いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

デマ上等

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デマの真偽じゃなくデマが前提だ

久々にコラムを書いたと思えば、衝動に任せて人のコラムに全力でツッコミを入れる。私は本当にタチの悪い人かもしれない。何で突然、こういうコラムを書いたのか。理由はない。タダのノリと勢いだ。ぶっちゃけて言うと、どれが本当でどれがデマか、ウジウジ考えるのも時間の無駄だ。だから考え方でやり飛ばそう。

まず、情報を仕入れる媒体から吟味する。これはもう、それぞれの経験則で判断して構わないが、例えばYahooニュースだったら何割がデマというのを、ある程度前提にして情報を見ていこう。いちいち白黒つけようとするから迷うのだ。そもそも、白黒付けたところで結論が「へー。」の一言で済んでしまう程度の情報も多い。

個人的には、事実とかけ離れた情報でも100人が信じれば真実として伝わる。そして、100人が真実でない情報を元に行動する。そう思っている。なので、どれだけ多くの人が見ているからという基準はあまりあてにしていない。また、時間が経って新事実が発覚すれば、今までの真実がデマになってしまうこともある。情報なんて、条件次第でいくらでも覆るのだ。

結論を先に言うなら、デマ云々騒ぎたいなら好きにしろ。入ってくる情報が何であれ、最終的にどういう結果に結びつくかはあなたの行動次第だ。正解の情報が入れば成功するというほど単純なものでもない。また、間違えた情報を元に新たな気づきを得て、大きなチャンスを掴むことだってある。情報の間違えているか正しいかを過剰に気にするのは、裏を返せば損をすることに対しての不安だ。間違えた情報より、不安で判断を間違える方が遙かにリスクが大きい。

理論指向を全面否定する

「理論的に考えればデマなんか見分けが付く」云々言う人に対しても全面否定しておきたい。理論的になるだけで世界の真実が掴めるとでも思っているのだろうか。それはおこがましい。十年前のPentium® Ⅲ 500Mhz で最新のCGが処理できると思うレベルで無知だ。理屈だけでいけば、時間さえかければ同じことはできるはずだ。しかし、その時間が長すぎて使い物にならないのが現実だ。読者の方が何歳か知らないが、「歳の分だけ脳みそは旧式のポンコツだ」くらいに考えとけ。その方が身の丈に合った思考ができる。

まず、人間の理性の脆弱さを知ろう。どんなに理論的に考えようとしても、綺麗なおねーさんが「こっちおいで、ウッフン♪」するだけで、簡単に理性なんて吹き飛ぶ。綺麗なおねーさんに興味が無かったとしても、札束でほほを叩くだけで地平線の果てまで理性が吹き飛ぶ人もいる。人それぞれ、脳みそに欲望という名の重大な脆弱性を抱えている。理論の絶対さを説きたいなら、煩悩を全部遮断してから出直してくれ。

デマに踊ってしまう原因の大半は不安と興奮だ。不安だからあれこれ考えて思考がループする、センセーショナルな情報に興奮して知性が吹き飛ぶ、だいたいがこの二つに当てはまる。理論的に考えようとすればするほど、自分の感情には疎くなりがちだ。理論の対局が感情と考えれば、当然そうなる。だから、理論的な人ほど感情が盲点になりやすい。感情的な人の盲点が理論になりやすいのと同じ原理だ。

仮に理論でデマを全面的に回避できたとしよう。それでも、判断をするのに十分な情報が手元になければ、理論で分析することはできない。理論というのは、手元にある情報でしか判断できないという欠点がある。なので、手元に陳腐な情報しか無い人は理論的に考えたとしても正解にたどり着けない。また、手元にある情報が間違えていれば、間違えた情報を元に間違えた理論を組み立てる。理論に頼るなら、そういう理論の脆弱性を知った上で活用しよう。

インターネット繋げた時点で負け決定

デマ云々言うなら、本屋行って本を買ってくれ。少なくとも、本一冊分の情報を体系的にまとめているので、インターネットよりも内容の真偽は判断しやすい。とりあえず、一冊の本を理解した上で次の本を読むというサイクルを維持していけば、体系的な知識を身につけていける。ネットの海に溺れて半狂乱になることもないだろう。情報をかみ砕かずに大量に取り入れると、消化不良を起こしてデマに踊る羽目となる。

このコラムでもおなじみだが、ネットにはクソみたいなコメントを付ける人がたくさんいる。ああいうノイズが多いので、事前に準備やら対応方法を決めておかないと限りなく流されることになる。ああいうマヌケに理論もクソもへったくりも無い。むしろ、デマをバックにブレイクダンスを踊って楽しんでるくらいのノリだ。ああいうマヌケに同調した時点でまともな思考はできなくなる。インターネットにはそういう罠もある。

デマに翻弄されたくなければインターネット使うな。老人方はそういうふうにしている。ある意味賢い。デマか真実か迷うのは、真偽の判別のつかない情報をネットから大量に仕入れるからだ。当たり前だが、処理すべき情報が多いほど判別に時間がかかる。処理しきれないほどの情報を入れて、どれが正しくてどれが間違えているかを迷うのは、自業自得としか言いようがが無い。

インターネットを使う利点は、多くの情報を手早く入手できることだ。インターネットを使う欠点は、その情報の質が保証されていないことだ。この利点と欠点は対なので、都合良く利点だけを享受したいというのは虫の良い話だ。インターネットを使う利点の恩恵を得たいなら、欠点も受け入れた上で使ってくれ。都合良く利点のところばかりフォーカスしているから、「何でだ!何でだ!」と永遠ループで悩むことになる。

行動に移せコンニャロウ

もう、デマとか云々抜かしてないで行動に移せと思う。どんな情報を入れようと、最終的な真偽は自分の価値観で決めることになる。情報ばかり取り入れてウダウダやってても、無駄に時間を浪費するだけだ。そんなに気になるなら、本屋にでも行って本買って勉強しろ。ただし、どうあがこうと自分の脳みその処理能力を超えるような情報は入ってこないし、入ってきたとしても理解できない。入ってくる情報の量も質も、結局は自分次第だ。

現代社会では、情報を入手する手段は発達したが、情報を捌くノウハウは誰も教えてくれない。インターネットの利便性は高いが使い方を間違えるとリスクも大きい。使い方を間違えると、自分で得た情報に自分で翻弄されてしまう「自爆」をやってしまう。デマに翻弄される人ほど、垂れ流しな情報に突っ込んでいく傾向がある。まずは、垂れ流しな情報をいったんストップして、手元にある情報を整理すべきだ。

デマ云々言う人に言っておきたい。情報を粗末に扱い過ぎだ。得たいだけ得られるからといって、衝動的に情報を仕入れまくってないだろうか。そういうことをやっていると、よりインパクトの強い情報ばかりを求めるようになって、考える力が衰えていく。結果、色々思うことはあったが、何に対して何を思ったのかが思い出せなくなる。つまり、思考がまとまらなくなるのだ。こうなったら、インパクトの強い情報にただ流されるしかできなくなる。

情報は受け手によって価値が変わる。デマと言っても、読んで楽しかったり、発想を広げる材料に活用できたりする。むしろ、そのくらい想像力豊かにデマと関わってもいいのではないだろうか。情報をどう活用していくかはそれぞれの力量しだいだ。そもそも、デマを踏んだくらいでプリプリするな。それとも、デマ一つ無い潔癖な世界を望んでいるというのか?つまらなすぎて発狂するぞ。心のどこかでデマを望んでるから、デマというのは拡散していくのだ。

真偽をグダグダ抜かすより、間違えた情報ともうまく付き合っていく方法を見抜こう。

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