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安全と安心の神話

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いつのころからか「安全」と「安心」は「安全安心」とセットで取り扱わ
れることが多くなった。

最近でも「安全安心な五輪の開催に向けて云々」というフレーズをよく耳
にする。ただ「安全」が科学的根拠を元にした客観的な評価であるのに対
し、「安心」はあくまで主観的な評価である。以前は「安全であることは
当たり前。加えて皆様に安心していただくよう努力してまいります」とい
う様に「安全」は必達条件で「安心」は努力目標として使われていたよう
に記憶している。「安心」は主観的なものなので全員が安心するためには、
ゼロリスクを証明するしかない。複雑系の問題のなかでゼロリスクを証明
することは悪魔の証明だ。

その様な中、先日、アストラゼネカと米モデルナの両ワクチンへが国の承
認を得た際に、承認はしたものの血栓のリスクがあるためアストラゼネカ
の接種は見送られたという記事に、「日本人は安全よりも安心を優先する
傾向にある」というコメントを見つけた。ファイザーを含めて3社のコロ
ナワクチンは他のワクチンに比べて優秀でリスクとベネフィットを比べた
ら摂取する方が安全なのに。という内容だった。

ワクチンの評価は置いといて、「日本人が安全より安心を優先する傾向に
ある」という意見には同意を感じるところもある。もしかすると「日本人
は絶対評価より相対評価を優先させる傾向にある」と言った方が正しいの
かもしれない。安全がゼロリスクではない限り、リスクとベネフィットの
トレードオフで評価される。その際に必要になるのが絶対物差だ。その物
差を使えば誰が測っても結果は同じになる。一方で安心は主観的なものだ
が、自分が何によって安心するか、という評価の物差に日本人は相対物差
を使ってしまう。例えば以下のような感じ。

・子供のテスト80点だったけど、友達の○○ちゃんが90点だったので心配
 だ
・健康診断のコレストロール値200だったけど、同期の○○は300って言っ
 てたから安心だ

日々流れてくるマスコミのコロナ報道も新規感染者や人出が、先週の同じ
曜日に対して増えた減ったという報道が中心である。また、会社の会議な
どでも数字の前年度比較が中心となっていたりはしないだろうか。
相対物差が悪いと言ってるわけではない。事実を正しく知るためには相対
評価も必要である。

昔、「安全・安心な社会の実現に向けて」という話を聞いたことがある。
その方は、「安全・安心とは、充分に安全を確保したうえで、その安全性
を皆様にきちんと説明することで納得、安心していただけること」と説明
していた。それは正しいと思う。「安心」とはゼロリスクにすることでは
なく、相互理解により相手に状態変化を起こすことだ。当然、安心する側
も聞く努力、理解する努力が必要不可欠である。

いつのまにか「安全安心」は修飾語になってしまった。「安全」と「安心」
でもなく「安全安心」と1語にまとめられたことで、本来の意味が失われ
飾りになってしまった。これは大いなる懸念である。

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