いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

辞め方の作法

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飛ぶ鳥跡を濁さずにはいられない

「飛ぶ鳥跡を濁さず」とググると、退職という言葉が候補に挙がってきた。あぁ、みんな同じ事を考えているなぁ。だが振り返って欲しい。実際は退職する人が濁すより、退職する人に対して汚物を投げまくってるような対応の方が多く見受けられる。もしくは、汚物みたいなものを押しつけられ続けて、嫌になって辞めるなど。

実際は、オレもお前も汚物まみれで濁すもクソもへったくりもない。こういう退職の話になると、どっちが悪いという話がよく挙がってくる。炎上火消し現場に何度も関わってきたが、だいたいが辞めさせる会社の方が過失が多い。相手の器量にあった仕事を割り振っていなかったっり、誰かが怠慢な対応をとっていたりと。そもそも、人に多くのものを望み過ぎだ。

会社に過失は多いが、だからといって悪いかというと話は別だ。これだけ競争が激化した社会で、生き延びるだけでも必死だ。過失は償うべきだが悪いと弾劾するのも違うと思う。十年前と比べて、どこの企業も余裕が無くなっている。業務の内容もギリギリに切り詰めた突貫プロジェクトばかりだ。よくこんなやり方で世の中が回っているなとゾッとするレベルで酷い。

会社もちゃんとやりたくてもちゃんとやれない。だからといって、個人がその皺寄せを全部被る必要もない。突き詰めると、個人個人の行動の皺寄せが社会や企業にいった結果だが、話が逸れるのでまた別のコラムでこのことは書こうと思う。つまり、善悪を論じる以前に、汚物を投げ合うしか手段が残されていないのだ。だったらもう、潔く汚物を投げるしかない。

走れメロスのように

走れメロスという小説を知っているだろうか。友を思い、全力で走るメロスがドラマチックに描かれた文学作品だ。あれを読んで、友を思う友情の美しさに感動した人も多いだろう。しかし、メロスは全裸で町中を走っていた。しかも群衆の前で全裸のままで殴り合いをして、男同士で抱き合っている。一部の女性には大ウケかもしれないが、生々しい。

仕事を辞めるというのも似た部分がある。辞めた後の後日談はだいたい美化されている。ああすればよかった、こうするべきだったという綺麗事が追記されている。実情は汚物の投げ合いだ。まさに、メロスが全裸で町中を駆け抜けるようなノリだ。最後は、お互いの本音をぶつけ合う全裸での殴り合いみたいになることもある。仕事を辞めるというのは生々しい。

結局のところ、どうあがこうとやれることしかやれない。お互いの利害がぶつかるところなので、綺麗に納めるのは難易度が高い。ただ、走れメロスのように、全力でやれることをやり抜けば、何らかの納得感は得ることはできる。何かの利益に繋がる訳ではないが、お互いに「あぁ、そうだね」と言えるゴールっぽいものはある。それがあれば十分だ。

何の利益になるものでもない。どうあがいてもマイナスにしかならない。周りにも迷惑がかかる。こういったマイナス要素が満載のイベントでどう振る舞うかがその人の本当の価値だと私は考える。しかし、そんなものを自分の市場価値としてアピールするネタにもできない。結局のところ、価値とか善悪とか考える余地もなく、淡々と動くしかない。仕事を辞めるというのはそういうことだ。

決め手は辞める前の状況

辞め方の作法なんて言うと、「今回の事は残念だが、お互いWin - Win を目指そう!」という、いかにも優等生なことを口走る人が多い。Winの前に、お互いに多大な損失を既に被っている。頑張ってZeroくらいまでもっていくので精一杯だ。誰かの屍の上に立って「Win!」など言うほど鈍感ではいたくない。お互いが全力で反省して損失を挽回をしていけばそれでいい。

雇用関係というのは、「Win - Win」の関係だ。会社はお金を払う代わりに、労働という対価をもらう。労働者はお金を貰うことで生活できたり、仕事を通じて自己実現ができる。仕事を辞めるというのは、この「Win - Win」の関係が崩れることだ。仕事を辞めるというイベントが発生した時点で、お互いどこかで負けている。まず、そいういう現実を直視しよう。

それでも蟠りなく退職できるとすれば、辞める事で生じる損失以上の実績を残していたケースだろう。実績が辞める事による損失を上回っていれば、あまり揉めることは無い。結局のところ、辞める際になって「作法」など言っている時点で作法もクソも無い。全ての決着は事前に決しているのだ。普段から無茶な業務を振られていたら、どうやっても辞め際に炎上する。

一番後腐れが無いのは、会社も個人も自立できている状況だ。いざ辞める時に相手に作法を求めるより、普段からお互いに自立することを目指す方が賢い。自立するとは、お互いに過剰に要求をしすぎないことと、何かあった時に手を差し伸べられるくらいの余裕を持つこと。この二つだ。サラッと言ってみたが、この二つを現代で社会で実現するのは、会社にしても個人にしても簡単な事ではない。

俺の屍を超えて行け

何処かのゲームのタイトルをまるパクリだが、仕事を辞める時に浮かぶイメージはまさにこれだ。言葉は適切かは分からないが、仕事を辞める以上、その会社で私は従業員として抹消される。いわば死ぬみたいなものだ。そして会社は私の屍を踏み越えて目的の場所に向かう。ビジネスってのは心温まるような美談で語れないなぁと、ちょっとやるせなくなる。

多くを語ると横道に逸れるので語らないが、私たちの生活は膨大な犠牲の上に成り立っているのは間違いない。そこらへんを誤魔化さずに直視すると、仕事を辞める程度の話で善悪を語ったり、あるべき論を語るのが馬鹿らしくなる。仕事という狭い範囲で世界が閉じてしまっているように思える。また、多少の不利益があったとしても、大げさに騒ぐものかと疑わしくなる。

もし辞め方に作法があるとすれば、損失を覚悟することだろう。人の描くエゴに対する代償は想像するより大きい。それが、誰かにぶちまけられるか自分がかぶるかは状況次第だ。どんなに足掻こうと避けられない損失というのは存在する。これをどう避けるか、最小限に抑えるにはどうするかというノウハウは多いが、真正面からどう受け止めればいいかというノウハウはあまり見かけない。

随分とぶっ飛んだ話をしてみたが、ある程度ぶちまける覚悟がなければお互いが納得のいく退職は難しい。もう、定年まで働いて円満退職という時代ではないのだろう。ある意味、これから時代を逆行して退化していくのか、それとも新しい価値観を見出して更に発展していくのか。現代はその瀬戸際なのかもしれない。そういう不安定な時代だから、仕事の辞め方で悩まなくてはならないのだと、私は考えている。

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