ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (21) 完璧な夏の日

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 8 月半ばを過ぎても白川さんは復帰しなかった。8 月7 日の朝、高杉さんは少なくとも2 週間程度は退院が難しいだろうと告げ、私たちは一斉に失望のため息をついた。理由は公式には明らかにされなかったが、後日、チハルさんが仕入れてきた情報によれば、どうやら入院中に各種検査を行ったところ、あちこちに不具合が見つかったためらしい。このプロジェクトに携わって以来、2 日以上の休みを取ったことがなかったそうだから、疲労が蓄積していることは想像に難くない。とにかく、私たちはもうしばらくの間、白川さんのいない日々に、言い換えるとオーダーテイカー今枝が管理する日々に耐えなければならないということだ。
 今枝さんに進歩の兆しが皆無というわけではなかった。私たちプログラマは、管理者がバカげたマネジメントを行うのを見ると、相手の知性全体を過小評価してしまう傾向があるが、エースシステムのような一流企業に入社できたということは、平均以上の知能を持っているし、優れた学習能力も持っている。今枝さんも例外ではなく、自分が打ち合わせを行った個々のコンテナの仕様に関しては、それなりに理解してきていたし、同じ過ちを繰り返すこともなかった。ヒアリングしてきた内容に限れば、矛盾もなくまとめてきている。だが、白川さんが指摘したように、プロジェクト全体の構造を把握しているとは言い難かった。予定を前倒ししてプロジェクトに投入されたため、費やした時間が足りないことも理由の一つだが、それ以前にプロジェクト管理の経験がないからだ。
 エースシステムのオーダーテイカーが、どのような教育によって誕生するのか知らないが、今枝さんを見る限り、対人折衝に比重を置いたマネジメントスキルを中心に形成されているようだ。確かに、PL やPM がエンドユーザと要件のすり合わせに不自由するようでは困るから、コミュニケーション能力を軽視すべきではない。ただ、より重要な、プロジェクトの全体像をリアルにイメージする力が、今枝さんには足りないようだ。
 このような場合、PM たる高杉さんが指導するなり是正するなりすべきだが、そもそも高杉さんが開発センターに顔を見せるのは、週に一度あるかないかだったから、全くあてにはならなかった。
 当然のようにスケジュール表には、遅延を示すレッドラインが目立つようになってきた。スケジュール表は、コンテナの実装や単体テストの完了実績によって自動生成され、グループウェア上で随時更新されるのでごまかしようがない。日ごとに今枝さんの顔からは余裕が剥げ落ちていき、焦燥感が貼り付けられるようになった。唯一、評価できる点があるとしたら、その遅延を私たちのせいにしなかったことだけだ。
 8 月からは、コンテナ間連携の結合テストが開始される予定だった。延期になるだろう、と誰もが考えていたが、今枝さんは結合テストを開始した。これ以上、スケジュールを遅延させられない、との判断からだろうが、結果的に状況を悪化させることになった。コンテナ間のデータ連携を実現するには、Vilocony の設定が必要となるが、サブリーダーも含めて、誰も適切な設定値を見出せなかったのだ。
 私も一度、生徒情報のコンテナ間連携の結合テストをアサインされたが、テスト環境で実行した途端に例外の山が発生して、それ以上進めることができなかった。Eclipse での単体テストでは、コンテナに与える起動引数を自分で設定するので実行できるが、結合テストではコンテナのvilocony container envelop を通して受け取ることになる。そのパラメータが適合していなければ、起動すらままならない。コンテナドライバの設定に失敗しているのだ。
 例外の発生をサブリーダーの誰かに報告すると、すぐに対応を開始してくれるが、その解決には時間がかかるのが常だった。私の場合、午前10 時過ぎに報告し、設定完了の連絡を受けたのは、14 時過ぎだった。待ち兼ねた私がテストを再開すると、起動はできたものの、処理が進むとすぐに落ちてしまう。再度、報告し、結果を待つ。この繰り返しだった。待っている間、他の作業をするのは難しいので、大抵の場合、私たちの待ち時間は無為に浪費されることになる。私はQ-LIC の「工作員」が潜入している可能性を相変わらず警戒していたが、じきにその心配は無用ではないかと思うようになった。あえて妨害工作などしなくても、自滅の道を辿っているのだから。
 私たちの退社時刻は、次第に遅くなっていった。人によっては、作業完了が深夜になることもある。ほとんどが車通勤だが、心身が疲れ切った状態での運転を危険だと感じた人や、私のように相乗りで来ている人たちは、3 階のスパ施設でシャワーを浴び、2 階の簡易宿泊施設で泊まっていくようになった。その人数は増加傾向にある。私も8 月の初めに泊まることになり、それ以来、洗面用具と最低限のメイク一式を詰めたポーチ、着替え一式を、ロッカーの中に入れておくようになった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 8 月23 日、水曜日。
 午後、思いがけない人物が、開発センターに現れた。歓迎されるような人ではなく、私たちの中ではペルソナ・ノン・グラータに分類される個人だ。
 「やあ、みなさん、お久しぶりですね」
 かりゆしウェアにパナマハット、赤白ツートン模様のメガネをかけたQ-LIC の弓削さんは、苛立ちで淀んでいるプログラマたちの気分を逆なでする脳天気な声と共に入ってきた。私たちの非友好的な視線など気にした様子もない。
 「何かご用でしょうか」
 今枝さんは会議室で打ち合わせ中だったので、サブリーダーの新美さんが立ち上がって応対した。新美さんの表情も、私たちに負けないぐらい冷ややかだった。
 「いや、別に用ってほどのもんじゃないけどね」弓削さんはパナマハットを取りながら陽気な声で言った。「近くまで来たもんだから、様子を見に寄ったんだよ」
 「そうですか。ご覧の通りです」
 「そういえば」弓削さんは含み笑いをした。「白川さんはまだ入院してるんだってねえ。ケガが長引いてるの?」
 「個人情報ですのでお教えできません」新美さんは素っ気なく答えた。
 「そう冷たいこと言いなさんな。同じくぬぎ市のために仕事している仲間じゃん」
 厚顔無恥な言い草に新美さんが吐きそうな顔になったとき、タスクフォース席から瀬端さんが急ぎ足でやってきた。
 「弓削さん、何かご用ですか」
 「ああ、どうも、瀬端さん」さすがに弓削さんは小さく頭を下げた。「いえ、どうもプロジェクトの進捗が悪いと、市役所内でも話題になってるんでね。市政アドバイザとして、様子を見に来たんですよ。何か力になれることがあればと思って」
 足を引っ張る、の間違いじゃないのか、と私は心の中で突っ込んだ。この人なら、手助けをするふりをして、意図的に事態を悪化させるぐらいやりそうだ。
 「ご配慮痛み入ります」瀬端さんは無表情に答えた。「ですが、弓削さんの手を煩わせるようなことは何もありませんよ」
 暗に帰れ、と伝えているのだが、弓削さんはそれを無視して私たちを見回し、声を張り上げた。
 「みなさん、何か困っていることはないですかね」
 誰も答えなかったが、その声が届いたのか、会議室から今枝さんが顔を覗かせた。何事かと周囲を見回し、弓削さんの姿を認めると、会議室の中に一言断ってから、こちらに出てきた。
 「どうもどうも、弓削さん」今枝さんは歓迎するような笑顔で、弓削さんに近寄った。「今日はどうしました?」
 「やあ今枝さん」弓削さんも親しげに今枝さんの腕を叩いた。「いや、ちょっと様子を見に寄ったんだけどね、どうも歓迎されてないようで」
 「それはわざわざありがとうございます」
 今枝さんは弓削さんに頭を下げてから、くるりと私たちの方に向き直った。
 「おい、君たち。弓削さんはくぬぎ市の市政アドバイザなんだよ。わざわざプロジェクトの進捗を心配して来てくださったんだ。なのにその態度は何なんだ。ぼくに恥をかかせないでくれよ」
 新美さんと瀬端さんが、同時に何か言おうとしたが、今枝さんは弓削さんに注意を戻していた。
 「いや、すみません。礼儀を知らない奴らばかりで」フリースペースのテーブルの一つに誘いながら、今枝さんは恐縮したように頭を下げた。「この前の打ち合わせではお世話になりました。ビジネス・オポチュニティにつながる、有意義な提案をしていただいて」
 「いやいや、お互い、ウィンウィンの関係でやっていきたいもんですから」
 今枝さんはしきりに頷きながら座ると、新美さんに命令した。
 「おい、冷たいものでもお持ちしないか。気が利かない奴だな」
 新美さんはムッとした顔になったが、今枝さんは気にも止めなかった。弓削さんに向き直ると、何やら楽しげに横文字を多用した会話を始めた。私は呆れてモニタに目を戻した。弓削さんが、開発センター内でどう思われているかを知らないはずはないのに、追い出すどころか、友好的に迎えるとは。
 「何でしょうね、あれ」細川くんが眉をひそめて囁いた。「取り込まれちゃったんですかね」
 「あまり想像したくない状況ね、それは」
 今枝さんは頻繁に市役所で打ち合わせをしている。当然、弓削さんが同席することも多かったに違いない。その際、弓削さんが与し易し、と見て、親しげに声をかけたのだろう。開発センター内では、スケジュール遅延の責任を負っているため、精神的に余裕をなくしている今枝さんだ。好意的に接してくれる人間がいれば、四面楚歌の中で唯一の味方を得たような錯覚に陥っても仕方がない。これについては、私たちにも責任の一端がある。サブリーダーたちも含め、開発センター内のほとんどの人間が、今枝さんに対して一定の距離を置いていたのだから。
 「まあ、あの人が誰と親しくしようと勝手だけど」私は小声で答えた。「変な機能追加が増えるのは困るね」
 そのとき会議室のドアが開き、高杉さんが姿を現した。今日は久しぶりに開発センターに出勤し、今枝さんと打ち合わせをしていたのだ。途中で席を外した今枝さんが、なかなか戻ってこないので、いぶかしんだのだろう。
 高杉さんは部下の姿を探して開発センター内を見回した。フリースペースにいる今枝さんと弓削さんを発見した途端、目が険しく細められる。高杉さんは大股で開発センター内を横切ると、フリースペースに近付いた。
 「今枝、何をしているのですか」
 弓削さんとの話に没頭していた今枝さんは、飛び上がるように立ち上がると、青ざめた顔で上司を見た。
 「あ、すみません。あの、こちらは市政アドバイザの......」
 「この人が誰かはよく知っています」高杉さんは冷たく遮った。「あなたは何をしているのですか。プロジェクト全体のスケジュールが大きく遅延しているというのに、ムダ話をしている余裕など1 秒もないはずではないですか。さっきまで何の打ち合わせをしていたのか忘れたわけではないでしょうね」
 「し、失礼しました」今枝さんの視線は、落ち着きなく高杉さんと弓削さんを行き来していた。「来客でしたので......」
 「来客ね」高杉さんは弓削さんに鉄の矢のような視線を突き刺した。「何のご用でしょうか」
 「あの、弓削さんは......」
 「あなたには訊いていません」高杉さんは今枝さんの言葉を遮った。「弓削さん、私が承ります。何のご用でしょうか」
 弓削さんの顔から、開発センターに入ってきて以来ずっと浮かんでいた、軽薄そうな笑いがかき消えた。
 「ビジネスの話ですよ」
 「どのようなビジネスでしょう」
 「あー、そのですね」弓削さんは椅子においてあったカバンから、カラー刷りのパンフレットを取り出した。「ご存じかと思いますが、今度、うちも仮想通貨の取引所をやることになったんですよ。それでエンジニアリング分野で提携できるパートナー企業を探していましてね。御社に声をかけさせていただいたというわけです」
 「その件は聞いています」高杉さんはパンフレットを受け取ろうともしなかった。「マーケティング事業部から正式にお断りしたはずですが」
 「ええ、存じてますがね」弓削さんは小さく笑った。「しかし、これは双方にとってのビジネスチャンスだと思うんですよ。せっかくくぬぎ市関係の事業で縁ができたわけですからね。もう一度、再考いただけないかと今枝さんにお願いしていたんですわ」
 「なるほど」高杉さんは頷き、今枝さんを見た。「それで、あなたは何と答えたのですか」
 「その......」今枝さんは額の汗をぬぐった。「会社にとって利益になる、いい話だと思ったので、話だけでも詳しく聞いた方がいいのではないかと......」
 「わかりました」高杉さんはうんざりしたように言った。「あなたとは、後でゆっくり話をしましょう。戻っていなさい。今は、こちらの人を何とかしなければなりませんから」
 「は......」
 今枝さんは、とぼとぼと会議室に戻っていった。高杉さんは改めて弓削さんを見下ろした。
 「今後、このようなことは止めていただきたいですね、弓削さん。不愉快です」
 「このようなこととは?」
 「うちの人間に個別に接触することです」高杉さんは淡々と告げた。「プロジェクトに関する打ち合わせにQ-LIC さんが同席することは、やむを得ません。とても不快なことですが、弊社にはそれを止める権限はありませんから。ですが、プロジェクト以外の件で、今枝やサブリーダー、システムエンジニアの誰かと接触してほしくはありませんね」
 「いやいや」弓削さんは果敢にも笑い声を上げた。「個人的に友だちになるのも禁止されると仰る? それはいくら何でも過干渉というものでは?」
 「禁止するとは言っていません。その権限もありませんから。ただ、そのようなことをすれば、私が非常に不愉快に感じるだろう、と言っているのです。個人の感情として、とても不愉快に思うでしょうし、それを是正する気もありません。弓削さん、あなたはとても不愉快な精神状態の私に、どんなことができるか知りたいですか?」
 「知りたい気がしますねえ」
 弓削さんはそう言って、また笑った。高杉さんの言葉を冗談だと解釈することにしたのだろう。私に言わせればとても愚かな判断だが、もちろん忠告してやる気にはなれなかった。
 「よろしい。今、弊社と御社の関係は微妙な均衡を保っています。白川は冷戦状態と言及したことがあります。ふさわしい表現だと思いませんか」
 「どうでしょうね。別にうちはエースシステムさんと争っているつもりはないんですがね。むしろ仲良くやっていければ、と思っているぐらいです」
 「私だって可能なら、それがいいと思っておりますよ」高杉さんは笑顔と解釈できなくもない表情を作った。「明らかに御社への利益誘導に他ならない、いくつかの機能追加に同意したのが、その証です。ただし、協力体制を取るにしても、あくまでも弊社が主導する形でなければ受け入れることはあり得ません。弊社には、日本を代表するトップSIer としての自負と責任があります。他社の下風に立つを潔しとしない、ということを忘れないでいただきたい」
 「ははあ」弓削さんは辟易したように肩をすくめた。「それはご立派なことですが、ビジネスというものは、もう少し柔軟な考えで行った方が、より多くの利益を得られると思うんですがね」
 「ビジネスのなんたるかを、あなたに教えていただく必要はありません。話を戻しましょう。私が我慢できないことが、この世に2 つあります。ぬるいコーヒーと、侮辱されることです。どちらの場合も、私はとても不愉快な状態に置かれることになり、それを反転させるべく行動に出ます。コーヒーの場合は、黙って席を立ちます。他人に侮辱された場合、黙って席を立つような消極的な行動は取りません。立ち上がり、反撃を開始します。持てる力の全てを使って戦います。冷戦状態を終わらせます。おわかりでしょうか?」
 「私を脅していらっしゃるわけですか」もはや弓削さんは笑っていなかった。
 「いいえ。予告をしているのです。私の言葉を単なる脅しだと思うのであれば、今後も好きなだけ弊社の社員に干渉をなさればよろしい。ただし、次に同様の接触があったと報告があった場合、弊社は御社とホットな戦争状態に突入すると宣言しておきます」
 「わかりました、お手上げです」弓削さんは、実際に両手を挙げた。「御社とは、プロジェクトに必要な事項以外、接触をしないことにします。御社にとっても、ビジネスチャンスを逃すことになると思うんですがね」
 「くぬぎ市再生プロジェクトにおいては、利害が一致すれば、ときに協力することもあるでしょう。弊社はそれだけで十分です。御社にも同様の姿勢を望みたい。よろしいですね」
 「わかりました。わかりましたよ」
 「ご理解頂けて助かります。では、これ以上、ご用がなければお引き取りを」高杉さんは新美さんを振り向いた。「市政アドバイザさんがお帰りです。出口までお送りしなさい」
 新美さんが頷いて進み出たが、弓削さんはその前にそそくさと立ち上がっていた。ドアの方へ歩き出したが、諦めきれないように振り向いた。
 「もし気が変わるようなことが......」
 「ありません」高杉さんは、それ以上、会話をする気がないとばかりに遮った。「さようなら」
 今度こそ、弓削さんは開発センターから出て行った。高杉さんはドアが閉まるのを見届け、それから今枝さんの待つ会議室へと戻っていった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 高杉さんと弓削さんの対決が、8 月23 日の開発センターにおけるハイライトだったのは間違いない。多くのプログラマは、後々、この日の出来事を語りぐさにしたものだ。だが、私にとって、8.23 はまだ終わっていなかった。
 その日は、今枝さんがずっと打ち合わせに時間を取られていたせいもあって、私の作業が思うように進まなかった。21 時を過ぎた頃、私は帰宅するのを諦め、待っていてくれた細川くんに謝った。細川くんは、挨拶をすると、急いで帰っていった。きっと、新婚の奥さんから早めに帰宅するようせっつかれているのだろう。
 22 時30 分過ぎ、私はようやく作業を一段落させ、デスクから立ち上がって大きく伸びをした。疲労が湿った綿のように、身体全体を覆っている。21 時を過ぎると、エアコンが止まってしまうため、USB 接続の卓上扇風機でしのいでいたが、少しずつしみ出してくるような汗が不快だった。
 エレベータで3 階に降り、シャワールームで熱いシャワーを浴びて、全身をごしごしと洗った。8 月に入ってスパの利用頻度が上がってから、大判バスタオルとバスローブが人数分、準備されるようになっている。私は乾いたタオルのありがたみを享受し、新しい下着の上にバスローブを着て、備え付けのドライヤーで髪を乾かした。LINE で息子と母親に明日の朝食にいない旨を連絡すると、まだ起きていた息子からおかしなスタンプが返信されてきて、私は一人で微笑んだ。
 自動販売機でミネラルウォーターを買うと、私は荷物をまとめてエレベータに向かった。ボタンを押し、スマートフォンでニュースサイトを見るともなしに見ているうちにチャイムとともにドアが開く。そのまま乗り込もうとした私は、ケージの中にいた人に危うく衝突するところだった。よろめいた私の腕を、相手が支えてくれた。
 「大丈夫ですか?」
 「あ、ごめんなさい」
 言いながら私は相手の顔を見た。心臓が大きく跳ね上がる。よりによって、草場さんだった。
 「ま、まだいらっしゃったんですか」
 開発センターを出たときには、草場さんの姿はなかったので、てっきり帰宅したのだと思っていた。
 「ええ」草場さんは私の腕を掴んだまま言った。「会議室でタスクフォースの人と、打ち合わせだったんです。今枝さんの遅れ分のリカバリーで」
 「そうですか。大変ですね、お互い」
 自分の声が尻すぼみに小さくなっていくのがわかった。半ば濡れたままの髪と、バスローブにバスタオルをかけた自分の姿が、草場さんにどう映っているのか気になる。当然、すっぴんだ。私は自由な方の手で、無意識のうちにバスローブの前を掴んでいた。草場さんの無精髭が伸びた顔に固定されたままの視線を逸らすことができない。掴まれている二の腕から熱が全身に広がっていくように感じる。
 どれぐらいの時間、そうしていたのか。エレベータが苛立ったようにブザーを鳴らし、私たちは我に返ったように身じろぎした。草場さんが、今、気付いたように私の腕を解放する。
 「すみません」
 「いえ」私は手ぐしで髪を無意味に直した。「今日は泊まりですか」
 「ええ」
 草場さんは頷き、素早くエレベータから出ると、扉を手で押さえてくれた。私は会釈してケージに乗り込んだ。
 [ 2 ] のボタンに触れ、おやすみを言おうと顔を上げたとき、草場さんがケージの中に踏み込んできた。え、と思う間もなく、唇が重なった。
 もちろん驚いた。だが、そこに拒絶する心は含まれていなかった。あらかじめ予定されていた未来に、ようやく到達しただけ、という気がする。奪うことも、奪われることもない触れ合い。そんな優しいキスだった。
 私と草場さんの顔が離れたのは、たぶん数秒後だっただろう。草場さんは自分の行動に驚いたように何か言おうとした。その口から謝罪か、それに類する言葉が洩れるのが怖かった。そんな言葉を耳にしたら魔法が解けてしまう。そんな暗転には耐えられない。だから二度目は、私から距離をゼロにした。不意を突かれた草場さんの唇は開いたままで、歯がぶつかる小さな音が聞こえた。
 再びエレベータがブザーを鳴らし、私たちは互いに一歩離れた。草場さんがケージから出ると、待ちかねたようにドアが閉じ始める。二人の間の空間を金属のドアが遮断するまで、私たちは目を逸らさなかった。
 エレベータが動き出すと、私は背中をケージの壁につけ、呼吸を再開した。それまで息を止めていたことさえ気付かなかった。唇に指をおそるおそる触れ、今しがたの出来事が、疲労がもたらした幻覚などではないことを確認する。
 私に関する限り、これが8 月23 日のクライマックスだった。私の個人史に新たな1 ページが刻まれた夜だった。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(25)

コメント

もっこす

高杉さんの印象が人形つかいの時と180度違う…。敵にすると厄介すぎますが、味方にするとこんなにも頼もしいのですね…
そしてラブコメ展開は非常に楽しみですが、草場さんの立場が不明瞭で悲恋に終わる予感しかありません…頑張れ!

VBA使い

高杉さんが出てくる度に、天○祐○が浮かんでくるのは私だけでしょうか?

もちなべ

いつも更新ありがとうございます。

>>VBA使い 様
それ!私もそう思っていました
ついでに私は白川さんは篠○涼子でイメージしています

SHIRO・K

私はラ○ス国務長官のイメージでした…

匿名

立派って、当たり前のことじゃん。
無能ではないが、いきなり鉄火場を仕切ろうというのはまだ早い、というところか。
仕事の方は、その成長を待ってはくれませんけどね。
高木さんも、白川さんにあんな高圧なやり方しなくてもよかったろうに。
相手が上と下で顔を使い分ける人なのかな。

SQL

白川さん、鉄人だと思ってた。
むしろ前倒しで復帰するぐらいに思ってた。

匿名

冷えたブリヌイと間抜けなK○Bが嫌いな人思い出した

ハシモト

僕は真矢みきで再生してた

匿名

監獄学園て漫画の副会長で再生してます。

NONE4295

白石「ちょっとエレベータのタイミングをずらしただけで思ったとおり。この動画もいつか使えるかもね。ははは イテテテテ」

NONE4295

×白石 ○白川
白石は俺の友人だ…

うーん

このエロ展開必要か???
今後この密度でエロ展開書かれると18禁になっちゃわないか??w

p

ちゅーしろちゅーしろって思いながら読んでたらほんとにするんだから、草場くんもなかなかやるわね
お風呂上がりのバスローブ姿にくらっときたのかしら
おばちゃんにやにやにやにやしながら読んじゃったわ(おばちゃんとは言ってない)

3STR

ふと、自分に求められている役割は厚化粧もとい面の皮改め鉄面皮ということを弁えたからのOT制度なのかなと思った
上流様が魔法の杖振り回すこともなさそうだし、なにがしか改めることがあったんだろうか

バスローブに湯上りすっぴんで共有スペースを歩きスマホとか、なかなか年頃にあるまじき不用心ですね
結構疲労が溜まってるのかな

匿名

バスローブで廊下ウロウロは非常識だよ川嶋さん…

匿名

川嶋さんは裸族派なので部屋着も寝巻きもないんです…

匿名

コメントが伸びませんね。
みんな、あっちにかぶりつきなのか。

コバヤシ

自分もバスローブでうろうろは「川嶋さんそんな雑な女なの!?」とちょっとショックを受けました。
この前の某議員さんのパロディと解釈しましたが。

2018/02/06 16:43

いかんな。
かぶりつきだったのはオレの方か。orz

dai

>コメントが伸びませんね。
>みんな、あっちにかぶりつきなのか。

あっちというのは?よければ教えて

2018/02/06 16:43

なんだ?
いまさらやるなら、もうちっと煽るようなツッコミにしろよ。


バスローブに決まってんじゃん。

匿名

>あちこち不具合
白川氏アンドロイド説

匿名

他社の下風に立つ

他社の風下に立つ

Cacao

下風に立つ、でも正しいです。

大辞林 第三版の解説
かふう【下風】
① かざしも。
② 他人の勢力下。人より低い地位。 「人の-に立つを潔しとしない」

匿名

俺はまだ草場が黒幕だと信じているぞー!

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