いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

「嫌ならやめろ」を実践した結果

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実際に辞めた末路

ホリエモンが「嫌だと思ったら辞めればいいのでは?辞めるの自由よん」なんてどこかで発言していたのを覚えている。「辞めるのは自由」とのことだ。おおむねこの意見には賛成だ。世の中には務めるに値しない会社なんていくらでもある。また、会社は人生まで保証してくれない。むしろ、笑顔で搾取するようなところもある。

仕事を辞めるということは、思うほど大したことはない。人が一人辞めたくらいでは何も変わらない。一時的に会社の仕事の調整が大変になるのと、自分が失業するだけだ。役員くらいになると話は違うかもしれないが、一般的な社員はそんなものだ。会社というのは人が辞めても何らか仕事が回るような仕組みになっているものだ。

嫌になったら辞めるのはいいが計画的に辞めよう。続けていれば最低限の給料くらいは得ることができるし、次のステップのために時間も必要だ。自分の課題を見つけたり、そこでしか得られない知識や技術はないか見直しておこう。逃すと勿体ない。あとは失業保険の知識と保険関連の手続きについても事前に把握しておこう。

辞められた会社は思うより淡々と思考を切り替える。一人分給料を払わなくてよくなるので、会社は意外と気楽だ。仕事に関しても、仕切りたがる人が勝手に頑張るのでなんとかなる。大変だとは言っているが、何だかんだでどうにかする。会社という組織は、人が一人辞めた程度で揺らぐものではない。カバーできる仕組みがあるものだ。

相手を陥れようとしてはいけない

これは会社にも個人にも言えることだが、相手を陥れようとするとロクなことが無い。会社でも個人でも、ある程度の法律で守られているからだ。会社の横暴が過ぎれば労働基準局などに相談することもできる。逆に、機密をばらしたり、故意で損害を与えるような行為をすれば、個人でも法的に罰則がある。

ちなみに労働基準局には匿名で通報することができる。辞める直前ではなく、嫌と思った時点で匿名で通報する方がいいと個人的には思う。よく誤解されているのだが、労働基準局の目的は会社にダメージを与えるのが目的ではない。正常な運営を促すのが仕事だ。会社で働いている人に損害が及ぶので、公的機関として制裁を加えるようなことはしない。

なので、報復目的で労働基準局への通報を行うのはやめよう。会社組織は社労士というつてがある。労働基準局に通報がいくと、会社組織は社労士に相談をして対策を立てる。報告を求められたり業務改善の通告はいくかもしれないが、それが済んでしまえばいつも通りの通常運転に戻る。求人や取引等の企業活動において不利になることは特に無い。

引き継ぎのドキュメントに紛れて怪文書を残したりしても意味は無い。普通に削除されて終わるだけだ。上司や同僚に嫌だった人の悪評を流しても意味がない。あなたの生活に何の変化も及ぼさない。エスカレートして重要なデータを壊したら器物破損になるし、秘密を漏洩したら機密保持契約にひっかかる。嫌なら辞めてもいいが、変なことはせずに辞めよう。

辞めたその後

「こいつ一生恨んでやる!」くらいに思っていた人でも、次の仕事を始めて三ヶ月経つと名前も忘れてしまう。目の前の仕事に視点がシフトして意識が向かなくなるからだ。辞められた会社も似たようなものだ。いつまでも辞めた人のことを覚えてはいない。たまに話が盛り上がった時に、「そういえばあんな人いたな」程度に話題があがる程度だ。

嫌なものと距離を置くとお互いが幸せになる。恨んだり憎むという行為も、実は相手との距離を縮めているのだ。人をぶん殴ろうと思えば手が届く距離に移動する。強く憎んだり恨んだりするほど相手に注意がいく。物理的な距離にせよ、精神的な距離にせよ、近ければ相手から悪い影響を強く受け易くなる。相手を恨んだり憎んだりするのが最大の損失だ。

「嫌ならやめろ」は人を恨んだり憎んだりしないためのテクニックだと考えている。仕事を辞めても本質的には何も変わらない。人を恨んだり憎んだりすることを止めた時に変化が訪れる。とは言ってもただの精神論ではない。恨んだり憎んだりするより、エンジニアなら技術に集中しろということだ。お花畑な優しさで人を許せるほど世の中は甘くない。

ちなみに、私が数年前に務めていた会社で、三ヶ月で十人も従業員が入れ替わっていた長時間労働のパワハラ会社がある。調べてみたら今も健在だ。何気にクラウドに手を出していたりと、当時より先進的な取り組みをしていたりする。会社の評判を調べてみると転職情報サイトの評判はすこぶる悪かった。相変わらず長時間労働でパワハラ三昧のようだ。それでも会社は存続しているのだ。

やるべきは決断

辞めたいと迷った時にやるべきは決断だ。嫌だと思うなら何かを決断しなくてはいけない。居続けるにしろ、辞めるにしろ、どうするかは自分の意志で決めよう。そうしないと自分で考える力がつかずに成長できなくなる。嫌だと思ったら徹底的に考えよう。たまに改善策が浮かんで逆転できる。

何かが嫌になりすぎると思考が働かなくなってしまう。思考が働く内に決断して辞める方が、追い詰められてから辞めるよりダメージが少ない。思考する余裕がある内に辞めておくと復習ができたり、新しい取り組みを始めることができる。さっさと決断して辞めた方が次へ活かせるメリットは多い。ただし、客観的に見ると根性無しに見えるデメリットもある。

だが、「嫌ならやめろ」は意外と根性が要る。今の日本人でどれだけの人が、自分の嫌いなものを嫌いをと主張できるだろうか。「嫌ならやめる」を実践する場合、これに行動が伴うことになる。この先どうなるか分からないという未知のリスクに挑むことになる。決断が伴うので、単に行き詰まって辞めるのとは中身が違う。

これが実際に「嫌ならやめろ」を実践した結果だ。実際にやってみないとこの言葉の意味は分からない。一つの組織を何年も続けるというのも確かに一つの価値だ。同じように、自分で決断して辞めるのも一つの価値だ。失うものも大きいが、「スクラップ アンド ビルド」というヤツで、自分の人生を大きく好転させる転機にもできる。辞めるなら淡々と辞めて、新しい境地を目指せ。

Comment(4)

コメント

仲澤@失業者

その通りですね。
つらい事を要求してくる会社ってのは、そもそもあってもなくても同じような会社。
付き合う必要はありません。
そして、
仕事がつらかったら自分は洗脳されているのではないかと疑うこと。
体調がおかしいときは出社しなこと。
同僚から恨まれることを恐れないこと。
いずれにしても、死んだりしないこと。

kaie

>やるべきは決断
A氏の色々な話(コラム)は、結局ここに集約される気がする
すごく同意できるし、今の社会人に欠けてるなーと思う能力
何をするにしても自分で責任を取りたくないし、誰かに承認してほしい人ばかり
自分がどう生きたいかすら本気で考えたことなんてないんだろうね
やってるのはせいぜい、○○だったら「いいなぁ~」っていう皮算用

user-key.

決断した後は、きちんと準備をしないと、勢い余ってズッコケたり懐柔されたりしますんで。
私の時は、幸か不幸か通勤中に事故で顔半分にガーゼをまいた状態になったので、ゆっくり休むことができ、よく考え、準備と決断することができました。
通勤災害の休養が明け、辞めると話した時は、昇給や臨時の休暇の話が出ましたが、「だったらもっと早くしておけよ」と心の中で言って、辞めました。
少なくとも、「熟睡できない」「通院できない」となっていて、「おかしい」と思ってなければ異常事態と(周りが)認識する必要があります。
なお、当時の会社や関連会社も既に亡くなってます。

Anubis

> 仲澤@失業者 様
「人に迷惑が」とか「私がやらなければ」という反面、会社は個人に迷惑かけまくってたり、仕事を丸投げでプラン無しなんて事例をいくつも見てきた。会社が一方的な感が凄い。ここのバランスを取るには、もう少し個人が自由に振る舞ってもよいと思う。


> kaie さん
コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、私のコラムを突き詰めると「考えろ」に集約されます。私は意見は言うが、最後の結論は自分で出して欲しいと考えています。今後も、考えるきっかけになれるようなコラムを書いていけたらなぁと思います。


> user-key. さん
いろいろな人の話を聞きますが、怪我や病気、業務上の大きなトラブルというのは自分のことを考えるきっかけになるみたいですね。しかし、私も経験がありますが、自分のいた会社が亡くなるというのはいろいろと考えさせられます。

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