いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

コメントにコラム書くならきちんと公開しよう

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■それ、もうコメントじゃないから

 最近、私の書いたコラムについたコメントを見て思った。「これ、そのまんまコラムじゃねーか」ということで、丸ごと引用して公開してみた。文言などの一部を修正はしたが、そのままコラムとして成り立っている。

 私のコラムには長文のコメントをつける方が多い。日本語が崩壊気味の方もいるが、機械的に修正すればコラムとして公開できるくらいの内容だったりする。単に私のコラムが納得できないなら、「頭おかしいんじゃないか?バーカ。」で済む。これだけの内容を書くのだから、普段からいろいろと考えていて、自分の主張を持っているのだろう。

 そして、コメント自体が趣旨を持ってしまっている。あまりコラムの内容を読まずに書くので、中心になるのは自分の主張になる。読んでいて、反対意見のはずだがコラムの内容と一致していたり、内容は同意できるがなぜここにそれを書くか?というコメントもよく見かける。

 コメントにはできるだけ返信をつけるようにしている。だが、コメント欄にコラムを書かれると返答に困る。とりあえず内容の添削をしてコメントを返す。どこの赤ペン先生だよ。これじゃコラムニストのトレーナーじゃないか。と、コメントの内容よりそっちの方が気にかかる。

■コラムを覆したければ自分でコラムを書こう

 この手のコメントを読んでいると、私を論破したいのはビンビン伝わる。だが、コメントとコラムでは力の差が大きすぎる。例えるなら、外注の新人君と本社の課長クラスくらいの差がある。コメントでコラムを覆すことはできない。コラムの内容が気に食わないので覆したいなら、まず対等の立場に立たないと無理だ。

 クソコメントをつける人でもコラムを書くだけの能力がある人も多い。もし、私のコラムを熟読した上で反対意見のコラムを書いたら、かなり良いコラムが書けると思う。多くの賛同を集めて正真正銘に私のコラムが覆されることも、十分にあり得ると思う。

 ぶっちゃけ言うと、勝ち逃げは気持ちいいぞ。コメント欄でみちみちやるより100倍スカッとする。内容は一般論でも十分だ。むしろ一般論の方がウケる。見せる角度をちょっと工夫すれば、私のコラムなんぞ簡単に抜けるぞ。

 コラムニストになったからといって、数回書いて書き逃げでも何のペナルティーも無い。匿名でも書ける。締め切りも無い。報酬が発生しないが、何の責任も負う必要も無い。書きたいことを書けばいいのだ。

■コラムで世の中の真実を説かなくてもいい

 よく、「それとは違う考え方がある」 → 「間違えている」 → 「劣っている」→「悪だ」という思考フローで罵詈雑言をコメントに書き込む人がいる。これはかなり危ない考え方だと思う。個人レベルでなら多くの可能性を摘むことになる。社会レベルでこういう考え方をすると戦争が起きる。

 こういう考え方が根付くと、「間違えることは悪だ」 → 「自分が間違えることは許されない」 という思考に繋がっていく。こうなると、新しいことへ挑戦したり、リスクに向き合うということができなくなる。失敗した時、自分がしてきたように罵詈雑言を浴びせられると思うからだ。

 そもそも、万人が納得するようなネタだけで面白いコラムは書けない。スベるリスクは必ずつきまとう。だいたい十本コラムを書いて、手応えのあるのは一本か二本だ。そのうち五本くらいはスベり気味だ。全部手応えのあるコラムにするのはプロでも無理だ。

 たかがコラムに世界の真実を求める方がナンセンスだ。間違いを恐れずに書けばいいのだ。書き続ける自信が無いなら、一本だけ書けばいい。その後は書いてから考えろ。書きたいなら私を名指しで反論という内容でもいい。才能がコメント欄に滞るのも勿体ない。

■見る角度で全ては変わる

 で、今回全文引用で書いたコラムだが、反論があるならいくらでもコメント欄に書いてくれ。書いた以上、返答できるだけの裏付けは揃えてある。納得するかしないかはそれぞれに任せる。

 クソコメントでも、それが正しさとして通用する角度というのがある。自分と見る角度が違うから間違えている。ではない。角度を合わせれば、その人の正しさの範囲で反論できる。

 実のところ、私のコラムの何割かは誰かの代弁だったりする。「この人ならこう考える」という内容を元に書いている。あまり自分の意見を押し通そうという気がない。「それぞれの考え方があっていいじゃん♪」というノリで意外と無関心だったりする。

 私自身、元々は人の意見をいちいち論破したがる面倒な人だった。今でもそういう部分は残っている。今、クソコメント付けている人でも、そこを起点に素晴らしい才能を開花させる可能性はある。クソでも種を蒔けば芽が出て花が咲く。種を蒔くか蒔かないかは、その人次第だ。

 人の数だけ正しさはある。だったらどうするか?正しさの裏付けが何か知ればいい。なので、細かく言えば人の数だけ正しさの成り立つ条件がある。ということだ。自分の正しさに固執せず、その手元にある才気をもっと役に立つことに活かして欲しい。

--元コメントを下さった方へ--

 全文引用でコラムを書かさせて頂いた。頂いたコメント自体はただの一般論だ。なので否定する気は無い。是も非も無い。それよりも、コラムの中の一文からあそこまで内容を膨らませられる、そういう能力には一目置いている。実際、私が書いたコラムよりランキングは上だった。貴方にはそのポテンシャルがある。

 私がのコラムが気に入らないなら、好きなようにコメントして頂いて構わない。だが、対等の立場で意見をできる能力はあるのだ。それに気付こう。見ていて残念過ぎる。そもそも、コメント欄で鼻であしらわれていては、気が収まらないだろう。

 現在においては、貴方はただの失礼な人だ。論破された挙句、逆上して個人攻撃する程度の虫ケラだ。だが、手元に能力があるのだ。自信を持とう。そして、卑屈さから抜け出して欲しい。それができれば、きっと素晴らしい人になれると思う。

 貴方の将来に期待しています。

Comment(5)

コメント

夢夢

おおー。こんな形式のコラムは初めてだ。
俺も元ネタの人は勿体ないと思った。
努力しているならば、ネットで努力していると長々と書いてなんになるのかと。
Anubisさんのコラムに反論として書いてあるから、論理的整合性が保てなくなる。
何故ならば「反論」になっておらず「自己論」と呼ぶべきだろう。
といっても論というほどではないが・・・
彼は文章能力を磨いた後で独立してコラムを書いたらいいと思う。
独立して書いていたら「ああ努力は必要だ」で終わっていた。
それにしても恐れ入った。
色々な材料をもとにコラムを書くのはユーザーサイドエンジニアの技だろう。
こういった優れた技は勉強になる。

Anubis

> 夢夢 さん
全文引用したのは、コラムとして十分通じるレベルだったからだ。

過去、何人か書き込み禁止にした人も同様だ。
意外と才気に溢れている。

感情に突っ走って書くのもいいが、
もうひと越えすれば人に訴えられるだけのものを書けるのだが。

あとは、議論の仕方を覚えて欲しいものだ。
相手に反論したいなら、相手の意見を理解する必要がある。
だから、引用したコラムを「私の意見だ」と言った。

相手の言うことを理解しなければ、話なんていつ迄も収集が付かない。
挙句の果てに、感情的になって暴言を吐く。これは議論とも言わない。

また、自分の支持したい意見だけ言ってれば良いってもんでもない。
時には反対意見も理解しなければ、知見の幅は広がらない。

こういう、議論のやり方を覚えた上でコメントして頂ければ、
いろいろと有意義になると思う。
いつか、そういうテーマでコラムをかいてみるのもいいかもしれない。

夢夢

Anubisさん
やはりそうか。
コメント欄も作品の一部と思いコメントを書いた。
是非、議論の仕方をコラムにしてほしい。

Anubisさんのコメントで元ネタの人が勘違いしている部分も明らかになった。
彼は「知っている物事しかシステム開発できない」と思い込んでいる。
開発のプロは「知らない事でもシステム開発する」のだ。
事前にどんなお客様が来るのかわからない。
だから知らないものはシステム開発できませんでは通用しない。
彼もAnubisさんが習得している議論の仕方を習得していればもっと早く気付いたと思う。
きっと彼は「文系の能力」だと区切って覚えなかったんだろうな。
理系文系関係なく全ての学問を学習すればいいのに。
彼はあの日理論的な区分と学校教育の被害者なのかもしれん。

Jitta

> コラムを覆したければ自分でコラムを書こう
> 私を論破したいのはビンビン伝わる。

 なぜ、「論破」「覆す」なのだろう?

このコラムは、こういう疑問が残る。
「論破する」気はない。
しかし、感じた疑問は解決したい。

人それぞれ、異なる経験をしている。
経験が異なれば、同じ事象から受ける印象も異なる。
経験が異なっているために意見が異なるのだから、それは「論破する」ものではない。
「そういう見方もある」と、受け入れられるかどうかだけではないだろうか。

Anubis

> Jitta さん
> なぜ、「論破」「覆す」なのだろう?
コラム書けば分かる。

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