ITエンジニア歴30年コーチの、ITエンジニアのためのコーチング

ITエンジニア30年の物語 その2

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<近況>

 先日、ITコーディネータとしての仕事で、協力社(外注)管理のセミナーの講師を務めました。わたしは外注を管理したこともあるし、外注の立場になったこともあり、また、外注を管理しながら、同時に自分が外注として管理されるた立場になったこともあります。ほとんどのシステム開発は外注管理が含まれており、よく考えてみれば重要なテーマですね!

 参加者はたった3名でしたが、2日間、じっくりこのテーマについて参加者と一緒に考えました。

<預金オンラインシステム開発スタート>

●コーディングスタート

 1978年5月、いよいよITエンジニアとして、本格的に仕事が始まりました。

 当時は、もちろんITエンジニアという言葉はありませんでしたので、プログラマと呼ばれていました。

 信用金庫に就職したからには、営業店に配属され営業をやるものだと思っていたわたしは、コンピュータのシステム開発という知的なイメージで、当時の時代の最先端を行く仕事で、しかも、金庫全体から期待されてる一大プロジェクトの仕事と知り、エリートのような気分になりました。

 どうも、理科系出身者ということで、システム開発化に配属されたようです。同期約60名のうち、理科系出身者はわたしだけでした。信用金庫の業務は大きく分類すると3種類ありました。預金、融資、為替です。第1段階が預金のオンライン化、第2段階が融資のオンライン化、第3段階が為替のオンライン化という予定でした。

 ちなみにオンラインとは、データ入力後、即時に応答があるコンピュータの処理のことを指しています。その反対はバッチといい、データ入力後、ある程度の時間を経過後、処理の結果が反映されることをいいます。

 課のグループは2つに分かれており、1つは定期性預金、もう1つは流動性預金預金のグループでした。定期性預金のグループでは、主に定期預金や通知預金を、流動性預金のグループでは、主に普通預金や当座預金、定期積金を扱っていました。

 わたしは定期性預金のグループに入りました(どうやら、入庫1日目に偶然に座った席によって決まったようです)。同じ課の新人4名のうち、3名が定期性預金のグループになりました。わたしの担当となったプログラムは、「通知預金新規」「通帳・証書再発行繰越」、その他数本だったと記憶しています。

 具体的には、先輩が作成したフローチャート(流れ図)をもとにCOBOL言語に落としていく作業でした。フローチャートというのは、現在はあまり作成しないと思いますが、プログラムの内部構造を判断記号(菱形)、処理記号(長方形)等で表現したものです。現在でいうプログラム仕様書と呼ばれるものが、信用金庫ではフローチャートに相当しました。

 当時は、パソコンもなければ、もちろん、それに付随するワードもエクセルもありません。だから全部、手書きです。修正や追加があれば後で付け足して書くので、継ぎはぎだらけでした。フローチャートというプログラムの構造を表すものをCOBOLというコンピュータを動かす言語に変換する作業をコーディングと呼んでいました。これももちろん、手書きです。コーディングシートというのがあって、鉛筆かシャープペンでどんどん記入していきました。わたしの場合、まず、「通知預金新規」のプログラムをコーディングしました。

 約30年程前の話ですから、コーディング用紙を元にパンチ業者にデータ入力を依頼し、その結果がカードで返ってきます。プログラムのコーディングが数本終了したところで、数人ごとに車でユニバック(現ユニシス)の本社に行き、コンピュータルーム内で汎用コンピュータのコンソール(大型コンピュータに直接に指示を与える画面)を操作して、コンパイル(プログラムをコンピュータが直接読む言語に変換すること)を行いました。

 始めは、やはりプログラムの文法エラーが多く出て、その修正は大変でした。すぐ理由が分かるエラーならよいのですが、理由が分からない時は、マニュアルでエラーの理由を調べます。当時は英語で書かれたマニュアルしかなく勘で理解していました。プログラム作成の後は大変なテストが待っていることを知らなかったため、プログラムのエラーがなくなると、一通りの仕事を終えたような雰囲気がありました(課のほとんどの人は、システム開発が初めてだったのです)。

●信用金庫事務センター落成

 1978年10月、信用金庫の事務センターが落成しました。そして、オンラインスタートに向け、コンピュータルームが事務センター2階にでき、ユニバック(現ユニシス)の大型コンピュータ(コンソール、CPU、プリンター、磁気ディスク、カードパンチ機)が設置されました。

 その後、我らシステム開発課も事務センターの3階に引越ししました。そこで、やっとお茶汲み坊主からは解放されました。庶務のおばさんがいたからです。また、5月に異動してきた女性もたまにおばさんのお茶汲みを手伝っていましたので。

 新しいビルの新しい部屋で、そして新しいコンピュータルームで仕事をするのはとても気分のいいものでした。しかし、仕事は日毎に忙しくなってきました。次から次へとプログラムのコーディングを行い、エラーをつぶしていきました。

 ちなみに当時のプログラムのエラーつぶしは、1行単位でカードで指定して差し替えるか、1行単位でソース全体のカードを差し替えて再登録するかです。たまにあるのが、再登録しようと思って差し替えたカードの束をコンピュータのカードリーダーに読ませる前に落してバラバラになることです。これが起きるとちょっと悲惨でした。1枚1枚確認して、また、全部並び替えるのです。

●シミュレータテスト スタート

 1978年11月、シミュレータテストがスタートしました。営業店に設置予定の端末でデータを入力して、動作を確認する前に、カードで本来端末で入力するデータをつくり、コンピュータに読ませ、正しい結果が出ているか確認しました。この作業は、翌年の2月頃まで続きました。

●わたしのニックネーム

 信用金庫に入庫して半年程経ったころ、いつのまにかニックネームが「社長」になっていました。「社長」になった理由は色々とありますが、わたしがいつも始業時刻の8時45分ぎりぎりに出勤していたことで、先輩から「社長出勤だ!」といわれたのが始まりです。また、課にわたしと同姓の高橋さんがいたことで区別の必要があったことと、信用金庫のトップが理事長で社長がいないことも理由の1つだったと思います。

 いつの間にか、周りのほとんどの人から、「社長! 社長!」と呼ばれるようになり、「高橋さん」と呼ばれることはほとんどなくなりました。でも、ニックネームをつけられて呼ばれるようになったのは内心、とてもうれしいことでした。課の人とだんだん、うちとけて話すようになりました。

 また、どういうわけか、いろいろな先輩からもとても慕われ、ゴルフ、海外旅行など、様々なところに誘われ、同行しました。そういう意味では、とても充実していました。

●当時のシステム開発課の様子

 課長は、N.Iさんです。信用金庫、初のオンラインシステム開発の実質的なリーダー。42歳でほとんど管理業務のみで、自らは設計、プログラミングは行っていませんでした。30年も前だったせいか、管理職は今より偉い存在と見なされていたような気がします。入庫式の日、「入庫して、20年も経つとマンネリで仕事をしている」と言っていました。「希望に満ちて入庫したのに、もっと、課長として夢のあること言えないのかな?」とがっかりした覚えがあります。

 係長は、流動性預金係担当のI.Tさん。普通預金、当座性預金、納税準備預金等の流動性預金(いつでも払い戻しができる預金)の新規、解約等のプログラムを担当。基本設計まで手掛けるが、詳細設計以降は手掛けない、管理中心の人でした。話しやすいタイプでした。そして、もう1人の係長がS.Aさん。定期性預金係の担当係長です。わたしの直属の上司でした。いつも、むっつりとして仕事をしている。一見、切れそうで仕事ができそうな感じでしたが、意外と頑固で融通が利かない人でした。

 I.Sさんは、わたしと同じ大学の電子情報学科出身で1年先輩。N課長から、絶大の信頼を得ていました。また、H.AさんはI.Sさんと同じく、わたしと同じ大学の電子情報学科出身で1年先輩。やはり、N課長から、絶大の信頼を得ていました。

 同じ大学の1年先輩の2人が課長の絶大な信頼を得ている割には、わたしはあまり上司に信頼してもらえませんでした。留年しないで信用金庫に入庫すれば、彼らと同じように信頼してもらえる立場になっていたのでしょうか。

 わたしは真剣に考えました。彼らは同じ工業系の大学でも電子情報工学科(コンピュータを専門とする学科)を出ている。それに比べわたしは、同じ大学とはいえ機械工学科。でも、やはり同じ大学の出身ということで比べられてしまう。ある時、1人の先輩から冗談半分で、こんなことを言われました。

 「同じ大学を出たI.SさんとH.Aさんがあんなに活躍しているのに、社長は駄目だな!」

 わたしは精いっぱい頑張っていたつもりでしたので、内心、とても悔しかった思いでした。

 さて、シミュレータテストも終盤に近付き、いよいよ、テスト用の営業店端末とコンピュータをオンラインで結んで、本番環境に近い状況でテストを行うオンラインテスト(このようなテストだったような気がします)が始まりました。そこで、わたしは大変な苦労をすることになるのです。

 続きは次回です!

●当時、コーチングがあったら

 信用金庫に入庫した日、希望に燃えて入庫したのにも関わらず、「もう、入庫して何十年も経つと惰性で働いています」と希望をなくすようなことを言われました。

 もし、当時の課長がコーチングを学ばれていたら、もっと、新人を励ますような言葉を発したと思ういます。

 例えば、こんな風に。

 「これから1年間、オンラインシステムの開発で忙しいが、わたしも精いっぱい応援する。一緒に頑張ろう!」

 わたしがこのように言われたら、きっと、頑張ろうと心に誓ったと思います。

 あなたが新人だったら、どんなことを言われたら発奮しますか?

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