【小説 愛しのマリナ】第二十五話 僕が漫画を描く理由
瀧書房が入居しているビルから五百メートル程は離れた場所にある橋。
そのたもとに、森本は佇んでいた。
「森本~早まるな~!」
慶太は森本に声を掛けた。
その森本は振り向きもせず、川の流れをじっと見つめている。
「いい気味だって、思ってるでしょう」
慶太の方を見ず、森本は苦笑いしながら言った。
慶太は慰めの言葉を見つけることが出来なかった。
「そうでしょうね。僕は才能ないですよ。薄々気付いてはいました。でもこれに縋るしかなかった。漫画が大好きだったから」
「俺は、お前の漫画の絵は好きだけどな」
(しまった)
言ってみて、フォローになってないと気づいた慶太は、顔を赤らめて下を向いてしまった。
「よいしょ」
森本は慶太の不意をついて、橋の欄干に足を掛けた。
「やめろ~!」
「は?」
森本は単に、欄干に腰掛けただけだった。
足をぶらぶらさせている。
表情はいつもの飄々とした、職場での感じに戻っていた。
「これでもまだやりたいことあるんですよ。死ぬわけないじゃないですか」
森本は呆れたように答えた。
「驚かすなよ......」
橋を渡り切った先にある公園の柱時計は、十一時を示していた。
今頃、自分と森本が来ないことで、職場から社長に連絡が行っているかもしれないなと、慶太は思った。
「お前は、何で漫画を描くのが好きなんだ?」
慶太が一番訊いてみたかったことだった。
「僕は小学校の頃、いじめられっ子になりそうでした。その危機を救ってくれたのが漫画でした」
「ふむ」
「スポーツも出来ないし喧嘩も弱かった僕は、クラスメートのリクエストに応えて漫画を描くことで、皆から一目置かれる存在になりました。力が強い奴の好きな漫画のキャラクターを描くことで、気に入られました。だから、僕は漫画に助けられたのです」
その頃から漫画を描くことが楽しくなり、いつか漫画への恩返しも込めて漫画家になろうと決めたそうなのである。
慶太は、その話を聞いて罪悪感を感じた。
そんな思いを打ち砕いてまで、仕事に向かわせようとしている自分に。
だが、それを振り切ってこう言った。
「俺はおまえが羨ましかったぞ!」
慶太は自分と逆の才能を持つ森本を羨んでいたが、今はそうでは無かった。
「え?」
「おまえはエンジニアの才能があるのに、それを大したことも無いと思って過ごしてるだろう。それが俺にとっては羨ましかったし、腹も立った」
「そうだったんですか?」
森本は自分の才能にも気付いていなかったし、自分のペースでただ仕事していただけなのだ。
決して、慶太を嫉妬に狂わせようとしたわけでもなく、あくまで自分がやりたいようにやっていただけなのである。
だが慶太はもう、嫉妬も悲しみも、全て通り越して、同じ境遇の人間を思いやるしかなかった。
「森本」
慶太はひときわ大きな声で呼びかけた。
まるで卒業式の呼びかけのように。
「お前が必要だ!」
突然そう言われて、森本はきょとんとしている。
そう言うと同時に慶太は思った。
(だけど俺は......このプロジェクトに居られるのだろうか?)
自転車で二人の横を通り過ぎたおばさんが、何事かと思わず振り返る。
「今のプロジェクトにはお前の力が必要なんだ!」
「......そうですね、負けたほうは言うことを聞くんでしたね」
森本は寂しそうな眼を、太陽に照らさて白く輝く水面に向けた。
水面が風で揺れた。
そこに映った太陽が崩れていく。
その上をカモがスーッと通り過ぎて行った。
「漫画は諦めます」
森本は心の中で何かが吹っ切れたかのような、すっきりした顔で言った。
「諦めることはないよ。しばらく仕事して色んな人を見ろ。それがきっとまた漫画を始めるときに役に立つ」
森本にこんな月並みなアドバイスが役に立つとは思えなかったが、慶太は何か言わずにはいられなかった。
「そうですね、今のプロジェクトは大沢さんをはじめ、面白い人たちの宝庫ですもんね」
何だか晴れ晴れとした表情の森本は、慶太に向き直るとそう言った。
そして、先に立って歩き出した。
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十二時前に職場に戻った二人は、特に遅れたことを咎められることは無かった。
何と言っても、荒川がいないのである。
そのせいでうるさく言う者がいないということもあった。
「大沢さん、ですよね?」
遅れた分を取り戻そうと、慶太は職場で仕事をしていると、声を掛けてくる者がいた。
慶太はその男を、この開発室で一度も見たことが無かった。
他のメンバーも面識が無いらしく、その男に誰も声を掛けない。
首に下げられた名札を見ると、
「グローバルソフト興業 第一システム部 部長 宮川」と書かれている。
親会社の人間がブレインズ情報システムを飛び越して、自分に一体何の用だろうか? と慶太は思った。
田中や堀井、そして森本が不安そうに見ている。
「ちょっと来てくれますか?」
何か、連行されるような気分で、不安になる。
(もしかしたら......先日のあの出来事がバレたのか)
心に不安がよぎる。
隣で森本が心配そうな顔をして見ている。
荒川がいないのはもしかして......
(100%、バレている)
慶太はそう思った。
久米が罠を仕掛けたという証拠がつかめていない以上、従うしかなかった。
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別室に連れていかれた慶太は、先に荒川が着席しているのを認めた。
うつむいたまま青ざめている。
それは哀れな子羊を思わせるようだった。
慶太と荒川が座っている向かいの席には、宮川と久米が座っている。
「今週の日曜日のことなんだが、お客さんの本番データが一瞬おかしくなったという、内部からの報告があった」
宮川は、慶太と荒川を交互に見ながら言った。
やはり、来た。
これで呼ばれたのだ。
事情聴取が始まる。
「今週の日曜日夕方五時くらいかな。久米君が、お客さんのところでデモをしていた時、データが一瞬消えたのだ。その後、改ざんされたデータが出力された。すぐに元に戻ったが」
慶太は荒川の方を見た。
顔が青ざめている。
「で、調べたところ、その時間帯に荒川と大沢さんが作業している履歴が保守端末に残っていた」
久米が報告したのだろう。
保守端末の履歴の話は、この前ドリンクコーナーで久米が言っていたことと同じだ。
「作業としては、この日予定されていたのは教育環境データベースのメンテナンスだったね」
「はい......」
荒川は目が泳いだまま喋っている。
額に汗がじっとり流れている。
「このメンテナンス作業では教育環境の趣味データを変更するというのは聞いているが? そうかね?」
「はい......」
「では、何故? 本番環境の趣味データが一瞬新しくなったのかな?」
「それは......」
荒川は言葉に詰まった。
教育環境に接続されるはずの保守端末が、何故か本番環境に接続された。
それはこちらのせいじゃないにしても、どこに接続されているか確認するのを怠って作業していました......
何て言えないだろうと、慶太は思った。
「状況から考えると、君たちが保守端末から教育環境データベースでなく、間違えて本番環境データベースに接続して作業したとしか思えないんだよね」
宮川の推測が当たっているので、慶太はもう逃げ場がないと思った。
ただ、ずっと気になっているのは本来なら教育環境に接続される端末が、何故、本番環境に接続されるようになっていたか? と言うことである。
久米が罠を放ったとしか思えない。
だが証拠も何もない。
せめて、tnsnames.oraを確認出来ていれば......。
「教育環境に接続されるはずの保守端末で作業していました。そこから教育環境に接続したら、本番環境に接続されていたんです。そもそも、何でその保守端末が本番に接続されるんですか? 今回の事故は、こちらのせいだけではないはずです」
慶太は荒川が何も言わないので、身の潔白を表すために、思ったことをはっきりと言った。
「なるほど、こちらの予測通り故意じゃないにしても、本番環境に接続して作業したということだね」
荒川の顔が一層焦ったようになった。
言い訳を考えていたのに、慶太が本当のことをしゃべってしまった。
それを察した慶太はしまったと思った。
「何故、接続先を確認する部分を怠ったんですか?」
それまで沈黙していた久米が突然、荒川に向かって質問した。
久米は保守端末の設定がどうとかよりも、接続先の確認を怠ったことを問題にしようとしているらしい。
それは罠を放ったであろう久米自身のためでもあるということが、慶太には良く分かった。
「それは......」
返答に窮した荒川は、見ていて哀れなくらい苦しそうだった。
「まあ、お客さんの方が今回のことは大事にはしていないから、こちらとしては助かってはいるんですよ。データが一瞬変になっても元に戻ってるから」
宮川はそう言った。
「はい......」
荒川が一瞬安堵したような表情になる。
「ただ一番の問題は、この事故を隠し通そうとしてリカバリを行ったことだ。うちとしてもそこははっきりさせたい。お客さんの手前」
お客から許しては貰っているが、誠意を示すため内部での処分は検討したいようだ。
「黙って本番データのリカバリを企図し、実行したのは、お前か?」
荒川に問い掛ける。
「......いえ」
「では、誰だ?」
「そこにいる大沢さんです」
荒川は慶太の方を見ずに、男の方を見たまま言った。
「なっ......」
慶太は呻き声を上げた。
久米と目が合う。
目で何か合図しているようだ。
(荒川め......裏切るのか!?)
慶太はそう思った。
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「僕は、あなたの命令でこの作業をする。そこだけは、はっきりさせてください!」
「......分かった」
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(あの時、約束したじゃないか!)
慶太は久米が罠を仕掛けたことを証明出来ていない以上、荒川が本当のことを言ってくれなければ自分が死ぬことになると思っていた。
だが、荒川は裏切った。
「そうなのか?」
男は慶太の方を見て問い掛けた。
「いえ、私は荒川さんの指示でやりました」
「証拠は?」
「証拠?」
慶太は、この男が何を言っているのか訳が分からなかった。
証拠何てあるわけがない。
その場で、勝手に決めて進めたことだ。
議事録があれば見せてやりたいが、そんなものはない。
何度も、その時の状況と、荒川との会話の内容を説明したが証拠がないので、宮川は信じてくれない。
「どうにも、うちの荒川と、君の話が食い違うな。お互いそうじゃないと言っている。どっちを信じたらいいんだ?」
男は荒川の方に目を向けて、頷くと、
「よし、こちらに少し時間をくれ、こっちでも調査してみる」
そう言うと、二人を席に帰した。
つづく