いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

要求を多く語る人はコスト計算を間違える

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要求にはコストがかかる

簡単な話で、無能な人ほど要求が多い。ああして欲しい、こうして欲しいという項目が多ければ、それだけ実現するのに時間や労力、技術が必要になる。リソースは有限なので、要求が無制限なら破綻するのは必然だ。リソースをお金に置き換えるとすごく分り易い。百円で千円の物は買えない。千円のものが欲しければ、千円のお金を用意するのが普通だ。

要求を言うこと自体は何もコストがかからない。だが、言った後にコストがかかる。変な要件を提示しても「バーカ」で一蹴できれば大したコストはかからない。だが、要求に対して何らかの返答をする義務がある場合、調査やら検証のタスクが発生する。多分、無駄な仕事が増える理由はここだと思う。説明に対する調査やまとめ資料の作成でかかる時間はバカにならない。その時間にもコストは確実にかかっている。

品質を上げるためには、多くの要求に応えるというのが定石だ。しかし、最近の傾向を見ると、ピンポイントで要求に応えるというのが事例も増えている。例えば、Amazonでボタン一つ押せば商品が発注できる仕組みを作った。あれに使うスイッチのようなデバイスも、物としてはチャチっこい。しかし、物はチャチっこくてもサービスは充分に運用できる。ボタン一つの単純な仕組みでサービスの品質を上げたのは凄い。

よく料理屋で「こだわりの◯◯」のような謳い文句を見かける。あのノリでこだわれば良い仕事ができると勘違いしていないだろうか。例えば「割り切りの◯◯」みたいな謳い文句を見て美味しそうだと思うだろうか?無意識に かけた手間 = 品質 と思い込んでいないだろうか。無意識レベルでこのような感覚が染み付いていたら、手間に対してかけるコストまで考えが及ばなくなる。

要求の多い人はロジックをまとめられない

もう一つ。要求が多いほど話がややこしくなり易い。矛盾せずに多くの項目を挙げるのは、実は高度な能力が要求される。出した要求が前後で矛盾していないか、項目の優先度は的確に振られているか、一つ一つの要求の妥当性は検証されているか・・・etc。これらの要素を整理して矛盾なく説明できるだろうか。説明できたとしても、説明自体に膨大な工数がかかる。その結果、思考が整理しきれずにパンクする。

また逆の考え方もある。思考がまとまらないので要求が多いというケースだ。例えば、目の前に札束を積まれたとしよう。「これが君のものになるのだが」のような話をちらつかされると、多くの人はまともな思考ができなくなる。そのお金であれがしたい、これがしたいという要求で思考がパンクするからだ。これが拳銃を突きつけられた場合でも似たケースが起きる。死にたくない、助かりたいという要求で思考がパンクする。

ただし、複雑な問題や難易度の高い問題に取り組む時、どうしても要件に対して要求が増えてしまう。対応できる人とそうでない人の差は、課題を整理できるかできないかで決定的な差が生じてくる。こういう問題解決の方法については、詳しく書かれた本がたくさんある。皆さんもご存知のところだろう。しかし、これが実行できる、できないが生じてくる要因は何だろうか?これについて書かれた本はあまり見ない。

課題を整理できるかできないかの差は、精神状態の安定度で生じると考えている。強い感情や欲求に流された時、人間の思考力は極度に落ちる。強い不満や不安がある時に、冷静に問題を検証できるだろうか。訓練によってある程度はコントロールできるかもしれないが、そういう訓練をしている人は希だ。それどころか、強い感情や欲求を垂れ流すことが仕事をうまく生かせる秘訣と思い込んでいる人さえいる。

要求一つの重さ

あれしろこれしろとまくし立てる前に、要求一つの重さを知るべきだ。現代人というのは、要求一つの重さにかなり疎い。例えば、喉が乾いたらそこら辺にある自販機かコンビニで小銭を払って、飲み物を簡単に入手することができる。ただし、その百円の裏で動いている労力は膨大なものだ。全て先人の考え出した知恵や仕組みの上に成り立っている。日頃のちょっとした便利さは、この膨大な積み重ねの恩恵だ。

これから何かしようという時に同じノリで要求を出すと、驚くほど簡単に悲劇が起こる。仕様変更を出す顧客のノリは、百円でコーラを買うより気軽だ。それが原因でプロジェクトが炎上して訴訟にまで発展したとしても、「百円のコーラ買おうとしただけなのに、何で裁判起こすの?」のような、火にガソリンを注ぐレベルの思考がまかり通ってしまう。原因は顧客が無知だからとかではなく、現代人の性質だ。

百円のコーラ一本にしてしてみても、百円という値段だけを見るか、どうやって生産されたか経緯を見るかでは、全く違う結果になってくる。ただ、多くの人が百円という値段だけを見る。その方が楽だからだ。コーラ一本作るのにも多くの手間がかかっている。それを紐解いていくのは面倒臭いので普通はやらない。そんなことを考えようと考えまいと、喉が乾いた → 百円でコーラを買う → 問題解決 で事は済む。

要求を多く語る人の共通点は、要求することにコストはかからないと思っていることだ。先ほどのコーラの話でいけば、最大限が値段の百円だ。それプラス、お金を払っているお客さんなので、意見を言う権利があると思い込んでいる。しかし実際は、言った意見に対してコストはかかる。この感覚を仕事に持ち込むと、余計な仕事を大量に増やして思わぬ火種を生み出すことになる。

要求でコストをパンクさせないために

これに対する解決策だが意外と簡単だ。損益を覚悟すればいい。何をやるにしても、完璧に約束された成功は無い。確実に利益が出る方法というのもない。要求が多かろうと少なかろうと、失敗する時は失敗するし、成功する時は成功する。ある程度、不利益に対して開き直りが無いと、要求は無制限に増える。

要求の裏には不安がある。まず、この不安を減らすアプローチをしなければ、要求をコントロールすることはできない。底に穴の開いたバケツを直すように、まず、増大する不安を対処しなければ、要求に応えても一時しのぎにしかならない。ロジカルに考えた答えが要求ではない。むしろその逆で、衝動から要求は出される。

精神的な安定を欠くというのは、射幸心で我を失って、ソーシャルゲームに大量課金するのと同じだ。課金して得られたとしても、スマートな金額で済むことは希だ。最悪、高額課金しても思うような結果を得ることができないこともある。要求を一つ出すというのは、この、ガチャを一回引くのに似ている。

「失敗したくない」という不安が突きつけられたとき、不安からのがれたいのか、目的を達成したいのか、立ち止まって考えて欲しい。不安で冷静さを欠くと、ガチャで思わぬ大量課金をしてしまうように、要求を出し過ぎてコスト計算を間違える。

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