ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

夜の翼 (4) 現実度

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 私たちが地上に出たのは、すっかり陽が落ち、夜空に浮かぶオレンジ色の月が弱々しく存在を主張し始めた時刻だった。
 クイーンズスクエアの周辺道路は、多数のパトカーと救急車で埋め尽くされていた。殺気立った表情の警察官たちが周囲を規制すべく走り回っている周辺を、ぐるりと取り巻いた市民たちが、手にしたスマートフォンをかざして画像や動画を撮影するのに余念がない。レポーター気取りか、自撮り棒を掲げ、興奮した口調で喋っているネットユーザも目立つ。
 「......ってな具合に、ひどい騒ぎになってますね」髪の毛をピンクに染めた若い男が、大げさな身振りでクイーンズスクエアの方を指しながら、怒鳴るように話していた。「10 人が死んだとか、20 人が負傷したとか、いろいろ言われていますが、実際のところどうなってんのやら。テロで化学兵器が使われた、なんて話も出てるようです。今のところ警察からは、事件について、刃物を持った男が非常階段から入って何人かを殺傷した、ぐらいしか発表されていませんね。あ、あと、クイーンズのネット回線が全部落ちた、って話もあります。これは、悪名高い、神奈川県警サイバー犯罪対策課の出番もありでしょうかね。ここんとこ、不祥事続きなんでね、こういうときこそ......」
 一方、テレビ局から派遣されたレポーターたちは、プロらしく落ち着いた口調で話していたが、彼らにしても事態の理解度については、アマチュアと差がない。もうしばらくすれば、ありふれた殺傷事件として練り上げられたストーリーが発表されるだろう。おそらく、被疑者が未成年、ということで詳細は明かされない。ニュースサイトにトゥチョ=トゥチョ人やショゴスの画像が掲載されることは決してないだろう。
 どうしてもシュンに付いていく、と言い張ったので、私は渋々ながら本部にナナミの同行について問い合わせざるを得なかった。アーカムのどの支部でも、部外者の施設内立ち入りは厳重に禁止されているので、てっきり一蹴されると思っていたのだが、防衛管理官の佐藤は、私が事情を話すと即座に了承した。
 「本当にいいんですか」
 半信半疑で問い返すと、佐藤は含み笑いをしながら答えた。
 『辻本ナナミについては、先ほど、詳細な背景調査を行いました。特に問題はないようです。シュンくんが心を許している唯一の人物のようなので、彼も安心でしょうから』
 「一応訊いておきますが、彼女はシュンと、その......」
 『恋人同士か?』年下の上司は、私が躊躇った問いを正確に当てた。『いえ、どちらもそういう感情はないようですね。臨床心理士によると、擬似的な姉弟、というところらしいです』
 「ついでに訊きますが」私は少し離れた歩道にいるシュンをちらりと見た。「彼は何者なんですか」
 『何者、とは?』
 「加々見シュンに接触した途端、ショゴスが襲ってきた。彼を苛めているグループの一人に擬態してまで。侵入を探知される心配のないロングスリーパー個体、しかも知性ありのショゴスなんて、敵にとってもかなり貴重な存在で、使い捨てにできるはずもない。それをわざわざ送り込んできた。そこから逃れて話をしようとしたら、今度はトゥチョ=トゥチョ人が襲撃してきた。数時間で二度も奉仕種族に遭遇するなんて、偶然とは思えませんがね。単に優秀なPO(プログラミング・オペレータ) 候補というだけではないのでは?」
 『残念ながら、ミスカトニックからのレポートには、プログラミングスキルのことしか記載されていませんでした。ですが、台場さんの疑問はもっともです。確かに普通ではない状況だと言わざるを得ません』
 「......」
 『とはいえ、ミスカトニックが1 から10 まで全ての情報を開示するわけではないことも、ご存じでしょう。旧支配者にとって時間が意味を持たないように、ミスカトニックも数年、ひょっとすると数十年先に成就する計画をいくつも動かしています。シュンくんもその一つかもしれません。まあ、彼が優秀なプログラマだというのは確かです。当面は、それで十分ではないですか』
 「......わかりました。それで横浜ディレクトレートへは、どのルートで行けばいいんですか」
 佐藤管理官は、少しの間、近くの誰かと相談した。
 『みなとみらい駅は封鎖されています。みなとみらい線の新高島駅から入ってください』
 「警護は?」私は不安から、というより、うんざりした気分で訊いた。「ショゴスやらトゥチョ=トゥチョ人やらに道を塞がれるのは、もう飽き飽きなんですがね」
 『ご心配なく。ソード・フォースが二個分隊、すでに周囲を固めてますから』
 「そっちに移送を引き継いでもらった方が確実では?」
 『暴力と兵器が専門のごつい奴らじゃ、シュンくんもナナミさんも警戒しますよ。彼は人間関係を築くのが決して得意な方じゃない。せっかく台場さんとの間に信頼関係が構築されつつあるんです。その状態を維持したまま連れてきてください。Python の話でもしながら』
 「......また連絡します」
 私は振り向き、喧噪に包まれたクイーンズスクエアを見やった。ランドマークタワーとクイーンズスクエア付近は、車を出すどころか、近付くことさえ難しい状態だ。乗ってきた車は地下駐車場に置きっ放しにせざるを得ない。後でアーカムの誰かが回収するだろう。駐車料金は膨大な額になるだろうが、少なくとも払うのは私ではない。
 新高島駅まで徒歩で移動することを告げると、シュンが何かを思い出したように私を見た。
 「遅くなるようなら施設に連絡しておかないと。門限が......」
 「それは心配しなくていいわ」サチが優しく言った。「もう連絡済み。安心して。トラブルだとかそういう話はしていないから」
 実際には、文部科学省の事務官の名で、次世代プログラミング教育策定ワーキンググループのアドバイザとして、シュンに話を聞きたい、という内容が連絡されているはずだ。施設の職員が検索したり、問い合わせても問題ない。そのワーキンググループは実際に存在しているからだ。
 サチが先に立ち、シュンとナナミが続き、私がしんがりをつとめた。半径50メートル以内に、ソード・フォースの隊員たちが油断のない目を光らせてくれているはずだが、万が一ということもある。自己犠牲の精神、というほどおこがましいものではないが、少なくとも年端のいかない子供の前に立つのは大人の役目だ。
 「あの」シュンが振り向いた。「仕事って言ってましたけど、ぼくは具体的に何するんですか」
 口調が丁寧になっていた。一人称も俺からぼく、だ。公園で絡んできた同級生や、私たちに対する威嚇的な言動は、シュンなりの対人折衝スキルなのだろう。
 「もちろん」私は足を早めてシュンに近付いた。「プログラミングだ」
 「Python?」
 「Java もあるんだが、最近はPython に移行しつつあるよ」
 「AI とかやるんですか?」
 「そういう最先端系じゃないな。どっちかといえば、地味で面倒なことが多いか」
 「ちょっと」ナナミが割り込んだ。「シュンをさっきみたいなことに巻き込むつもりなら......」
 「そんなことはない。さっきのプログラムだって、これから行く横浜ディレクトレートにいるPO......プログラマが組んだものだ。安全な場所だ。これ以上ないぐらい、安全だと言ってもいいぐらいだ」
 自分が口にしている言葉を、本当に信じられたらどんなにいいことか。
 「ふーん」私の口調に疑念か逡巡を感じたのか、ナナミは疑わしげに私をジロジロと見た。「とにかく、この子はまだ中学生なんだから、少しは配慮してください。それはそうと、さっき、言いかけてたことですけど......」
 「何だっけ」
 「多世界解釈の話」
 「紐状多世界理論か。私は文系のエンジニアだから、詳しい理論まで理解しているとは言えないんだが」
 アーカム・テクノロジー・パートナーズに転職したときに受けた一連の講義によれば、宇宙というか、この世界は大きな泡や球ではなく、複雑な形状をした無限の長さを持つストリング、つまり紐状になっていると考えられるそうだ。同様の世界は無数に存在していて、絡み合いながら大きなストリングを構成し、それがさらに大きなストリングを構成する、といった具合に無限の連なりが続く。縒り合わさったストリング同士は、部分的に接触していて、相互に影響を与えうる。実際の講義はもっと複雑な話だったが、私には一割も理解できなかった。
 「でも」ナナミは顔をしかめながら反論した。「多世界解釈だと、それぞれの世界が干渉するとか、互いの存在を知ることさえ不可能だって......」
 「道端でそう大きな声を出すな」
 周囲には仕事を終えたサラリーマンやOL が大勢歩いている。私たちと同じように、みなとみらい駅に入れず、新高島駅か横浜駅まで歩くのだろう。ナナミは初めて周囲の人混みに気付いたように口をつぐんだ。代わりにピンクシルバーのスマートフォンを取り出して、せわしく指を動かし始める。
 「一般の研究者には知られていない理論らしいから、ググっても出てこないよ。詳しい話が聞きたきゃ、アーカムで誰かが話してくれるはずだ」
 記憶を消されて追い出されなければ、と私は心の中で付け加えた。
 「あの」話を中断されたシュンがナナミを押しのけた。「地味で面倒って、どういうことですか」
 「今までプログラムはたくさん作ってきたんだよな」
 私の質問に、シュンは頷いた。
 「毎回、違うものを作ってきたんじゃないか?」
 「はい、そんな感じです。ゲームとかツールとか」
 「違うことやるのは楽しいよな。でも、うちの仕事は、ほとんど同じで細かい部分が少しだけ違うようなプログラムを、何度も繰り返し作ることになる。それに作ったら終わりというわけにはいかない。複数の目でチェックして、承認されないと動かすことができないんだな。まあ、控えめに言っても地味で面倒だ」
 「......」
 「それから、たぶんこれもやったことないと思うが、基本的にペアプロになる」
 「ペアプロって?」
 「ペアプログラミング。二人一組で、一つのソースを書くんだ」
 「二人一組ぃ?」またナナミが割り込んだ。「何それ。ピアノの連弾みたいにキーボードを二人で使うってことですか?」
 「そうじゃない。一人が入力して、ペアはそれを見ながらミスを指摘したり、方向性を助言したりするやり方だ」
 「ぼくは誰かと相談したりするのは苦手なんですけど」シュンは自信なさそうに言った。
 「大丈夫。すぐ慣れ......」
 「あの」不意に私たちの前を歩いていたサチが歩調を緩めた。「何か人が多くないですか?」
 「通勤時間帯だからな。同じ方向に歩いてるし」
 「でも」サチは声を潜めた。「私たちの周囲だけ多いような気が......。それに、ちょっと変な臭いがしませんか」
 私は空気の匂いを嗅いでみた。シュンとナナミも同じ動作をする。確かに少し生臭い。言われてみれば、少し前から感じていた気がする。前日の雨で湿度が高いのと、周囲の人々や私たち自身の体臭だと無意識のうちに無視していたらしい。
 不意に前方を歩いていたスーツ姿の男性が立ち止まると、くるりと振り返り、私たちの前方に立ち塞がった。賞味期限切れの魚類のような臭いが鼻を突く。とっさに後退しようとしたが、後方からも同じ臭いが押し寄せてきた。後ろを見ると、同じようなスーツ姿の二人の男性が立っている。左右にも同様の服装の男女が立っていた。
 「インスマウス......」サチが息を呑み、シュンとナナミを背後にかばった。
 「こんなところで」私は罵るとインカムに呼びかけた。「オペレータ、インスマウス人に遭遇した。ソード・フォースは......」
 『台場さん、落ち着いてください』佐藤が応答した。『すでに察知しています。周囲にインスマウス人が14 人。全員の頭部にスナイパーが照準設定済みです』
 「......もっと早めに知らせてもらえませんか」
 『すみません。判明したのが30 秒前で、先にソード・フォースに対応を取らせていたので』
 「どうすればいいんですか」
 『敵対行動を取るつもりではないようです』
 「奉仕種族ですよ」私は噛みついた。「仲良く話でもしろってんですか」
 『そうです。何か言いたいようですから。大丈夫、指一本でも触れそうなら、即座に射殺します』
 私は目の前に立っているインスマウス人に視線を向けた。頭が薄く、顔のパーツが妙にのっぺりしている。知識があれば、両生類のような口元や、目と目の間隔がやけに広いことに注目できるだろうが、知らなければちょっと珍しい顔立ちの人だ、ぐらいにしか思わないだろう。インスマウス人は旧支配者の従者が人間と交合した種族だと言われていて、水中での生存・活動が可能である事以外は、体力も知能も人間と変わりがない。
 「おい」私は慎重に呼びかけた。「悪いが急いでる。用事があるなら早めに言ってくれ」
 そいつは私をじっと見つめた。敵意や害意がないことを示すためか、両手はだらんと垂らしていたが、私は警戒心を緩める気にはなれなかった。
 「我々は」低い声がインスマウス人の口から漏れた。「コミュニケートを希望する」
 「コミュニケート?」私は訊き返した。「どういう意味だ」
 「そのままの意味だ。その」そいつの視線が、私の後ろに移動した。「子供についてだ」
 「この子が何だ」
 「お前の組織と、我々との間で、その子供について協議すべきだ」
 「意味がわからんな。なぜ協議が必要なんだ」
 「意味がわからないお前と話しても意味がない。シャイニングTについての協議を希望すると上に伝えろ」
 そう言い捨てると、インスマウス人は私たちに興味を失ったように目を逸らして背を向けた。同族たちも離れていく。同時に周囲に漂っていた魚の臭いも消失し、生暖かい7 月の夜の空気に戻った。
 「聞こえましたか」
 『聞こえました』佐藤が応えた。『なかなか興味深い』
 「説明してもらえるんでしょうね」
 『いずれ。必要があればね。急いで戻ってきてください』

 ◇ ◇ ◇

 新高島駅周辺はクイーンズスクエア周辺に負けないぐらいごった返していた。急行が停車しない駅で、大人数の利用を想定していないのに、後から後から途切れることなく人が押し寄せているためだ。改札は入場制限がかかっていたが、私たちは列に並んだりせず、通路の一部に偽装されているドアからこっそり入った。狭いエレベータで10 メートルほど降りると、舗装された一車線の地下通路に出る。用意されていたのは4 人乗りの電動カートだ。
 「乗ってくれ」
 私は指示した。ここで飛び降りたとしても、どこにも行けないので、今回は席を指定しなかったが、結局、車と同じ配置に落ち着いた。
 運転席に座った私は、生体認証でコンソールにログインした。バッテリーがフル充電されていることを確認し、スタートボタンを押す。システムチェックルーチンが走った後、カートは時速15 キロでゆるゆると動き出した。横浜ディレクトレートまで30 分ほどだ。
 カートは基本的に自動運転なので、ドライバーといっても緊急時に非常停止するぐらいしかやることがない。私はさりげなく隣に座ったシュンの様子を確認した。黙って何かを考えているようだ。さっきのインスマウス人の声は大きくはなかったが、シュンに聞こえないほどでもなかったので、自分についての話であることは理解できたはずだ。何か心当たりがあるのか訊いてみたいところだったが、私は我慢した。ナナミがいる場所で、そんなセンシティブな話をしていいのかどうか自信がなかったからだ。
 そのナナミは、最初のうちはシュンを気遣う言葉を発していたが、すぐに私に関心を切り替えてきた。
 「さっきの変なやつら何?」
 「あれはインスマウス人」サチが答えてくれた。「普段は人間社会に紛れ込んでいるの。案外、普通にバイトしてたりするみたいね」
 「あんな臭いしてたら、一発で危ないやつ認定されそうだけど」
 「日常生活しているときは隠してるのよ。素に戻るときに、ああなるみたいね」
 「つまり、ああいうのがいっぱいいるってこと?」
 「いるわね」サチは認めた。「想像する以上に」
 「どうして放置しとくんですか。片っ端から駆逐すればいいのに」
 「いろいろと事情があってね」
 実際、人間に紛れている奉仕種族はたくさん存在している。大部分は都市部から離れた閉鎖的な地域社会などに分布しているが、さっきのインスマウス人のように、大都市で人間と変わらない生活を営んでいる場合もある。そのような種族をアーカムが放置している理由は博愛主義などではない。一部を狩るような拙速が、残りの一斉蜂起を引き起こすことを懸念しているからだ。それにSPU からの侵入を完全にシャットアウトしない限り、また別の種族が送り込まれてくるだけだ。
 「我々の仕事には」私は補足した。「ああいう奴らを、これ以上増やさないようにすることも含まれる」
 シュンが顔を上げた。
 「プログラミングで、ですか?」
 「プログラミングでだ」
 「意味わからない」ナナミが口を尖らせた。「どうしてプログラムが関係してくるんですか。特殊部隊とかエスパーとか霊能力者の出番は?」
 「それは前世紀までの話だ。現代では、アーカムの主要戦力はプログラマで、最大の武器はプログラムなんだ」
 「どういう意味ですか」
 「プログラムは曖昧さのないロジックだからだ」
 シュンとナナミは顔を見合わせ、複雑な表情を浮かべた。混乱しているらしいが無理もない。私自身、この話を聞かされたときには、何か壮大なドッキリを仕掛けられているのかと疑ったぐらいだ。
 「唐突な質問だと思うが、君は現実って何だと思う?」
 シュンは目をしばたかせ、ナナミと顔を見合わせた後、首を傾げた。
 「現実ですか......目で見えるもの、手で触れるもの、でしょうか」
 私は少し笑った。
 「私もその質問をされたとき、同じことを答えたよ。他に言いようがないよな。たとえば、今日の夕食は何、と訊いたとき、穀物と野菜と肉と香辛料、と答えが返ってきたとする。その状態で、夕食のメニューが何なのかわかるか?」
 「カレーライス?」シュンは答えたが、すぐに頭を振った。「あ、そうとは限らないですね」
 「タンメンかもね」ナナミが言った。「せめて穀物が米か小麦粉かぐらいヒントがないとわからないじゃないですか」
 「じゃあ、香辛料がカレー粉だと判明したらどうだ」
 「そりゃカレーですよね」
 「カレーうどんかもしれないし、カレーまんかもしれない。カレー風味のケバブサンドかもしれない。自分で言っただろう。米か小麦粉かわからないって」
 「......」
 「結局、材料だけいくら詳しく訊いたところで、実際にテーブルにつくまで、夕食のメニューを確定することはできない。百聞は一見にしかず、というわけだ。テーブルについて皿の上に盛られた料理を見て、カレー南蛮だった、とわかる。つまり観測できるものだけが、現実だと言えるんだな」
 「じゃあ、目に見えるもの、という答えが正解ですか」
 「そうだ、と言いたいが、まだ先がある。今のは、1 未満の数値が1 になっただけだ。1 以上の場合を考える必要がある」
 「......でも、カレー南蛮はカレー南蛮ですよね」シュンは自信なさそうに言った。「それ以上の何があるんですか」
 「曖昧さの排除だ」
 「?」
 「今、君の目の前に、カレー南蛮だ、と言われた丼が置いてあるとする。それが本当にカレー南蛮だと証明しろと言われたらどうする?」
 「そりゃあ」シュンは肩をすくめた。「食べてみますね」
 「食べてみて、カレー南蛮だと証明できるか?」私はシュンの答えを待たずに続けた。「できるはずがないよな。君に限らず誰にもできない。カレー南蛮の明確な定義が存在しないからだ。年間600 食はカレー南蛮を食べるというカレー南蛮オタクだったとしても無理だ。彼がカレー南蛮だと断言したところで、それは彼の主観でしかないからな」
 「なんかカレー南蛮が食べたくなってきた」ナナミが呟いた。「あれ、カレー南蛮ってうどんだっけ、ソバだっけ?」
 「それでも、私たちの間には、カレー南蛮がこういうものだ、という漠然とした定義が存在している。その定義がどこから生まれたのか、というと、多くの人間の手でカレー南蛮が作られ、食されてきたことによる積み重ねによって、曖昧さが少しずつ排除されてきたからだ。カレーうどんとカレー南蛮の違いは何なのか、ナナミが言ったように、ソバなのかうどんなのか、という細部を多くの脳が認識することによって、ある種の定義が形成されてきたわけだ。ちなみに、ソバでもうどんでもカレー南蛮だよ」
 「あ、そうですか」ナナミはどっちでもいい、というように鼻を鳴らした。「で、結局、何が言いたいんですか」
 私が答える前に、考え込んでいた表情のシュンが小さく手を挙げた。
 「つまり、それがカレー南蛮における現実ということですか」
 「すごいね、シュンくん」サチが小さく拍手した。「私、この話を聞いたとき、理解できるまでもっと時間かかったよ」
 「そういうことだ」私も誇らしい気持ちになりながら言った。「それをReality Rate、つまり現実度と呼んでいる。RR と略しているんだが。我々の敵がやっているのは、彼らにとっての現実度を、この世界で上げることなんだ」
 「現実度をですか」
 「SPU からの侵略は過去からずっと継続して行われていたが、それは主にさっき見たようなショゴスなんかのクリーチャーを、こっちの世界に闇雲に送り込んで、実働部隊を増やすという方針だった。アーカムの対応も同様だ。送り込まれたクリーチャーを物理的に殲滅してきた。古くは呪術や魔術、近年では科学技術や軍事力によってな。ところが、21 世紀に入ってからは、敵のやり方が大きく変化してきた。物理的な戦術から、情報戦へとシフトしたんだ」
 シュンとナナミは、意味がわからない、と言いたげな顔を見合わせたが、私は構わず続けた。そろそろカートが終点に近付いてきていたからだ。
 「簡単に言うと、SPU がショゴスなんかのクリーチャーを送り込んでいるのは、破壊工作が目的ではなくて、その存在を多くの人間に目撃させることにあるんだ。目撃する人間が多ければ多いほど、そのRR が上昇し、RR が上昇すれば、ショゴスがこの世界に存在することを認めてしまうことになる」
 「ショゴスが現実になる?」
 「そうだ」シュンの理解度の早さに、内心舌を巻きながら、私は頷いた。「対抗できるのは、それ以上に現実度が高い武器しかない。それがプログラムだ。しっかり書かれたプログラムには、曖昧さがないからな。a = 1 と定義されたら、a は1 以外の何者でもない。カレー南蛮なのかカレーうどんなのか、というように悩む要素がないだろう。美しく無駄なく記述されたロジックこそ、最大の兵器なんだよ」
 シュンは何度も頷いた。
 「意味が掴めました。仕事というのは、きれいなロジックをプログラミングする、ということなんですね。その、敵の侵入を防ぐために」
 「そうだ。ペアプログラミング体制なのも、多くの目を通すことによって、ロジック自体のRR を上げるためだ」
 「いろいろわかりました」シュンは、私たちが出会ってから初めて、心からと思われる笑みを見せた。「でも、一つだけわからないことがあるんですが」
 「何だ?」
 「カレー南蛮とカレーうどんの違いって何ですか?」
 思わず苦笑したとき、カートが電子音とともに減速しはじめた。前方にプラットホームが見えている。
 「到着した」私はコンソールを操作した。「話の続きはまた後で」

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(5)

コメント

yupika

面白い!出し惜しみなくインスマス顔の人たちまで出てきました。
そしてここから本部まで読んでる側は退屈な時間になるのは明らかなところで、カレー南蛮のくだりの会話劇の差し込み、最高です。
主役の子はターミネーター2みたいに未来の救世主なのか、謎が増える展開楽しみです。

Edwin M. Lillibridge

毎週この為だけに月曜日を待っています
狂おしいほど好きです

mo

ここまで設定が作りこまれていた上で、今までの短編や読みきりがあったとは・・・。
リーベルGさんさすがです。好きな人には堪らない世界観ですよね!
zの世界とも繋がることはあるのかしらと勝手に楽しみにしています。

atlan

この手の料理での「南蛮」はネギの意味らしいけどカレーうどんだってネギ入ってるの多いから確定的な判別は出来ないよなぁ

わわ

今日の晩ごはんはカレー南蛮だよ
カレー南蛮構成クラスをNEW
肉に牛肉、麺にうどん、野菜リストにネギとにんじん、スパイスにカレー粉と香辛料ABC、その他クラスに餅と油揚げ
これで今日の晩ごはんのカレー南蛮の具材のRRは70%
みたいな?

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