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【小説 愛しのマリナ】第六話 勤続二十年

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 ビルの外まで追いかけようと思ったが、街の雑踏に紛れた土田を探す暇は無いと思った慶太は、開発室に戻ることにした。
 不意に尿意を覚えた慶太は、エレベータホールの横にあるトイレに寄ることにした。
 トイレに入ろうとしたら入口に「ただいま清掃中 使用可能です」という看板が立っていた。
 入口からトイレを覗き込むと、小便器を磨いている清掃員と目が合った。
 清掃員は朝エレベータホールに見かけた「外山」という名札を付けた六十代と思しき女性だった。
 
「あの、使っていいですか?」

 念のため、慶太は控えめに訊いた。

「ああ、いいですよ」

 外山は笑顔で答え、洗っていた小便器の場所から離れ、洗面台の清掃に取り掛かった。
 タイルばりのトイレの床は洗い立てて、水がまだ捌けていなかった。
 滑るのに気を付けながら小便器まで行き、深いため息とともに用を足す。
 洗面台まで行くと、先ほどの外山が洗面台の蛇口を磨いていた。

「ありがとうございました」

 真面目な慶太は挨拶を忘れない。そして、外山が磨いている隣にある洗面台で手を洗った。

「こちらこそ。わざわざお礼まで言ってくれてありがとうございます」

 それを聞いた外山はこう付け足した。

「なかなか、皆さん仕事に余裕がないみたいで、使ったらすぐ出ていく。こうやって挨拶してくれる人もいないんですよ」

 と、しみじみ言った。
 
「もうずっとこのビルで仕事してるんですか?」

 慶太はポケットからハンカチを取り出し、手を拭きながら訊いた。

「このビルが出来てからだから、もう二十年になるなあ......」
「すごいな!」
「趣味みたいなものですよ......」

 外山はそう言って自嘲したが、慶太は同じ仕事を二十年もしているということに尊敬を覚えた。

「あの偉そうな荒川さんも十年前は、おとなしい新入社員だったんですよ」

 外山は鏡を拭きながら、鏡越しに映った慶太に教えるように言った。

「そうなんですか! へえ......」

 その時、トイレに人が入ってくる気配を感じた二人は会話をここで打ち切った。
 
「じゃ......」

 慶太は外山に会釈すると開発室へ戻った。

(どこにでも味方はいるんだ)

 そう思うと慶太は少しだけ心強くなった。と同時にもう既に亡くなった両親を思い出して切なくなっていた。

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 やっとの思いで、慶太の開発環境が動作したのは定時を二時間ほど過ぎた二十時だった。
 更新年月が半年前の手順書通りやってもうまく行かず、他のメンバーに訊きながら何とか仕上げることが出来た。
 当初は慶太が訊きに行くと 皆面倒くさそうな顔をしたものだったが、次第に慶太の熱意と言うか必死さが伝わったのか、席まで来て一緒に手伝ってくれる者もいた。
 それを見た荒川に
 
「他のメンバーも仕事があるんで、質問はまとめて一回でするようにしてください」

 と、注意されることもあったが。
 
(もとはと言えば、あんたの作った手順に不備があるからだろ)

 と、慶太は心の中で悪態を吐いた。
 手順不備については慶太が都度、指摘したが謝罪は無かった。
 他のメンバーも荒川には特に何も言わない。こういう態度だから、言うだけ無駄だと思っているからだろうか。

 開発環境の構築が終わり切りがいいと思った慶太は、今日のところは店じまいすることにした。
 娘の希優羅とも遊ばなければ。
 慶太が帰り支度をすると荒川が近寄って来た。

「あの来てない若手の分も環境構築しといてよ」
「え?」
「だからさ、スケジュールが遅れてるうえに、逃げられたこっちの身にもなってよ」
「森本が来たら明日中にさせます。それじゃだめですか?」
「だめだよ。何言ってんの。スケジュールが遅れてるんだから。明日から開発進めてくれないと」

 慶太はダメな新人と、この理不尽な開発リーダーを心の中で呪った。


 森本の分の開発端末の構築が終わったのは二十四時を回った頃だった。
 夕食を取る暇もなく仕事をしたため、腹が空きすぎて胃が痛い。
 慶太は(胃酸が胃を刺激しているのだろう)と思った。
 同時に(無茶させやがる)と思った。
 電気が所々消された開発室には慶太とあと一人、五十代と思しき男性しかいなかった。

「すいません、私帰ります」

 慶太はその男に声を掛けた。

「ああ、そうですか、私はもうちょっとやってから帰ります」

 その男は名札に田中と書かれていた。
 頭が少し剥げ上がり、突き出た腹がいかにも中年と言う感じだが、どことなく自社の社長に似た風情は親近感を覚えた。

「では、すいませんが、失礼します」

 真面目な慶太は丁寧に挨拶し開発室を出た。

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 何かを腹に入れなければ、慶太はそう思った。
 終電にぎりぎり飛び乗り、自宅の最寄り駅の近くにあるラーメン屋で塩分過多のラーメンを摂取し腹を満たした。
 家に帰ると深夜一時を回っていた。
 妻の響子と娘の希優羅は既に眠っていた。
 食卓にはカップ麺が置かれていた。


 慶太は上着を脱ぎ、そして靴下を脱ぎ棄てると、疲れ切った体をソファに投げ出した。
 瞼を閉じ、クタクタになった脳みそで、今日一日を振り返る。

(森本は来なかったな......)

 開発環境構築に必死だった慶太は、日中は森本のことを思いだすことは無かったが、安全な場所で心の余裕が出来てくると初日から欠勤する男に対しての不信感と怒りがむくむくと湧いてきた。

(明日、もし来なかったら、社長に言いつけるか)

 そう考えたが、すぐに

(真里菜に相談してからにしようか......)

 と、オスの感情をもたげかけた。
 シャワーを浴びて歯を磨かなければ......慶太はそう思いつつも体がソファに沈み込むようでまるで身動きが取れなくなり、そのまま眠りに落ちて行った。

 目覚まし時計が朝七時に鳴った。
 響子が昨日のうちに目覚ましの電池を入れておいてくれたのだ、と思った。
 そう思うと、昨日、真里菜のことを考えていた自分を情けなく思った。
 食卓から久しく嗅いだ覚えが無い、味噌汁の香りがした。
 食卓に向かった慶太が見たものは意外にも、いつものパジャマ姿で欠伸をしながらトースターにパンをセットする響子の姿では無かった。
 真新しいブラウスに折り目のキチンとはいったスーツズボンを穿き、キッチンのガスコンロの前で味噌汁が入った鍋を、お玉でかき混ぜている妻の姿だった。
 その横にある蓋が空いた炊飯器から、真っ白に光り輝く米粒が湯気を立てている。

「どうしたの?」
「どうしたのって? 朝ごはん作ってるの」
「へえ......最近はいつもパンだったから、びっくりして」
「ちゃんと食べて仕事頑張ってもらわないとね」
「そうなんだ、ありがと」

 慶太はどういう風の吹き回しか分からないが、突然の響子の変わりように何か不気味なものを感じていた。
 響子は食卓に慶太と自分の分のご飯と味噌汁、目玉焼きの皿を乗せた。
 響子は席に着くと「食べましょう」と言い、手を合わせた。
 慶太もそれに合わせて「いただきます」言い、手を合わせた。

「希優羅は?」
「まだ寝てる」

 慶太の問いかけに、響子は味噌汁を啜ってから答えた。
 響子は新婚の頃はこんな感じで毎朝食事を作ってくれていた。
 だが次第に、結婚を期に仕事を辞めた響子は朝寝坊が多くなっていった。
 そのためこの習慣は長続きしなかった。
 ゴソッと起きて来た夫に気付いた妻が後追いで起き、ボーっとした顔でパンを焼くというそんな毎朝になっていた。
 娘が出来てからは、それにますます拍車がかかり、慶太が寝てる二人を起こさずにそっと出社する朝もあった。

 それが、今はどうか!?

 食卓には光り輝く銀シャリが。熱い湯気を立てた味噌汁が。

つづく

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