ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (33) 3 月26 日

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 午前2 時を過ぎても見通しは暗かった。全身をけだるい疲労が浸食しつつあるのが感じられる。無理もない。本来なら、今頃は深い眠りの国にいるはずなのに、高い集中力を要する仕事に脳細胞をフル回転させているのだから。カフェインでごまかすにも限度がある。
 私は大きく背筋を伸ばし、ついでにあくびをして脳に酸素を送り込んだ。隣の席の細川くんは、疲れた様子も見せず、口の中で何か呟きながらソースを追っている。その若さと活力がうらやましい。それとも奥さんのコーヒーの効果か。
 私と細川くんが到着してからも、同じように寝入りばなを叩き起こされたらしいプログラマたちが、次々と参戦してきていた。武蔵野第一コンピュータから志村さんと鈴木さん、株式会社ゼータネクストから宇野さんと佐藤さん、株式会社エクスキュート・オンラインからチハルさんと村上さん、サクラギ・システム開発から児玉さんと牧野さん、相模データコネクトからは大谷さん。人数が増えたのは心強いが、本音を言えば、東海林さんや草場さんクラスのエンジニアが5、6 人欲しいところだ。もちろん、今、一番この場にいてほしいのは白川さんだが。
 私は4 つめのブランチのチェックを終え、結果を東海林さんに報告した。
 「ss-011-g-1W-temp-02 のチェック終わりました。これは6 月ぐらいのスナップショットのようです」
 「使えるのはなしか」東海林さんはExcel に結果を入力した。「進まないな」
 「このペースだと朝までには終わらないですよ」
 「そうだな。代替案があったら言ってくれ」
 周囲のプログラマたちも私と同じ作業をしていたが、すでに朝まで復旧する見込みはないと見極めたのか、全力でトラブルを解決しようとする意欲より、ムダな作業を続けなければならない徒労感を浮かべている人が多かった。まだ諦めていないように見えるのは、東海林さんと草場さんぐらいだ。草場さんは東海林さんと作業を分担して、Vilocony の構造を把握することに集中しているようで、たまに私と目が合っても、小さく頷くだけだった。隣に座っている鳩貝さんは、ほとんど顔も上げずに何かをやっている。
 私が自席に戻るのと同時に、御津ソリューションズの溝田さんと、蜂須賀テクノロジーの八木橋さん、岡沢さんの3 人が揃って東海林さんの席にやってきた。
 「どうしました?」
 「ちょっといいですか」八木橋さんが言った。「作業方針についてお話が」
 「うかがいましょう」
 「少し計算してみたんですが、どう考えても、このペースじゃ朝までにproduction 環境を再構築するのは無理だと思うんです」
 八木橋さんは、私と同じ考えを口にした。東海林さんは小さく頷いて先を促した。
 「それで別の方法を考えた方がいいんじゃないかと思うんですよ」
 「別の方法というと」
 「言葉は悪いですが」八木橋さんは心なしか声を潜めた。「犯人探しです」
 それを聞いた草場さんと鳩貝さんが、手を止めて顔を上げた。
 「この事態は明らかに普通じゃないですよ」岡沢さんが言った。「何かの不具合とか作業ミスなんてレベルじゃない。そうは思いませんか」
 「そうかもしれませんが」
 「そこで考えてみたんですが」岡沢さんは勢い込んだ。「あいつらの妨害工作なんじゃないでしょうか。かなり可能性は高いと思うんですがね」
 「あいつら?」
 「Q-LIC ですよ」
 私と細川くんは顔を見合わせ、次いで、デスクを隔てた席の草場さんと視線が合った。その隣の鳩貝さんは、Q-LIC という言葉を聞いた途端につまらなそうな顔でモニタに視線を戻している。
 「Q-LIC ですか」
 「僕も可能性は高いと思います」溝田さんが興奮した様子で言った。「これまで、何度も何かと妨害してきたんですからね。さっきだって、様子を見に来たに決まってます」
 確かにセレモニーが中止に追い込まれるような事態になれば、Q-LIC は大喜びするだろう。だが、私は少し懐疑的だった。いくらなんでも、ここまであからさまな妨害をやるだろうか。
 「妨害工作ですか」東海林さんは腕を組んだ。「Q-LIC がVilocony 環境をメチャクチャにしたと」
 「不可能ではないでしょう」
 東海林さんが何か言おうとしたとき、出たり入ったりしていた高杉さんが近付いてきた。
 「聞き捨てならないことを耳にしたようです」高杉さんは3 人の顔を見た。「この事態がQ-LIC の仕業だと言うのですか」
 八木橋さんは少し気後れしたような顔になったが、岡沢さんと溝田さんは顔を輝かせて頷いた。
 「何か証拠があるのですか」
 「直接的に何かあるわけではないですが」岡沢さんが言った。「これまで、Q-LIC が直接的、間接的に何度も妨害してきたことは確かですよね。今夜は決定的なチャンスじゃないですか。新システムで何か問題が発生すれば、いえ、延期になっただけでも、Q-LIC にとっては格好の宣伝材料になります」
 「それに」溝田さんが続けた。「椛山の件もあります」
 「椛山......」高杉さんは首を傾げた。「誰でしたか」
 「白川さんを入院させた奴ですよ。田熊通信システムの」
 「ああ、白川にバイクでぶつかった大馬鹿者のことですか。それがどうかしたのですか」
 「あの事故だって、Q-LIC に命令されて椛山がやったに決まってますよ」
 「今日だって、Q-LIC に何かされて連絡がつかないのかもしれません」
 「Q-LIC も焦ってるはずですからね。強行手段に出ても不思議じゃないです」
 「早めに手を打つべきじゃないでしょうか」
 次々に飛び出してくる飛躍した意見に、さすがの高杉さんも苦笑した。
 「手を打つとは、つまり警察に通報するべきだとでも言いたいのですか」
 「いえいえ」岡沢さんは激しく首を横に振った。「それじゃ手遅れになりかねません。もっと手っ取り早い方法がありますよ」
 「それは?」
 「弓削をここに呼んで質問してみればいいんですよ」岡沢さんは窓の外を指した。「今でも庁舎にいるんですよね」
 高杉さんは顎に手を当てて考え込んだ。今の提案を真剣に考えているというより、どう扱うか決めかねているように見える。それでも、可能性を否定しきれないと思ったのか、しばらくしてから頷いた。
 「いいでしょう」高杉さんはスマートフォンを出した。「弓削さんを呼びましょう。ただし、質問は私がします。みなさんにも聞こえるようにフリースペースでやるので、口を出さないように。よろしいですね」
 高杉さんが電話をかけている間、東海林さんは苦い顔をしていた。私と視線が合うと、小さく肩をすくめて顔をしかめてみせる。岡沢さんと溝田さんの主張と、それに乗った高杉さんに、もう少し考えてから行動しろ、と言いたいに違いない。
 私も同感だった。仮にQ-LIC が黒幕だったとしても、今、弓削さんを詰問することは問題解決に近付くどころか、逆に遠ざかる結果になりかねない。Q-LIC は市政アドバイザリであり、様々な会議に参加し、大抵の情報を閲覧することが可能だが、一つだけ関与が難しい業務がある。くぬぎ市再生タスクフォースが指揮する、このプロジェクトだ。新システムはVilocony 環境に乗っているため、Q-LIC のお抱えエンジニアの知識は役に立たない。仮に、クラウド環境を提供するグリーンリーブスに手を回して、production 環境へのアクセスを可能にしたとしても、何をどうしていいのか見当も付かないのが実情だろう。となれば、開発に参加しているエンジニアを抱き込むしかない。マギ情報システム開発やFCC みなとシステム開発を、さらに新美さんをそうしたように。
 以前、白川さんは、全ての工作員を排除したわけではない、と言っていた。当然、弓削さんも、そのことは承知している。私が弓削さんなら、Q-LIC の関与を肯定も否定もせず、曖昧な言動で高杉さんの疑惑を高めておいてから、開発メンバーの中に工作員が残っていることをほのめかす。その結果、この開発センター内でスパイ狩りが始まってしまうだろう。そんな状態で、残りの作業を続行できるはずがない。セレモニーは延期になり、得をするのはQ-LIC だけとなる。
 高杉さんがどんな理由を告げたのか、弓削さんは10 分後に笑顔で開発センターにやってきた。
 「やあやあやあ」弓削さんはコートとマフラーを脱ぎながら、陽気な声で挨拶した。「参上しましたよ。なんですか、この私めに重大なご用がおありとか。高名なるエースシステムの高杉様のお役に立てるとは光栄の極みですなあ」
 作業を続けているプログラマたちは、一斉に冷たい視線を投げつけたが、弓削さんの分厚い面の皮は、それらを気にもしなかったようだ。
 「そこにおかけになって下さい」高杉さんはフリースペースの椅子を指した。「お忙しいところ、お呼び立てして申しわけありません。少しばかりお訊きしたいことがございまして」
 「何なりと」弓削さんは椅子の背にもたれると足を組んだ。「真摯にお答えさせていただきますよ」
 「では時間がないので単刀直入に伺います。今回のトラブル、御社がやったのですか?」
 あまりにもストレート過ぎる質問に、さすがの弓削さんも戸惑ったようだ。「何か心当たりがありますか」といった婉曲な問いかけから入るのではないか、と予想していた私も思わず顔がほころんでしまった。
 「は? その......」珍しく言葉に詰まった弓削さんは、表情の選択に困ったように天井を見上げた。「私の聞き違えでなければ、うちを疑ってらっしゃるのですか」
 「そのお歳でも聴力はまだ正常のようですね。正しく聞き取れていますよ。回答をいただけますか」
 弓削さんはとりあえず笑いを浮かべることに決めたようだ。
 「いやいやいや。何かの冗談でしょうか。冗談でしょうね。この緊急事態に余裕ですな。感心しますよ」
 高杉さんは冷笑すら返さず弓削さんの顔を凝視した。
 「もう一度訊きます」深部体温を2、3 度下げそうな声だった。「弓削さんは真摯にお答えすると仰ってくださいました。私も真摯な答えを期待しています。今回のトラブルは、御社の仕業ですか?」
 「何をバカな」弓削さんの表情が怒りに変わった。「侮辱なさるのもいい加減にしていただきたいですな。一体、うちが何をやったと言うんですか?」
 「私が我慢できないことが、この世に2 つあります。ゆで過ぎたパスタと、質問を質問で返されることです。今、質問をしているのは私です。あなたが質問をする番ではありません。おわかりですか」
 以前に弓削さんと対立したときは、ぬるいコーヒーと侮辱されること、と言っていた気がする。忘れもしない、私が草場さんと初めてキスした夏の日のことだ。高杉さんには、我慢できないことがたくさんあるらしい。
 「もう一度質問をする前に聞いていただきたいことがあります。来年度以降も弊社はくぬぎ市のICT 戦略に積極的に関わらせていただくことが、ほぼ確定となっています。すでにいくつか提案のドラフトを提出済みです。その中にはインフラのAWS 移行、<Q-FACE>の全面撤去などが含まれています」
 「そうですか」
 「そう平静な顔をしていられる理由はわかっています」高杉さんは短く笑った。「くぬぎ市議会にはQ-LIC に同調する議員が多くいる、彼らが反対してくれるだろう、という目論見があるからでしょうね。でも、私はその提案に少し修正を加えてもいい、と考えています」
 「修正ですか」弓削さんは怪訝そうに訊いた。「どのような修正でしょう」
 「それらの改革案に、市政アドバイザリとしてのQ-LIC さんにも参画していただく、という修正です。具体的にはJV をいくつか設立することになるでしょう。どうです、これならQ-LIC のお友達議員さんも賛成すると思いませんか」
 弓削さんの顔に狡猾な表情が浮かんだ。くぬぎ市における自分の立場をどのように活かすか、早くも考え始めているのが目に見えるようだ。
 「なるほど」弓削さんは頷いた。「確かにそうでしょう。だから、ここは協力して、現在の危機を乗り越えるべきだ、そう仰りたいわけですな」
 「話はまだ終わっていません」高杉さんは淡々と続けた。「その提案をした後、そうですね、市議会での承認が下りるのが半年後ぐらいでしょうか、その後、弊社は提案を取り下げます」
 「はあ?」弓削さんは呆気に取られた顔になった。「取り下げる? なんでそんなことを......」
 「そう訊かれたら、私はこのように理由を述べます。弊社としては、Q-LIC さんの、くぬぎ市における窓口となる市政アドバイザの方が信頼できないからだ、しかしながら、現在の担当者を外していただけるのであれば、この話をそのまま進めるのもやぶさかではない、と。さて、あなたの上司の方はどちらを取るでしょうね。あなたの立場を守って弊社との共同事業の道を捨てるか、あなたを切り捨てて新たな事業を取るか」
 「......」
 「それにお友達の議員さんたちもどう思うでしょうか。JV はくぬぎ市内に設立することになります。新たな雇用が生まれ、新たな税収入が生まれ、さらに大切なことに新たな天下り先ポストもいくつか生まれることになる。それが、弓削さん一人のために不意になろうとしているとなれば」
 弓削さんは恐怖と憎悪が混在した表情で高杉さんを睨んだ。陽気さを装う余裕すらなくしている。
 「あんた......」聞き取れないほどの低い声が弓削さんの口から流れ出た。「いつか、誰かに刺されるぞ。月夜ばかりじゃないんだからな」
 脅迫ともとれるその言葉を、高杉さんは気に留めた様子もなかった。
 「では、最後にもう一度だけ訊きます。現在のproduction 環境の状態は、御社が手を下したのですか」
 「......いや」あたかもそれが残念だ、と言わんばかりに弓削さんは答えた。「私の知る限り、うちは何もしとらん」
 「ああ、弓削さん。その答えはいただけません」高杉さんは残念そうに首を左右に振った。「私の知る限り、などというセーフティネットは真摯な答えとは言えません。私は、弓削さんにQ-LIC が何もしていないことを断定していただきたいのです」
 「うちは何もしていない」弓削さんは言い直した。「間違いない」
 「確かですか」高杉さんは確認した。
 「正直に言やあ、セレモニーが失敗すりゃあいい、とは思っとったよ」苦々しく顔をしかめた弓削さんは、ふてくされたように言った。「何かできないか、と考えたこともあった。だが、結局、何もできんかったんだ」
 高杉さんは弓削さんの表情をじっと観察していたが、何か言う前に、別の声が響き渡った。
 「おい、ウソつくなよ!」叫んだのは岡沢さんだった。「お前、白川さんに何かしたんだろうが」
 高杉さんが咎めるような視線を岡沢さんに向けたが、弓削さんは焦った声で応じた。
 「いや、本当に知らんよ。そりゃ、白川さんが倒れてくれれば、と思ったことはあるがね。だからといって、実際に何かするわけなかろうが」
 「ふん。田熊通信システムの椛山のことはどう説明するんだよ」岡沢さんは納得しなかった。「実際に何かしたじゃないか」
 「あ、あれは椛山が勝手にやったことだ!」弓削さんは怒鳴り返した。「私が命令したわけじゃない」
 「ほら、認めたじゃないか」岡沢さんは勝ち誇ったように言った。「お前が椛山に命令できたってことを認めたじゃないか。何もしてないって言われても......」
 「そこのあなた!」高杉さんが鞭のように鋭い声で制した。「そこまでです。勝手に話すなと言っておいたでしょう。あなたは自分の仕事に精を出しなさい。これはプログラマの仕事ではありません」
 岡沢さんは恥じ入るように頭を下げると、そそくさと自分の席に戻っていった。弓削さんは感謝するような表情さえ浮かべたが、高杉さんは弓削さんを助けたわけではない。ここでQ-LIC が妨害工作を行っていたことを明言させても、事態解決の役には立たないことがわかっているのだろう。
 「な、信じてくれよ」弓削さんは焦燥を露わにした。「うちは何もしとらん。白川さんの事故のことだってそうだ。バレたときの危険を考えたら、白川さんにバイクでぶつかれ、なんて椛山に命令するわけがないだろう。安っぽい企業陰謀映画みたいなことを、今どきやるものか。うちはコンプライアンスには厳しいんだ」
 言うほどQ-LIC の手がまっ白だとは思わないが、この弓削さんの言葉は信じていいのではないかと思った。失うものがなかった椛山さんと違って、弓削さんは失うものが大きすぎる。控えめに言ってもクズのような人だが、そういう人間ほど自己保存能力には長けているものだ。法の隙間をかいくぐって生き延びるのは得意なはずだ。
 高杉さんは弓削さんに向き直った。
 「いいでしょう。とりあえず、今回のトラブルに関しては、Q-LIC が無関係であることを信じましょう」
 それを聞いた岡沢さんが立ち上がりかけたが、八木橋さんが肩をつかんで座らせた。
 弓削さんは安堵のため息をついた。
 「ありがたい。感謝しますよ」
 「一応、言っておきますが」高杉さんはスーツのポケットからスマートフォンを出して、テーブルの上に置いた。「今の会話は録音させてもらったので、後日、否定してもムダですよ」
 「もちろん、私が言ったのは全て真実だとも」
 「では」高杉さんはドアの方を見た。「さしあたってあなたに用はありません。庁舎の方へお戻りください。また用事があれば呼びます」
 弓削さんは急いで立ち上がったが、ふと動きを止めると、躊躇いながら口を開いた。
 「あー、その、役に立つかわからんですが......」
 「何ですか」
 「怒らないで聞いてもらいたいんですが、以前、うちであんたらの弱点を探したことがあったんです。何かスキャンダルでもあれば、と思って」
 「あんたら、というのは」
 「高杉さんと白川さんです」
 「ほう」高杉さんは弓削さんを睨んだ。「それで何か見つかったので、交渉材料にしたいとでも?」
 「いやいやいや」弓削さんは慌てて両手を顔の前で振り回した。「とんでもない。そんなことではなくて、白川さんのことです」
 「白川がどうかしましたか」
 「白川さんの自宅が、どこだかご存じですか」
 「自宅?」高杉さんは首を傾げた。「正確な住所は知りませんが、武蔵小杉だったと記憶しています」
 「ご確認なさった方がよろしいと思いますよ」弓削さんはニヤリと笑った。「それでは私はこれで」
 弓削さんは悠々と歩いて開発センターから出て行った。高杉さんは顔をしかめながらスマートフォンを取り出し、耳に当てながら、弓削さんの後を追うようにドアを抜けた。
 「どういうことですかね」細川くんが誰にともなく言った。「白川さんの自宅って」
 「さあな」東海林さんがモニタを見ながら答えた。「さっき高杉さんは、白川さんのマンションに社員を向かわせてると言ってたな。そろそろわかるんじゃないか」
 15 分ほど経過した後、ドアが開いて高杉さんが入ってきた。まっすぐこちらに向かって来る。
 「悪い知らせが2 つあります。白川の自宅に行かせた社員と連絡が取れました」高杉さんは声を潜めた。「いなかったそうです」
 「そうですか」大して期待していなかったらしく、東海林さんは失望した様子を見せなかった。「どこかのビジネスホテルにでもいるのかもしれませんね」
 「いえ、そのようなことではありません」
 私たちは顔を見合わせた。高杉さんの顔には、これまで見たことのないような表情が浮かんでいる。焦燥だ。
 「どういう意味ですか」
 「白川の武蔵小杉のマンションに行かせたのですが、空室になっていたそうです」
 「え?」
 「コンシェルジュの話だと、先月末で退去したそうです」高杉さんも、私たちに劣らず困惑しているようだ。「会社に連絡して人事情報を調べさせました。住所変更届は提出されておりません」
 「忙しくてうっかりしていただけでは......」
 「まさか」高杉さんは即座に否定した。「白川がうっかりするなど、この世の中で最もあり得ないことの一つです」
 「だとすると、つまり......」私は浮かんだ考えを口にした。「白川さんに連絡が取れないのは、何かのトラブルではなくて......」
 「意図的に連絡を絶っている」東海林さんが言った。「と、考えるべきかもしれないな」
 「意図的......」細川くんが信じられないように呟いた。「じゃ、production 環境が壊れたのは......」
 「壊れたというか」東海林さんは暗い声で答えた。「壊したのが白川さんなのかもしれないな」
 その言葉を聞いたプログラマたちは手を止め、一斉に疑問や非難の声を上げた。
 「白川さんがまさか!」
 「理由がないでしょ」
 「でも、考えてみればさ......」
 「いやあり得ない、あり得ないって。あの白川さんだぜ」
 「だいたい弓削が言ったことで......」
 「静かに!」高杉さんが鋭い声を叩きつけた。「黙って作業を進めなさい」
 プログラマたちは口をつぐみ視線をモニタに戻したが、聴覚をこちらに集中させているのは見なくてもわかった。
 「本気で白川さんがやったと考えているんですか?」私は小声で訊いた。
 「高い可能性の一つだと思う」
 「まさか」私は小さく笑った。「白川さんが、誰よりもこのプロジェクトに身命を捧げていたのは東海林さんだって知ってるでしょう」
 「知ってはいるがな。白川さんが、今現在、ここにいないことが何かを示していると思わないか」
 「じゃあ、このトラブルは白川さんが事前に計画したってことですか」
 目の前にいる、立場も考え方も真逆の二人は、揃って頷いた。私は草場さんに目を向けたが、その顔に見出したのは否定の表情ではなかった。
 「そんな......」
 もはや何を信じていいのかわからなくなった。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(22)

コメント

VBA使い

もし白川さんがやったとすると、若宮さんの件と関連して、属人化の危険を訴えようとしたんかな?

高杉さんのこの後の対応力が楽しみです。

これ

コミット履歴が改ざんされていないなら、ある時間までロールバックさせれば
かなりの復旧できたりぜんの?
履歴が改ざんとかDBが破壊されてたらバックアップからって事になるけど。

匿名

第一話で【死人が出ればセレモニーどころじゃなくなるな】とか言ってましたね
殉教者・・白川さんの正義はどこに

匿名

これ さん

第一話の東海林さんの会話です。

 「バックアップは残っていない。消えてるんだ。昨日のだけじゃなく全部」
 「え」私は少し驚いた。「デイリーで取ってたバックアップが、全部ないんですか? 400 組以上が?」
 「そうだ」
 ・・・・
 「それぐらいなら、お前たちを呼んだりしないよ。確認したところ、trunk に残っているソースは、2 月11 日が最新だ」

hoge

そういえばSVNだったか・・・gitならローカルから戻せるのに

SQL

う~ん、どうなっているんだろう
 
もし本当に白川さんがやったのだとすると、
朝までに復旧できない壊し方をしていると思う。
もし自分がこの作業をしているとしたら、
そう考えて諦める気がする

dd

>もし本当に白川さんがやったのだとすると、
>朝までに復旧できない壊し方をしていると思う。

復旧の完全阻止が目的なら、滅びの呪文("# rm -rf /")etcなどの手段がありそうだが、
あえて差分ファイルだけ取り除くという中途半端(?)な手を選んだのも気になる。
実は更にもう一ひねりして、このインシデント自体が、白川に濡れ衣を着せようとした Q-LIC かエースシステムの狂言インシデントだった、ってオチかな。

匿名

きっとくぬぎ南中学校の耐震データセンターにバックアップがあるんだよ

匿名

白川さんがチート過ぎたから目立たなかったけど、
高杉さんの空中戦戦闘力もなかなかのもんですね。
開発員は地べたを這いずり回る以外にできることがない。


白川さんの手には、復元手順が残されていそうだ。
でないと取引にならない。
システムの完成に興味がなかったら、
ディスプレイを真っ二つにするほどブチ切れもしないだろうし。


それにしても、このままではエースに大打撃。
弓削氏やQ-LICになにか仕掛けているようでもない。
白川さんが狙う最終的なターゲットは、一体何なんだろう?

Dora

今回判明した事は、、、
・Q-LICは犯人では無いっぽい
・このままでは朝までの復旧は難しい


個人的に気になっている事を推理してみた。


・川嶋さんが若宮さんの写真で引っかかっている事は何? → 白川さんの元恋人だった?
・KIDSライブラリの改修を白川さんが嫌がった本当の理由は? → 若宮さんが一人で作ったから東海林さんがソースを見ると何か重要な事がバレル?
・防災センターで約束したチャット機能 → この後、白川さんから川嶋さんにチャットで連絡が来る?
・白川さんが自ら姿を消した理由は? → 若宮さん自殺の復讐?、若宮さんが仕掛け人?、KIDSライブラリに仕掛けられた今回のトラブルに気づいて対応している?

匿名

誰が何にどう関わっていようが、一番かわいそうなのは巻き込まれた現場のプログラマ達だ

匿名

これだけ大規模なプロジェクトであれば、サーバに何かあった時の復元手順くらいは用意していると思ったが、そうでもないのか。もしくは、その復元手順を知っているのが白川さんだけなのか。

匿名

まあ素直に受けとるなら、白川さんのなにかに対する復讐っぽい気がする

匿名

根本的な人管理システムにハウンドがなにか仕掛けているとか

hage

白川さんは最後に環境を壊す事で目的を達成し、もうこの世にはいないのか、日本にいないのかかな。
壊れている事に気づいたのはたまたまだったし。
ただ目的が分からないよね。。。復讐にしても誰に対してか。。。
まさか高杉さん!?白川さんに刺された!?

ghost

「Q-LIC が怪しい」という八木沢さんたちの東海林さんへの具申に対する鳩貝さんの反応から、
・鳩貝さんはQ-LIC ではないことを知っている。
・そのことを、鳩貝さんからの報告で高杉さんも知っている。
という気はする。

神エクセル

悪い知らせが2つ・・・1つは白川さんが不在で退去済みだったこと、もう1つは?

匿名

未解決の謎と予想
 
・白川さんの動機
1.元恋人の若宮さんの復讐。
 以前、ハンバーガーショップに行った相手も若宮さん。
2.くぬぎ市の前システムで被害を受けた人が家族でその復讐
 
・若宮さんがカットオーバー前に亡くなった理由
1.鬱が長引いたことによる自殺
2.行政/Q-LICの不正に気づいたため口封じに殺された
 
・白川さんのやること
1.KNGSSSのVilocony設定を材料に交渉?
 交渉内容は、若宮さんの真実の公表 or 行政の不正の公表?
2.KNGSSSのバックドアを使って不正の公表?
 
・白川さんがKIDSライブラリの修正を断った理由
1.若宮さんの残したものが変更されるのが嫌だった
2.KNGSSS/既存の行政オンラインシステムに対してバックドア等を仕掛けている
 
・グリーンリーブス社のクラウドダウンの原因
1.単純にリソース不足
2.この時に白川さんが何か仕込んだ
3.白川さんがいつでもクラウドダウンさせれる方法を編み出して、その練習

user-key.

とりあえず、白川さんの自宅付近にZの群れは発生してない。と

F

KIDSライブラリ、又の名をテスタロッツア…

匿名

デスマーチ真っ最中の現場って、Z化の仕込みにはとっても理想的だよなあ……。

匿名

ハウンドがらみのとんでもない設定が隠されているのを発見して強行手段に出て行方をくらませたとか?

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