ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (38) 若宮カズオのナラティブ(前)

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 私の周囲に広がっているのは、ICT センタービルの6 階、開発センターだった。ただし、雰囲気は少し違っていた。今よりもデスクの数が多く、フリースペースの場所にまで所狭しと配置されている。どのデスクにもプログラマの男女が座り、難しい顔でキーを叩いていた。私が立っているのは、現在、複合機が置かれているあたりだ。
 一番近いデスクに視線を向ける。中年太りの男性プログラマが、口の中で何か呟きながらキーボードとマウスをせわしく動かしている。使っているのが、旧型のノートPC であることに私は気付いた。メーカー名は見えないようになっていたが、かなり分厚い本体でDVD ドライブ付きの機種だ。表示されているEclipse を見ると、モニタ解像度もそれほど高くないのがわかる。
 デスクの上には、裏紙の束、数本のボールペン、ガムやチョコレートの包装、空になった数本のペットボトル、カフェイン飲料の小瓶、頭痛薬のPTP シートなどが散乱している。季節は夏のようで、USB 電源の卓上扇風機も動いていた。エアコンが稼働していないはずはないが、男性プログラマの体温を下げる役には立っていないらしく、その猪首には薄汚れたタオルがかけられている。
 不意に右手方向から声が聞こえてきて、私は視点を横に向けた。2 人の男性が歩きながら会話をしている。1 人は蛍光色ストライプのメガネをかけた弓削さんだ。外出から帰ってきたところらしく、コートとパナマハットを身につけている。
 「せめて開発用PC は何とかなりませんか。これじゃあ効率が悪すぎて......」
 話しているのは、30 代半ばぐらいで中肉中背の男性だ。どことなく見覚えがある。私が記憶を探る前に、弓削さんが答えを口にした。
 「若宮くんさ、効率が悪い、なんて抽象的なことじゃ稟議上げられないよ。そんくらい、わかんないかなあ」
 「話が違うじゃないですか」若宮さんは抗議した。「ハイスペックデスクトップPC とデュアルモニタで開発ができるということで、開発要員を集めているのに」
 「事情が変わるなんてこと、よくあるじゃない」
 「デスクトップPC が中古ノートPC になったのは、事情が変わったなんてレベルじゃないと思いますが」
 「資源の有効活用だよ」
 「図書館でも同じことやってますよね」
 若宮さんの低い声に、弓削さんは顔をしかめて足を止めた。
 「あ?」
 「古本を大量に仕入れて蔵書数を増やす予定だとか。ここの開発用PC だって、Q-LIC 関連のリサイクルショップの在庫処分じゃないんですか」
 「......」
 「しかも、開発が終わったら、ここの備品類はくぬぎ市に売却予定ですよね。保守にも開発時と同じ環境が必要だという理由で。一体、いくらで売りつけるつもりですか。新品が買えるぐらいの価格ですか」
 「君の知ったことじゃないよ」弓削さんは歩みを再開した。「とにかく、今のPC でやってもらうしかないね」
 2 人はデスクの間を縫うように歩き、管理者席に向かった。現在ではエースシステムの島がある場所に、プログラマたちの2 倍ぐらいの面積のデスクがある。2 台のモニタが接続された真新しいiMac と、スタンドに立てられたiPad があり、デスクの横には32 インチの液晶テレビ、背後のカートにはピカピカのエスプレッソメーカーとクッキーが盛られたトレイが置かれている。弓削さんは近くのポールハンガーにコートとパナマハットを丁寧にかけると、ゆったりしたレザーアームチェアに腰を下ろした。
 「まだ何かあるの?」
 「機能追加のことです」若宮さんは疲れたように言った。「先週だけで38 件の機能追加が増えています。見境なしにクライアントの要望に応えるのは何とかしてもらえませんか」
 「小さい要望ばかりじゃない。顧客満足度を上げるためにも頼むよ」
 「今の人数では無理です。すでにキャパオーバー状態なんです」
 「人ならいくらでも増員すりゃいいじゃん。それに関しちゃ、KID の方で十分な予算組んでるはずでしょ」
 「増員しても、その分、抜けていったら、全体のスキルは下がる一方です」
 「そこを何とかするのがPL の仕事だよ。違う?」
 弓削さんはそう言いながらiMac にログインし、マウスを動かした。すぐにデスクの両端に配置されたスピーカーからジャズが流れ出す。近くのデスクで作業中のプログラマたちが迷惑そうに顔を上げたが、ムダだとわかっているからか抗議する様子はなかった。
 「それも何とかなりませんか」
 「は?」弓削さんはわずらわしそうに若宮さんを見上げた。「何が?」
 「その音楽です」
 「BGM だよ。コルトレーンだ。いい音楽を聴くと心が豊かになって余裕が生まれるんだ。結果的に良い仕事ができるってもんだよ。若宮くん、君もたまにゆっくり音楽でも聴くといいぞ。いつも眉間にしわ寄せてないでさ」
 きっと、誰のせいでしわが寄ってると思ってるんですか、ぐらい言いたかったのだろうが、若宮さんは何も言わずに踵を返した。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 周囲が暗転し、私は小会議室に座っていた。私の隣に若宮さん。向かい側に2 人のスーツ姿の男性が座っている。
 「考え直してもらえませんか」若宮さんは言った。「スクエアシステムさんに抜けられると困るんです。4 人とも優秀なプログラマですし、かなりコア部分の実装を担当してもらっています。すぐに代わりが務まるポジションでもないんです」
 「若宮さんには申しわけないと思うんですが」1 人が残念そうな口調で答えた。「うちのメンバーも、もう3 人入れ替わっています。田中はまだ入院中ですし、残りの2 人も身体を壊しています。今のメンバーからも退職を考えているとさえ言われてるんですよ」
 「できれば続けたいんですが」もう1 人が、やや冷たい口調で続けた。「これ以上メンバーを壊されては、今後の仕事に差し支えるので。うちはKID さんと違って、くぬぎ市の専属システム屋、ってわけじゃないのでね」
 「私の方でも労働環境が改善されるよう、いろいろ働きかけてはいるんですが」
 「でも、効果がないんじゃ仕方ないですね」
 「......」
 「ああ、いえ。若宮さんを責めているわけではないんです。うちのメンバーも若宮さんのことは尊敬してると言ってましたから」
 「単価を上げるように交渉してみますが......」
 「いくら単価が上がってもね。過労死ライン突破して、さらにむち打たれるんじゃ、ちょっと割に合わないですよ。とにかく、今月いっぱいで、うちのメンバーは引き上げさせてもらいます」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 壁のデジタル時計は2:05 AM を示していた。誰もいなくなった開発センターに、若宮さんが1 人残ってキーを叩いている。テストケースを作っているようだ。
 「ふう」
 若宮さんは手を休めてメガネを外すと、目の周りをマッサージした。全身を重たい疲労が包み込んでいるようだ。
 デスクの右側にダブルクリップで留めたプリントアウトの束が置いてある。表紙には、こう書かれたポストイットが貼ってあった。
 「水曜日10:00、議員さんたちが見に来るからよろしく!」
 その隣に置いてあったスマートフォンが振動した。若宮さんはスマートフォンを掴んで表示を確認した。その表情が柔らかくなる。
 「はい......うん、まだ仕事だよ......どうしても明日の朝までにやらないといけないのがあってさ。キャンセルしちゃって悪かったね......そうだね、俺も、久しぶりにあそこのハンバーガー食べたかったよ......うん、うん......え、いや、見てないなあ。時間なくて。うん......ハハ、そうだね、買っといてくれる? ネット見てるヒマさえなくて......うん、じゃあ、またLINE するから。おやすみ」
 通話を終えた若宮さんの顔には温かい笑みが浮かんでいた。スマートフォンを置いた若宮さんは、ぐっと伸びをして身体を左右に軽く振った。置いてあったペットボトルからミネラルウォーターをゴクゴク飲み、大きく息を吐き出した。
 「よし、やるか」
 再びモニタに向けた若宮さんの顔からは笑みが消えていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「え、何?」
 怪訝な顔で訊き返した弓削さんに、若宮さんは同じ報告を繰り返した。
 「昨日言われた、図書検索サービスのユーザ機能です。今日の朝、市議会の視察があるんですよね。何とか形にしたので......」
 「ああ、あれか。あれは延期になったよ。言わなかったっけ」
 「......いつですか」
 「昨日の昼だよ。進捗報告会議で」
 「聞いてません」
 「そっか。ま、今、言ったってことで。あ、会議、遅れないでよ」
 弓削さんは、若宮さんの肩をポンポンと叩くと、どこかへ行ってしまった。言葉もなく立ち尽くす若宮さんに、顔を歪めたプログラマが近付いた。首から<サブリーダー>と書かれたID を提げている。
 「昨日、一昨日で、この作業に3 人をアサインしたんですよ」サブリーダーは怒りを抑えきれない声で囁いた。「昨日の深夜1 時までかかって実装を終えて。その後、若宮さんが朝までテストしてたんですよね。それなのに、あの野郎......」
 「それぐらいにしておけ」若宮さんは何とか笑みを浮かべた。「確認しなかった俺も悪い」
 「Q-LIC の奴ら、俺たちのことを単なる消耗品としか見てないんですよ。あの弓削なんて、その筆頭ですよ。俺たちの名前すら覚えていない。なんでそんな奴をかばうんですか」
 「かばっちゃいないよ。あの人だって、いろいろ忙しいだろうからな。うっかりすることはあるだろうさ。悪いけど、もう一度、アサインし直し頼む。俺は、これから学校システムの打ち合わせだ」
 「寝てないんでしょ?」サブリーダーは心配そうに若宮さんの顔を見た。「昨日だって泊まりで、30 分ぐらい仮眠しただけなのに。今から少し仮眠したらどうですか」
 「そんな時間ないよ」若宮さんは時計を見た。「あと10 分で開始だ」
 「それこそ延期してもらえばいいんですよ。Q-LIC 側の連絡ミスなんですから」
 若宮さんは苦笑した。
 「くぬぎ市から見れば、KID はQ-LIC の一部門みたいなものだ。資本の30% はQ-LIC の子会社から出てるからな。Q-LIC のせいで寝てないから会議を延長してくれとは言えんよ」
 「でも......」言いかけたサブリーダーは諦めたように頷いた。「わかりました。でも、会議終わったら、今日は帰って寝てくださいよ」
 「ああ」若宮さんは短く笑った。「さすがに疲れたからな」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 「若宮くん、ちょっといい?」
 弓削さんの呼びかけた声に、若宮さんは足を止めて振り返った。
 「何でしょう」
 「ほら、会議でさ、スケジュールの遅れがちょっと話題になったでしょ」
 「それが何か」
 「いやさ、ここんとこ、何かと手戻りが多いでしょ。やっぱりちょっと気が緩んできてるんじゃないかと思うんだよ。モチベの低下っていうか」
 「......」
 若宮さんは何も反論しようとしなかった。きっと、言葉を交わしていることさえつらいのだろう。
 「だからさ、みんなに気合いを入れるために、午後から私がちょっと話をしたいんだよね。13 時にみんな集まるように言っといてもらえるかな」
 「何の話をされるんですか」
 「うん。この仕事がいかに大切かってことかな。ま、ちょっとした叱咤激励だよ。形式的なもんだから。ほら、市議会の方も心配してたからさ。何も手を打たないってわけにはいかないじゃない」
 「わかりました。短めにお願いします。みな忙しいので」
 「もちろん、簡単に済ませるよ」
 場面は開発センターに変わった。プログラマたちが見つめる前で、弓削さんが話している。
 「......つまりね、君たちには、この事業がQ-LIC にとってただのビジネスでは済まないものであることを肝に銘じておいてほしいんだよね。くぬぎ市を皮切りに、全国の地方自治体にぎわい創出ビジネスを展開していく予定だってことは、前に話したかな。だからファーストケースでつまずく、なんてことがあってはならんのだよ。もちろん、くぬぎ市にとっても同じことが言えるね。だからこそ、スケジュールが遅れていることに、市長は非常に心を痛めておられるんだよ。君たちにはそこんとこヨロシクって感じで、もうちょっとスピードアップしてもらえないかな。もちろんクオリティを落としていい、なんて言ってるんじゃないよ。それは論外だからね」
 若宮さんはちらりと壁の時計に視線を走らせた。14:00 を数分過ぎている。小さくため息をついて前を向いたとき、弓削さんが若宮さんを睨んだ。
 「おい、若宮くん」弓削さんは怒鳴った。「人が話しているときによそ見をするんじゃない! そもそも、スケジュールが遅延しているのはPL の責任なんだぞ。そこんとこ、わかってないんじゃないか。ちょっとたるんどるよ。PL がそんなだから、他もだらけるんだよ。少しは責任感ってものを持ったらどうなんだね」
 若宮さんの顔に怒りが走った。若宮さんは口を開いたが、しかし、言葉を発する前に目から光が消えた。若宮さんは膝から崩れ落ち、受け身を取る間もなく床に転がった。女性の悲鳴が響いた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 若宮さんは病院のベッドに寝ていた。腕には点滴が繋がれている。窓から差し込む西日が、無精髭の伸びた顔を照らす。安らかな眠りには見えない。まるで夢の中でも何かに抗っているように、瞼が時折動いていた。
 ドアが開き、花瓶を抱えたビジネススーツの女性が入ってきた。顔は見えない。ベッドサイドテーブルの上に花瓶を置いた女性は、窓に近付いて静かにカーテンを閉めた。そのまま椅子に座り、ベッドから出た若宮さんの手をそっと握る。
 どこかからバイブ音が聞こえた。女性はポケットからスマートフォンを出し、表示を見つめた。
 「ごめん」女性は囁いた。「また来るね」
 女性は立ち去った。残された若宮さんは苦しそうな寝息をたてた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 若宮さんが開発センターに入ると、気付いた何人かのプログラマたちが立ち上がって出迎えた。
 「もういいんですか」
 「ちょっと痩せましたね」
 「あまり無理しないでください」
 嬉しそうに礼を言う若宮さんに、弓削さんが近付いた。
 「やあ、若宮くん」
 若宮さんの表情が少し曇ったが、弓削さんは気にせず言った。
 「復帰早々悪いんだけどね、<Q-FACE>関連のインターフェースで大幅に修正が発生してね。急いで見て欲しいんだよ」
 怒りの表情を浮かべたサブリーダーが進み出た。
 「それなら私が改修点をまとめて......」
 「ああ、いいから」弓削さんは遮った。「やっぱりここはトップにやってもらわないとね。とても大切な機能だから」
 若宮さんはサブリーダーの肩に手を置くと、弓削さんに頷いた。
 「わかりました。いくつか確認したいこともあるので、30 分後でいいですか」
 「頼んだよ」
 弓削さんがどこかに行ってしまうと、サブリーダーが噛みついた。
 「何なんですか、あいつ! 誰のせいで若宮さんが一週間も入院したと......」
 「まあ、そう言うな。あの人はあの人なりにプロジェクトを進めようとしているんだから。システム開発は素人だ。多少、おかしな進め方をしたとしても、そこはプロの俺たちが補正してやればいいんだよ」
 「そうですが......」
 「それより」若宮さんは自席に歩きながら訊いた。「<Q-FACE>がらみの修正って何だ?」
 「ちょっと変な話なんですよ。11 月に<Q-FACE>が導入される予定ですよね。市内の書店やスーパーとかですけど。で、<Q-FACE>の顔認証用に学校情報システムの生徒情報を転送するインターフェースがあるじゃないですか」
 「もうテストも終わってるな、あれは」
 「その転送項目が大幅に増えてるんです。まとめて共有に入れてあります」
 「助かるよ」
 「あと」サブリーダーは声を潜めた。「それに合わせて、現行の学校システムにも手を加えろって」
 「現行システムに?」若宮さんは眉をひそめた。「新システムではなくてか」
 あまり知られていないことだが、私たちが構築しているKNGSSS は、くぬぎ市の学校情報システムとしては三代目にあたる。今、若宮さんが口にしている「現行システム」とは初代システムのことで、都内のソフトウェアハウスが発売しているパッケージをカスタマイズしたものだが、新市長がQ-LIC と市政アドバイザリ契約を締結した直後、KID に保守が委譲されている。
 「あれはソースがないモジュールもあるから、あまり手を入れたくないんだがな」
 「私もそう言ったんですが」
 「わかった。とにかく仕様を確認してみよう」

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 私は再び小会議室にいた。若宮さんとサブリーダーが弓削さんと向き合っている。
 「仕様、確認しました」
 「そっか」弓削さんは嬉しそうに言った。「で、11 月の<Q-FACE>稼働に間に合うかなあ」
 「その前に確認したいことがあります」若宮さんは手元のプリントアウトに目を向けた。「学校システムの方から<Q-FACE>へ、生徒の氏名や住所、生年月日、性別を転送する仕様ですが、これ、何のために必要なんですか」
 「何のためって、そりゃあ」弓削さんは肩をすくめた。「万引き防止だろう」
 「当初の仕様だと、個人情報保護に考慮して、顔写真データと性別、学年だけだったはずです。顔写真データだって、輪郭にぼかし加工を入れたものです」
 「それじゃあ役に立たないからだろうね」
 「でも、その仕様で審議委員会を通したはずでは?」
 「そんなことは知らんよ。とにかく、この話は市長とも話がついてるんだ。君があれこれいらんくちばしを突っ込むことじゃないよ」
 「話をつけるべき相手はくぬぎ市民ではないんですか」
 弓削さんの顔に苛立ちが浮かんだ。
 「だからさ、君の知ったことじゃないんだって。もう決まったことだから。とにかくやってよ。これ、拒否権なんかないからね」
 「では、後でこのオーダーを正式な文書でいただけますか」
 「おいおい」弓削さんは笑った。「他の修正は口頭で済ませてるじゃないか。どうしてこれに限って、そんな面倒なことをするんだよ」
 「KID は一応、独立した法人です。費用請求はオーダーに基づいて行われます。要求仕様の範囲内だと判断できれば口頭でも構いませんが、この件は明らかに逸脱していますから」
 「あ、そう。まあいいか。後で法務から送らせるよ。作業は先行してもらえるね?」
 「まだです。今度は<Q-FACE>から学校側への通知仕様の変更についてです。当初仕様だと、通知は基本的にイベント情報のみだったはずです。つまりアラートが上がった事実は通知されるが、学年も性別もわからないという仕様です。それなのに、さっきの生徒情報を使って、生徒をピンポイントで特定できるデータを通知する。これはまずくないですか?」
 「何でまずいのさ」弓削さんは関心なさそうに言った。「万引きするような生徒は、学校にも通知して、しっかり指導してもらうべきでしょ」
 「当初仕様がイベント情報のみになったのは、保護者の間から猛烈な反発があったためだと聞いています。個人情報を特定されることに対する反発です。その後、保護者の方々は考えを変えたんでしょうか」
 「そんなこと市の方に訊いてよ。うちは言われたこと、やるだけなんだからさ。君だってそうだろ。クライアントの意向は絶対なんだから。ビジネスの常識でしょ」
 「コンプライアンスもビジネスの常識です」
 弓削さんは、若宮さんの顔をじっと見ていたが、不意にサブリーダーに顔を向けた。
 「おい君。君は仕様まとめてくれたんだったな。若宮くんの仕事、引き継げるかな」
 「ご冗談を」
 「冗談なんかじゃないよ。若宮くんができない、って言ってるんだから、別の人にやってもらうしかないじゃない。今から君がPL ってこと。できるよね」
 「真面目に仰ってますか」サブリーダーは訊いた。
 「マジだよ。大マジ。命令に従えないPL なんかいらないからね。それに、PL が若宮くんしかできないから、なんて言い訳は通用しないよ。先週、入院していたときだって、それほど混乱することなく開発は進んでいたじゃないか。ということは、君だってできるってことだ。そうだよね。君だって嬉しいんじゃないかい? 給与も大幅に上がるんだからさ」
 「お断りします」
 「はあ?」
 「こんな形で若宮さんを外すなら、私も辞めさせてもらいます」
 「な、あのねえ......」
 「言っておきますが」サブリーダーは決然たる口調で告げた。「他の誰に訊いても同じ答えを返すと思いますよ。そうなれば、このプロジェクトは終わりです。それとも、今からメンバーを総取っ替えして、イチからやり直しますか? 弓削さんのイエスマンばかりで。それができると思うのなら試してみたらいいんですよ」
 弓削さんは憎悪をたぎらせた瞳でサブリーダーを睨んだが、すぐに口元に笑みを浮かべた。
 「そうか。わかった。いや、すまなかったね。私が悪かった。もちろん若宮さんには、これまで通りPL を続けてもらうとも。さっきの言葉は忘れてくれないか。このとおり」
 弓削さんはテーブルに頭をつけた。若宮さんとサブリーダーは顔を見合わせた。
 「わかりました」若宮さんは言った。「頭を上げてください。ただ、さっきの件は納得できたわけではないので、このまま進めることはできませんよ」
 身体を起こした弓削さんは少し考えていたが、またサブリーダーを見た。
 「君、すまんが、若宮くんと二人で話がしたいんだ。仕事に戻っててくれるか」
 サブリーダーは反発するように弓削さんと若宮さんを見たが、若宮さんはその肩を叩いて、大丈夫、というように頷いた。サブリーダーは渋々、席を立つと、何度か振り返りながら会議室を出て行った。
 「よし」ドアが閉まると、弓削さんはガラリと態度を変えた。「ここからは腹を割って話すか。オフレコで。いいな」
 若宮さんは戸惑いながら頷いた。
 「そもそも、うちの会社が、こんな田舎町に多大な投資をしている理由が何だかわかるか?」
 「レンタルビデオやクリックブックスでの利益が減っているから、税金に目を付けた、ということでしょう。図書館の指定管理料だけでも、年間2 億2000 万円。新学校情報システムの利用料だって数千万円と聞きますから」
 「それだけか」
 「もちろん、この前仰っていたように」若宮さんは首を傾げながら答えた。「このくぬぎ市をモデルケースとして、同じように人口流出に苦しんでる地方自治体に、にぎわい創出ビジネスを展開していくことは、オフレコも何も周知のことだと思いますが」
 「それだけだと思うか」
 「それだけで十分だと思いますが、まだあるんですか?」
 「今、お前が言ったことは正しいが、それはまあググればわかる程度の情報でしかない。ここから先は企業秘密だ。お前に話すのは、KID の中ではお前だけが、他の奴らと違って、違反したら刑事訴追の対象となるぐらい高度な秘密保持契約になっているからだ。いいか」
 若宮さんは頷いた。
 「<Q-FACE>は、HSSJ のパッケージをベースに、Q-LIC のプロダクト開発部が地方自治体向けにカスタマイズした製品だ。そのライセンス料は驚くほど安い。ほとんどタダみたいな額だ。本来ならメガバンクか、国家機密クラスの研究所に導入されるパッケージが、地方都市の小さなスーパーや書店なんかに導入できるのはそのためだ。廉価版というわけじゃない。機能はそのままだ。なぜだかわかるか?」
 「特売セールとか」
 「こちらからのフィードバックとバーターになっているからだ」
 「フィードバック?」
 「ほとんどのくぬぎ市民は気にも留めていないだろうが、<Q-FACE>の導入に紛れるように市議会で承認された予算案がある。小中学校、図書館、数少ない商店街、主要な通学路に設置、あるいはリプレースされる防犯カメラネットワークだ。それらのカメラからは市民、特に子供たちが何に興味を持ち、学校帰りにどこに寄り、どんな会話をし、どんな店でどんな商品を選択するのか、というビッグデータが得られる。AIDMA の法則の各段階の実例を収集するわけだな。それらのデータは、分析され、パターン化され、地方都市のマーケティングモデルとして集約されていく。将来的には精度を上げるために、AI による機械学習も導入される予定だ」
 「マーケティングモデル? そのために市民のプライバシーを記録するんですか」
 「これから日本は少子高齢化の時代に突入する。だから、高齢者層をターゲットにしたマーケティング戦略を立てる、というのは誰でも考えつく。俺たちは、逆に、子供たちこそ購買のキーとなる存在だと考えている。子を持つ大人は、結局のところ、子供のために買い物をすることが多いからな。つまり、子供たちの間で流行しそうなキーワードを先取りしておく必要がある。<Q-FACE>の真の機能は、それらのデータを収集、分析するところにあるんだ」
 「それをくぬぎ市で?」若宮さんは考えながら訊いた。「もっと大都市でやるべきじゃないんですか。横浜とか大阪とか」
 「そういう政令指定都市だと、すでに新規事業者が食い込む余地はないからな。だからまず、こういう小さい町で実績を作る必要があるんだ。それも、何かで注目されている自治体でなければならん。例えば、ICT 先進都市宣言で経済特区として話題になった市とかな」
 「......」
 「それに、関東の一都三県集中は近い将来、破綻する。そうなれば、魅力のある地方自治体に人口が流れ出す。そういう市町村には、俺たちが便利なサービスを用意して待っているわけだ」
 「お忘れかもしれませんが、今どきの子供たちは店頭で何か買うより、ネットで調べてネットで買ったりする方が多いと思いますよ。親世代だってそうです。ネットを使えない高齢者は一定数存在するとは思いますが、その数は年々減少するでしょう。今の時代、リアルはむしろネット上にこそあるんです。子供の通学路なんか分析しても、役に立つんですか?」
 「別にネットを軽視しているわけじゃないし、くぬぎ市だけのデータでマーケティングモデルを構築しようとしているわけでもない。これは短期的に利益を得るような話ではなく、長期的な計画の一部でしかないんだ。その全てをお前に話すことはできん。俺がこんな話をしたのはな、俺たちは何があってもこの計画を遂行する覚悟があると知ってもらいたいからだ。さっきここにいたバカが、辞めるって脅したが、俺たちはその気になれば、明日にでもお前たち全員の代わりを連れてくることだってできる。俺たちが失うのは、ほんの少しのロスタイムだけでしかない。逆に、お前たちが失うものは大きいぞ。契約放棄による損害賠償請求をお前たち全員にするからな。こちらにはいくらでも資金はあるが、お前たちの大部分は、契約社員でしかない。長期間の法廷闘争に耐えられる奴は少ない。違うか?」
 「......」
 「俺だって、そこまで事を荒立てようとは思わないが、他に方法がなければ躊躇ったりしないぞ。それにだな、俺たちは図書館運営だって、学校情報システム構築だって、行政オンラインだって、もちろん<Q-FACE>による万引き防止施策だって、何一つないがしろにするつもりはない。くぬぎ市民は、支払った金額に見合ったものをきちんと手に入れられるんだ。それも、バーゲンセールなみの金額でな。いろいろ批判されてる図書館運営だって、騒いでるのは何の利害関係もない外の奴らか、セキュリティ研究家と自称してる経済を理解してないアホばかりだ。大半の市民は、新しいきれいな図書館や、併設されるおしゃれなカフェを楽しみにしてる。お前がプライバシーがどうのと言った<Q-FACE>だってな、万引き被害に苦しんで店を畳むかどうかの瀬戸際にいる個人事業者にしてみれば、救世主みたいなもんだろうさ。その代償に、少しばかりの行動を記録されるぐらい何だと言うんだ。別に氏名と住所付きで収集するわけじゃないから、おかしなスパムメールやDM が届くようなこともない。本人が気付きもしなければ、何も不都合なことはない。そうは思わないか」
 若宮さんは少しの間、顎に手を当て、弓削さんの言葉をゆっくり咀嚼していた。
 「質問ですが」ややあって、若宮さんは顔を上げた。「<Q-FACE>から学校情報システムへ、生徒情報を通知するのはどんな理由があるんですか」
 「一つには導入先の経営者からの強い要望があったからだ。万引きなんかする奴らは、退学になって当然だ、将来なんぞ知ったことか、ってのが本音らしいな。何人かは導入の条件として譲れない、とまで言いやがったから、こちらとしても譲歩した形だ。もっとも、学校情報システムの生徒情報についても有益な情報であることは間違いないから、反対したのは形だけだけどな。そういった特記事項的なデータはマーケティングモデルとしても有用だ」
 「<Q-FACE>の顔認識技術の精度はどんなもんなんですか」
 「どんなもん、とは?」
 「誤認識率は出ているんですか」
 「元はHSSJ のパッケージだ。アメリカやヨーロッパで十分に実績を積んでる認識技術だ。問題ないよ。エビデンスも確認済みだ」
 若宮さんは頷き、また顎に手を当てたが、今回は短い時間で顔を上げた。
 「言うまでもないと思いますが」若宮さんは弓削さんを正面から見た。「私はあなたを信じたわけではありません。正直言って、あなたたちが一種の監視社会を作ろうとしているとしか思えないんです。そんなシステムの構築に携わるのは苦痛です」
 「だけど?」
 「私が辞めることは簡単です。でも、私の後任が、私よりうまくやれるという保証はない。私はどのシステムもカットオーバーに合わせて仕上げる自信がありますが、後任はそうではないかもしれない。そうなれば、エンドユーザである、くぬぎ市民に対する背任行為になるでしょう。私なら、あなたたちの計画とやらが、本当に市民生活を侵害しないか、注意深く見守ることもできる」
 「うん、それで?」
 「それに、現在、昼夜を問わず実装とテストを続けてくれている開発メンバーたちのことも考えなければなりません。彼らにも生活があります。小さなベンダーの中には、この仕事のために、他の仕事を断ってまで人員を投入してくれているところもあります。私の一存で、それを中断させることはできません」
 「賢明だな」
 「だから、私は、あなたが言った、くぬぎ市民が望んだシステムを手に入れられる、という言葉を信じようと思います。もう一度確認しますが、今の開発を進めることで、くぬぎ市民の誰一人として、不幸になることはないと断言していただけますか」
 「もちろんだ」弓削さんはサムズアップした。「ここの市民は、誰一人損をしないし、不幸にもならない。うちの会社が少しばかり利益を得るだけだ」
 若宮さんは、大きな決断をするように、ゆっくりと頷いた。
 「わかりました。では、このまま進めます」

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(27)

コメント

匿名

若宮さんが不憫すぎて後編読みたくないよう…

noon

白川さんとハンバーガー食べに行ったのはやはり若宮さんでしたか。
お見舞いの女性も、白川さんですよね。

匿名

弓削のクズっぷりに「こんな奴さすがにおらんわー」って、ふと過去を振り返ると似たようなやつおったと気づいて、戦慄がやばい。
白川さん、やっちゃってください!(最中)

匿名

若宮さんは前後編なのか
完結は秋になるかな

Dora

やはり最後はプログラマーの話がくるよね。
それにしても若宮さんいい人過ぎる。
お見舞いに来たのは白川さんで若宮さんが恋人なのは確定的かな。


弓削さんに騙された形だけど結果的には若宮さんが実装したシステムのせいでレナちゃんが犠牲になったのを、若宮さんが責任感じて自ら命を絶ったのかな。
そうだとすると白川さんとしてはやりきれないね。

al

長期間の法廷闘争に絶えられる→耐えられる ?

匿名

後編だけではなく中間にいくつかある可能性もあるような。

匿名

若宮さんいい人か?
結局同じ穴の狢やん

匿名

弓削のクズ度はどこまで加速していくんだ。
終話までに光速を超えそうだ。

匿名

あー、昔いた現場に、何かあるたびに無用な長説教してくる屑がいたなぁ。長説教でさんざん人の時間食い潰して、そのせいで発生した遅延をこっちに転嫁しての再度の長説教の無限ループ。何度コロコロしてやろうと思ったことか。

コバヤシ

弓削の言うことなんか信じるな!とサブリーダーのような勢いで言いたいところですが、開発メンバーのことを考えるとあっさりやめるなんてことできないのでしょうかね・・・この先の展開を想像するとつらいですね・・・気になって見に来ちゃうけど。

SQL

下記の部分、「さん」が抜けているような気がします。
弓削はサムズアップした。
→弓削さんはサムズアップした。
 
草場さんってそういえばこの開発に参加していたような。
次あたり出てこないかな。

匿名D

若宮さんも、ここで手を引くには、突っ込んだものが大きすぎるんですよね。
本人も責任については触れているし。
サンクコストていうやつですが。


しかし、セレモニーで出席者相手に披露するような話なのかな。
開発現場のスッタモンダなんて、部外者には興味のないことでしょうし。
まあこれは小説(ry

行き倒れ

若宮さんも東海林さん属性だけど、
性格も東海林さんなら
なにか切り抜ける術はあったかも、、、

匿名 

白川さん、これココで公開すると本番阻止フラグたっちゃうんですが……
こういうゲスい話はちゃんと本番で引導渡さなきゃダメじゃないですか。
もっと潜むか、追跡者を物理的に真っ二つにしてでも目的完遂を目指さないと。

リーベルG

alさん、SQLさん、ご指摘ありがとうございました。

匿名

誤認識率の正確な数値については答えてないのが弓削さんのあれなところだな。たとえ0.1%でも可能性のあることは必ず起こるってのが常識。結果として誤認識アラートで数十人とその関係者に迷惑かけてるわけだし。

誤字脱字指摘

三代め→三代目
ですかね?

匿名

瀬端さんは同僚の、白川さんは恋人の敵討ちのためにこの壮大なDQN返しを仕組んだのかな。案外高杉さんもグルで、追い詰められた弓削に何らかのトドメを刺したりするのかしら。
現実の開発センターでも今頃aaaギミックがはつどうして、「白川さんの力作」の鑑賞会になってたりして?

匿名

弓削さん程のひどいクライアントは見たことないけど、若宮さんみたいな仕事ができて責任感ある先輩やPMが、体壊して休職するのは何人かみたことある。なくなった人はいないはずだけど。
業界の体質なのですかねぇ。

匿名

オープニングセレモニーでこれをやった日にゃ白川さんや瀬端さんは留飲を下げられる
かもしれないが、一番割を食うのは新プロジェクトをおじゃんにされた、QLICの排除を
進める改革派なんじゃないかな、という危惧はあるわいな
議会進行や次の選挙に深刻な影響が出ると思う

そのあたりに魔女の真価が発揮されるかな…?

匿名

プランBかつ元に戻せるってあるから、Q-LICへの告発後で通常状態に戻して操作させるって事なんじゃないかしら。
脆弱性仕込めとか、防犯カメラネットワークの件とか明るみに出したら結構爆弾じゃないか?

リーベルG

誤字脱字指摘さん、ありがとうございます。
「目」ですね。

匿名

高杉さんはグルじゃないと思うなぁ

匿名D

プロジェクトがおじゃんになるってことはないでしょ。
Q-FACEが個人情報をたかろうとしているのは確かだけど、
KNGSSSが、Q-FACEに依存しているという話はないし。


Q-FACEそのものを放り出せれば万々歳だけど、さてどうなるやら。
状況証拠はともかく、故意の悪意の証明は難しいからねえ。

匿名

乗っ取って改変して好き勝手やったけど元に戻しました!って唯一犯人のみ裏
も表も全容把握できるブラックボックスを、はいそうですかと検収はできないん
じゃないかな

結局システムなんて製造側に悪意がない前提に立たなきゃ使えないね
だからこそシステムを信じて通報もするし
システムを信じてイジメのネタにもするし
システムを信じて推薦取り消しもする

公的システムが悪意でドライブされてたら、と思い至った時我々はそれを
利用できるのかな

白川さんはバベルの塔をぶち倒そうとしてるんかな

匿名D

そこで槍玉に挙げるべきは、製造者じゃなくてベンダーだと思う。
今回の騒動も、システムの機能じゃなくて、システムをまるまる引っ込めてしまっただけだし。


そのチートぶりで目立たなかったけど、
白川さんは、Q-LICそしてQ-FACEに対する抵抗者だ。
ブラックボックスというのは、結果的にそうなってしまう場合もあるだろう。


そういや、東海林さんをKIDライブラリに近づけなかったのは、
ヘタをすると自分の仕込みに気づかれかねないから、
という理由もあったのかな。
プロジェクトの属人化は、そのための最初の布石なんだな。

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