じ問題がある。筆者自身は新人時代に「遅刻の可能性があるなら、さらに遅刻してでも連絡しろ」と教わったが、実際の判断は難しい。実はこのとき筆者は電話をしなかったが、いったん電車を降りた時点で電話すべきであった。反省している。

●しゃべりすぎで「もう結構」と言われた

 浜松で講習会を実施したときである。質問に対して丁寧に対応していたら「すみません、それ以上答えないでください」と言われた。あんまりたくさん言われても覚えられないのだという。

 当時、筆者は入社2年目くらい。持っている知識をすべて伝えるのが「良い」講義だと思っていた筆者は反省した。すぐに必要としていない知識は、言わなくてもいいどころか、言わない方がいいこともあるのだ。

 そういえば、筆者の同僚は「体調が悪いとは、意外に受講生の評価が高い」とぼやいていた。気持ちが悪いので、本当に重要なことしか言わないからだという。

 もちろん、お客様が必要としていることは伝えなければならない。しかし、必要以上の情報を出した場合、喜んでもらえる場合と、そうでない場合がある。これ以来、質問に対する回答は、受講者の表情を見ながら行うことにしている。

●相づちはよく考えて

 これは筆者の元同僚が起こした伝説の大失敗である。お客様先の教育担当者が「私なんか、もう年なので、新しい技術はなかなか覚えられません」と言ったところ「ええ、そうですねえ」と相づちを打ったらしい。

 さすがに筆者にはそんな失敗はないが、対応に困る質問はあった。「横山さんは、自分が講師に向いていると思いますか」と聞かれたのだ。聞きようによっては「あんたは向いていない」という意味になる。

 「どうなんでしょう、向き不向きは分かりませんが、この仕事は好きです」と答えた。これが模範解答かどうかは分からないが、どんな嫌味に聞こえても怒ってはいけない。だいたい、嫌味だと思っても、ほとんどの場合、相手は何も考えていないものである。

 筆者は、少しむっとした表情を見せてしまったかも知れない。反省している。こういうときは、できれば冗談で返したいものだ。

●アンケートの意味を良く考えて

 失敗談というほどでもないが、ぜひこの場を借りて書いておきたいことがある。講習会の評価アンケートでは、そのアンケートがどう使われるかを考えて書いて欲しい。

 時々いるのが「内容は期待通りでしたか」に対して最低評価をする人。ああ、期待はずれだったのかと落胆してコメントを見ると「期待以上でした」とある。そのコメントはありがたいのだが、アンケートは集計され、統計処理されることを理解して欲しい。満足したのなら遠慮せず、ぜひ高い評価をお願いしたい。

 最近では「講師の説明は分かりやすいか」という質問に「説明は大変よく分かったが、スピーカーの前に座ったため、大音量で聞きづらかった」と低い評価を付けられたことがあった。確かに、音量の調整は講師の責任だ。気配りが足りなかったことは反省する。けれども、内容が分かりやすかったのなら、素直に良い評価を付けて欲しい。スピーカーの問題も重要だが、それは設備の評価にしていただけると幸いである。

●最悪の評価をいただいてしまったとき

 さて、最後は結構深刻な失敗である。仕事の上では筆者の人生最大の失敗である。少し長くなるが背景から説明しよう。

 X Window Systemは、UNIXなどで広く使われているウィンドウシステムで、MIT(マサチューセッツ工科大学)で開発された。当時勤務していた(古き良き時代の)Digital Equipment社(DEC)は、IBMとともにXの開発プロジェクトの主要スポンサーであり、自社製品としてXをカスタマイズしたDEC Windowsを提供していた。当時Microsoft Windowsのバージョンは2.1で、まだ使いものにならず、Macintoshが一般に使える唯一のウィンドウシステムだった。しかし、Macintoshの開発環境は高価な上、ビジネス分野の実績はほとんどなかった。

 DECの主力開発プログラム言語はFortranであったため、XにもFortranインターフェイスがあった。Fortranという言語は、科学技術計算のために設計された言語だが、DECは言語仕様を大幅に拡張していたため、ビジネスアプリケーションでさえFortranで記述することがあった。ポインタも構造体もちゃんと使える。ただしXはUNIXで動作させることが多かったため、実際にはC言語を使うことが多かった。C言語はUNIXの標準開発言語である。

 そんなとき「X Window Systemプログラミング」という教育コースを筆者が実施することになった。1989年のことである。米国で開発されたテキストに含まれる言語は2つ。1つは英語で、もう1つはC言語であった。

 ところが、担当営業は何を思ったか「テキストはCだが、口頭でFortranについても補足する」という約束で、某重工系会社向けのコース実施を受注してしまった。その会社の標準プログラム言語はFortranだというのがその理由だ。問題は3点。(1)日本語のテキストがまだできていない、(2)Fortranのサンプルプログラムがない、(3)担当者(筆者である)は、ウィンドウプログラミングを知らない。

 (1)は、製本原稿をコピーしてバインダに綴じることで、印刷製本行程の分だけスケジュールに余裕を作って解決した。(2)は、Fortranを使う上での注意事項を口頭で説明することで了承してもらった。ところが(3)だけはどうしても解決しない。当時の筆者はウィンドウプログラミングの基本であるイベントループすら知らない素人である。テキストとサンプルソースコードだけではとうてい理解できない。テキストを見ながらなら、一応のプログラムは書けるのだが、その意味が全く分からないのである。しかも日程の問題で受講の機会がない。

 最終的に、プログラムのスタイルは理解したのだが、本質的な部分の理解が深くないため、説明に説得力が出ない。その結果、コース評価はさんざんなものであり、先方から担当営業にクレームが上げられた。こうして、当時の上司と一緒にお客様先まで謝りに行くことになった。

 どういう言い訳をしたのかは覚えていない。ただ、すべて上司が話をしてくれ、筆者はほとんど何も言わなかったことと、出されたアイスコーヒーの味だけは覚えている。上司は筆者を責めなかった。無理なスケジュールで準備させたことを知っていたからだろう。

 当時、筆者は自分の力不足を自分で責めた。そして、無理なスケジュールの仕事を受注した営業担当者を恨んだ。しかし、今考えると、本当に反省すべき点は、理解が進まなかった時点で上司に相談しなかったことだ。もし相談していれば、先行して勉強している他の講師や、他部署のエンジニアから、効果的な学習方法のアドバイスが得られたかもしれない。実際、後日先輩エンジニアのコースを受講することで、短期間で理解度は大幅に向上した。

●再発を防ぐには

 実は、この話を書くべきかどうか最後まで迷った。十数年も前の話であるが、同じ失敗が他の人で繰り返されていると思われると困るからだ。現在は、初めて実施するコースの前に、担当講師の知識チェックやレビュー(講義の一部を社員に披露し、全員で評価する)が随時行われているため、大きな問題は起きていないはずである。

 誰でも失敗することはある。失敗を恐れていては新しいことはできない。能力を伸ばすにはある程度の負荷が必要だ。当時、冷や汗をかきながらウィンドウプログラミングをマスターしたことは、後にMicrosoft Windowsを学習するときにずいぶん役にたった。

 開き直るわけではないが、組織に所属している場合は、1度の失敗で人生を失うようなことはほとんどない。ただし「誰かがフォローしてくれる」という甘い考えは捨てた方がよい。失敗の予防や失敗したときの対処は考えておく必要がある。

 もっとも新入社員の場合は、自分がどう対処すればよいか分からないだろう。どうしても上司や先輩社員に頼らなければならない。適切なフォローをしてもらうには、早めに危険信号を出そう。筆者の場合は、明確な危険信号を出さなかったことが最大の反省点である。

 組織で仕事をする場合、上司や先輩には常に現状の報告を行い、問題が起きそうになったら連絡し、必要に応じて今後の相談をすること。それが組織で仕事をする場合の鉄則である。と、NHKドラマでロッカーのハナコさんも言っていた。

 ただ、幸いなことに、若い頃の失敗は許容される範囲が広い。前向きな失敗なら、それほど責められないだろう。グローバルナレッジネットワーク設立当時、日本法人の社長をしていた住忠明氏はよく言っていた。「失敗しても命まで取られるわけではない」。そして、社員ミーティングの最後はいつもこの言葉だった。

Enjoy Business as a Game (ゲームのようにビジネスを楽しもう)

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コラムニスト プロフィール

横山哲也
グローバルナレッジネットワーク株式会社で、ITプロ向け教育コースを担当。取締役になっても現役講師です。会社のブログもどうぞ。

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