筆者は1970年生まれ。先輩から、情報技術者を目指す若い方へ生きてゆくためのコラムです。

どんなときも。 ~就職戦線異状あり~

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 高校3年生の僕は大いに迷っていました。プログラマって健康に悪いんだ……と思い込んでしまったから大変。体格は成人でも、残念ながら中身が幼かったので、職安求人をどう見て良いかわからず、これといった資格も取れず、高校側が用意した「情報技術検定」「計算技術検定」さえあれば、この世の中これで行けると思い込んでしまったから、さあ大変。


【プログラマは大変やで、という、顔色が悪いS先輩のお話】


 ちょうど、部活動をしていた僕のところに、1年先に卒業したS先輩が来ました。S先輩は勘定系のプログラマをしていて、毎日毎日COBOLばかり組んでいて、すっかり頬はやせこけ、顔が白くなっていました。血色が不良というか、なんというか。半病人というか、ほぼ病人のようでした。なんでも、旧財閥系の銀行のシステムを組んでいるのだが、なかなか帰らせてもらえない、全銀協手順の勘定系なので、プログラムミスは、即刻お客さんの残高に影響が出る。精神的にやっていられない、というのです。

 あんなに元気だった先輩をここまで疲弊させるプログラマの仕事っていったい……と思った僕の頭の中からは、「就職先=プログラマ」という考えは消えていました。プログラムを組む人間を養成する学校で、プログラマに就かない、という選択肢が、果たしてあり得るのかどうか、しばらく考えざるを得ませんでした。「なんなら、君の口座に自動振り込みできるようにプログラムしておこうか……なんて、うっそーん」という先輩の頬は、見るからに不健康そうでした。あれから果たして先輩はどうなったのでしょうか。相変わらず、毎日毎日、勘定系のお仕事をされているのでしょうか。


【T先輩は優秀な回路設計技術者に】


 現在では、どこの会社でどうされているのか分からないのですが、某放送機材用ディジタル機器メーカーに就職された、T先輩。この方だけは何もかも優秀、文武両道で有名でした。あの人には到底かなわない、そう思いました。達観されたそのお姿……、「まるでマハトマ・ガンジーのようだ(笑)」……と、僕はそのとき思いました。

 情報棟へ行く渡り廊下の壁面、額縁に入れられたT先輩の「情報1種」の合格証書。これには、誰もがびっくり。次元が違いすぎてついていけませんでした。その後、学年単位でT先輩の会社まで押しかけて、会社見学に行ったことを覚えています。難しそうな機械や測定器に囲まれて……、「まるでバビル二世のようだ(笑)」……と、僕はそのとき思いました。いやまったく、上には上がいるものですね。


【マイコプラズマ肺炎の罹患と病室での夏】


 1年次のFORTRAN、2年次のCOBOLぐらいまでは、順調良く行っていたのですが、3年次、おかしな風邪をこじらせて、マイコプラズマ肺炎を罹患し、国立千葉病院の病室で夏を過ごすことになりました。ですので、あまり当時はC言語は学習できていませんでした。ここでC言語をやっておけば、人生楽に済んだのにね(苦笑)。

 さて、マイコプラズマ肺炎は、熱が39度程度まで上がり、呼吸困難になり、夜間救急センターに着いた頃には、脈拍・血圧とも相当危ない状態にありました。すぐに救急搬送されて一命をとりとめました。

 病室の隣のベッドにはHさんという、今にも死にそうなご老人が寝ておられました。この方は、逓信省の研究所の助手だったそうで、真空管回路の設計に長年携わっておられました。「トランジスタはオレにはわからんね」と言われると、トランジスタ世代としては何とも……。また、音楽は藤山一郎が「大嫌い」で、主にクラシック音楽をたしなまれていたそうです。ウォークマンプロフェッショナルをお貸しして、持ち込んで来られていたカセットテープを再生してあげたりもしました。「うん、いい音だ。ハイファイだ」とのこと。

 そんな夏のある夜、隣のベッドで急に「ぐえええー」といううめき声がしたので、カーテンを開けると、Hさんが悶えているのが見えました。ナースコールをすぐに押して、看護士さんを呼びました。真夜中の病室は非常に慌ただしくなりました。どうやらベッドごと、集中治療室に向かう模様です。……やがて2~3日経った頃、Hさんは天に召されたとの報せを聞きました。あれだけ仲が良かっただけに、非常に残念でした。


【勉強する意味を失い、両親が別居へ】


 次第に、父親と母親は不仲になっていきました。子はかすがいとよく言いますが、我が家の場合、かすがいは僕1人しかいなかったので、かすがい的には非常に大変でした。無職でふてくされる父親、そんな父親を見て不甲斐ないとキレる母親、頑固者同士の間に立って「もうやめようよ、仲良くしようよ」と父親の胸ぐらをつかまえて何度もそう言ったのですが、「わしゃ聞かん」という一点張り。次第に高校へ行く余力がなくなってきました。

 狭いので、台所の模様替えをしたのですが、父親が「元に戻せ」と言う、しまいには「オレの椎茸を使うな」「オレの冷蔵庫を勝手に使うな」と言い出す始末。父親は、そのうち母親の前で、消毒のつもりか、何度も臀部に殺虫剤を撒き出す始末。これはもう父親に何を言ってもダメだ、と思うようになりました。

 そのうち、父親から母親への生活費はすべてストップしてしまいました。母親は、これまでの百貨店勤務の経歴を活かして千葉そごうに就職。僕は、苛立つ父親から千円づつ毎日土下座してもらうのが精一杯でした。学級担任と学年主任の先生が家庭訪問に訪れるものの、全く効果がなく、僕は家電量販店でアルバイトする道を選びました。勉強するってどういうことだろう……。むしろ、目先のお金が大事だ……。

 何もかもを決定づけたのが、父親の「出て行けー!!」という一言。「おう、出てっちゃるわい」と応戦。やがて別居生活が始まるのでした。学校は、県立千葉東高等学校 通信制に「転出」の届け出をしましたが、フルタイムでアルバイトをしていたので、勉強をする余裕はどこにもありませんでした。千葉市内のビジネスホテルを拠点に家を探し、母親の貯金70万円で見合う賃貸物件を探し、ようやく安アパートにたどりついたのでした。


【MSXマガジンの懸賞論文で、未来のDOS/Vパソコンを言い当てた】


 僕は自分が神がかっているとか、予言者だとか、そんな妄想など抱いたことは一度もないのですが、DOS/Vマシンの予言が的中したときは「やはり!」と思いました。当時はバブル経済の終わりかけ。バイトの分際ではあるものの、高級コンポや高級パソコンが飛ぶように売れ、現在の相場よりも高い時給で働くことができたのです。

 当時、アスキーから「MSXマガジン」という雑誌が発売されていました。そこでの企画として「懸賞論文:未来のパソコンはどうなる?」というものがありました。そこで「佳作」をもらったのですが、その論文の内容は、かいつまんで簡単に言うと「現在のパソコンはスペックが古くなると筐体や周辺機器ごと買い換えなければならないので、環境にやさしくない。パーツが個別に使い回せるようにすれば、次世代のスペックを持った基盤(マザーボード)にも対応できるので、そのようにすべきでは」というものでした。

 ちなみに「佳作」の商品は三洋電機のヘッドホンカセットプレイヤーでした。しかし、これがアスキーを、はたまたマイクロソフトを動かしたのか、もしくは単なる偶然だったのか、後にDOS/Vパソコンが実現したことを考えれば、単なる偶然と考えるのは……やっぱりやめとこう(笑)。偶然ですよね、偶然。


【第一家庭電器から千葉そごうへ】


 いまはもうなくなってしまった、第一家庭電器DAC(ダック)千葉店でアルバイトをすることになりました。僕はパソコンとオーディオが得意だったので、主にパソコンの「60番台」担当に抜擢されました。とはいえアルバイトなので、正社員さんが売り上げた荷物を梱包したり、展示品のオーディオが売れた時には、新品同様に磨き上げて梱包する、毎日テレビの画面を磨くなどをしていました。当時はNECのパソコン(PC-9800シリーズ)と、エプソンの98互換機(PC-386シリーズ)、そしてワープロとその消耗品を扱っていました。ただ、バブル崩壊の波は第一家電のこの店まで及び、あえなく閉店。心機一転、母親が勤める千葉そごうでアルバイトさせてもらうことになりました。

 そこには当時「電器文化雑貨課」という部門があり、文具・レコード・オーディオビジュアル・催事場などをトータルに扱うフロアなので、そこにあるものは何でも売りました。第一家電と同じように、朝出社したらまずテレビを磨き、休みにはY係長の指示で、好きなようにPOPを書かせてもらい、品物が売れたら地階の荷捌き所まで台車を押して物流部門に届けました。また、村田機械の「エフ・ジャン・ムーラ」という、当時としては珍しいA4版FAX専用機を、正社員さんが1台も売れなかったものを、1カ月に約30台売り上げました。おかげで「田所」という名前なのに「ムーラ」という愛称がついたのですが……。

 また、玩具売り場では「金魚すくいのおっちゃん」「ヨーヨーすくいのおっちゃん」などを担当していたこともありました。くそ生意気なガキ……いや、お子様たちに「おじさん」呼ばわりされたショックは大きく、「オレってまだハタチなのに……ハタチでおじさんって一体……」と思ったものです。

 そこでは、S係長さんが売り場を仕切っておりました。撤去(催事場の模様替えをそう呼んだ)の際に徹夜で作業中にその係長さんがお亡くなりになられたことがありました。おとといまで元気に僕らの書類に捺印されていた方なのに……食堂に貼り出された「訃報」には、S係長さんの名前と、在りし日の顔写真が……。このとき堅く心に刻みました。たとえ将来、自分が仕事に生きても、決して仕事で死ぬまいと……。

 そんな時給1050円のおいしいアルバイトは長くは続かず、兵庫県尼崎市への帰郷を決めたのでありました。余程「契約社員にならへんか」と言われたのですが、そこは水島会長がトップの会社、嫌な予感がしました。事実、その後のそごうの顛末をご覧いただけるとお分かりになられると思います。当時、IT職種はまだ大阪にも多くあり、今日のようなドラスティックな東京一極集中はなかったように思います。


【親戚を救済するやり方にも礼儀あり】


 兵庫県尼崎市……。伯父の会社。慣れない2次元CADでのLPG機械設計……。僕は電子製図しかしたことがないんですが……と言っても、コネで入社してしまったものは仕方がありませんでした。ありがたく入社するしかありません。社長(伯父)から技術部長が「ダメ、ダメ」とダメ出しを受けているのをドア越しに聞いたことがありました。その腹いせか、僕に対して技術部長は「ダメ、ダメ」とダメ出しをするのです。困ったものです。江戸の敵を長崎で討つというか、この人は。技術的にはどうか知りませんが、中身が幼稚というか何というか……。

 勢いづいた社員が、新人いじめを始めました。食事に行っても僕だけには口を利かない。僕が質問しても答えない。工場へ僕の荷物を運ばない。僕を同じクルマに乗せないなどなど、きわめて陰湿。挙げ句の果てには、徒党を組んでいじめる始末……。

 当時、関西弁で上手に世渡りできるほど世の中に対してスレてなかった僕は、しまいに「せからしいんじゃお前らー!」と社内でキレてしまいました。唖然とする同僚。僕は、そのへんのモノを蹴り始めるし、いじめた奴にガンは飛ばすしメンチは切るし、それはそれはもう、すさんだ有様でした。

 親戚なのに、どれだけ残業しても弁当代が1000円って、それはないやろう、それってサビ残やろ、と今ならツッコめます。しかし、当時はシャイだったり、ぶきっちょだったりしたので、たとえば1徹2徹3徹と徹夜しても、上司からは「よくやった」のひとこともなく、ただただ病気は悪化し、やがて、試験研究費はヘンテコな試作機に費やされ、ひたすらヘンテコなものばかりができ上がっていくのでした。おかげで、機械材料をはじめ、機械系のCAD、旋盤加工などのスキルは一応ついたのですが……。

 まだまだ十分に関西に馴染んでいない事から、総務部の人間からついに「車上荒らしの容疑者呼ばわり」されて神経が限界に達し、兵庫医科大学附属病院 神経科で「自律神経失調症」の診断が下りました。嫌疑が晴れ、無実が証明されたのは、会社を辞めたあとのことでした。


(この続きは次回!!)

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