ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (11) 伏魔殿

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 どんなプロジェクトでも、開始直後の多少のごたつきは付き物だ。くぬぎ市再生プロジェクトも例外ではなかった。白川さんがどんなに優秀なPL であっても、初めて実戦投入するフレームワークに、トレーニングを終えたばかりのプログラマたちの組み合わせでは、試行錯誤の苦労は並大抵なものではなかっただろう。
 2 月の最初の2 週間は、仕様確定の打ち合わせに終始した。要件定義フェーズである程度の道筋は決定されていたが、そのままコンテナの実装に落とし込むには粒度が荒すぎる。私たちは大抵、2、3 人程度の組み合わせで、エースシステムのサブリーダーやシステムエンジニア同席の元、くぬぎ市再生タスクフォースの職員と打ち合わせを行った。打ち合わせの予定時間は、60 分から90 分で組まれていることが多かったが、その半分もかからずに終わる場合もあれば、2 時間以上オーバーする場合があったりとまちまちだった。
 3 週目に入ると、少しずつ実装のアサインチケットが届くようになった。実装はすでに打ち合わせが終わり仕様が確定したものばかりだったが、その難易度は、やはりまちまちだった。あるコンテナが30 分も手を動かせば実装と単体テストが終わってしまう程度の容易さなのに、次のチケットには数時間を要するコンテナが指示されていたりする。これらの粒度のバラツキは、そのまま勤務時間に反映され、あるプログラマが18:00 でアサインされたチケットを全て消化して帰宅の準備をする隣で、同僚のプログラマが夜中までかかっても終わらないのではないかと思える実装に取り組んでいる、という構図も珍しいものではなかった。
 このままの状態が長く続けば、プログラマたちの不満とストレスが少しずつ蓄積していったかもしれないが、白川さんはエースの白い魔女の二つ名が伊達ではないことを証明してみせた。月をまたぐ頃には、アサインされるチケットが、プログラマの適性を十分に考慮した粒度に変わってきたのだ。私の目には、適当に乱発しているようにしか見えなかったアサインチケットだが、おそらく緻密な計算に基づいて、各プログラマが能力を最大限に発揮できるのは、どんな局面なのかを見極めるために発行されていたのだろう。2 月第1 週から第2 週頃、グラフの平均値の上下に分布していた各自の勤務時間は、2 月の後半になると、日を追うごとに中央付近に集束しつつあった。
 この手のプロジェクトの場合、スキルの高い人がより多くの作業をこなすことで、見かけ上、時間数を範囲内に収めている、というケースもあるが、白川さんはグラフと数字だけを見ていたわけではなかった。たとえば、サードアイのメンバーだと、東海林さんにアサインされているチケットは複数のコンテナ間をリレーするコーディネータ的なコンテナの設計や、Cassandra と直接やり取りするコンテナの実装だったりと、一段高い視点からの設計能力が求められるものばかりで、その分、数が少ない。逆に細川くんが受け取るチケットは、末端の単体で完結するコンテナが多く、容易だが数は多い。東海林さんはモジュール間のデータフローを頭の中だけで組み上げる能力があるし、細川くんは限定されたスコープの課題に集中して基本機能から例外処理まで綺麗に仕上げるのが得意だ。立場が逆だったら、東海林さんは他のコンテナのことが気になって苛々しただろうし、細川くんは混乱してパニックになっただろう。
 「たぶん」ある日、東海林さんはランチの席で感心したように言った。「あの人の頭の中では、コンテナとプログラマとエース社員が、全部同じレベルで見えてるんじゃないかな。最大の効率で目標を達成するためには、何をどう組み合わせればいいのか、シミュレーションを繰り返してるんだろう」
 「頭の中でですか?」細川くんが笑った。「すごいコンピュータ脳ですね」
 「でなきゃ、コマンドルームに量子コンピュータか何かあるのかもな。とにかく、白川さんが全体最適化のプロなのは確かだ。ああいう能力のある人間が、なりふり構わず仕事すると、すごいものができるんだよな」
 「将来の上級SE も夢じゃないですね」私は持参したおにぎりを頬張りながら言った。
 「このプロジェクトが成功裏に終われば、将来じゃなくなるだろうな」
 「エースシステムの社員の中じゃ浮いてるかとも思ったんですけど」細川くんが言った。
 「確かにちょっと違う人種だな」東海林さんはお茶をすすった。「ニュータイプか。しばらく休職したのがよかったのかもしれんな」
 私の目から見ても、白川さんが他のエース社員と一線を画した存在であることは確かだった。
 エースシステムの社員で構成される3 名のサブリーダーと、7 名のシステムエンジニアは、白川さんの指示の元で、Vilocony の設定やコンテナのテスト、仕様のチェックなどを行っていたが、それほど激務に追われているようには見えなかった。シフトが決まっているらしく、17:00 でさっさと帰宅する人もいれば、午後遅くに出勤してきて21:00 過ぎまで残っている人もいる。食事にはエース社員同士で出かけ、私たちプログラマが誘われることは一度もなかった。打ち合わせに同席していても、雑談などに時間を割くことがない。私が仕事をしたことのある元請けさんには、積極的に交流を求めてきて貪欲に知識を吸収しようとする人もいたのだが、エース社員にはそういう観点ははなからないようだった。これはエース社員が傲慢で鼻持ちならないエリート主義者ばかりというわけではなく、そのような教育を受けているのだから仕方がない。エースシステムでは中途採用で入社する社員はまれで、新社会人から長い時間をかけてエース色に染められていく、という話だ。会社に忠誠を尽くすことを求められるが、充実した福利厚生で報われる。
 唯一の例外は白川さんだった。
 白川さんは、通常、開発センターの中にあるコマンドルームにいて、ほとんど顔を見せることはないが、朝は誰よりも早く出社し、夜中過ぎまで残っているらしい。コマンドルームは開発センター内では、唯一、production 環境と開発環境のネットワークが来ている場所だ。白川さんのデスクはこの中にあり、日中はほぼこもりきりだ。個々の打ち合わせにも、ほとんど同席したことがない。
 とはいえ、白川さんが人一倍強烈なエリート意識を持っているとか、孤高を気取っているとかいうわけではなかった。毎日、13:00 から14:00 の間に、ふらっとコマンドルームから出てきて、私たちの誰彼かまわず気軽に声をかけながら食事に出て行くのだが、声をかけた相手も食事に行くところだと知ると「私もご一緒させてください」と同行することが何度かあった。最初の説明にあった弁当の受付が始まるのは4 月からで、開発センター近くのコンビニは激戦区になるので、車で近隣のファミレスや定食屋に行く人が多かったのだ。
 私自身がその栄に浴したことはなかったが、体験者によれば楽しいランチタイムだったらしい。3 月に入ってすぐのある日の午後、昼食を済ませた後、数少ない女性プログラマの一人、狭山チハルさんとブレイクルームで雑談をしていたとき、白川さんの事が話題に上った。チハルさんは数日前に、白川さんとランチに出かけたとのことだ。「元請けのPL と一緒なんて気疲れしなかった?」という私の問いに対して、チハルさんは首を横に振って否定した。
 「それが全然、そんなことなかったっすよ」チハルさんはケタケタ笑いながら言った。「仕事の話はほとんどなくて、お笑い芸人の話とか、バレンタインデーの話とか、好きな鍋の話とか、お肌にいい保湿クリームの話とか、女同士で盛り上がっちゃいました。あ、白川さんの車、知ってます? 真っ赤なプジョーなんすよ。かっこよかったなあ、あれ」
 お笑い芸人の話をしている白川さんというのは、ちょっと想像がつかない。
 「今度、女子だけで女子会やりましょうよ」
 「女子会は女子だけに決まってるじゃない」
 チハルさんは、あ、そっかあ、と、またケタケタ笑ったが、ふと何かを思い出したように首を傾げた。
 「そういえば、ずいぶんいろいろ話したんですけど、いっこだけ盛り上がらなかった話題があったんすよね」
 「へえ。何?」
 「男です」チハルさんは声を潜めた。「あたしが去年、彼氏と別れたって話をしたら、白川さん、そうなの、って言っただけで、すぐに温泉の話に変えちゃったんです。あ、これ、地雷だったかなあ、って思ったんすけど」
 「たまたま、そういう気分じゃなかったのかもね」
 そう言ったものの、私は内心首を傾げた。私もそうだが、女子はいくつになっても、恋バナが大好きな生き物だ。しかも進行中の恋愛より、終わってしまったそれの方に、より食いつくものだ。何かで落ち込んでいるときなど、気分的に避けたい時期もあるかもしれないが、白川さんは毎日エネルギッシュに仕事をこなしていて、そんな様子には見えない。
 「川嶋さんは、どうなんですか」チハルさんは肘で私の腕をつついた。
 「どうって?」
 「彼氏ですよ」
 アハハ、と私は笑ってごまかした。なぜか草場さんの顔が脳裏に浮かんだのは、もちろん内緒だ。
 「さて、仕事仕事」
 「あー、逃げた」チハルさんも紙コップをゴミ箱に放り込んだ。「ま、いいか。女子会のときに聞きますから」
 チハルさんはやる気満々だが、実現は難しいかもしれない。開発センターにいる女性は、私を含めて7 名。そのうち3 名はエース社員だ。エース社員が参加するとは思えないし、私たちプログラマの方は、開発が本格的に走り出したことで退勤時間が日を追うごとに遅くなりつつある。開発センターの周辺には、女子会を開催できる雰囲気の居酒屋やレストランはないし、横浜市あたりに戻っていては遅くなってしまう。休日に改めて集合するとなると二の足を踏む人の方が多いに違いない。私も休日はたまった家事を片付けたり、息子と過ごしたりする時間を大切にしたい。
 自席に戻り、午後の仕事の準備をしながら、私は草場さんの席をそれとなく見た。たまたま今日は何かの用事で休んでいる。あれから、何度かお茶や食事に誘われたが、いずれもどちらかの都合が合わずに実現していない。ブレイクルームで顔を合わせて立ち話をする程度だ。もう少し積極的にアプローチしてくれれば、と思う反面、今のこの微妙な距離を楽しんでいたい気持ちもある。
 東海林さんと細川くんが話をしながら戻って来たのを機に、私はモードを仕事に切り替え、グループウェアを開いた。アサインチケットが届いている。

 order No. 0306-0071
 user : GV074 川嶋ミナコ
 対象機能:kngsss-T0-8001-J266
 グループコード:4500
 コンテナID:KGCT_110_070

 コンテナID を見て記憶が蘇った。市役所の会議室で弓削さんと、技術者とは対極にいるようなど素人の浜野さんに、ムダな時間を浪費させられた不快な記憶だ。今回の打ち合わせも同じ場所が指定されている。
 前回の不毛な打ち合わせの後、開発センターに戻った私は「コンテナ仕様の確定に至らず」と報告を出したが、エースシステムからは特に問い質されることもなかった。後日、他の誰かがリトライしたらしく、コンテナの仕様定義ログには2 回の打ち合わせを経て仕様が確定と記録されている。本来なら、次にアサインされるのは実装のはずだが、なぜまた打ち合わせになっているのだろうか。
 前回は草場さんと一緒だったが、今回アサインされているのは私一人だ。数人でチームを組んでいたのは、最初の2 週間ほどで、現在ではほぼ全てのチケットが、一人にアサインされるのが通例になっていたから意外なことではない。ただ、また、弓削さん、浜野さんとかみ合わない打ち合わせを繰り広げるのか、と思うと、始まってもいないのにウンザリしてくる。
 とにかく指示された以上、打ち合わせに行かなくてはならない。筆記用具を手にして立ち上がったとき、サブリーダーの一戸さんが急ぎ足で近付いてきた。
 「えーと、サードアイの川嶋さんですね」もう一月以上、同じ場所で仕事をしているのに、まるで初めて対面するかのような態度だった。「KGCT_110_070 の打ち合わせですね。私も出席しますが、何分か遅れるので先に行っていてください」
 そう言うと、一戸さんは私の返事も待たずにどこかへ行ってしまった。私は小さくため息をつくと、コートを取りにロッカーに向かった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 市役所の会議室で待っていたのは、弓削さんと初対面の男性だった。浜野さんの姿は見えない。男性はくぬぎ市地域振興課の井ノ口課長と名乗ったが、名刺はいただけなかった。弓削さんは、私のことを憶えていたのか、「やあ、また会えて嬉しいよ」とか何とか軽口を叩いてきたが、私は礼を失しない程度に無視しておいた。
 一戸さんを待つ間、弓削さんと井ノ口課長は親しげにゴルフの話をしていた。その様子を見ていると、草場さんが言っていた、くぬぎ市役所に対するQ-LIC の影響力が健在であるという話に確証を得られた気がした。一度、弓削さんが私の方を向いて「君、ゴルフはやるの?」と話を向けてきたが、私が「いえ」と答えると、つまらん女だ、と言わんばかりに肩をすくめて、また井ノ口課長との話に戻った。今日はパナマハットはかぶっていなかったが、前回と同じ派手なカラーのメガネをかけている。靴下なしで靴を履いているのも同じだ。この人は、すね毛を見せびらかすことが格好いいとでも思っているんだろうか。
 一戸さんは4 分後に会議室に入ってきた。この人は典型的なエース社員で、普段からプログラマは下流に属する人種だという態度を隠そうともしないので好きではないが、このときばかりは救われた気がした。
 「じゃ、始めますか」弓削さんが言い、プリントアウトを配布した。「<Q-FACE>に学校情報システムからデータを送ってもらうコンテナね。それ、技術的な詳細。フォーマットとかね」
 私は受け取ったプリントアウトを読んだ。前回とは異なり、フォーマットやエンコーディングもしっかり記述されている。とりあえず時間をムダにすることはなさそうだ。各項目の内容を目で追っていると、一戸さんが困惑した表情で発言した。
 「すいません」一戸さんはプリントアウトを指していた。「要件定義で決定した項目より、かなり増えているようですが」
 私は一戸さんが指している場所を見た。確かに前回の資料に記載されていた項目より、いくつか増えている。base64 でエンコードしたバイナリファイルのようだ。
 「ああ、それね」井ノ口課長があくびをしながら言った。「最初は生徒情報と顔写真データだけだったんだがね。それじゃ不足だってことになってね。項目を追加してもらいたいんだ」
 「何の情報ですか?」
 「地毛証明書、証拠写真だよ」
 「証拠写真といいますと?」
 「入学前の写真だな。昔から髪の毛の色が地毛証明書を同じかどうかってことだ」
 「どれも顔写真と同じ場所に、画像データで保存されてるはずだからね」弓削さんが付け加えた。
 「いやー」一戸さんが口を尖らせた。「これ、かなり大幅な変更ですよね。要件定義にないのに、これはちょっと難しいですね」
 私は小さく手を挙げた。
 「あの、すいません。こういう画像データは、どんな形式で保存されてるんでしょうか」
 「この手の画像は」一戸さんが答えた。「圧縮して文字列に変換した後、生徒情報関連オブジェクトとして保存されてるね。1024 バイトを超える場合は分割されてる。いや、そんなことより、ちょっと問題じゃないですか、これは」
 「何が問題なんだね」井ノ口課長は不機嫌そうに言った。「問題ないじゃないかね。やることは一緒だろう」
 「そういうことではなくて」一戸さんは持っていたタブレットの上で指を滑らせた。「教育委員会との取り決めで、顔写真を<Q-FACE>に送るのは許可が出ましたが、その他の画像データとなると対象項目に入っていませんから」
 「それぐらい何とでもなるだろう」
 「そういうわけにはいきません」一戸さんはきっぱり答えた。「後で問題になったとき、私の責任になります」
 井ノ口課長の表情に躊躇いが浮かんだ。その視線が横に座る弓削さんに向けられた。弓削さんは小さく頷く。まるで井ノ口課長が弓削さんの意向を確認したかのようだ。
 「後で問題になんてならんよ。私が許可すると言ってるんだ。それで十分だろう」
 「そうだよ」弓削さんが笑いながら口を挟んだ。「クライアントの要望なんだよ」
 「君はクライアントの意向を無視するのかね。その方が後で問題になると思わないのかなあ」
 一戸さんは額に汗を浮かべたが、譲らなかった。
 「何と言われても、要件定義で決められた項目以外、送信することはできません」
 井ノ口課長はまた弓削さんを見た。弓削さんは小さく顎をしゃくる。もっと粘れ、と指示しているようだ。私に見られていることを気にも留めていない。そのとき私は、この項目追加要望を出したのが、くぬぎ市ではなく、Q-LIC であることに気付いた。
 「顔写真は送っているじゃないか。その他の画像を追加することぐらい、大した追加にはならんだろう」
 井ノ口課長はさらに言い募ろうとしたが、一戸さんは「お待ちください」と制止し、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出した。手早く何かを入力している。
 「すいません。私では判断できませんので、今、白川を呼びました。すぐに来ますので、しばらくお待ちください」
 一戸さんは、そう言うと座り直した。井ノ口課長は忌々しそうに一戸さんを睨んだ。
 「この程度の修正、君の裁量でできんのかね。お飾りか君は」
 確かに、これまでの打ち合わせの中で、くぬぎ市から追加の要望が出され、サブリーダーの判断で了承したことは何度かあったから、サブリーダーには一定の決定権が委ねられているらしい。むしろ、顧客の要望をできる限り受け入れる傾向すらあった。今回の追加要望は、仕様を大きく変更するものではないから、了承してもよさそうなものだが。
 少し不思議に思いながら待っていると、数分で白川さんが入ってきた。
 「どうも、お世話になります」白川さんは、弓削さんを無視して井ノ口課長に挨拶すると、私の隣に座りながら一戸さんに命じた。「見せて」
 一戸さんが慌ててプリントアウトを差し出す。白川さんは素早く目を通した。
 「どうですか、白川さん」井ノ口課長がやや丸い口調で訊いた。「これぐらいの項目追加は問題ないんじゃないですか」
 「量的には問題ないですね」白川さんは顔を上げると、井ノ口課長に向き直った。「問題は中身です。この地毛証明書というのは、市内の中学校の生徒が入学の際、提出が義務付けられている書類をスキャンしたものですね」
 「そうです」
 「<Q-FACE>にそれが必要な理由はなんでしょうか」
 「それが何か関係ありますか?」井ノ口課長はムッとしたように言った。「御社には関係のないことですよ」
 「そういうわけにはいきません。一戸が説明したかもしれませんが、学校情報支援システムと<Q-FACE>とのデータ交換は、事前に了承された項目に限られると要件定義フェーズで決められています。顔写真は万引き等のアラートを出すために、顔認証システムに投入される、ということで、一応の了承を得ていますし、保護者がサインする同意書にも一文が入っています。地毛証明書は含まれていませんね」
 井ノ口課長は助けを求めるように、弓削さんの方を見た。弓削さんは小さく舌打ちすると、わざとらしい薄笑いを浮かべた。
 「<Q-FACE>から新しい非行防止プログラムの提案をしているところでね。防犯カメラ映像で生徒の顔を認識して、地毛証明書の画像と一致しなければアラートが上がる。いわば、非行少年少女予備軍として、データベースに登録できるわけだよ」
 「登録して、その後は?」
 「まあ、いろいろ応用が考えられるね」弓削さんは手にしたペンをくるくる回した。「詳しくは企業秘密だから言えないが、たとえば対象者の行動範囲をパターン化して、何かがあったときのおおよその居場所を特定するとかね。家出人の捜索や、窃盗などで逃走した際の追跡に役立つ情報を行政に提供できるだろう」
 「本人の同意もなしにですか?」
 「入学時に同意書にサインさせてるからな。大抵、細かい文章まで読まずにサインするだろ、ああいうのは」
 こともなげに話す弓削さんを見て、私はどんなことがあっても、息子をくぬぎ市に近づけないことを心に誓った。
 「この市の中学生は、仮に悪い遊びをするとしても、横浜市あたりに出てするんじゃないですか? むしろ地元じゃ、おとなしくしてるでしょう」
 「問題ないね」弓削さんはバカにしたように笑った。「関東近県の大都市の街頭防犯カメラの多くは、HSSJ の関係警備会社が運営しているからな。そこからの情報と照合すれば、どこにいても見つけられるよ」
 「なるほど」白川さんはため息をついた。「あなたたち、まだ懲りてないんですね」
 「は?」
 「お忘れですか。<Q-FACE>の稼働直後、顔認証プログラムにバグがあったせいで、無実の女子中学生が万引きの疑いで通報されたことを」
 「ああ、あのことか」さすがに弓削さんは笑いを消した。「あれは不幸な失敗だった。担当者は解雇されたし、HSSJ からは慰謝料が支払われたはずだがね」
 「無実の女子中学生が、その後どうなったかご存じですか」
 「いや、知らんね」
 弓削さんは本当に知らないらしく怪訝そうな顔になったが、隣に座っている井ノ口課長の顔は青ざめていた。
 「彼女の名前は沢渡レナさん」白川さんは井ノ口課長に視線を固定しながら静かに言った。「万引きの疑いで通報された後、学校に行けなくなりました。<Q-FACE>が、学校情報システムとリンクしていたため、自動的にアラートが上がり、学校が自宅待機を命じたんです。システムのバグが明らかになり、容疑が晴れるまで14 日を要しています。彼女の不幸はそこで終わりませんでした。今度は学校情報システムの機能不足のため、彼女が補導されたという記録が残り続けたんです。<Q-FACE>側でアラートが解除されれば自動的に学校情報システムのデータも削除されると、関係者全員が思いこんでいたのですが、本来は手動で削除する必要があった。この件、誰も説明を受けていなかったそうですね、Q-LIC の弓削さん」
 「......いや、それは」
 「当時の学校情報システムは、セキュリティに対する考慮が低く、知識のある生徒が秘かに侵入を繰り返していました。沢渡さんが補導されたことは秘密にされていましたが、記録が残っていたせいで、侵入した生徒に発見されることになりました。その情報を生徒が面白半分に学校裏サイトに流出させ、SNS でも広めたために、沢渡さんの件は地域に広く知れ渡ることになってしまいました。Q-LIC は生徒のせいにして、責任を回避したんでしたね」
 「......」
 「彼女は不登校になりました。学校に行くとクラスメートからからかわれ、イジメに近い仕打ちを受けることもあったようです。中学3 年生の冬で、受験に集中しなければならない時期にです。彼女は横浜市内の私立高校に進学を希望していましたが、確実だと思われていた推薦がもらえませんでした。結局、彼女は高校入試に失敗しました。滑り止めを含めて全ての高校に合格しなかったのです」
 弓削さんは顔を背けた。井ノ口課長はうつむいている。一戸さんも詳細は知らなかったらしく、目を丸くして白川さんを見つめていた。私も白川さんの横顔から目が離せなかった。
 「彼女は横浜市の定時制高校に進学しましたが、2ヵ月で学校を辞めています。ウワサを知った教師が、心ない言葉を投げたためだと言われています。その後、精神的に不安定な状態が続き、一時は生活もかなり荒れたようですが、両親や親戚の助けもあって、支援施設に入って治療を続けながら社会復帰を目指しています」
 白川さんは言葉を切ると、井ノ口課長を鋭い視線で射貫いた。
 「この件は要件定義フェーズでも、タスクフォースの方々から、かなり厳密に指示があったはずです。同じことを絶対に繰り返さないように、と。弓削さんはともかく、井ノ口さんはご存じだったはずです。違うとは言わせません。過去の議事録には、地域振興課の課長印も押されていますから。にもかかわらず、Q-LIC からの要望があったからといって、生徒の個人情報を軽々しく一企業に流出させることを命令するとは何事ですか」
 「あ......」井ノ口課長は唾を呑み込んだ。「その、私はただ......」
 「それからそっちの人」白川さんは、弓削さんと目を合わせずに言った。「あんたにとって、この仕事は税金の一部をかすめ取るだけの、単なるちょろいビジネスなのかもしれない。失敗しても、形だけ頭下げて、せいぜい損害を賠償すればいいぐらいにしか思ってないのよね。でも、いい加減なものを提供すれば、誰かの人生を破壊してしまうことだってある。もう少し自分がやってることが孕む危険性を自覚して欲しいものね」
 その言葉がどう響いたのか、弓削さんは肩をすくめて鼻を鳴らした。白川さんは口元に侮蔑するような笑みを浮かべて応えた。
 「言ってることが難しすぎた? じゃ、簡単な言葉で言い直してあげる。もう少し真面目に仕事をやれってことよ」
 弓削さんは威嚇するように顔を歪めて白川さんを睨んだが、白川さんは、すでに井ノ口課長に向き直っていた。
 「この追加要望を受けることはできません」白川さんはプリントアウトを手の中でグシャグシャに丸めた。「どうしても強行するのであれば、この件を正式な書類にして、市の教育委員会、タスクフォース、市長に提出する用意があります。その方がよろしいですか?」
 井ノ口課長は逃げ場を探すように、白川さん、一戸さん、私の順に視線を移し、最後に弓削さんに顔を向けた。弓削さんから反論してくれることを願うように。だが、弓削さんは不機嫌そうに顔を背けただけだった。
 「わかりました」井ノ口課長は肩を落とした。「この機能追加要望は取り下げます」
 「ご理解いただけて助かります」白川さんは立ち上がり、私と一戸さんを促した。「では、これで」
 私たちは会議室を出た。閉じたドアの向こうから、弓削さんが何か怒鳴っている声が聞こえてきたが、内容まではわからなかった。白川さんは見向きもせずに、階段に向かっている。
 「さすが白い魔女」一戸さんが私にだけ聞こえる声で囁いた。「すげえな、あの人」
 「そうですね」
 私は頷いたが、それよりもQ-LIC のくぬぎ市役所に対する影響力を目の当たりにしたことに不気味なものを感じていた。これまでの打ち合わせ相手は、瀬端さんを筆頭とするタスクフォースの職員の方たちばかりだった。彼らは、Q-LIC に対するあからさまな悪口こそ言わなかったが、言動の端々に好意とは真逆の感情が滲んでいた。私はてっきり、それがくぬぎ市役所のスタンダードだと思っていたのだが、そうとは限らないようだ。
 交差点で信号待ちをしながら、私は肩越しに市役所を振り返った。およそ100 名あまりが働く建物の中には、草場さんが指摘したように、大企業であるQ-LIC にすり寄って甘い汁を吸う機会をうかがう人が一定数存在しているということだ。穏やかな地方都市の庁舎に過ぎないが、今の私には様々な魑魅魍魎が暗躍する伏魔殿に見える。
 無言のまま交差点を渡り、くぬぎICT センタービルのオフィスエントランスに入ったとき、白川さんは足を止めると、何かを思案する顔で私と一戸さんを振り返った。
 「川嶋さんに、次のチケットが出るまでまだ時間がありますね」白川さんは一戸さんに顔を向けた。「先に戻っていて。川嶋さん、ちょっとドライブしましょう。来てください」
 最後の言葉が終わらないうちに、白川さんは地下駐車場へのドアに向かって歩き出していた。どこへ、何をしに、と問いを発する間もなく、私は白川さんの後を追いかけた。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(13)

コメント

qw

地毛証明書とはまた、随分タイムリーな話題を引っ張ってくる。

それにしても、顔写真のデータって、このプロジェクトでは個人情報扱いはされないのだろうか?
個人情報の取り扱いの観点から議論するシーンが無かったのはちょっと違和感を覚えたな。
(このプロジェクトでは個人情報の取り扱いもガバガバ、って描写の一環とも解釈できるが)

imo

伏魔殿とは、なるほど確かに。
Q-LICは不気味ですな…。
この先に何かとんでもないことが待っている気がしてきた。

岸辺ロコ

> 家出人の捜索や、や窃盗などで
→ 家出人の捜索や、窃盗などで

白川さん、やっぱり若宮さんと関係ありそうですね
でもPJリーダーだったら仕事しやすそうだなぁ

おるは

>qw
保護者のサインする同意書が
あるんだから個人情報として
取り扱っては、いるんじゃないですかね。

匿名

>qwさん
情報に「機密」とか「個人」とか、ラベルが貼られたところで、
ラベルにふさわしい扱いを受けるかどうかとは無関係です。


次は女子会ですかー。o(・∀・)o

名前無し

何ともきな臭い感じになってきましたねー。
魔女といえば呪いやら魔術やらありますけど
白川さん、システムを魔女の大釜に見立てて何か
別の事も企んでいそうな・・・

匿名

企業のモラルに期待出来ない分、公務員には幻想を抱きがちになっちゃうわねぇ。
白川さんかっけーっす。

匿名

>沢渡さんの件は地域に広く知れ渡ることになってしまいした。

白川さんかっこいい…けどこれだけの熱意があるだけに一話の状況のきな臭さが強くなってうーむ

リーベルG

岸辺ロコさん、匿名さん、ご指摘ありがとうございました。

匿名

白川さん、赤の他人にしては事情を知りすぎているので、件の女子中学生に近しい人か、もしかすると実の母親だったりするんですかね
それにしても、プロジェクトを失敗に終わらせたい動機のある人が次々現れて予想がつかないですね

匿名

今回もすげー面白いなぁ
白川さんは最後の最後にはめられちゃったのかな

mm

初めてコメントします.人形つかいの頃からリアルタイムで楽しみにしております.

> 井ノ口課長に向きなった
「向きなおった」かと思います.

リーベルG

mmさん、ご指摘ありがとうございました。

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