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ノーベル賞が何ぼのもんやねん?

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 高校生の時、私は物理の成績がクラスの中でぶっちぎりに良かった。これは、私が通ったのが大阪の新設公立高校、つまり進学校でも何でもない高校だったためにすぎない。ハードルは高いが、いったん理解してしまえば何のこともない極めて単純な古典力学、いわゆるニュートン力学が、たまたま私の頭の構造に合致して、すらすらと理解できたにすぎない。単純な私は、「大学は理学部で物理を勉強しよう」と思うようになっていた。さらに、友達や先生、そして両親には、笑いながら「将来はノーベル賞」などと口にしていた。しかし、内心で「そんなことができるわけない」と思っていたのは事実だった。

 というのは、高校生の時点で、「理論物理の世界でノーベル賞受賞者が達成した内容は、桁違いに難しいことだ」とうすうす感づいていたからだ。日本人でノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士の功績は、中間子理論。朝永振一郎博士は、繰り込み理論。江崎玲於奈博士は、半導体におけるトンネル効果の実験的発見。

 私は大学で4年間物理を勉強したが、これらの理論は結局、分からずじまいで終わった。大学生の時は完全に落ちこぼれていた私なので、分からずじまいであったことも仕方がないことかもしれない。しかし、仮に成績優秀だったとしても、たぶん大学の授業だけでは分かるようにならなかったと思う。おそらく、これらの分野を理解できるようになるためには、大学院、そして博士課程とさらに勉強しないといけないものなのだろう。

 私は理科を勉強する時、とにかくすべてが理解できないと我慢できなかった。高校の物理の範囲において、古典力学は数少ない「すべてが理解できて自分でも納得できる」分野だった。しかし、電磁気学は違った。電流という概念は、電子の流れということで直感的に理解できる。しかし、電圧つまり電位差、これが分からない。さらにオームの法則 。「金属の中を電子の粒子が流れて、そこに抵抗があるから、そこに電位差が生じる 」という。

 「どうして金属の中に抵抗があるの?」「抵抗があると、どうして電位差が生じるの?」「金属の中に原子核があって、そこに電子の粒がぶつかって……」と、いろいろ考えてしまう。大学に入学してからマクスウェルの電磁気学を学び、上記の疑問はあらかた解決できた。しかし、そういうすべてを理解できないと我慢できないという性癖は、大学の授業においての理解の妨げになった。結局、理解できなくて、全部放り投げてしまったからだ。理論物理という学問は、自然界の法則の最も基本的なところを研究する学問で、すべてを理解しないと我慢できないという性格は、うまく働いていれば、良い結果を招いたのかもかもしれない。しかし、私の場合は災いになった。

 現在、生物学を勉強している。生物学は、物理学による原子レベルの法則、そしてその上にある化学の上に構築されている学問だ。当たり前のことかもしれないが、いろいろなところで物理や化学の理解が必要とされ、勉強が進む。

 例えば、DNAはリン酸と糖をバックボーンにした二重らせん構造で、バックボーンから出ている4つの塩基がお互いに水素結合しているとある。そして、水素結合は普通の分子間の結合をつかさどる共有結合よりはるかに弱い結合で、水分子同士が引き合うのと同じ原理らしい。H2Oの水分子の中で電子が飛び回っているが、電子の存在確率はO分子がH分子より少しだけ高い。そのため、O原子の方がH原子より、少しだけ陰性の傾向を持つことになる。その結果、2つの水分子間で陰性を持つO原子の側と陽性を持つH分子の側が引き合うことになる。

 DNAの分子構造と分子生物学を理解するなら、そこまでの理解で十分だ。当然だが、DNAの分子構造を発見したジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは、もう少し詳しく知っていたようだ。特に、クリックは物理学の修士号を取得している。イギリス人のクリックは、第二次世界大戦中、海軍の研究所で磁気・音響反応型の機雷を開発していた。当時の米英の物理学者は根こそぎマンハッタン・プロジェクトに従事していたが、その開発の結果が広島・長崎の惨劇だと知り、戦後に物理学をやめた人は多い。クリックもその1人だった。しかし、ワトソンは根っからの生物学者であった。どこまで原子間の結合について理解していたかは疑わしい。彼ら2人は、物理の理論から導かれる有機化学の範囲の法則、つまり定量的な分子間の結合力理論や、同じ原子に複数の原子が結合する際の結合間の角度・幅などの理論、そしてDNAに関する実験結果をパズルのように組み合わせて、DNAの分子構造モデルを組み立てていった。

 私は曲がりなりにも物理学を4年間学んだことがあるわけで、水素結合などについては「ブラックボックスとしてではなく、理論まで突っ込んで理解してみたい」と、生物学の教科書を読んでいる時に一瞬だけ思った。実際、学生時代にもう少し真剣に物理を勉強していたら、挑戦できたかもしれない。しかし、これから量子力学を勉強するのは並大抵のことではないのは事実なので、残念ながら諦めた。

 実際、ワトソンとクリックがDNAの構造を突き止めて以降、生物学の研究をやる際は、そこまで突き詰めて理解する必要はない。というか、他にやることは山ほどあるのだ。iTunes Uで、アメリカの大学が公開している生物学の授業を聞いていると、次から次へとノーベル賞学者の話題が出る。それらの理論は、誰でも分かるような単純な生物の仕組みであることが多い。ノーベル賞取得の成果として称えられているのは、その単純な仕組みを厳密な実験で証明したことだ。特に重要視されているのは、研究成果がどれだけ人類の進歩に具体的に貢献したかということのようだ。同程度の難易度だとすれば、工業分野への応用度が高いものほど高く評価される。

 例えば、DNAの増幅技術として知られるポリメラーゼ連鎖反応(PCR)。ゲノムプロジェクトなどで多用されている技術だ。また、刑事ドラマなどで、犯行現場に残った犯人の血痕や髪の毛などから、遺伝子情報を採取する場面が出てくることが多い。現場で採取されるDNA量はごくごく少量だ。それだけで正確な判定を行うのは難しい。そこで、使われるのがこのPCR技術だ。理論は極めて単純。DNAの構造自体が持つ自己複製能(生物の細胞膜の中で常に行われている)を、試験管という人工的に制御可能な環境で活用しただけのことだ。PCRを開発したキャリー・マリス氏は、1993年にノーベル化学賞を受賞した。

 さらに、ゲノムプロジェクトで活用されたDNA塩基配列読み取り技術。技術を完成させたフレデリック・サンガー氏にちなんで、サンガー法(DNAシークエンシング)と呼ばれる(もっとも、長年にわたって改良が続けられているため、必ずしも正確な表現ではない)。DNAシークエンシングは、遺伝子工学の研究所だけではなく、現代人が生活する場面の至るところで使われる。犯罪現場のDNA鑑定、遺伝病診断や父性判定、そしてテイラーメイド医療などだ。その理論は結構、単純だ。DNAの自己複製能をうまく活用するだけだ。フレデリック・サンガー氏は、1980年にノーベル化学賞を受賞した。

 長くなったが、私がここで言いたいのは、理論そのものを理解するだけでも博士レベルが必要な理論物理の世界に対して、生物学や科学の世界では、ノーベル賞を取得する際に必要とされる能力の種類がかなり違うということだ。

 50歳に届く年齢になろうとしている私は、生物学を勉強している。しかし、決して今から第一線の研究者になろうとしているわけではない。私の目標は、第一線の研究者が使うバイオインフォマティクスのソフトウェアを作る技術者になることだ。つまり、SEが会計や物流、生産管理に金融技術などの業務知識を学習するのと同じ意味で、生物学を勉強しているにすぎない。

 しかし、そんな風に勉強しながら、大胆にも私はこんなことを考えている。

 「もし仮に、私がいま18歳で『将来はノーベル生理学賞だ』と言いながら、大学の理学部の生物学科に進んだとしたら、その発言は、私が18歳だったころの発言と違って、かなり本気だったかもしれない」

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