筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

阪神大震災

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 冷たい冬の夜空を肌で感じるこの時期。思い出すのがつらいけど、震災のことです。……まず、無事に生かされた、という事実に感謝しなければなりませんね。幾千の風になって、犠牲者の魂が神戸の空を今も包んでいます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【阪神大震災発生 震度6強の兵庫県尼崎市】

 平成7年(1995年)1月17日、午前5時46分……。尼崎市北部の住宅で……。ドーン!! ガッシャ、ガッシャ、ガッシャ……。母親が何故か、僕を素っ頓狂な声で慌てて起こしに来ました。

 「あんた、揺れたん分かっとる!? 地震やで!! 地震!!」「へ?」……寝ぼけ眼の僕は「へ?」としか言いようがなかったのですが、仕方なく起き上がって懐中電灯で照らすと、食器棚の硝子や食器が砕けて粉々になっていました。テレビやパソコンは後ろから蹴飛ばされたように、配線によって辛うじてぶら下がっていることが分かりました。夜が白み始めると共に、電気がつかないこと、ガスが点火しないことが分かりました。

 電話はランプが明滅していてダイヤルが出来ない状態に陥りました。携帯電話なんて気の利いたものもなく、当時は一部のPHS業者があっただけで、携帯電話よりポケベルが一般的に主流でした。「災害用伝言ダイヤル171」もなかった時代のお話です。電気が復活したのは午前7時2分……。その後も瞬間停電を繰り返して……。

 家の掃除をして、取りあえず会社に行かなければいけないのですが、南へ下る道路上に、山陽新幹線の高架橋が落っこちているような有様。他に家族もなく、母親に何かを食べさせないといけない、何かを飲ませないといけない。まずは水を確保するために、近所の大規模災害避難所の小学校に行きましたが、ゴミ箱に汚い葉っぱが浮いた水しかなかったのでお話にならない。

 2級河川「武庫川」の河川敷でバケツに水を汲んだのですが、そこへ陸自のヘリコプターが飛んできたので、バケツを持って空に合図を送りました。合図は届いたのでしょうか……。川の水だって、余り衛生的ではない上に、自転車に乗せるとふらふら揺れて全て路上にこぼれてしまう……。我が家では、当時の映像記録は、午前7時からのNHKニュースとして録画しています。見返す度に、胸が痛みます。

【灯油用18リットルのポリタンクを求めて、京都・滋賀方面へ】

 近所のスーパーは耐震判定がつかないので、この先ずっと休業。阪急電車で塚口に降り立つも、スーパーが開く気配ゼロ。十三で乗り換えて、阪急京都線方面へ。琵琶湖(大津市)に行くことまで想定してお金とクレジットカードを用意したのは良かったのですが、阪急淡路、茨木市、高槻市のスーパーもポリタンクが悉皆(しっかい)売り切れている模様でした。

 何とか長岡天神までやって来たものの、駅前でポリタンクを売っている気配がしないのです。おそるおそるコンビニの店員さんに聞いたところ、「郊外に金物屋さんがあるので、そちらへ行かれてみれば」といったお話。こんな日でも阪急タクシーは営業をしている……。事情を説明して、金物店へ向かうのでした。

 ハイヤー然としたクルマの到着に金物店店主は驚いた様子。「なんと、尼崎から来はった!! ささ、いま京都から仕入れたばかりのポリタンク、好きなだけ持って行きなはれ」「……あのー、何で僕がポリタンクを買うって知ってるんですか」「いやあ、午前中に神戸ナンバーのクルマが大挙して押し寄せて来たよってに、それで」「……」

 駅のホームで、ポリタンクに「阪急の水」を汲む田所。阪急の駅員にもかなり目立ち、向かいのプラットフォームで駅員同士のヒソヒソ話が絶えなかったのですが、もはやそんな恥や外聞を気にしている場合じゃないのです。武庫之荘では水がまるで出ないのです……。

 震災で一番困ったのが水の確保でした。奈良県五條市の給水車、京都府向日市の給水車、そして自衛隊の給水車……。並べども並べども、ここでおしまい。また行列。そして本日はこれにて給水終了。それでは困るので、仕方なく、地図上で最も近い浄水場を探すことになりました。兵庫県伊丹市の千僧浄水場でした。伊丹市水道局のおじさんが待機しており、「あのー、尼崎市民ですが、給水よろしいでしょうか」と問う25歳の僕。「ああ、黄色いタンクの下に蛇口がついてるから、そこから」「ありがとうございます」「それから、このアルプスの天然水も持って帰りなさい」「え? いいんですか?」「困った時はお互い様やから」。……見ず知らずの人間にくれた水もさることながら、くれた義理人情がとてもうれしくて、感謝感激でした。

【大都市直下型地震に備えて】

 むかし書きためていた記事は下記になります。放置されていたサーバに、たまたま残っていた記事です(2000年1月)。

  1. 目覚めの朝、午前5時
  2. キミはプラットフォームで水が汲めるか
  3. 無理すんな、神戸
  4. 都市直下型地震に備えて

【田所救出作戦と、通信制高校と印刷会社のその後】

 印刷会社の営業部では、いつまでたっても出社せず、連絡の取れない田所が心配になって、「田所救出作戦」を発動しようとする動きがあったそうです。一応、連絡をして良かった……。また、通信制高校からは「通学路ががけ崩れ、校舎及び校庭が損壊。通学するには危険を伴うので別途指示あるまで自宅待機」、次いで「平成7年度(4年次)の単位はすべて災害につき免除」というお知らせの郵便が届きました。通常なら「ラッキー」と喜ぶのでしょうが、ニュースで再三報道されている神戸市長田区の状況を見ていたので、それどころではない、死者を悼む気持ちが、まず先に立ちました。

 会社は全壊。3階からトイレの下水が漏る。悉皆パソコンのCRTは床に落ちている。活版印刷部門は活字が崩落して再起不能。総務部長の書類棚から割れた硝子を拾う作業を手伝って、その日は仕事なし、といった状態でした。

 その後、単位制の青雲高校は卒業。3年次で学級副委員長、4年次で学級委員長を務め、復興間もない神戸市長田区の文化祭でバザーを行ったことで成功に導きました(学校特別賞を受賞)。北海道産じゃがいもの箱を、宅急便で3箱、学校に送ったのが利いたかな。そうしてやっと、平成8年3月に84単位を取って卒業できました。通常に比べ、4単位オーバーだったのです。おかげで再び「自律神経失調症」で県立病院に通うことになったのですが……。

 また、印刷会社では、新社屋を建てようという動きがあって、実際に「エメラルドグリーン色」の小綺麗な建物が建ち、組版システムもMacとEdian PLUSが導入され、僕自身も震災間もない神戸に行き、兵庫県印刷工業組合のDTP講習を受けに行ったのですが、その後の経営はうまく行かず、平成12年1月には働ける人から(僕も)解雇、そして平成12年4月には倒産の憂き目に遭いました。ちなみに今は、その「エメラルドグリーン色」の建物は、印刷とは全く関係のない、おまんじゅう工場になっています。

【職業訓練校・ポリテクセンター兵庫】

 印刷会社は倒産しましたが、ここでも前向きポジティブな自分が遺憾なく発揮されていたと思います。弱そうで弱くない、一見もろそうで、実はしぶといんです。「タダの学校? 行っとこ、行っとこ」ってな調子で、ポジティブに進んで行きました。MOUSやMCA Platform 2000などを取得したのもこの頃です。

 まさか自分が職業訓練校に行くとは思いも寄らず、「情報システムサービス科」というところに行けば、失業保険が延長される上に、パソコンの最新知識が得られるというので、これはお得だとばかりに入所を決めました。勝手知ったるMS-DOSの基礎、勝手知ったるUNIXプロンプト、勝手知ったるWordにExcel、ちょっと昔の人間には難しいAccess、工業高校で中途半端な学習に止まらざるを得なかったC言語、そしてVisual Basic 6をマスターすることが出来ました。ちなみに、修了訓練はPCサーバでWindows NT Server上にWindows版Apacheを構築し、みんなのホームページを掲載可能にすることでした。

【初めての試験「高校・情報科」は合格率2%……】

 東京の武蔵小金井まで出かけたのですが、訓練校の先生も結果ダメでした。先生になるって難しいなあ……。それから、気を取り直して、兵庫県教育委員会、兵庫県立武庫荘高校(現:武庫荘総合高校)の「情報科教諭補佐」の試験には受かったのですが、当時はフルタイムでの勤務を希望していました(借金返さないといけなかったから)。校長先生の面接があり、細部を具体的に詰めていったのですが、どうしても授業時間だけ来て下さい、パートタイムで、というわけで、条件が折り合わなかったわけです。残念。

 (まだまだ続きます)

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