いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

ふんデョリャぁぁぁーーーヴぉラッハァアうぁぇぇ!!

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■デリャタぁあーーがっあぁ!

  ぶろぉあぁ! ぶろぉぁあぁーーー!ばっふ、んぎゅおれっぁ、ぶらっはぁーー! んがぁーーー! んぐぉぉぉぉ!んびらばぁぁ………。(ここで手加減なしでおもいっきりドアを蹴飛ばしたい衝動がこみあげる)んぐぉらぁぁ!! んでぃっしょーーー! (悶絶の末、頭を抱えこみたくなる)んぐらぁぁーー! んぐらぁぁーーー! んぐらぁぁーーーー!

 ……このように、人間の感情はある一定のラインを超えると、言葉としての原型すら失ってしまう。そういえば最近、言葉を忘れるくらいの激情に流されたことはあるだろうか?そんな激情に駆られた時を振り返って思うのは、全てが言葉や理論で表せるものばかりではない。ということだ。

■意外と理解できないです

 さて、冒頭に書いた内容を理解できた人はどれだけいるだろうか?きっと誰も理解できないと思う。これは、自分が激情に駆られた時の頭の中で出た言葉……いや、音か? データか? 波長か? を文に表してみたものだ。

 なんかあったんか? までは理解できた人はいると思うが、全く意味不明なんじゃなかろうか。最近思うのは、人の感情とは、冒頭に書いた内容のように、ただ表すだけでは伝えたいものは伝わらない。ということだ。きっと、どんなに親しい間柄だとしても、信頼し合っていたとしても、こんな表現の仕方では言いたいことは伝わらないだろう。

■それでも人を動かす根本は感情

 しかし、これが自分の考えた提案や指示、そういうものだったらどうだろう。たまに、そういう重要な事柄でも、感情に任せて伝ようとする人はいる。本当に伝わるような言い方だろうか。自分の立場に甘んじて言葉をブン投げていないだろうか。自分の正当性を過信して思考を放棄してはいないだろうか。まず、振り返ってみよう。

 よく、理論的であれば伝わると思っている人がいるが、どうだろう。私はそれだけでは足りない気がする。例えば、思いやりだとか、ユーモアだったり、表現方法、話す時の表情…。と、いろいろなものが思い浮かぶ。具体的に何というのは状況や人によって変わると思う。しかし、共通して言えるのは、感情へのアプローチは必須ということだ。

■伝えるための技術

 感情へのアプローチだが、これは相手に対してだけではない。自分に対しても必要だ。これは非常に大変なことだ。感情へのアプローチとは、例えば、怒ってる相手をなだめるとか、ネガティブになってる相手を肯定的にするとか、そういうアプローチだ。

 自分が怒ってる時、自分で怒りを鎮められるだろうか。自分がネガティブになっている時、自分で肯定的に覆せるだろうか。これは難しい。中でも難しいのが、相手への否定的な感情を覆すアプローチだ。どうだろう。かなり難しいんじゃないだろうか。ちょっとやそっと、本を読んだくらいでは到底叶わない。何らかの訓練は必須だと思う。

 感情は理論よりも、もっと根本的なところに存在している。私はそう思っている。何か伝えたいなら、まず、感情からどうにかすべきだろう。紙に書いたパズルを解くように簡単にはいかない。ただ、感情というパズルを的確に解いていければ、伝えるべきことは的確に伝わっていくだろう。

 感情とは紙に書いたパズル、というより、神の書いたパズルなのかもしれない。

Comment(7)

コメント

へろへろ

……ああ、こないだデスマで壊れた人がこんな感じだったか

Anubis

>へろへろ さん

戦慄しました。

真っ赤なレモン

ときどき壊れてしまうくらいが、人間味があって良いですね。壊れない人は、建前と保身に終始している人でしょうから。

Anubis

>真っ赤なレモン さん

たまに喫煙室で燃え尽きている人を見るとそう思います。

Anubis

ネタを明かすと、タイトルと冒頭の一小節の意味不明な内容。あり得そうであり得ない音を組み合わせて、複雑に絡まった思考が崩壊して安直な思考へ崩壊していくプロセスを表現したものだったりする。

冒頭に"ん"を入れることで、言葉の勢いが殺される。勢いはあるが、何か遠くで響いているような。そんな感じを表現してみた。タイトルは、発音は分からないが雰囲気は伝わるような。そんな文字列を選んでみた。

・・・本文より、むしろここに力を注いだ。実のところ、本当のテーマは理論至上主義への反抗だ。

 一見、何も伝わらないと思うようなものから何かが伝わったり、こんななことで変わりはしないと思うようなものから現象が変わったり。周りを見渡せば、そんなもので溢れかえっている。

そんな意図で書いたものなんだよ。

言っている事がまったく理解できない人もいるかもしれない。そんな人はスルーしてください。

このコメントを読んだ後にコラムを読み返してみると、カップラーメンの残り汁で作る雑炊のような面白さがあるかもしれない。

・・・つまり、二度目の面白さがあるということだ。

真っ赤なレモン

本当のムダは無くしてもいい。けれど、一見ムダに見えるけれども実は何かの役に立っているものを無くしてはいけない。
本当のムダを見極めるのは難しい。というか、本当のムダなんて、あるのか?

以下の文章は、とある非常にマイナーでクローズドな雑誌に掲載された寄稿の一部分です。
Anubisさんのコラムに似た雰囲気を感じました。

「学士会会報 第881号(2010年3月1日発行)」
タイトル:日本とクラシック音楽と私
筆者:井上道義(指揮者)
より、全12ページから一部分のみ抜粋。

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私は、何を目指しているかわからないというところがアートだと感じています。
何かこういったものを表現したい、というのはあまり言葉で表せないのですが、
演奏していくうちに、「これは何だかすごいぞ」と感じる。
これは、名作と言われる全ての芸術品にあるもので、たじろぐと言うのか、
「何これ?」といったような感覚です。それがこの曲にはあります。
(注記:この曲というのは、ショスタコーヴィチの交響曲第四番)
演奏するほうも、「この曲、何だかわからないけれども・・・・・・」と感じる。
それでも続けていくと、交響曲でなければできない世界に連れて行ってくれます。

音楽は、何を表すかということを音楽以外で表現できなくても、
良いのではないかというのが私の意見です。
表現できるのであれば俳句にしても良いだろうし、小説にしても良い。
もちろん話しても良いでしょう。そうではなく、
「何だかわからないけれどこれは凄いぞ。自分の人生はこれで変わるかもしれない」
と感じるのが感動というもので、その感動こそがアートに必要なものであり、
それ以上のものはなくても良いのではないかとさえ思います。
それをどのように表現するのかが、指揮者の役割です。
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さる

バックナンバーの「くたばれコミュ力」とあわせて読みたいコラム。

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