冷たい方程式(13) 女には向かない職業
2012/04/09 8:00:00
「ムツミさん、お昼に行こうか」
ムツミさんはキーを叩く手を止めると、ctrl+Sでソースを保存して、にっこり笑った。
「はい、行きます」
「あ、じゃあ、オレも」
亀井くんがそそくさと立ち上がりかけたが、あたしは冷たく拒否してやった。
「あんたはいいの。留守番してなさい」
「ええー、たまにはご一緒させてくださいよ。敬愛する先輩とランチを取りたいんですけど」
「うるさいよ」
何が敬愛する先輩だ。あたしは、ムツミさんを促してITマネジメント課を出た。亀井くんは、後ろで、何かブツブツ言っている。
「いいんですか?」
「あいつは放っときゃいいのよ」
ムツミさんはクスクス笑った。彼女が常駐を開始して2週間になるけど、こんな自然な笑顔が浮かぶようになったのは、つい最近のことだ。
最初の数日は、気の毒なほど緊張して、顔つきも強ばったままだった。席はあたしの左隣で、一番端。ドアに近いブロックなので、ITマネジメント課に入ってきた社員が、真っ先に目にするのはムツミさんの見慣れぬ顔となる。入室する社員の好奇の視線に、一日中さらされていれば、そりゃ緊張もしようというもの。
ムツミさんが常駐することを聞いて、最初は大喜びしていた亀井くんだったが、こやつの席はあたしの右隣なので、ムツミさんと気軽に話せない、ということに気付くと、露骨にがっかりした顔をした。それでも、何かと用事を作ってはムツミさんの席までやって来ようとするので、あたしは何度か睨んでやった。
渕上マネージャの斜め前、という位置も、ムツミさんが萎縮する原因の1つだった。渕上マネージャが得意な人など想像もできないけど、ムツミさんは特に苦手意識が強いようだった。仕様書の件で延々と不備事項を指摘された経験が尾を引いているらしい。
あたしはさりげなく、雑誌や資料を少しずつ積んでいき、少なくとも2人が直接視線を合わせなくてすむようにした。亀井くんも喜んで協力していた。
名字ではなく、名前で呼ぶようにしたのも、ムツミさんの緊張を少しでも和らげようとする試みの1つだった。
「片寄さん、ムツミさんと呼んでいい?」
「え、ああ、はい」ムツミさんは戸惑ったようだが、すぐに微笑んでうなずいた。「もちろんです、どうぞ」
「あたしのこともサオリと呼んでね」
「それは、ちょっと抵抗ありますけど……」
「まあ、いいじゃないの。堅苦しく考えないで」
「あ、そんなら、おれも」亀井くんが割り込んできた。「ムッちゃんって呼んでいいですか」
「あんたは一番年下でしょうが。礼儀正しく、片寄さん、と呼びなさい」あたしはムツミさんを見た。「ムツミさんは、亀井、でいいからね」
「えー」亀井くんはブツブツつぶやいた。「おれもヒデアキくんって呼んで欲しかったのになあ」
「うるさい。仕事しろ」
こうした措置の成果が上がったのか、単に日数を経過して慣れてきたのか、ムツミさんの強ばっていた顔つきも、日に日にやわらいできていた。
あたしたちは社員食堂に入った。あたしはムツミさんとランチを取ることが多いが、時間は13時からにずらしていた。混雑を避けて少しでもゆっくり食事を楽しめるように、というのが表向きの理由だった。表向きではない本当の理由は、12時ジャストに自席で弁当を広げる渕上マネージャと、食事の時間をずらすため。渕上マネージャは、食事中には仕事の話を一切しようとしない。そのため、昼食の時間をずらせば、渕上マネージャに耐えなければならない時間が、1日あたり2時間ほど減る。
大部分の社員は、12時から13時の間で昼食を取るので、食堂は空いていた。その代わり、13時を過ぎると、ランチメニューは種類が少なくなる。ムツミさんは小食だし、好き嫌いもほとんどないようで気にした様子はなかった。
あたしたちは、それほど悩むことなく日替わりカレーセットを選んだ。今日はクリームコロッケカレー。サラダの小鉢が付く。
窓際の席を選び、しばらくは仕事のことを忘れて、静かにランチを楽しんだ。幸いなことに、ムツミさんは食事のときの沈黙が気にならないタイプだった。
食事が一段落したとき、あたしは訊いた。
「昨日は何時?」
「2時には寝ました。サオリさんは?」
「あたしは12時ちょっと前かな」
「私もたまには日付が変わる前に寝てみたいです」
このやりとりは、毎日の儀式みたいなものだった。ムダだとわかっているから「もっと早く寝なよ」なんてことは言わない。
あたしと亀井くんは、原則として30分以上の残業を禁じられているので、18時には退社することになる。渕上マネージャはムツミさんの残業については制限を加えなかったが、あたしたちが帰った後に、外部の人間だけ残しておくわけにもいかない。磯貝課長は管理職で非組合員なので残業代はつかないから、ムツミさんのフォローをお願いするという手もあったが、あいにく実装面ではほとんど役に立たないから意味はない。
結局、ムツミさんも、あたしたちと同じ時間に開発グループを出るようになった。とはいえ、そんなペースでは実装作業は遅れる一方なので、自社に持ち帰って続きを進めてくれている。ムツミさんは二子玉川駅から徒歩5分のマンスリーマンションで寝起きしているらしい。ホライゾンシステムの東京営業所からも数分の距離だから、終電を気にする必要もなく仕事ができるが、それが彼女の就寝時間を遅らせる原因になっていた。
「今日はもう7回になりました」ムツミさんは、せつなそうにため息をついた。「この調子だと、午後は14回です」
「それでも減ってきてるからね」あたしは答えた。「あたしも今日は5回だった」
これも毎日の儀式だった。傍から聞けば何のことやらわからないだろう“回数”とは、渕上マネージャから、仕様書なりコードなりに指摘を受けた回数だ。あたしたちは、ひそかに「ご指摘」と呼んでいる。
渕上マネージャのマイクロマネジメントの弊害は、あたしたち正社員だけでなく、ムツミさんにまで及んでいた。むしろ、ムツミさんの方が被害は甚大だったかもしれない。
ムツミさんも、あたしたちと同様、毎日の作業日報の提出と、1日おきの進捗報告の義務を課せられている。あたしたちと違うのは、ムツミさんの場合、実装面にまで渕上マネージャ式マネジメントの手が及んでいることだった。
あたしと亀井くんは、渕上マネージャの指示により、分析と設計を担当しているので、報告することはそれほど多くはない。
それに対して、ホライゾンシステムには、ほとんどすべての詳細設計と実装をお願いしている。うちの会社に常駐しているのはムツミさん1人だけど、二子玉川にあるホライゾンシステム東京営業所では、5人から6人のプログラマが、ムツミさんの指示によって実装を行っているらしい。
本来なら渕上マネージャは、全員を自分の目の届く場所に閉じ込めて実装をやらせたかったに違いないし、事実、機会があるたびに八木社長に要請しているらしいが、今のところ実現には至っていない。八木社長の立場からすれば当然だろうが、そうなると、プログラマたちへの指示はムツミさんを通すことになる。
あたしと亀井くんが作業日報にしても進捗報告にしても、自分ひとり分の作業について報告すればいいのに、ムツミさんは、配下のプログラマ全員分の報告をしなければならない。そのためムツミさんの作業日報の枚数はあたしたちの数倍だったし、進捗報告も90分以上かけている。
「あれはちょっとムダじゃないんですか?」1日おきの進捗報告の3回め、ムツミさんの順番のとき、あたしは訴えた。訴えた相手は渕上マネージャではなく磯貝課長だ。
「進捗を確認することは必要なんだろうからね」磯貝課長は困った顔で答えた。「まるっきりムダとは言えないんじゃないかな」
「こんなに時間をかける必要はないんじゃないかって言ってるんです」あたしはリストウォッチを指で叩いた。「片寄さん、もう2時間になるんですよ。あれだけガンガン仕事を押しつけといて、そこから2時間ムダに使わせるってどうなんですか? しかも、どう考えても意味ないことばっかりですよ」
「そう言われてもなあ……あの人にはあの人なりの考えがあるんだろうし。ぼくはただのテクニカルアドバイザでしかないからねえ」
――だったら、たまにはテクニカルなアドバイスをしろよ
やがて、渕上マネージャは、進捗報告以外の時間でも、ひっきりなしに口を挟んでくるようになった。
先日、あたしたちがランチから戻ってきた途端、渕上マネージャがムツミさんに冷たい視線を突き刺した。
「君の会社はMVCという考え方を知らないのかね」渕上マネージャはいきなり問い詰めた。「それとも君が知らないだけかね」
いきなり詰問されたムツミさんは、気の毒にもすっかりすくみあがってしまった。
「すみません。どういうことでしょうか?」あたしは代わりに質問した。
「君たち、自分の席について、職位マスタメンテナンス画面のソースを開きなさい」
わけがわからないまま、あたしたちは自席に座ると、言われた通りにソースを開いた。ムツミさんが午前中にコミットした一連のロジックだ。
「233行目だ。この奇妙なメソッドは何をやっているのかね」
あたしは該当箇所までスクロールした。それは、createTree() というメソッドだった。一目見て、あたしは心の中で呻いた。
――ああ、こりゃ、ちょっとよくないなあ。
職位は必ず上位職位を持つ、階層構造になっている。このメソッドでは、職位マスタを1件づつ読みながら、その階層構造のHTMLを作成していた。
tree += "<tr><td><img src=\"../../images/dot.gif\" /><a onclick=\"javascript:selectPosition(" + positionMaster.getPositionId() + ")\">" + positionMater.getPositionName() + "</a></td></tr>";
「ロジックの中で、HTMLを組み立てるなど、やってはいけないことぐらいわからないのかね」
ムツミさんはうつむいてしまった。
「ああ、すみません」あたしは助け船を出した。「ツリー構造表示用のJavaScriptは用意してあったのですが、使用方法を伝えるのを忘れていました」
「そういう問題ではない」渕上マネージャはあたしの方を見た。「分からなければ聞けばいい。それもしないで、自分の判断で適当なコーディングを行うとは何事だ。私が気付かなければ、君が気付いて指摘していたとでも言いたいのかね」
「……」
――たぶん気付いたと思うけどね
ただ、修正しろとまで言ったかどうかはわからない。何かの機会にリファクタリングすればいいだけのことだ。それよりは実装を進めることを優先しただろう。
「すぐに修正したまえ」
「は、はい。申しわけありません」
ムツミさんは大慌てでキーボードを叩き始めた。
そのときは、これで矛を収めた渕上マネージャだったが、30分も経たないうちに、別の攻撃を開始した。
「勤怠レコード関係のテーブル設計をやったのは誰だ」
亀井くんが、おそるおそる顔を上げた。
「ぼくですが……」
「月間集計テーブルに、どうして部門IDと部門名称のカラムが必要なのだ?」
「集計表を作成するときに、部門名称が必要だからですが?」
「ムダだとは思わないのかね」
「?」
亀井くんには意味が理解できなかったようだが、あたしは渕上マネージャが問題としているポイントがわかった。正規化ができていない、と言いたいのだろう。
「この部門IDと部門名称は、部門マスタの同項目と何が違うのか?」
「同じです」
「それなら正規化したまえ」
2人の会話を聞きながら、あたしは心の中で舌打ちした。その問題には気付いていて、正規化すべき、という点については、渕上マネージャと同意見だ。ただ、できれば、亀井くん本人に気付いてほしくて放置してあったからだ。
亀井くんが担当している統計資料機能は、人事部門だけが使用するので、パフォーマンスはそれほど要求されない。まずは、機能要件を満たした後、リファクタリングの段階で、それとなく正規化の必要性に気付かせていくつもりだったのに。
と思っていたら、火線の余波があたしに向いた。
「日比野くんも、もっとしっかり後輩を監督したまえ。君が先に指摘すべきことだ」
あたしがとっさに返す言葉を見つけられないでいると、見かねた磯貝課長が介入した。
「まあまあ。日比野くんも忙しいので、なかなかそこまで気が回らなかったんでしょう」
――ああ、そんなこと言ったら事態が紛糾するだけだって
案の定、渕上マネージャはゆっくりと立ち上がった。また演説モードだ。
「テーブルの正規化は、設計の基本中の基本だ。設計の初期段階で正規化されていないと、後々の実装や保守にまで大きな影響を及ぼしてくる。私がマネジメントする以上、そんな愚かしい事態を見過ごすことはできない。日比野くん、違うかね?」
「パフォーマンスのために、あえて正規化を崩す場合もあると思いますが」
一応意見してみたあたしに、渕上マネージャは軽蔑したような視線を向けた。
「これがそのケースに該当すると言いたいのかね?」
「いえ……そうではありませんが」
「ならば自分の怠慢をごまかすな」
怒りを感じるべきなんだろうけど、無力感の方が強かった。
「分かりました。すみません」あたしは亀井くんを見た。「修正して。できたら見せてね」
「はい」
亀井くんは素直にうなずくと、ER図を開いて考え始めた……
あたしたちの毎日は、こんな感じで続いていた。設計やコーディングをしていても、いつ渕上マネージャの指摘が始まるかと、びくびくしていなければならない。作業日報作成と、進捗報告に何時間も割かなければならない。
気の毒なのはムツミさんだった。渕上マネージャのせいで、設計や実装の時間を減らされても、その分納期が延びるわけではないからだ。八木社長もときどき様子を見に来てくれていたが、何も打つ手がないようだ。
実装とは関係なく消費されていく貴重な時間、細かすぎる指摘の数々、先の見えない焦燥感とプレッシャー、連日の深夜労働が原因の睡眠不足……これがムツミさんが置かれている状態だった。まだ常駐開始して2週間だというのに、早くもムツミさんの目の下には気の毒な隈ができているし、肌も荒れ気味だ。たまに無意識にだろうが胃のあたりをさすっている。女性の美容と健康に優しくない環境であることこの上ない。亀井くんなどは、マネジメント方式がどうのという以前に、ムツミさんがつらそうにしていることだけで渕上マネージャに怒りを燃やしていた。
――こんな調子で大丈夫かな
カレーをゆっくり口に運んでいるムツミさんを見ながら、あたしは彼女の体調と、このプロジェクトの行く末の両方を心配しないではいられなかった。
(続く)
この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術・製品の優位性などを主張するものではありません。

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