連載2周年 書き始めた動機について

2010/09/04 14:00:00

 僕は、決して技術者然としているわけではありません。どちらかといえば詩人に近い人間なのですが、隅っこの方で、ぶつぶつつぶやきながら、@IT自分戦略研究所エンジニアライフ、2010年9月で、連載丸2周年になりました。これもひとえに、皆さまのご支援のおかげです。新しいことを始めるのも大いに結構なのですが、ひとところにとどまってみっちりやるのも、いいことじゃありませんか。

■書き始めた動機はスキルの棚卸し

 最初は、スキルの棚卸しが一通りすんだら、連載はやめようと思っていました。これまでに何をして来て、これから何になろうとしているのか、何になりたかったのか、何になれるのか、いろいろなことを考えてきました。結果、図らずも、過去を切り売りする結果になってしまったのですが、おかげさまで、以前よりは自分のことがくっきり見えるようになりました。

 くっきり見えたのはよいのですが……。選手交代の時期に差しかかり、現役サラリーマンの続投を遠慮しなければならない年齢であることに気付きました。スポーツと同様、若者を教育する年齢にさしかかってきたのです。年齢はいわゆるサラリーマン的な仕事に雇われない理由でもあり、背景には、時代の厳しさ、企業が目利きし過ぎる点などがあります。

■難しいことを易しく書くことの難しさ

 難しいことを、難しいままに書くのは簡単ですが、それでは読者の理解が進みません。読者の理解を深めようと思えば、難しい物事を、いったん自分の脳内で咀嚼し、かみくだいて理解してから、はじめてコラムにする、ということを心がけてきました。また、なるべく実体験を交え、自分が理解できないことはコラムにしないこともそうです。技術屋さんの文章でありがちなのが、略語を平易に説明しない(あるいはかみくだいていない)ことなどですね。それだけは、なるべく気をつけています。

■その時々に合わせたテーマ設定

 新卒雇用が危ないときにはそのテーマを書き、メンタルヘルスが危ないときは体験談を寄せ、暑いときには「暑うおますなあ」という記事を書き、その時々に合わせたテーマでコラムを書いてきました。生活者目線といいますか、そういったタイムリー性を大事にしたいです。決して上から目線じゃなくて、同じ困った者同士という視点を大切にしていきたい。アイティメディアさんが出す「お題」には、1~2回しか投稿していません。なぜなら、僕が考えるタイムリー性と、会社の皆さんが考えるタイムリー性とは、少し軸足が違うのです。なので「お題」にはならっていません。

■テーマを絞りすぎないのが、永続の秘訣

 もし、純粋にインフラ系SEのお話だけをしていたならば、ここまで続けられたかどうか分かりません。僕が仮に、ルータのルーティングの話をしても、仮に、サーバの仮想化の話をしても、ここ(@IT)には、僕よりも詳しい人々がごまんとおられるわけでして、餅のことなら、餅屋に聞いてほしいのです。古い脳細胞がいえることは、失敗も成功もしてきた道程。技術のお話がご所望ならば、僕よりも詳しい人が大勢おられるので、そちらの記事をご参照願います。

 たしかに、僕はエンジニアでありましたし、そっち系の技術情報を書こうなら、むりやり背伸びして書けなくはない。しかしながら、ここは「エンジニアライフ」です。業種は違えど、ずっと何らかのエンジニアをしてきた、苦い経験やライフハックなどをお伝えし、若い人たちに同じ苦労をさせたくないので、これまでの苦労話などを書いてきたわけです。テーマに縛られない。テーマを絞りすぎないのが、永続の秘訣といえば、秘訣でしょうか。特定のテーマにこだわらない、テーマが片寄らないことが、書き進めるための秘訣といえば、秘訣でしょうか。何事にも、こだわらない、片寄らないことでしょうかね。

■僕はこれでも進歩しているのかな

 急に周囲を不安に陥れる小見出しですみません。しかし、実際こう思っているのでやむをえませんね。カタログスペック的な、例えば資格だとかは、お金の都合がつかなくて取得できていないのですが、どんなに小さい人間でも、着実に進歩しているつもりです。書をとって勉強していますし、壁にぶち当たったら、努力の方向を見直すスキルは身についたような気がします。自分を俯瞰できる余裕が作れ、サラリーマン時代には治せなかった身体のガタつきを治す余裕もできました。

 「ブランク」と呼んで嫌気する人事もいるかもしれません。しかし、もしあのままサラリーマンとして走り続けていたら、介護できずに母親が早死にし、借金は膨らみ、総入れ歯になって、精神を害したままでしたでしょう。「ブランク」は必要で、今までの自分を省みる「人生の踊り場」は絶対に必要なのです。サラリーマンでいることが、本当に幸せなのか。いいかたを変えれば、サラリーマンになることだけが、必須不可分条件なのか。幸せって何だっけ、と思うたびに、立ち止まって考えることができるといいですね。特に、アラフォーになってからは。

(なに? 進歩せい? へえ……)

幸せって何だっけ

2010/08/28 13:58:00

 僕は、本当いうと、病気が良くなって、生活保護を脱せられるのであれば、勤め人になりたいんだよね。あるところに不採用になったからいうんじゃないけど、DTP元職として、応募時は相当自信があったんだよね。でも、近畿に住んで近畿から応募し、西白井(北総鉄道、千葉県白井市)の恩師宅に下宿して、家を見つけて、首都圏復帰する計画自体に無理があったのかもしれないね。

 会社を興すには、25%の自己資金が必要なんだよね。国費を借りて事業をしようとすると、25%の自己資金がいるんだよね。だから、種銭を稼がなきゃなんないんだよね。でも、兵庫県では、産業の地盤沈下が激しく、どこにも自分に合った職業が見つからないんだよね。40歳という年齢も敬遠されているのかもしれないね。だから不採用になったいま、すごく落ち込んでいるんだよね。今は、これといって取りえもないし、最新の技術が必ずしもキャッチアップできている訳でもなし。大学卒でもなし。

 黒く塗りつぶせ/矢沢永吉歌詞

 まあ、自律神経の薬を飲み、糖尿病の治療をし、そんなに身体が丈夫ではないのであれば、いっそのこと生涯にわたって生活保護や、厚生障害年金以外にないんじゃないかと思うのです。ハロワの求人を検索していて、ため息が出ました。年齢がいくと、よほど難しい産業か、よほど体力本願な仕事か、ど田舎しかないんだよね。考えると、思わずむなしく、悲しくなりました。

 社員にも社長にもなれずに、一生を終えるのか。伴侶も子どももなしに、一生を終えるのか。自動車も不動産も入手できずに、一生を終えるのか。自暴自棄になりそうなときもあります。あの分岐点で、もしも違う道を選択をしていたならば、まだ正社員でやっていけたのに……。職場が人間関係でギスギスしたところばかりで、過剰な適応努力をするあまり、精神的に追い詰められてきた経緯があって、どこの求人を見ても、ブラック企業なんじゃないかと、二の足を踏むのでありました。

 幸せって何だっけ。嫁をもらって子どもを作ることか。大枚はたいて不動産を買うことか。ディーラーに行って新車を買うことか。そうではないような気がする。平凡でも、生きてさえいれば、幸せな方向。少なくとも、これ以上不幸な方向には行かないような気がする。

 未来は有限です。印刷会社がつぶれて12年。糸の切れたたこのように、空をさまよい続ける。自分の明日がどこへゆくのかも分からない。上を見たらきりがない、下を見たらきりがない。そういい聞かせて、病気の療養に努めているところです。新しいことを覚える余裕などない。いまある病気を、1つ1つ解決していくしか余裕がないのです。

 生活保護は、正社員として就職できないと抜けられないという苦しみ。病気があって容易に働き始められない悲しみ。老いていく悲しみ。20歳のころ、帰郷といえば言葉はきれいだが、要は母親のいうなりに、自分から「左遷」したようなもの。経営者にも従業員にもなれない悲しみ。コンピュータ業界は、首都圏を離れると圧倒的に不利なことなど……。

 必要なんだよ/普天間かおり歌詞

 それでも、辛うじてホームレスにはなっていない。それを幸せと呼ぶことにしようか。国費で病気が治せる。それを幸せと呼ぶことにしようか。国費で、少ないながらも、三食、きちんきちんとご飯が食べられることを、幸せと呼ぼうか。幸せの閾値(しきいち)を下げることで、取りあえず満足しようか。そのへんの子ども以下の現金しか持ち合わせていなくても、毎日たばこが吸えなくても、取りあえず生きていることに感謝しようか。

 毎日毎日、煩悶(はんもん)で眠れない日々の中ではありますが……。午前3時。ああ、お腹が空いたなあ……。

 (最後に一言。僕は絶対に「自宅警備員」ではありません!! 念のため)

工業高校生の就活について

2010/07/03 14:00:00

 工業高校生は、17~18歳の段階で進路を決めなければなりません。ご両親の支援があり、スネをかじって進学できる人はいいのですが、問題は17~18歳で社会に出なければいけない人の進路について、情報があまりにも少なすぎることです。大学全入時代には、高校から就職する人を想定した記事がなかなかないからです。ただ、言えることは、ジェネラリストは不利。「わたしは何々をやっている誰々です」と、胸を張って言えるようなスペシャリストが有利。これだけは言えます。

■職安求人の見方

 まずは、続けられる距離に会社(勤務先)があるか、ということです。情報技術者は、夜っぴて仕事をすることが多いので、終バス、終電などを確認して、その日のうちに帰宅可能で、通勤に無理のない事業所が、健康のためにも良いような気がします。

 会社の従業員。あまりにも従業員が少ない場合、そこはただの口入れ屋でして、社長が従業員を請負で雇って、他の企業に派遣するだけの場合が多いので、それに抵抗がある人は注意しましょう。いや、別に派遣には抵抗はないよ、という方はかまいませんが。

 また、こういうケースもありました。千葉県船橋市の例。会社は全然別なのですが、就業場所が同じな場合、それは、案件が一緒だということです。貪欲に職安に通い、類似案件がないかどうか確認してください。ハローワークでは、ネットで調べた求人番号をもとに、最大1日10件ぐらいは、求職票をプリントアウトしてくれます。この際ですから、ハローワークカードを作っておきましょう。無駄にはなりません。

 資本金だけ無駄にでかくて、給与水準がそうでもない場合、従業員の給与を犠牲にしてまで、会社を守る体質の企業かもしれませんのでご注意ください。また、福利厚生。何日間、有給休暇で休ませてくれて、厚生年金、健康保険、労災保険は完備してあるのだろうか、という点にも注意が必要です。サービス残業であるかないかを見分けるのは極めて難しいですが、定時で帰れるように書いてあっても、あくまで建前で、実際そうでもないのがこの業界です。

 どれだけ教育してくれるのか。きちんとした教育を行うOFF-JTなのか、それとも、OJTという名のぶっつけ本番なのか、教育制度にも目を向けてください。若年者専用求人の場合、その点にも注意が必要です。また、機会があれば、若年者専用の就職説明会が行われますので、それに参加してみる。どうにもこうにも、今の自分のスキルでは、給与水準が合わなければ、進学という手もあります。

 民間の就職斡旋業者ですが、よい会社もあれば、悪い会社もあります。職安や労働基準監督署などの指導に従わない会社が、職安に載せられなくなったので、無理矢理、応募者を募るために、民間の就職斡旋業者にしか載せられない、という場合もありますので、注意が必要です。

 資格取得に関して、会社がどこまで資格費用を、どのように負担してくれるのかを、よく確かめましょう。全額自分持ち、受かったら手当をくれる、会社と個人で折半する、などの種類があるそうです。

■どんなキャリアパスを目指すのか

 【プログラム系】ときにデスマーチ(目論見を誤ったがために、末端の技術者に時間的、精神的余裕がなくなる)などもありますので、注意が必要です。また、30~35歳になったら、プロジェクトマネージャになるか、それとも、別の道を探すかをしなければいけないので、注意してください。一生プログラマは希有な存在です。

 【DB系】基本、SQLから入ればいいので、オラクルの資格を受けておくことをオススメします。最初はBronzeから入りましょう。いまのうちから、まずはテーブルの作成と、SELECT文などをマスターしておいてください。

 【インフラ系】ここも残業が多い職場です。また、常に、資格の本を買い、資格を取り続けないと、取り残される場合がありますので、トレンドをキャッチアップする必要があります。常に他部門と連携を密にし、お客様と直接タッチする部門なので、コミュニケーションスキルをつけておいてください。

 【Web系】最新の技術は高く買われる傾向にありますが、工業高校だけの知識では追いつかない(学べない)と思うので、専門学校に行ってからにしましょう。Flash(の制御コマンド)、PHP、Perl、DHTMLぐらいは組めるようにしてください。

 【エンベデッド系】最近の高校でどこまで教えているか分かりませんが、とりあえず、C言語を極めてください。また、論理回路や、リレー、LEDなどのデバイスにも詳しくなっておく必要があります。組み込みを究めるには、実際に回路と、オンボードマイコンの振る舞いに慣れ親しんでおく必要があります。学校には内緒で、こっそりH8マイコンボード(C言語で走るやつ)を、こっそり自費で買うことをオススメします。

 【印刷系】特殊印刷以外はやめとけ(苦笑)。絶対に後悔します。斜陽産業ですからね。

■いつまでも、あると思うなカネとコネ

 新卒というのは、買い手市場であっても有利に働きます。それはなぜかと言うと、新卒しか採らない企業=自社カラーに染めやすい人材を求める企業、だからです。率直に言えば、企業にとって新卒は、飼い慣らしやすい、安価な即戦力だからです。これは中年には真似ができません。若いうちの特権です。

 やがて独立し、所帯を持つと、何かとお金がかかります。資格を取り続けて、展開を優位に進める必要がある、つまり、自分が自分のために投資する必要があります。いつまでも、親のスネにはかじりついていられません。また、二度目以降の転職の場合、新卒カードが切れないので、よほどポテンシャルのある、しかも、メリットのある人材しか企業は採りません。なので、新卒&学校推薦というコネを最大限活かして、できるだけその企業で、職場の中で、短気を起こさずに過ごすことが大事です。

 なので、カネとコネはいつまでも無限にあると思ったら大間違いです。二度目の転職から、たぶん味わったことのない痛みが襲って来るでしょう。ちょっと脅かしているみたいですが、これは転職を繰り返してきた人間が語る真実です。心を落ち着けて、なるべく多くの求人票に当たることが大事です。

■進学組の皆さんは

 進学。親御さんにとっては、痛い出費です。履歴書の学歴欄に「○○大学卒業」と書くだけで、何百万円ものお金が出ていきます。ストレートにセンター試験を受けて大学、というのもアリですが、ここはいっちょ、千葉県の場合、木更津高専4年次からの編入学や、職業訓練大学校など、ちょっと変わった寄り道もアリです。民間の専門学校もいいですが、せめて短大は目指しましょう。途中で気が変わって、自力で学力をつけようとすると、後々苦労しますから。僕なんか、放送大学(当時のベンチャー企業論)でどれだけ苦労したか分からない。

 と、いうわけで、工業高校の皆さんにおかれましては、幸多い人生を歩まれる事を希望します。僕を反面教師にして、ぜひ頑張ってください(とはいえ、うちの場合、全部親父が悪いんだけどね!!)。

輝く人になりたくて

2010/06/26 14:00:00

 夢を見ました、夢を見た。僕が課長さんぐらいになっていて、新型のDTPマシンを駆使して、思いのままに仕事をしている夢を見ました。年齢的に、そうなってもおかしくない年齢ですので、部下を十数人持ち、イキイキと仕事をしている夢を見ました。

 みんなに慕われ、頼りにされ、今のような、こんな孤独は感じずに済んだだろう、と思うのです。もしも、会社が倒産せずに、いまだに存続できていたならば、こんなみじめな思いはせずに済んだだろう、と思うのです。もし、電算写植オペレーターが長く続いていたならば……。

■DTPに費やした日々を返せ

 DTPならば、今でも教えられます。プラットフォームがWindowsであれ、Macであれ、組み版ソフトが何であれ、DTP6年半の実績がありますので、その気を出せば、どんな緻密な伝票でも、どんなにページ数の多いものでも、作ろうと思えば作れます。ファシリスで面付けもできますし、もちろん、Illustrator、Photoshopなどのデザイン系ソフトもこなせ、ベジェだって書けます。

 しかし、WIndowsの普及が痛かった。帳票類の内製化が進んだ事。阪神大震災が痛かった。地元企業は、印刷物のほとんどすべてを内製化してしまった事。仕事が日に日に減って行く。あんなみじめな思いをするぐらいなら、他の分野で上司になっておけば良かった。印刷は斜陽産業。特に、前述の通り、景気の回復が遅い阪神間では、そんな会社はもうどこにもないのです。しかも、この年になってるから、既に一般の印刷業では、上司候補があふれているどころか、リストラさえ進んでいます。

■輝く人になりたくて

 別に、頭頂部が輝いていても仕方がないのですが、課長さんになった夢を見ました。僕には、クリエイティブな仕事が向いているのです。部下を引き連れるのは、さぞかし気持ちがいいだろう、プレッシャーもある反面、それが報われるのであれば、どんなにいいことだろう。雇われない悲しみにくれ、病気を複数持ち、ひとりぼっちで公営住宅で寝ているより、さぞかし有意義な時間が得られただろう。僕は、上司になっていてもおかしくない年齢です。

 輝く人/アンジェラ・アキ歌詞

 上司になりたいなあ。悩める若者の指導者になりたいなあ。高い報酬を得て、有意義に時間を過ごしたいなあ。でももう遅すぎるんですよ。悲しいかな、二束三文で使われるか、それとも、自営しかないんですよ。正直、もうどうしていいか分からない。

 こんなことで嘆いていると、高校生諸君に笑われるかも知れませんが、キャリアの構築は慎重に、かつ大胆に。そのための準備を行っておく必要があるのです。あと、その産業についての将来性や、市場予測などをして、自分を守る必要が出てきたのです。

 なので、最初の一歩が肝心。このまま働いていて、損になる産業に就こうとしていないだろうか。将来性ですね。その仕事が、自分に向いていて、かつ、自分を伸ばせる職業なのか。職業の相性ですね。いま、入れるところに入っておこう、じゃダメなのです。きわめて戦略的に分析し、職業選択を行う必要がありますね。なので、求人票で分からないところは、どんどん先生に訊こう。「これって、損ですかね、得ですかね」とか「将来性はどんなんでしょう」とかジャンジャン相談して、進路担当の先生と、マブマブダチダチになっておきましょう。

■現れたな、グリーンモンスター!!

 旧情報一種、現在の応用情報技術者試験「2010秋」の予想問題集です。現れたな、グリーンモンスター!!(笑)

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毎度おなじみのグリーンモンスターです

 企業会計は、中小企業診断士試験と重複しているので、いよいよ情報技術者は、経営にコミットして行かなければならないようです。「会長はメイド様!」や「逆転ハニー」などのマンガを読んでいる方が、精神衛生にはいいのですが、勉強は進まないよな。器用に頭脳の切り替えが利く人がうらやましい……。グリーンモンスターを倒すには、まだLVが足りないので、HPを増やすように、このダンジョンに挑んでいくことにするよ。

(勇者さまは、グリーンモンスターと戦って勝つ!!)

10年前に、クラウドがあったなら

2010/06/19 14:00:00

 なんだか、今ごろになって、インフラ系SEの出番がクラウドの出現によって増えてきているようですね。いまやインフラ系SEは「花形職業」になりつつあります。まあ、もっぱら勤務先は東京でしょうけどもね。何だか、無駄に10年を過ごしてきたみたいで、溜息をついています。いま、もし僕が30歳ならば、ホイチョイと上京し、ついていったでしょうね。まあ、RHELになる前のレッドハットや、今やレガシー扱いされている、Windows 2000サーバですでに終わってる大阪のインフラ系SEには無縁の話で……。

■10年前に、クラウドがあったなら……

 基本的にやっていることは、サーバとアプリケーションの時間貸し。大昔、タイムシェアリングという言葉がはやった時期がありましたが、今回のクラウドは、ネットワーク回線が高速化されたために起きた、第2の波。タイムシェアリングでソフトウェアまで貸そうと。自社にいかついサーバを持たなくても、つながってさえいれば、ことは足りる時代になったのです。要は、クライアント・サーバシステムの一形態なので、目先に惑わされずに、プログラム屋さんとインフラ屋さんが仲良くできればいいと思います。

■クラウドは身近に

 しかし、モバツイがクラウドだとは思わなかった……。キャパシティ的に、自社サーバでまかないきれなくなった場合にも、クラウドって有効なんですね。はじめて知った。全国のつぶやきを、クラウドが処理して、みんなの端末に送られる。最初は、どんなお化けインフラなんだろうと、考えたことがありましたが、まさか、クラウドだとはつゆ知らず使っていました。ユーザーにとっては、サービスが提供されていれば、クラウドだろうと何だろうとおかまいなし。いや、参りましたっす。

■クラウドのある一側面

 反面、クラウドは現在、群雄割拠状態でして、各ハードウェアベンダ、ソフトウェアベンダ、大手システムインテグレータなどが、シェア争いにしのぎを削っています。つまり、お客さんの囲い込み競争中。いずれは落ち着く……つまり、良貨は悪貨を駆逐するとは思うのですが……。なので、いまは冷静になった方がいいですね。導入した、さあサービスが終了になったでは困りますし。お金持ちや大手企業などは、逆にリスクを取ってでも、クラウド+シンクライアントにした方がいいことはいいのですが。

 クラウドって、まあわたしたち中小企業にはあまり関係ないですね。大規模な既存インフラをリプレイスするには、クラウドは1つの考え方なんじゃないかと思っています。とすると、中小システムインテグレータは、何をすればいいのだろうか、という素朴な疑問がぬぐえないのですが……。リセラーになるのかな。仲介業者とかになるのかな。なにせ、最近、現場から遠ざかっているので、耳学問でしかないのですが……。

■なので、非常にくやしい

 あと10年遅くに生まれていたら、クラウド関連のお仕事があったはずなのに、もう年も年ですね。体力の限界ですね。前述のとおり「選手」の立場ではなくなってきていますので、仕事をやりたくても、年齢ではねられるのです。僕にはチャンスがないのです。なので、非常にくやしい思いをしています。なので、現役の方にどうか頑張って欲しいのです。

 冬の蝉/さだまさし歌詞

 とりあえず、Windows Azure の本を買って勉強するかー。でも、たまっている勉強、けっこうあるんだよねー。困った困った。欲しい本を買うお金と、無限の記憶力が欲しい……。

■Windows 2008 ServerのAD本ゲット!!

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当たった!! そんなバナナ!! 東京ばな奈!!

 Active Directory 10周年記念のクイズに答えて正解して、しばらく経って、本人はそのことをすっかり忘れていました。ある日、西濃運輸から荷物が届きました。え? 西濃運輸。しかも、送り状には書籍と書いてある。一体、何の本だろう。これって、もしや Microsoft Partner Program の書類かいな。

 開封してみると、A4版の紙に「ご当選おめでとうございます」の文字が躍る。とことん不運続きのおいらにも、運が巡ってきたのかな。何だか、さい先ええやんか。マイクロソフト(元JWNTUG、現エヴァンジェリスト)の、安納順一さんのおかげ? 実際に確認したところ、抽選にはタッチしておられなかったのですが、この際、そういうことにしておきましょう。安納さん、本当にありがとう!!

 (さい先がいいというわけで、これにて一件落着!!)

選手からコーチへの転身

2010/05/29 14:00:00

 22年前の僕は、実はプログラミングが無茶苦茶好きでした。学校の放課後、夕暮れ時の情報棟にいつまでも居残って、端末(NEC N5200 model05)にかじりついて、当時のBASICやFORTRANなどで、無我夢中でプログラミングをしていました。竹馬や自転車の練習のように、最初は覚束なくても、誰だってそれだけ熱心にやれば、次第に、さまになっていくものです。さすがにZ80とは違って、i8086はメモリのページングや、仮想アドレッシングが複雑でした。どんなにハードウェア系の本を読んでも難解で、マシン語は無理だったのですが。とりあえず、クラスの皆や先生方からは、ある一定程度の評価は受けていたわけです。

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1988年、高校生時代。使用前(苦笑)の17歳。

■しゃにむにプログラミング

 それはもう、思うがままにプログラムが無事にできた時の喜びは、いまでも忘れることができません。また、プログラム技術の向上のために、端末実習の予習復習のために、また部活動のために、情報棟は常に開放されていました。まずは、目先のスキルの習得が優先され、手段を選ばずにスキルを磨く。そんなとき、このプログラムが誰のために、また、何のために作るのかを考えることは余所へ置いといて、ともかく速く、きびきびとした処理を行わせる。デバッグし、間違いのない処理を行わせる。なるべくメモリ領域を食わないソースを書く(当時のDRAMメモリは高価だったのです)。そして、命令語や関数をただひたすら暗記する。選手の頃は、ただ練習する、それだけで良かったのです。

■キャリアの変転があって

 前述の通り、COBOLのやり過ぎで病気寸前になった先輩の顔を見るにつけ、この職業は健康にやばそうだと思ってしまったので、あえて、当たらずとも遠からずの職業に就き、プログラミングで飯を食うことはしませんでした。また、家庭の事情もあって、学校推薦で就職することはありませんでした。ともかく、親父が家を即座に出ていけというので、仕方がなく自立しなきゃならない。食べて行かなきゃならない。なので、学業は一旦、中座せざるを得ませんでした。

 家電量販店、百貨店、プラント機器メーカー、商業印刷、プログラム受託開発会社、カスタマーエンジニア、そしてシステムインテグレータを経て現在に至ります。どれもコンピュータ関連なのですが、プログラミングの実績といえば、経歴上は皆無に等しく、もっぱらオペレーションや技術支援の立場でした。そうしていくうちに、プログラミング環境はどんどん進化し、僕は、プログラミング回復不能地点まで至ってしまったわけです。まあ、極端に時間をかければ、きちんとしたものは作れなくはないですが、新たな学習を伴いながらなので、生産性においては非常に低いものとなってしまっています。なので、若くて賃金的に安価な即戦力にはなり得ないのです。

■宙ぶらりんになって

 それでも、何らかの形で食べていかなきゃなりません。ある時期から、酷い人間不信になり、メンタルな病気で3年休んで、それから3年セーフティネットの中で将来について考えました。もう選手(プログラマ)には戻れない。人月単位で出向するのにも抵抗がある。また、非正規雇用では暮らしていけないし、常に、明日の我が身の心配を抱えながらの仕事は、非常にストレスフル。都会で負けて帰る実家もなければ、頼る親や親戚の資力もない。なぜならば、すべての退路を断って千葉から大阪へ出てきているからです。

 キャリアの一貫性がない、スキルが不一致である、資格がない、即戦力ではない、年老いているなどの理由で、どの会社にでも丁寧に行く末を「祈られ」ました。ただ祈られても、こちらはどうしようもないのですが……。このようにして、数十社近く「祈られ」た挙句、これはもうダメかもわからんね、と思って、ここでコラムを書き始めました。そこで、気づいたことがありました。これは、ただのスランプじゃない。どうやら僕は「選手」の時期をとうに終えて、むしろ「監督、コーチ」の年齢だと。スポーツの世界でも、選手を退く時期だと気づいたわけです。

■そして、中年は「匠」を目指す

 ちょっと言葉は方言ですが、「オレが若いもんを引っ張って行かんで、どげんすっとか!!」という意気込みでいます。肝心なこの場面で、根性や気合いを見せなければ、僕は一介の失業者になったままです。このまま引きこもっていたら、ドヤ街で寝てるのと、ほぼ同じです。とにかく、中年になったなら、若い奴らを牽引するコーチになる必要があります。難しい資格にトライして、1歩1歩、壁を乗り越えたいと考えます。やがて、たね銭をかせいだら、独立するかも知れませんね。「生涯一選手」などといった、きれいごとは言っていられません。僕にはプログラミングにしがみつくことさえ困難になってきているのです。だからこそ、とりあえず目先の中小企業診断士を目指すのです。

 まずは、基本から始めましょう。……毎日が眠くて、アタマがフル回転で、昼夜逆転とヘビースモーキングで、今にも、身体がどうかなっちゃいそうです。はい。

(何事も、死なない程度に頑張ります……)

多方面作戦

2010/04/03 14:00:00

 出口の見えない戦い、多方面作戦をしていると、心身共に参っちゃいますね。自分は何になりたかったのか。自分には何ができるのか。自分は何がしたいのか。まるで「詰んだ将棋」のように、回復不能地点まで行かない間に何かできないだろうか。いまのところ、それだけが気がかりです。

■物書きになれというお方がいる

 「稲造さん、いっそのこと物書きになっちゃいなさいよ」と、よく言われます。確かに、C言語よりは遙かに日本語の方が堪能なので、それはそれで近道かも知れませんね。でもねえ、最大の難点は、大学を出てないんですよ。なので、出版のコネクションがない。まあ、こつこつと文章をひねり出す作業は、さほど難しくないのですが、ただ、納期を切られると、ただの文章屋になってしまいそうで、怖いから。大量消費される文章のように、オートメーションのような、無責任なことは書けないから。本音を殺してまで、文章をひたすら生産するだけの、オートメーションな人間にはなりたくないのです。逆に言えば、本音で綴れる文章ならば、きちんと文責を持てる文章ならば、僕は幾らでも文章をつむぐでしょう。

■大学を出ろというお方もいる

 何処か、大学を出ておけと言われるお方もおられますが、あいにく授業料が払えない。借金してまで出たくはない。奨学金も借金ですからね。無利子であっても。放送大学は、働きながら出る学校で、しかも「教養学部」という曖昧な学部なので、うーん、4年間かけて、大枚はたいて、教養学士になっても、実際のところどうかなあ、44歳、放送大学卒という立場での、企業での採用メリットって、果たしてどんな感じだろう、という疑問は感じています。費用対効果という面で、他の道はあるのでしょうか。インターネット大学というのもあるにはあるのですが、企業の採用実績という点において疑問が残るので、余りメリットを感じていません。

■まずは働け、というお方もいる

 しのごの言わずに何でもいいから働け、とおっしゃられる方も多いのですが、あいにく今は、病気のデパートでして、また、親もちょくちょく病気をしますので、今は生活保護の医療扶助だけを受けている状態です。バイトした金額はそっくりそのまま市に返納しなければなりません。このノイローゼが完全に抜けるまでは、何とも名状しがたい状態が続くのでありましょう。

 前の職場はひどかった。大阪の職場は人使いがえげつない。そうして、自分の給与になるはずのお金が、いつの間にか会社の資本金になっているケース、多いですよ。従業員の方向を向かずに、経営コンサルタントの方ばかりを向いている経営者、多いですよ。自分を有利に見せるために、簡単に失敗の責任を部下になすりつけて、簡単に会社から、かなぐり捨てるケース、実際のところ、とても多いですよ。直属上司からの、「お前、向いてない」の言葉で、僕は一体、どれほどプライドが傷ついたことか。なので、おいそれとは回復し難い病気にさせられたのです。

■何で商工会議所に、というお方もいる

 これはですねえ、果てしない戦略のなかで決めたことなのですが、伏せ字ばっかりになるのでやめておきましょう。極秘事項です。大阪らしいものづくり。ヒントは「アパレル産業」と「情報技術」の融合です。言えるのは、PICマイコンによる、電子制御です。まだまだ具体案は考え中なので、具体的にどうだこうだ、というのは、具体的に申し上げられません。なので、何らかの起業のヒントが得られないかどうか、会議所通いを通じて、何らかの方向性が見出して行けたらなあ、と思っています。

 僕は、あるインキュベーターで思い知らされたのですが、レンタルオフィスの締め切りぎりぎりで、施設長の目の前で、電卓を必死に何度も叩いても、どうしても、3年先までの目論見書ひとつ、まともに書けない状態だったのです。どうしても創業2年目で人を雇うと大赤字が出る。そんな段階で、一体何ができますか。どうやって銀行から融資が得られますか。なので、1年間で、子どものお年玉程度の金額、数千円で、地元商工会議所に通うことに決めました。ただ、雇われることを諦めた訳ではないのです。あくまで社会勉強の一環なのです。

■あと20年でできること

 タイムリミットは迫る。結婚すらできないかも知れない。もう、婚期は逃したのかも知れない。なぜなら、北九州と関東出身なので、大阪の女性の心の動きがわからないから。男性を、見てくれや、保有している金銭や車両だけで判断しそうだから。何かにつけ、かしましく、ワガママな女性ばかりとお付き合いしてきたから、大阪に住めば住むほど、どんどん女性不信になってしまったようです。もちろん、素敵な性格美人の方もおられますが、年齢の差や、経済力など、エトセトラで、果たして僕を本当に選んでくれるかどうかが問題です。

 「男の想像妊娠」と失笑されるかも知れませんが、もしも僕に子どもが出来たら、長女には「由衣」、長男には「直樹」と付けたいと思っています。お前、恋人もいないうちから、何を家族計画的なことを言うのか、とおっしゃる向きもあろうかと思いますが、ある画数占いソフトで採点してみると、どれもパーフェクトなのです。次点として、90パーセント台で幸せになれるのは、「瑞稀」と「一眞」です。この名前は、主に、芸術文化やスポーツの面で、何度倒されても、一発大逆転が出来る強運だったりするのです。そうして、僕の夢だけが膨らんで行き、現実とのギャップに打ちのめされ、母親が逝かないうちに、おばあちゃんになれるようにと、プレッシャーを感じながら、自分の残り時間を気にしているのです。いまだ、何の成功もないままに。

■吉田拓郎が教えてくれた

 吉田拓郎の、襟裳岬(えりもみさき)という歌です(歌詞)。本当ですね。訳の分からんことで悩んでいるうちに、あと20年で老いぼれです。僕はそのとき、西暦2030年には、もうすでに60歳ですね。つまり還暦です。赤いちゃんちゃんこです。誰か祝ってください(笑)。ある医師によれば、僕は、こんなペースでたばこを吸っていると、せいぜい生きて70歳まで。たかが、あと30年、西暦2040年にはもう僕は死ぬらしいですから、そのぶん、時間を有意義に過ごしたいものですね。ああ、死ぬ前に、一度でいいから、リニアモーターカーに乗ってみたい。なので、たばこは止める方向で行きましょう。

 例え、生き恥を晒したとしても、まずは万事、生き抜いてこそ、ですね。

(こうして、思索と模索は続く……)

インフラ系SEはパソコンの調律師

2010/02/06 14:00:00

 ピアノに調律師があるように、パソコンや、サーバのコンディションを良好に保つために、フィールドエンジニア職や、インフラ系SE職があるのです。「高次のCE」と言ってもかまわないでしょう。最終的に切り分けるのは、現場に赴いた「パソコンの調律師」なのです。お客さんに誉められるのも、怒られるのも、すべては現場の「調律師」なのです。

■曲を作る人や、鍵盤を弾く人とは違って

 ピアノが正しい音が出せるように、調律師がいるのです。同様に、パソコンやサーバのコンディションを保つために、僕らは頑張っています。作曲家(プログラマ)が偉いんじゃ、いいえ、ピアニスト(ユーザー)が偉いんじゃと、おっしゃる向きもあろうかと思いますが、そろそろ、コンピュータの調律師としてのフィールドエンジニア職やインフラ系SEの地位向上があってもいいのではないかと思っています。

■さまざまなコンピュータを調律してきました

 パソコンの調律師としては、さまざまな企業や家庭、学校などで、いろいろなパソコンやサーバに触れて来ました。調律師の道具としては、LANの圧着端子、圧着器具をはじめ、回線抵抗を測る機械、+-および特殊なドライバーなどの工具類、予備のケーブル(時には50m一巻き持っていくこともある)、ファイナルデータ、ウイルス対策ソフト、デバイスドライバ、修正パッチ、予備のバックアップ用HDD、それから大切なモノは、会社用の自分のノートパソコンです。これだけでも、もう、鞄はパンパン、手荷物はふんだんにあります。

■ピアニストが「ダメ」と感じたら、直さなければならない

 自分としてはこれで満足か、お客さんは満足したか? と思うものでも、お客さんによっては不満足な場合があります。満足を満たすために、調律師は「もうこれ以上ないです」とは言えず、たとえ、エンジニアとして却って不満足な場合でも、ピアニストに合わせて、好みの音色を探ります。これは、コンピュータで言うところの、「修正パッチを当てたらよけい変になった」という具合にです。お客さんが、今更ながら、時代遅れの Windws NT4 を頑なに使い続けたり、いまさら、ラウンドロビンケーブルのSCSI一本槍という方もおられます。ここで「USBではダメですか?」というのはタブーです。あくまで、お客様本位で直します。

■大きなホールから、中小企業向けまで調律しました

 非常に神経を遣う仕事です。ピアニストの指をできるだけ止めないようにしなければならないのです。弦を切るなんてもってのほかです。そうして、ほこりを掃除するところから始め、パスワードを付箋に貼ってもらい、個人情報は持ち帰らない方針で行きます。ピアノと根本的に違うのは、ピアニストが「弾いている最中でも直さなければならない」場合が出てきます。ダウンタイムを最低限に、いや、極限までないような状態にしなければなりません。

■本物の調律師さんも「メカ大好き」

 機械いじりが大好きなのが高じて、本物の調律師になられた方がおられます。2010年2月4日付けの、NHK第一放送「ラジオ深夜便」午前4時台のインタビュー。「こころの時代」舞台裏の仕事師「ピアノ調律師 曽我紀之さん。子ども時代、ラジオを鉄くずにしたのは僕と一緒ですね(笑)。やはりメカ好きは、カテゴリを問わず「この中身は一体なんだ」と思うのでしょうね。で、たまたまその人は、自宅にあったピアノを開けてしまった。「なんだこの複雑なものは」というところから、ピアノの調律師になられた。うーん、何か共通するものがあるなあ……。

■ピアノもパソコンも、同じように鍵盤を使います

 まあ、ピアニストほど鍵盤が使いこなせる訳ではありませんが、基本は知っています。電子回路や、論理回路、ハードウェアの具体的な中身、ソフトとハードの振る舞いぐらいは、ある程度知っておかなければなりません。僕の仕事は、作曲家の皆さんや、ピアニストの皆さんが、気持ちよくピアノを調律する……いえ、パソコンを調律するものです。ただし、サーバの調律は、夜も昼も問わずにインシデントが発生して来るのですが……。奇しくも、ピアノもパソコンも鍵盤を使うモノ。もし、突然動かなくなったら、困りますよね。事前に故障を予知予防することも、パソコンの調律師の大切な仕事です。

■マイコンボードを買い込んで、技を磨く

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 H8-3048搭載のマイコンボードが手に入りました。C言語を極めないと、幾らUSBをつないでも「ぬくもる」だけで、何にも動きません。この右側のLEDやボタン、それに右上のA/D、D/Aコンバータは動作いたしません。徐々に、少しずつ、楽しみながらC言語のスキルを伸ばす。これですね。単にPCだけでC言語をやっていても、僕はおもしろくないのです。こういうのが、ピコピコ制御されて、動くのを見るのが楽しいのです。

■一太郎2010のパッケージデザイン投票ページに記載

 なんと、田所のコメントが一番トップに掲載されていました。まあ、一太郎3.1の頃からのおつきあいですからね。「デザイン1」の、一番先頭のコメントです。
  http://www.justsystems.com/jp/camp/just2010/package/index.html

(このようにして、今日も明日も模索は続く……)

花の生涯

2009/12/19 14:00:00

 田所郁子(76)。昭和8(1933)年、兵庫県武庫郡今津町(西宮市)上甲子園生まれ。戦前は、兵庫県尼崎市難波中通(西難波)育ち。滋賀県大津市丸屋町に戦時疎開。戦後は、兵庫県尼崎市立花町近辺で生活する。疎開先である、現在の滋賀県立大津高等学校普通科卒。

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才色兼備のキャリアウーマン 阪急百貨店写真室にて 昭和30年頃

■戦後復興のさなかに

 戦争で、焦土と化した大阪。まだ、日本に進駐軍GHQ(連合国軍総司令部)があった昔。当時の心斎橋そごうが、米軍のPX(米軍専用売店)として接収されていた時代。女性の社会進出が、まだままならない時代の中で、キャリアウーマンの先駆けとして勤務。弱冠18歳で心斎橋大丸の正社員になった。当時の初任給が6000円だった時代、PXで600円のパンストを購入して売り場に立った。

 ラジオからは「復員兵情報の時間」が流れていた頃である。音響製品はまだ、「電蓄」や「真空管ラジオ」の時代である。国道2号線には、神戸と野田阪神とを結ぶ路面電車「阪神国道電車」が走る、のどかな時代だった。電話がない家もまだ多く、あっても手回し式の「交換手扱い」の電話だった。

 当時の大阪市営地下鉄は御堂筋線だけ。梅田~心斎橋間を走る車両はたったの2両編成。当然、冷房なし。汗だくになって勤務先に到着。現在では、パンストが伝線することは余りなくなったが、当時は舶来のナイロン製。すぐに伝線した。戦後、荒廃した御堂筋を、ハイヒールの靴音高らかに闊歩した。同僚からは……いや、京阪神全店の従業員からは「ミス大丸」とあだ名された。その美貌と知性は、瞬く間に会社中の噂になった。時の人である。当時、宣伝部にいた、現在のサトウサンペイ(漫画家)も同僚のうちのひとりだった。ニックネームは「サンペイちゃん」。まだ、脱サラしてはいなかったようだった。

■当時のレジスターは機械式

 現在では、POS(ポイントオブセールス)システムが当たり前の時代だが、当時は機械式計算機によるレジスターだった。部門キーなどの他に、置数キーが横に桁の分だけ並び、その桁の置数キーが、更に、下に向かって0から9まで並んでいて、桁数は確か8桁か9桁あたりまで。具体的な操作は、各桁の置数キーを何度か押して、計算を終わらせる際には、一回ずつ、本体脇のレバーを回転操作する。そして、総計が出た段階で、ようやくレシートを印字するのだ(余りに昔すぎて、詳細はよく分からないが)。

 たとえば、販売員がモノを売る。すると、レジ係員がチェックして、レジスターを操作する。まるで、スロットマシンのような要領である。そうすると、レシートとは別に、請求金額が、レジスター上部の窓に表示され、そこで合計請求金額が分かるという仕組みだ。勿論、消費税を計算する必要がなかったので、処理される数字は整数だけで良かった。バベッジの「解析機関」ほど古くはなかったが、これもまた同様に、機械式計算機の一種である。

 また、各レジに座っている出庫係員は、商品出荷と同時に、帳簿をつける。接客、販売から出荷までのプロセスが、実に3人掛かりだった。これら一連のプロセスは、まだまだ電算化する価値があったようだ。このような面倒くさいことを、当時は平気でやっていたのである。まだ、社内に「電算室」すらない時代の話だった。なお、当時の詳しい様子は、日本NCRのホームページに記載があるので、そちらをご覧いただきたい(日本NCR レジスター博物館 リンク 1933年からの項を参考のこと)。

■飛び抜けたリーダーシップ

 旧ホテル阪神(大阪中央郵便局うら、当時の新阪神ビル)の会員制クラブ「スターライト」で、若い女の子を仕切るマネージャーをやっていた時期もある。阪神エンタープライズが経営する、各界の著名人御用達の高級店である。顧客の中には、有名な漫才作家、秋田実もいた。そんな幾多の顧客のうちの、ある人の紹介で、喫茶店を開業しないかと誘われた。そこで、取得中の普通自動車免許は「仮免」で終わっている。今考えれば、惜しいことをしたものだ。ちなみに、当時の自動車はもちろんクラッチつきのミッション車。それに加えて、ハンドル脇の変速レバー「コラムシフト」が付いていた時代の話である(現在でも、一部のタクシー運転手さんの車両が、コラムシフトである)。

 現在の梅田北ヤード近くのJRA(日本中央競馬会)の馬券売り場の近くに、喫茶店「ジュリアン」を開店した。なぜ「ジュリアン」なのかって? 理由はただ単に、沢田研二(ジュリー)のファンだったからだ。一応、喫茶店のオーナーだったが、そのうちに、実質的な経営権を、雇っていたバリスタと、その彼女に乗っ取られたりして、いろいろ大変だったようだ。

■本小曽根合資会社の頃

 心機一転、今度は神戸での勤務になった。当時の神戸市生田区(中央区)多聞通。今で言うところの、UCC上島珈琲本社に近いところ。神戸高速鉄道の、高速神戸駅直上のビル(阪神大震災で倒壊)。当時の本小曽根合資会社という、旧小曽根財閥の管財会社での事務作業である。事務作業といっても、普通の事務作業ではない。簿記会計もこなしたが、主に、神戸ロータリークラブでの、本小曽根合資会社代理としての仕事だ。なので、実業界のロータリアンとの面識も多々あった。

 ちなみに、小曽根さんとは、あの小曽根実さんだ。その子ども、現在のジャズミュージシャン、小曽根真さんが、まだ、抱っこができる幼子だった時代の話である。当時の本小曽根合資会社は、たとえば、阪神電鉄や、阪神内燃機(阪神ディーゼル)などの大株主だった。これら小規模な在阪財閥は、俗に「関西財閥」と呼ばれ、GHQによる財閥解体の対象にはならない程度の、比較的小規模な資産家集団だった。

■洋裁のプロになりたかった

 勤務のかたわら、当時の国鉄芦屋駅近くにあった「田中千代服飾学院」に入学。師範科(3年制)には入らなかったものの、洋裁の基礎から応用まで習う。現在でも東京田中千代服飾学院には卒業写真集が残っていて、評価点数が5段階評価でオール5だったことを、現在でも誇りに思っている。「ほこりだけでは飯は食われへんけどね」と自虐的に笑うが、それにしても、大したものだと、長男としても思っている。

 が、しかし、大阪万博の前後から、人生が暗転する。普通の女性ならば誰もが思う「結婚適齢期」とのたたかいだった。当時36歳。女性ならば、誰もが身の振り方を考える時期だ。キャリアパスは上手に渡り歩いて来た。が、女性ならば、誰もが「自分の子どもを抱いてみたい」と考えるはずだ。そのへんが、普通の女性よりも、不器用な処し方しかできなかったのだ。なにせ、彼女のような生き方は、「これまでに日本国で前例がない」ものだったからだ。

■間違いだらけの男選び

 取引先の「石丸さん」なる人物が、福岡県八幡市(北九州市八幡東区)に住む、ある「青年実業家」の写真を持ってきた。横尾照雄という青年が、お見合いの相手だ。製鉄会社の下請けか孫請けか、関連会社の専務で、小倉ライオンズクラブに所属。東京にある大学卒。相手にとって不足はなかった。ここで、現代女子に注意してもらいたい点なのだが、「青年実業家」と言えば聞こえがいいが、要は、親の財力でのし上がった人間だ。この場合、自分のチカラで青年実業家になったのではなかった。ここは、要注意。メモメモ。

 折しも、はしだのりひこが「花嫁」という歌を唄い、街角に流れていた頃だった。もう、職場では、いわゆる「お局様扱い」を受けていて、目下ハートブレイク状態だった。大黒摩季の「夏が来る」という歌にもあるように、「お見合い相手のプロフに、一瞬くらっとするけどワン・モア・チャンス、本気の愛が欲しい」という状態だ。お見合い相手は、彼女の母性愛をくすぐるかのように、当時流行していた、カルメン・マキの「時には母のない子のように」を唄って聴かせた。ぱっと見、シャイな青年を装っていた。

■間違いだらけの結婚生活

 しかし、結婚生活は当初から双方、意地の張り合いで上手く行かず、親父にしてみれば、はじめて「女を征服した」という気持ちで一杯で、夫婦生活というよりは、どちらかといえば「性的暴行」に近かったらしい。はい、そうですかと、素直に旦那に調教されるほど、妻だってバカではない。先ほどの歌ではないけれど、大黒摩季の歌を借りれば「本気でエッチしたら、その日から都合の良い女扱い」だったそうで、大変気の毒な思いをしたらしい。

 本来、母体の健康を守るべき「産婦人科」は、彼女にとっては「堕胎院」と化していた。あるとき、産婦人科医から、釘を刺された。「今度ばかりは、貴女の命の保証はいたしかねますよ、旦那さんも厳重に注意するように」と宣告される程の性的暴行ぶりだった。僕が何となく、中島みゆきのファンである理由は、このへんにあるのかも知れなかった。中島みゆきの父、慎一郎さんは、若くして夭逝されたが、産婦人科医だったからだ。成年男子諸君、事に当たっては「家族計画」を念頭に置くように。

■訣別の時を過ぎて

 そして、長男が20歳になった、平成3(1991)年1月。調停離婚は成立した。僕も3月には「横尾」ではなくなっていた(家庭裁判所に申し立てる子の氏の変更)。僕としては、最初、中立的な立場を保っていたが、仲裁も限界に達したので、子の氏の変更に素直に応じた。まるで、合併を繰り返した銀行のような気分になった。なぜ、夫の理不尽な暴力に耐えてまで長男が成人するまで待ったのか。それは、幼児期では、親権を経済力のある夫に取られることを恐れていたからだ。折しも「熟年離婚」がニュースなどで喧伝されていた時期にあたる。

 あれから20年余り。帰郷して、すっかり落ち着いた母親は、静かな余生を送っている。あれだけ彼女を粗末に扱ってきた旦那が死んだ、と息子に聞かされて、あれ、喜ぶのかな、と思ったら、意に反して「なんだか寂しいね、次はわたしの番かね」とつぶやいたりする。こんな心の動きが、僕にはよくわからない。男性の、直線的な考え方しかできない僕とは、どうやら心の振り子が違うらしい。

 来年、母親は喜寿を迎える。初めて、旦那だった人間の年齢を超えて生き続ける。うちは決して豊かではなく、どちらかと言えば貧しいほうだけども、何か、心に残るお祝いをしてあげたい、そんな気持ちになった。彼女はいま、自分に与えられた「残り時間」が、どれだけ残されているのかを、気にし始めているらしい。残り時間が、幸多かれと祈るばかりだ。

 そんな一輪の、花の生涯。

(今回のコラムは、久美チヨさんのリクエストにお応えしました)

能動的に生きるために

2009/02/21 14:00:00

 気がつけば、僕の職業生活も約20年になります。平凡なんだか非凡なんだか分からない僕が、仕事をするに当たって気をつけてきたこと、気をつけなければならないことを、主に学生の皆さんにお伝えしたいのです。

【終わりました、仕事をください……そんな社員はダメです】

 仕事をやっていて感じたのですが、伸びない社員さんは、何でも上司に聞く。聞くのは大いに結構なのですが、いつまでも上司の「頭脳」を通してしか行動できない社員さんがいます。つまり、何事にも受動的なのです。上を向いて、口を開けて、仕事が降りてくるのを待っていて、それをただ、ついばんでいるような人のことを差します。

 こういった行動パターンではダメです。生き残っていけません。つまり、その「頭脳」がいなくなった時点で、ついばんでいたヒナたちは、エサを求めて途方に暮れなければならないのです。天才みたいな、大それた「デジタルネイティブ」にならなくていいので、せめて職場では能動的な「デジタルアクティブ」になりましょうね。その方が成長が見込めるでしょう。

 ポジティブに仕事を進めるには。小さくてもいい、何でもいいから、たとえ、認められないかも知れなくてもいいので、小さな職場改善提案を行うことです。たとえば僕は、顧客データを握っていても、販売が伸び悩んでいる営業部隊に「メルマガ発行」の提案をしました。静かで不気味な職場にあっては「職場にイージーリスニングか有線放送をかけてみる提案」をしました。こういった「小さな提案」の積み重ねで、人や職場は変わります。

 もし、そんな提案を煙たがる旧態依然とした会社ならば、こちらから5日でポイすればいいのです。小さなアクションを起こすこと。しかし、経営者じゃないのだから、決して大それたアクションを起こそうとしないこと。それが大事です。小さな改善提案の積み重ね。たとえそれは、どんな劣悪な職場にあっても出来ることだと思うのです。

【お前の代わりは幾らでもいる、という職場はポイしてください】

 なぜ働くかって? オレが生きるためじゃ。カネ儲けのためじゃ。オレの余暇にカネを使いたいためじゃ。家族を養うためじゃ。そのために、経営者には、オレの労働時間をくれてやってるんだ……という考え方でした。少なくとも、20歳代後半までは。

 しかし、40歳も目前となった今、「仮想自営」をしてみて分かったことですが、「交換がきくパーツ」、つまり「いつ首を切ろうかと考えているパーツ」を、決して経営者は大切にしないものです。経営者は粗末にぞんざいに扱います。なぜなら、その仕事を、誰に任せても同じだからです。なので、決してあなたは「交換がきくパーツ」に成り下がってはいけないのです。

 お金は大事です。しかし「交換がきくパーツ」になって、目先のカネだけに目を奪われて、誰にでもできるような「やっつけ仕事」をいつまでも続けるようならば、今すぐ方針を転換した方がいいかと思います。たとえば、書を執って勉強することです。たとえ、少しずつでも。

 会社にとって、「この人がいなきゃダメだ、仕事が進まない」と経営者に言わせるようになったら、こっちのものです。ですから、社内においてあなたは「欠かせない唯一無二の存在」になることが重要です。「使い捨てのパーツ」になるか、そうでないかの分水嶺は、あなたが会社において「欠かせない存在」になること。その足場固めを行うこと。上司の「頭脳」を頼らずに、上司にとって「良きブレーン」になることです。これは、一朝一夕には行きませんが、少しずつそれを目指して頑張りましょう。

【資本主義で生きるということ】

 この国は、幸か不幸か、資本主義の国です。ある一定の資本を持つ者が、持たざる者を使い、時には簡単に「非正規雇用」として、人材をかなぐり捨てます。しかも、ちょっと昔のアメリカの経営学を半端にかじった経営者が非常に多いのです。つまり、従事する人間を、いま要らないなら「即座にレイオフする」、もし必要ならば「どんな雇用形態でもいいから補う」といったふうに、安易に「取り替えがきくパーツ」を求めがちです。

 経営者だって、自分の財布を痛めてまで経営を続行するような「お人好し」ばかりではないのです。一部の例外を除けば、経営者は「慈善家ではない」のです。たとえ、お抱え運転手をクビにしてまでも、自分のクルマだけは大事にしたいのが経営者です。昔、僕の親父を見ていて、そう思いました。

 僕としては、もっともっと技術職に従事する人を大事に扱うべきだと考えるのですが、残念なことに、日本の企業でありながら、もし外国人が日本人と同じパフォーマンスを発揮できるのであれば、たとえ労働者が日本人でなくてもいい、とまで考えているのです。これは、僕の従兄を見ていて思うことです。事実、工場は上海に進出しました

 要は、経済の無制限な対外開放に伴い、労働分配のパイを、日本人のみならず、外国人とも奪い合っているのが現在の日本の雇用事情です。また、同じ日本人同士でも、正社員、派遣、パートと、日本人同士で奪い合っているのが現実です。これは、同じ民族同士で殺し合っているのと同じ状態で、何でも自由にすればいい、何でも改革開放すれば良い、という方針が、決して人々の最大多数の最大幸福を招かない、ということです。

【能動的に生きるために、今できること】

 僕はどちらかといえば、これまでネガティブシンキングで、何で自分は粗末に扱われるのだろう、何で文句を言われながら仕事をしなければならないのだろう、何で自分だけ不幸なんだろうと、ずっとネガティブシンキングな経歴書を書いては、あまたある企業の書類選考に落ち続けてきました。

 そこで、療養中という便利な立場を利用して、経営者は何を欲していて、何を考えているかを注視してきました。また、書店に行っては、僕の尊敬する新渡戸稲造先生の現代語訳の文庫本を購入したりしてきました。いろいろな人に雇用の現実を聞きました。そして、僕に足りないものが何かを理解しようと努めました。

 昔、新渡戸稲造先生は、確か「修身」(現代語訳:「いま自分のために何ができるか」三笠書房・絶版)という本の中で書きました。「浪費癖のある人は、たとえ給与を10円から50円に上げたとしても、喜ばず、ひたすら足りない、足りないと文句を言うだろう。むしろ会社が重用するべき人は、10円の賃金でいかに生活を足らしめるかを考える人だ」という趣旨のことを書きました。「そういう人は、やがて認められ、10円の賃金が20円になった時、喜び、ますます勤労に励むだろう」といった趣旨のことを書きました。これは、現在でも通用する理屈だと思います。

 能動的に生きるということは、視点を変えること。違う見方をすること。パースペクティブ(俯瞰的)に物事を見ること。そして、今おかれている自分の立場を理解し、改善することです。僕のモットーは、明日は少しマシになれという言葉です。少しマシになる分には楽です。たとえば、新しい情報用語を今日は1つ覚えた、だけでもいいんです。大きくマシになろうとするから、身分不相応、能力不相応になるのであって、あくまで自分ができる範囲で少しマシになるだけでいいのだと僕は思います。

 (思索と模索は続く……)

千葉工業高校で迎えた青春

2008/10/25 14:00:00

 久々にパソコン語りです。「あー、懐かしいなあー」と思っていただければ大いに結構です。

 僕は高校生になっても懲りもせずパソコン大好き。当時、メンタルヘルスという言葉は余り一般的でなかったと思います。できることを、組めるものを、やれるだけやる、というのが学校の方針でした。

【MSX2デスクトップマシンとの出会い】

 すでに千葉市内に移り住んでいた我々家族ですが、当時ロケットという家電量販店に置かれていた、展示品のある商品に目が釘付けになってしまいました。「高校に受かったら、買って買って買って買って父ちゃん」と、しつっこくおねだりし続けた商品。パナソニックのMSX2デスクトップパソコンFS-52000F2でした。

 当然MSXですから、カートリッジはあるのですが、違うのは筐体とキーボードがセパレートタイプになっていたこと。真っ黒なボディ。標準2ドライブ搭載。これに「日本語MSX-DOS」や「漢字変換ROM」の2種類のカートリッジを挿して、さらに背面の拡張ボードに「RS-232Cボード」を搭載して、外付けモデムを買えば、これはもう完璧なパソコン通信環境!! 値下がりして、値下がりして、最後の1台になった途端に「今だ!!」という調子で商品を押さえ、ゲットすることができました。電話回線を「DDX-TP」(特定の電話にダイヤルすれば、パケット通信網に格安でつながるというNTTのパケット従量制サービス)にして、パソコン通信し放題でしたね。

 勉強は……勉強は……。うーん(笑)。とりあえず及第点は取れていました。数学がものすごく難しくなっていき、ついていくのに必死でした。普通科でいうところの「数学2」や「代数幾何」の代わりに「工業数理」という科目があって、それが難しかった記憶があります。

 MSXを手にしてからというもの、Z80のプログラミングに専念しました。マシン語を、自力で組むのです。MSX用のアセンブラを買って、ますますZ80にのめり込んで行ったのです。幸いにして、工業高校でもNEC PC-8001というパソコンで外部デバイス制御を行っていたので、入出力インターフェイス関連の勉強もしました。

 一方、持っているゲームは少なかった(というか、ゲーセンへ行く方が多かった)ので、MSXを持ちながらも、ゲーム機としてあまり使わなかったですね。簡単ではありますが「MSX-Window」という簡易GUIを作って先生に見せたところ、「何が楽しいの?」と一蹴。しかしこれが、実際今になってWindowsになっていることからすると、ひょっとして僕には先見の明があったのかなかったのか、それとも下手の横好きだったのか……。

【国産16ビットパソコンN5200という学習環境】

 僕が工業高校(情報技術科)1年~3年の時には、今(2008年)から26年前に発表されたN5200model05とMS-DOSのサーバ(!)MS140(当時最高速)という学習環境でした。

 環境的には、PTOS(国産OS)上で動くFORTRAN77、COBOL80、ANSI C、N88BASICといった言語環境で、系統立ててリレーショナルデータベースを学習したこともなければ、もちろんインターネットなんてものもまだ民間になく、純国産OS。LANはこのとき、もちろん10base-2(テレビの同軸ケーブルのようなあれ)で、初級シスアドなんて資格もない時代のお話です。

 当時のカタログを見ると「先進の16ビット」というキャッチコピーが泣かせますね。でも計算は滅茶苦茶速かった。カラーのモニタがめずらしかった。それにしても8インチのフロッピー!! 当時は16ビットパソコンが最先端!! 32ビットコンピュータは想像を絶するものでした。でかい外付けHDDをもってしても180MBですから、現在の32ビットパソコンからは考えられないわけで、生まれたときにはすでに32ビットパソコンが動いていた若い諸氏からは、想像もできないわけでして……。

【個性豊かな教師陣 VS 個性豊かな生徒たち】

 実習のO先生が、最初の授業の前にひとこと。「敵を倒すときは、うーやーたー」……。後で調べたら、どうやら「少年ジェット」の必殺技らしかったのですが、このギャグは、僕らの世代には意味不明でした(笑)。そのほか、個性豊かな教師陣に囲まれて、個性派の僕としては「まあ、いいんじゃない」と思っていました。

 さて、少女漫画「あぁ愛しの番長さま」(白泉社)にもあるように、工業高校はどこもハイテンションなわけですが……。例えば、学校帰りのゲーセンでは「やべ、千葉工業だ」と言わんばかりに「大人が座席を譲ってくれる」といったありがたい環境で、歴代の先輩方に感謝したいです(え?)。また、エスケープこそはしませんでしたが、学食へ一番乗りして定食をむさぼり食う、近所の駄菓子屋でおやつをむさぼり食う、千葉駅で焼きそばをむさぼり食う、駅弁をむさぼり食うなどしていました。何だか学校に食べにだけ来ているみたいですねえ。いちおうスタディ要素はあったのですが、なにせ色気より食い気が……。

 また、ある日のこと、僕が独りで道を歩いていると、20代ぐらいの目つきの悪そうな兄ちゃんが、案の定、僕のところへカツアゲに来ました。けれども、僕の方が戦略的に勝っていました。「オレはいま、74円しかない」(といって財布の中身を見せる)そして「貧しい千葉工業からカネを取るんじゃない。狙うのだったら……狙い目は……お屋敷町付近のご婦人だ。いっぱい持ってるぞ。狙うのならそっちにしろ」

 相手はすっかり戦意喪失。すごすごと帰って行く背中に向かって僕は「頑張れよー」と一声。じつは、こういう時を想定して、かんじんの千円札はズボンのポケットにありました。へっ、ざまあみろ、お前とオレとの頭脳の違いだ。

 県立図書館へ勉強をしに行くために、自転車で2ケツで走っていたところ(あかんやろ)、パトカーがやってきて「そこの自転車、止まりなさい!!」「うわー」……パトカーを撒くのに必死で路地に入ったり、道を迂回したりして、ようやく日の暮れる頃に図書館に到着。結局、同乗の同級生からは「もうー、やめてよー」という声が(苦笑)これって、もうすでに時効だからいいですよね(笑)。あくまで「勉強」しに行ったので、今から思えば、何も必死に逃げることはなかったのですが……。

 また、ちょっとだけ威張っておきますが、千葉市内高校対抗のスピーチコンテストに、なんと「暗記部門」で学校代表として出させてもらい、そこで言ってのけたひとこと。“I'm sorry, I foget of all now, sorry...”

 ……そう、僕はアタマが真っ白になって、思わず謝っちゃったんですね。で、外国人の先生に「そんなに落ち込むことはないですよ」となぐさめられ……。おかげで英語の評価は「9」から「10」にしてもらえたのですが。

 現在でも、情報技術科の部長先生とは親交があり(というか、こちらが一方的に親交させてもらっているのですが)、例えば技術評論社の「TINAアナログ/ディジタル回路シミュレーター」を贈ったり、NECさんのC&Cフェアなどの招待状があれば、僕は近畿在住で幕張メッセにはおいそれと行けないので、代わりに行っていただいたり……と、いろいろしています。

(まだまだ続いちゃう)

ここじゃないどこかへ

2008/10/19 14:00:00

 取り返しのつかない失敗をすると、もう地球上で自分の居場所がなくなったような気分になって怖いのですが、悩みも、悩んで悩んで悩み抜いて、いっそ突き抜けてしまえば、答えはあっさり出るものです。学歴ごときで命を落としていたら、いくら命があっても足りません。たとえ死ぬとしても、先にもっともっとやれることはあるはずです。

【当時、どうしようもなかった気管支喘息】

 14歳から15歳にかけて。もともと、北九州市で6歳から公害病認定患者だったので、気管支が生まれつき弱く、風邪をすぐにこじらせるケースがありました。マラソンをすれば、途中で倒れてテオフィリン(気管支拡張剤)の点滴を受ける、すぐに扁桃腺が腫れて発熱する、などといった具合でした。まだ、良い抗生物質や、抗アレルギー剤が出回っていなかった頃のお話です。

 現在では血液を測定さえすれば、IgE抗体を測ってアレルギーの強さを知り、また、何アレルギーかが特定でき、どんな薬を呑めばいいのかがはっきりしているのですが、当時の医学はそこまで進んでいませんでした。

 当時の我が家は、私立高校を併願できるような経済状態になく、あくまで公立高校単願、という前提でお話が進んでいたのですが、ろくに運動もせず(できず)、漢方療法も失敗し、喘息の発作をコントロールすることもできないまま、いよいよ高校(この年の新設校)の試験の当日を迎えることになりました。

 試験当日、会場となった高校で、僕は気分の悪さを訴えて、あらかじめ保健室での受験を余儀なくされていました。そこで、間が悪く、喘息の発作を起こしたのだから大変です。鉛筆を握るどころか、急性の呼吸困難に襲われて「ち、父親に、き、吸入器を持参してもらってください……」と試験担当官に言い、急遽、自家用車でかけつけた父親が、AC電源で動くコンプレッサーと、吸入液、硝子製の吸入口(ネブライザー)を持ってきてセッティング。「コフー、コフー、ぜいぜい、ぜいぜい……」

 それを見た担当試験官たちの「こりゃもうダメですな」「ええ、無理そうですね」というひそひそ話がこちらにも丸聞こえで……。試験の成績や、内申点は良かったのですが、僕にとっては初めての挫折らしい挫折を味わうことになりました。そう、その年新設された県立富里高校、実はスポーツを中心とした学校だったのです。

【私立高校を併願していなかったため】

 それはもう、高校を落ちたショックというか、それまで自分なりに積み上げてきたプライドがガラガラと音を立てて崩れていく様子は、傍目にも目も当てられない状態。お日さまが見られない、郵便局員さんの顔をまともに見ることができない、家から出られない、部屋から出られない、最悪、ベッドから出られない……。当時、病院の神経科で「自律神経失調症」の診断が下ったのはそのときでした。今ではあまり使われなくなった「ハルシオン」を呑んでひたすら寝ていました。

 それよりも何よりも、例えば来年、近所の普通科を目指せば、どこかの高校には「同い年の先輩」がいることになるわけです。そんな奴に向かって「誰々先輩」と言えるはずもなく、果てしなくプライドが傷つき、ひたすらムカつきながら考えて、考えた挙げ句に出した結論が「全県区の学校」という選択肢でした。ここじゃないどこかへ行けば救われる……。そう思ったのです。その時点では、この際、工業科でも商業科でもどちらでも良かったのです。

【ここじゃないどこかへ】

 一度落ち込むと救いようがないのですが、一度光を見いだすとこんなにもポジティブになれるものかと自分でも思いました。千葉県立千葉工業高校に、コンピュータを学ばせてくれる学科がある。それは昭和61年当時では珍しかった「情報技術科」でした。これならばいけそうだ。パソコン大好き人間の僕は奮い立ちました。

 それを受けて、当時の中学の担任 M先生が、卒業生であるはずの僕を、放課後や夏休みに学校へ招いてくださり、数学のスパルタ特訓をしてくれました。スパルタといっても、情熱のあるスパルタだったので、それなりに我慢ができ、勉強の理解も進みました。

 数学は、イマジネーションで解く国語や社会と違って、「解法パターンの反復練習」という意味だということを教わり、どちらかというと「アタマだけでやるスポーツのようなものだ」という印象を受けました。問題を、ひたすら繰り返し解く。それまでコンピュータ任せにしてきた数学が、より一層分かるようになりました。

 やがて試験を迎えます。試験は順調に進みました。ただ、数学は及第点で、国語・社会・英語のみで偏差値をつり上げ、偏差値60の千葉県立千葉工業高等学校 情報技術科に無事入学を果たすことができました。足の遅い周回遅れのランナーが、何とかようやくゴールできたわけです。高校の合格発表に自分の番号が出てきた時、担任のM先生が一緒にいてくれました。感動の一瞬です。溜飲が下がった一瞬でした。

 後日、中学校へ行った際には、普段滅多に泣かない理科のH先生が、涙目で僕を迎えてくださいました。なんでも、僕の1年後輩の男子生徒S君が、受験を苦に、東関東自動車道へ飛び込んで自殺したので、担任のH先生は、よけいに涙目になっていたのでしょう。受験で成功したはずなのに、難関校に現役合格を果たしたというのに、勿体ないことを……。

(またまたパソコンの話題へと続きます)

コンピュータに没頭する毎日

2008/10/11 14:00:00

 さあ、今回からいよいよ本題に入ります。もし15歳からパソコンをやってこなかったら、僕の人生はもっと変わっていたでしょう。今年はパソコンに携わって23周年の年。でも、決してパソコンしか知らない、パソコンヲタ、という訳ではないのですが……。

【漫画が上手に描けなかったから……】

 中学校時代。当時は面白いアニメーションや漫画がたくさんあり、友達の中には教育ママから、高校受験を控えて、漫画本の処分命令を受けていた人もあり、なるほど、今思えばコミックマーケットが誕生したのも無理はないなあと思います。漫画の同人誌のまねごと(今でいうコピー誌)なんかもやったりして、当時から同人要素はかなり高かったと思います。

 ただ残念なのは、立体を平面に書き表す才能に恵まれていなかったのか、重度の縦乱視だったのか、ともあれ画力がなかったのが一番のネックでした。そこはそれ、漫画が上手に描けなくても読むことはできたので、今後予想される危機的状況を前にして、のんびり、まったり漫画やアニメを見ていたのでありました。「勉強? 何ですかそれは?」といった状態がじわじわと進行していくのでありました。

【ワープロ・キャノワードとの出会い】

 当時中学1年生。町内会では「そんなもの高すぎる」と導入に反対する人が多かったのですが、Nさんという町内会長が、マンションの町内会室に導入したのが、当時最新のワープロ専用機、キヤノンの「キャノワード」でした。当時の金額で約16万円したのかな。住み込み管理人のTさんに借りて、ひとりで文章を入力しては、ローマ字タイプの練習をしていました。

 画面はモノクロでも高精細で、これといってスキャナもなく、黒だけのインクリボンだったのですが、繰り返し使われた使用済みのインクリボンで来る日も来る日も自分の小説(らしきもの)を作っては、ひとり悦に入っていました。「ローマ字でかなを入れたら漢字になるって……ワープロすげー。これって中に入っているのはコンピュータだろう? しかも、3.5インチフロッピーに記憶!! すげー!!」とひたすら感動したのでした。

 たまに「高価なインクリボン」を使わせてもらったら「カラーだ!!」と、ひとりでうひゃうひゃ喜んでいました。完全に病気ですね(苦笑)

 今から思えば、これが僕の「未知との遭遇」でした。ですので、ひたすら、国語力だけは勝手について行きましたが、肝心の数学は……数学は……。

【8ビットコンピュータ・MZ-2000との出会い】

 当時中学2年生。そんなワープロ漬けの僕を見るに見かねて、少しでも数学の勉強に目覚めるようにと、父親が甥(僕の従兄)に頼んで、シャープのMZ-2000なるコンピュータを与えてくれたのでした(無償)。漢字は高額なオプション。モノクロのCRT。そしてOSはカセットテープからFSK信号を使ってダウンロード。それからBASICなるカセットを入れて、ようやく起動、という仕組み。

 なお、父親の甥というのは当時、日本ユニバックでSEとして働いていたNさんです(後に日本ユニシスになり、その後シスコシステムズ、退社してプロケット・ネットワークス・ジャパンの日本法人社長になって、それも辞められた後は、別の業界へ行かれました)。

 僕は、プログラムの取扱説明書を読んで、その通りに打ち込むと、例えば二次関数が出るとか、簡単なゲームができるとか、そういったことに感動しました。まだファミコンもなく、任天堂は「ゲームウォッチ」と呼ばれる簡単なミニゲームを出していた時代です。今ではVisual Basicはオブジェクト指向などで敷居の高いものになってしまいましたが、当時はBASICインタプリタそのものが覚えやすく、自分で組んだプログラムがすぐに動くという点では、今よりも取っつきやすかったのではないかと思います。このMZ-2000、見方を変えれば、今でいう「関数表示ができる高機能な関数電卓」なみの性能はゆうにあったかと思います。

(つづく)

アンコントローラブル

2008/10/04 16:00:00

 今回は、ある意味、僕の強運と、ある種の悲しみをお伝えしなければなりません。単独機としては世界最大の犠牲者を出した、日航機123便のお話です。もしかしたら、乗り合わせていたかもしれない、と思うと、今でも背筋が凍る思いがします。

【日航機123便と新幹線の僕と携帯ラジオと】

 「大阪の実家に帰らせていただきます」。頑固一徹の父親の横暴に耐えかねた母親が、僕を連れて急に大阪へ行こうと言い出したのです。僕はてっきり夏休みの観光旅行だと思い、うわあ、新幹線に乗れる、おばあちゃんたちに会えるといった、天然丸出しの無邪気さでした。ところが、母親はなぜかのっぴきならない苛立たしさを全身に漲らせていて、子供にはその怒りがどこから来るものなのかが全然分かりませんでした。

 当時、田所は15歳。昭和60年(1985年)8月9日、下りの新幹線で来阪したのでした。宿泊先は旧ホテル阪神(西梅田)でした。3泊4日の滞在予定でした。その間、母親がどういう会話をしたのかは不明でしたが、伯母の「あんたら一体どうしたん?」という声がなぜだか印象的でした。

 8月12日、国鉄立花駅(兵庫県尼崎市)から新大阪駅まで普通電車に乗りました。僕は、魔が差したのか、いつもは立ち寄らない新大阪駅のキオスクで、1100円のポケットAMラジオを衝動買いしたのでした。「また、あんたはしょうもないもん買うて!!」と母親に怒られたのですが、欲しいものはどうしても仕方がないので、自腹を切って買いました。新大阪駅の構内でご飯を午後5時に食べて、午後6時台のひかり号で東京を目指したのでした。南側の窓側に陣取った僕は、先程のAMラジオを点けてみました。一番感度が良い(音声出力が大きい)AM放送局は、NHK第1放送だということを何となく知っていたので、地域によって頻繁に変わる周波数にもだいたいチューニングが出来ていました。

 浜松を過ぎた辺りで、不意に聞こえたNHKのアナウンサーの声が、いつになく緊張していました。臨時ニュースの模様でした。「番組の途中ですが、東京のスタジオより臨時ニュースをお伝えいたします。東京航空交通管制部によりますと、午後6時過ぎ、日航機123便、羽田発伊丹行きの機影がレーダーから消えたとのことです。なお、機影が消えた地点は長野県の山中であると思われます。繰り返します……」という第一報を伝えたのでした。

 当時の新幹線0系には、車内ラジオも、電光ニュースもない状態でしたので、日航機123便の事故の第一報を知っていたのは、おそらくラジオを聴いていた僕だけでした。子供心に、大変なことが起こっている、と感じました。「なあお母さん、羽田発伊丹行きの飛行機の機影が消えたらしいよ」と伝えると、母親は無言でうなずいていました。

 母親は本来、飛行機が大好き。今から思えば、もし、出発日時が遅れていたら。もし、羽田発の飛行機を選んでいたら。そう考えると、背筋が凍る思いがします。午後11時、国鉄成田駅から富里市の自宅に帰宅した僕たちを待っていたのは、テレビの臨時ニュースを食い入るように見つめていた父親の姿でした。ふと僕らを振り向くと、こう言いました。

 「お前ら、大阪行きの飛行機が、いま大変なことになっちょるぞ……」

 犠牲者のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

(次回からは情報技術にかかわる記事です つづく)

それが夢ならば

2008/09/27 16:00:00

 皆さん初めまして。インフラ系SEの田所稲造(HN)です。本名も田所なのですが、もう少し賢そうな名前です(え?)。

 このコラムでは、1970年生まれのN5200model05やZ80アセンブリ人間が、これから初めて情報技術者を目指す若者の皆さんに、生きていくためのメッセージなどをお伝えできればと思っています。

【はじめに】

 現在のように、まだ明確なキャリアパスや、メンタルヘルスや、インターネットやRDBすらなかった時代の人間の失敗談を含めて、お伝えできればと思います。例えば、親御さんのカネで大学に行けた人は、ご自身の努力もさることながら、親御さんの力も大きいわけです。まるできら星の如く、優秀な方がおられるこのコラム内にあって、工業高校 情報技術科の無頼で低学歴な人間の言うことですから、恵まれた方へのメッセージというよりも、どちらかと言えば恵まれない境遇の方へのメッセージを、生きることが困難な時代だからこそ分かち合おうというコラムです。楽しい読み物にしていくつもりですので、まったりと付き合ってください。

【2代目のお坊ちゃま社長になる予定を変更して……】

 今をさかのぼること昭和50年代に、父親の事業が、手形の裏書き(保証人詐欺)で失敗したので、借金取りこそ来なかったものの、北九州市 小倉の家はなくなり、追い立てられるように家を明け渡したのが9歳の春。東京 吉祥寺の父方の親戚を頼って、川崎市 宮前平に引っ越しました。その時点で父親の「九州グラスロン」は消えてなくなり、一族の「スラッグウール工業所」は新日鐵化学を経てやがてニチアスのものになり、現在では別な名前の会社になっている模様です。

 ですので、今頃父親の事業が成功していたら、鉄冷えの街で断熱材屋の2代目社長をつとめていたところです。いま思えば「継がなくて良かった……」と感じています。コンピュータに巡り会うこともなかったでしょうし、何でも電話とFAXで済ませているようなローテク人間になっていたと思います。

【何でも買い与えられていた甘ったれが、突然放り込まれた都会で】

 僕のような転校生も、地元宮前平の人間も、お互いまだ小学生ですから、悪気はないのでしょうが、まず方言を馬鹿にされました。北九州では机を「繰る」のに対して、宮前平では机を「かたす」と言いました。また、転校生をいじめてやれ、と考える子供は今も昔も、どこにでもいるものでして、のどかな九州テイストをかもしだしていた僕は格好のターゲットになりました。公園に呼び出され「何が気に入らないか知らんが、殴るなら殴れ」と言う僕に、遠慮会釈もなしに殴りかかってきて、3対1。ボッコボコでした。全身青あざだらけで帰宅した僕を、母が見るに見かねて小学校に相談しに行きました。結果、学級担任が「卑怯者、みんな彼に謝れ!!」ということで一件落着したのですが、都会というのはおそろしいところだと子供心に感じました。

【それが夢ならば】

 近所の医者の息子が「某大手中学進学塾」のたまプラーザ校に入校しているという噂を聞きつけて、母親が「同じところに行きなさい」と命じたのでありました。中学進学塾がどういう所かも知らずに。そこでは、トリッキーな問題ばかりが書かれたテストが毎日のように配られ、点数化され、Aクラス、Bクラス、いちばん出来の悪いCクラスといった具合に、実名でリアルタイムに序列化され、廊下に模造紙で貼り出されてゆくのです。これは子供心にプライドが傷つきました。

 最初はその医者の息子さんに合わせてAクラスで入学したのですが、夜更かし勉強しても追いつかず、喘息を出してまで頑張ったのですが、Bクラス、Cクラスと落ちていき、友達との溝も深まる中で、最後には宮崎台の駅でひとり泣き出す始末で、別の友達が声をかけてくれた時には「もう嫌だあああ」と泣き崩れて、なぐさめられ、結果、中学進学塾をあきらめざるを得ませんでした。その後「あら、そんな所とはつゆ知らず、ごめんねー」と母親が……。当時の進学事情を全然わかってなかったんですね……。

 進学塾がくれた校歌のレコードのB面には、小椋佳さんの「それが夢ならば」という歌が入っていました。マルコ・ポーロの冒険のエンディングのひとつですね。どんな時も、どんな人も、どんな事も、どんなものも、それが夢ならば――。

【大自然あふれる千葉県富里市で】

 当時、小学5年生。仮住まいだったので、たとえば埼玉 小手指や入間、横浜 金沢文庫、神奈川 本厚木など家を探し、実際に見に行きましたが、結果的に落ち着いたのが千葉の京成成田でした。当時のスローガンが「第二の田園調布を目指す日吉台ニュータウン」というのがキャッチコピーでした。第二の田園調布っていったい……。確かに「田園」はありましたが……。

 大自然あふれる富里市でしたから、宮前平とは全然違いました。教育としてはむしろ「身体を鍛えなさい、心身の調和」を目指していた模様で、確かに身体の鍛えられた生徒が、体育館のなわを、するすると昇って降りていく様を見るにつけ、全然違うなあ、僕にはできないなあ、という印象を受けました。

 ただ、小学校の勉強は、すでに連立方程式を勉強しているぐらい当時すごかったので、困ることはありませんでしたが、この時の油断が、後の「勉強嫌い」を生じさせる元になったんですね。油断は禁物です。

(つづく)

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コラムニスト プロフィール

田所憲雄
千葉県立千葉工業高等学校情報技術科→兵庫県立青雲高等学校→ポリテクセンター兵庫→放送大学(ベンチャー企業論)を経て、インフラ系システムエンジニア。大阪商工会議所個人特別会員(~2009年度)、尼崎商工会議所個人特別会員(2010年度)。

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