ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

魔女の刻 (3) 夢の跡

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 白川さんが言葉を切ると、耳が痛くなるような静寂が落ちた。
 ネットやニュースで断片的に耳にしていたことではあったが、改めて一連の事象として提示されると、地方自治に無知な私にさえ、くぬぎ市の民間委託施策が「失敗例」として語られているのが当然だと思えてくる。胸の中には、様々な感情がスパゲティコードのように絡み合っていたが、最も強く脈打っているのは怒りだ。白川さんは感情を排し事実を伝えることに徹していて、私たちを特定の方向に煽動していたわけではないが、その細く白い顔に抑制された憤りが走ったのを何度も目撃した。集まったベンダー担当者の多くも、その怒りに同調したような険しい顔をしている。
 手元に視線を落としていた白川さんはゆっくり顔を上げ、不意にフッと人懐っこい笑顔を浮かべた。
 「まあ、みなさん」明るく朗らかな声だった。「少し肩の力を抜きましょう。疲れちゃいますよ」
 そう言いながら、右肩をぐるりと回して見せた。一気に緊張がほぐれた私たちは、思わず笑い声を上げた。
 「さて」白川さんは笑顔のまま続けた。「それから先のことはみなさんもご存じのことでしょう。一昨年の3 月、任期満了に伴う市長選で小牟田前市長はかろうじて再選されました。が、その直後から複数の週刊誌やネットニュースが、図書館の選書問題やタブレットなどの不透明な支出について相次いで報道を開始しました。前市長はそれらの対応に追われ、地域医療問題の解決などの公約に一つも着手できませんでした。また、個人情報保護に関心のある方は、図書館カードにQLIC カードを採用し、来館と貸出にQ クレジットを付与する、という施策が問題になったことを記憶しているのではないでしょうか。市民の図書貸し出し記録がQ-LIC に渡るのではないか、という懸念について、前市長は、貸出記録は個人情報には該当しない、という解釈を押し通しました。産業技術総合研究所の高村ミスズ先生とTwitter を通して激しくやり合ってセキュリティについての無知をさらけ出した挙げ句、アカウントをいきなり削除して逃亡したことは、今でも語りぐさになっています」
 その言葉に東海林さんが大きく頷いていた。私はその論争についてあまり興味を持たなかったが、東海林さんは追いかけていたようだ。以前にうちの会社が巻き込まれたT市立図書館不正アクセス事件で、高村ミスズ先生とは縁があったからだろう。
 「その年の12 月、小牟田前市長は県知事選に出馬の意向を表明しましたが、どの政党からも公認・推薦・支持のいずれも得られなかったことで断念。同月、任期半ばで市長を辞任しました。そのわずか2 ヵ月後、Q-LIC の子会社であるマーケティング会社の社長に就任したことも、多くのメディアが報道したので、ご存じのことでしょう。結局、Q-LIC という一企業に利益誘導するために税金を投入し、自分はQ-LIC の子会社に収まった。くぬぎ市に残されたのは、使い物にならないいくつかのシステムと、経済的発展を信じて裏切られた市民の思いだけ。兵どもが夢の跡、というわけです」
 白川さんは、やれやれ、とでも言うように両手を軽く広げて肩をすくめた。またひとしきりクスクス笑いが広がる。
 「昨年の4 月、現在の奈須野市長が新市長に当選し、くぬぎ市再生プロジェクトを正式発表しました。図書館システム、学校支援システムのリニューアル、民間委託の中止が盛り込まれています。プロジェクト管理の入札が実施され、弊社が受注した次第です。Q-LIC は市政アドバイザリ契約がまだ3 年残っているため、引き続き何名かが市庁舎内の一室に残っていますが、再生プロジェクトに対しての影響力は限定されます」
 白川さんは腕時計に視線を走らせた。細い手首からベゼルがはみ出しそうだ。
 「なぜこんな話を長々としたのか、と疑問に感じている方もいらっしゃるでしょう」白川さんは全員を見回した。「この再生プロジェクトに失敗は許されない、とわかっていただくためです。前市長のICT 先進都市プロジェクトは、確かに失敗に終わったのですが、くぬぎ市民と市議会の大多数は、比較的冷静に受け止めています。ICT に詳しくない市長が同じくICT システム開発には素人のQ-LIC を選択したのだから、とね。ですが、再生プロジェクトは事情が違います。くぬぎ市民の多くは、奈須野市長を選んだというより、公約だった再生プロジェクトを選んだのです。しかも、今回、プロジェクトマネジメントを行うのは、国内屈指のSIer、エースシステムです。プロ中のプロである我々を信じて、再度、血税をつぎ込むことを許容したのです。もし、私たちが失敗したらどうなると思いますか。くぬぎ市のみならず、全国からエースシステムは非難されることになります。ネット上には、多くのくぬぎ市問題クラスタが存在し、今なお、熱心にくぬぎ市の動向を注視しているんですからね」
 白川さんの言葉は正しい。今日までの数日間で、私は何度かTwitter を検索し、#くぬぎ市問題や、#くぬぎ図書館問題、というハッシュタグが数多く存在していることを確認していた。
 「今のところ、くぬぎ市問題クラスタは、我が社が再生プロジェクトのICT 部分をマネジメントすることに、諸手を挙げて賛成しているわけではありませんが、一方で否定的でもないようです。様子見、といったところでしょう。ですが、今後も同じ状態が維持される保証はありません。もし、再生プロジェクトに失敗の烙印を押されたら、我が社のトップSIer としての名声は大きく傷つくことになります」
 それはちょっと見てみたい気もする、と私は内心、底意地の悪いことを考えた。集まったベンダー担当者の何割かが、同じ思いを共有したことは賭けてもいい。だが、白川さんは、なぜかフフッと笑った。
 「みなさん、今、こう思いましたね? 失敗したって責任を問われるのはエースだろって。思ったでしょ。違いますか?」
 また笑い声が上がりかけたが、白川さんの次の言葉で、それは急速に沈静化した。
 「残念ですが、その影響はあなたがたにも確実に及ぶんですよ」白川さんの言葉にはユーモアの欠片もなかった。「なぜなら、くぬぎ市が新たに定めた条例により、市の業務を請け負う者は、全ての関係企業とその参加者を、契約書面に明記する必要があるからです。つまり、あなた方の社名、本社所在地、代表者氏名、参加者氏名が半永久的に公文書として残ることになります。この条例は、Q-LIC が開発したICT システムの不具合の責任を問われた際、開発の主要部分を担当していた会社がすでに存在しないため詳細は不明、と言い逃れたため、同じ逃げ得を再発させない目的で制定されました。当然、その公文書は、市民が公開請求を行えば、速やかに開示されることになります。再生プロジェクトが失敗し、またもや税金がムダに使われた、と思われた途端、公開請求が殺到することは、火を見るより明らかです。別に脅してるわけじゃないですけどね」
 いや、控えめに言っても脅迫だろう、と思って横を見たが、黒野も東海林さんも、驚いている様子ではない。事前にこのリスクを知らされていたらしい。
 自分の発言の効果を測定するように、白川さんは再び会議室内を睥睨した。
 「では、資料に戻りましょう」白川さんの手がプリントアウトを持ち上げた。「次のページを開いてください」
 ページをめくる音が一斉に響いた。次のページは、再生プロジェクトのICT 関連の概要となっていた。
 私たちが手がけるのは、次の3 つのシステムだ。

1.KNGLBS:図書館管理システム
2.KNGSSS:学校情報支援システム(旧:学校教育支援システム)
3.<サスティナブル・ホームタウン100>債権管理システム

 すでにエースシステムの手によって、昨年の8 月から要件定義やシステム設計などが行われていて、それらはほぼ完成に近付いているという。残りの実装フェーズの工数は、KNGLBS が400 人月、KNGSSS が500 人月、債権管理システムが3 人月と見積もられていた。
 「ただし、この数字はあくまでも予定であり、おそらく増加するでしょう」白川さんはさらりと告げた。「予算の関係で、行政システムのリニューアルは見送られることになりました。行政システムはグリーンリーヴスのクラウドサービスに乗っていて、図書館システム、学校支援システムともに、行政システムとデータをやり取りする必要がありますが、新しいインフラを準備する予算はありません。従って、既存のPaaS に稼働しているミドルウェア上に、新しいシステムを配置している形となります。ミドルウェアは、今は存在しないKID が開発したパッケージなのですが、その仕様書等は残っていないとのことです。Q-LIC の社内に何名か当時の担当者は在籍していますが再生プロジェクトへの参加は拒否されました。ただし、Q-LIC の窓口を通して、質問には答えてくれることになっています。この部分が未知数であり、工数増加の要因となるかもしれません」
 さすがに室内がざわめいた。何人かが質問の許可を求めるように顔を挙げかけたが、白川さんは手を挙げて制した。
 「あー、ごめんなさい。当然、質問があるでしょうが、いくつか説明をしておきたい項目が残っているので、先に進めることにします。次のページの表は、具体的に何を作ればいいのか、という概要になっています」
 大項目として、図書館システム、学校情報支援システムの2 つがあり、中項目として、蔵書管理、貸出管理、検索機能......と機能が列挙されていた。小項目については「別紙:機能要件説明書を参照」とある。債権管理システムの記述がないのは、実装フェーズの開始がずっと後に予定されているためだ。
 「弊社では、過去数ヶ月にわたって、くぬぎ市再生タスクフォースの方たちと要件定義を進めてきました。先ほどの工数は、その機能数を元に算出したものです。機能的な範囲では、漏れはないと思われますが、プログラムレベルでは増減することが予想されます。そのため各社との契約は成果物の量ではなく、拘束期間に対するものになっています。今日、参加していただいている営業の方々はすでにご承知だと思いますが」
 「ねえ」私は黒野をつついた。「どういうこと?」
 「まあ待て」黒野は小声で答えた。「そのうち話があるはずだから」
 「......」
 「さて」白川さんは続けた。「この会議室にいる人の半分はプログラマ職でしょうから、プログラマに興味のある話題に移りましょう。すなわち実装部分です。ページをめくってください」
 その言葉通り、次のページは実装に関する情報で埋まっていた。
 「開発言語はJava になります。Ruby on Rails や、Python3 も候補に挙がりましたが、既存のシステムがJava で作られており、クラウドサービスのミドルウェアとのインターフェースがライブラリとして存在しているので、それらをできるだけ利用しやすくするためにJava となりました。JDK1.8 です。Webフレームワークは、弊社のエース・ハイパフォーマンス・フレームワーク、略してAフレのバージョン5.6 を使用します」
 Aフレ、という言葉を聞いたとき、東海林さんと細川くんが、揃って「あれか」と呟いた。気にはなったが、それよりも私の注意を惹いていたのは、その次の項目だった。
 「Aフレについては、後日、説明の機会を設けますので省略します。次にデータベースですが、現行システムでは、いわゆるRDBMS は使用されていません。使用されているのは、Cassandra という分散型KVS です」
 またもや会議室がざわめきに満たされた。ほとんどフレーズの末尾にクエスチョンマークが付いている。
 「Cassandra で?」東海林さんが唸った。「チャレンジャーだな」
 「使ったことあるんですか?」細川くんが訊いた。
 「前にちょっとだけな。K自動車の相模工場流体力学研究センターのデータベース構築をやったとき、3 億件ぐらいのデータを入れる箱が必要になって、試しに使ってみたことがある」
 「それなら、全く未知の分野ってわけでもないですね」
 「ただ、そのときは、1 つのユニークキーに対して値が1 つだけというシンプルな構成だったからな。業務システムを丸ごとNoSQL で組んだのは、ちょっと聞いたことがないな」
 黒野はもちろん、細川くんもピンと来ていないようだが、私は東海林さんの危惧がわかった。KVS には、RDBMS なら当然持っている機能、たとえばトランザクション機能などがなく、それらを全てロジックで実装する必要がある。
 「はいはい。みなさんの危惧はごもっともです」白川さんのよく通る声でざわめきを制した。「ご存じの通り、KVS にはRDBMS が持つ一貫性保護のような機能がありません。それなのに、なぜCassandra が採用されているかというと、クラウドサービスと同じく、技術者以外の人間が決定したからです」
 前市長は、在任中、しばしばICT リテラシーの低さをさらけ出して、ネットユーザの失笑を買っていた。Twitter のリプライとメンションを混同して個人の悪口を拡散してしまったり、日本では使用できない音楽・映像配信サービスを非公式のアクセス手順で使用して自慢したり、画像共有サービスの公開・非公開の操作をミスして、知人の娘の水着画像を全世界に公開してしまったり。職員でも知人でもいいから指導してくれる相談役でも置けばいいのに、と思わせる迷走ぶりだった。それでも、本人は自分が――政治業界の中では――ICT リテラシーが高い、と思い込んでいたらしいが。
 ICT 先進都市宣言を声高に唱え、Q-LIC が要件をまとめていたとき、当初は32 ノードのOracle RAC によるデータベースが想定されていた。ところが「これからはNoSQL の時代だ」のような記事を目にしたらしい前市長が、NoSQL を使うように鶴の一声で命じた。そこから先は主に政治的な層で物事が決定していき、技術担当者レベルに落ちてきたときには、Cassandra の採用が決定事項となっていたとのことだ。
 「要件定義フェーズでは、インフラの再考とともに、RDBMS へのコンバートも真剣に議論されましたが、様々な要素、主に予算の事情から見送られることになりました。将来的には状況が変化するかもしれませんが、今回はこのままCassandra を使用することになります」
 白川さんが言葉を切ると、質問を誘うように私たちを見回した。それにつられた、というよりは、我慢できなくなったのだろう、真っ先に手を挙げたのは東海林さんだった。
 「はい」白川さんは頷いた。「なんでしょう」
 「1 つ質問してよろしいでしょうか」東海林さんは腰を浮かせた。
 「どうぞ。座ったままで構いませんよ。会社名とお名前を教えてください」
 「サードアイの東海林と申します。さっき仰ったように、NoSQL にはトランザクション等の機能がありませんが、図書館システムにせよ、学校情報システムにせよ、データの一貫性は不可欠だと思われます。それらを解決するライブラリなどは、存在しているんでしょうか」
 「もちろんですとも。次にそれをお話しようと思っていました。RDBMS と同等の機能を持つライブラリが現行システムの開発時に作成され、現在でも使用されています。残念ながら、開発した技術者は今はいませんが、弊社内で検証したところ機能的にはよくできたライブラリと言えます。現在、そのライブラリ群の著作権を、Q-LIC からくぬぎ市に譲渡する手続きが進められています。クリアされれば、くぬぎ市から開発業務を委託された我々が使用することは問題ありません」
 「わかりました」東海林さんは座り直した。「ありがとうございます」
 「開発するシステムの詳細については、実際に開発に入る直前になったら、改めて説明の機会を設けたいと思います。次に、開発を行う場所について説明します。これを見てください」
 白川さんが手元のスマートフォンを操作すると、会議室が薄暗くなり、同時にホワイトボードに画像が映し出された。白い外壁の7階建てのビルだ。デザインが比較的新しい。1 階は何かの店舗だったようだが、シャッターが下りている。
 「これは」白川さんの声が聞こえてきた。「くぬぎICT センタービルです。くぬぎ市役所のすぐ近くにある、Q-LIC 資本で建設された7階建て免震複合施設ビルです。1 階から3 階までは、クリック・ブックス、シネコン、ゲームセンター、スポーツジム、スーパー、その他の商業施設が入っていましたが、現在は全て閉鎖されています。4 階以上はオフィスゾーンになっていますが、こちらも現在は5 階に2 社が入居しているだけで、ほぼ空となっています。去年、このビルはQ-LIC からくぬぎ市に売却されました。現在、くぬぎ市はこのビルに、テナントの誘致を行っていますが、成果は上がっていません」
 画像が切り替わった。明るく開放的なオフィスだ。広めのデスクが、間隔を十分に取って配置され、デュアルモニタとキーボード、マウス、VoIP 機が置かれている。
 「6 階は開発センターとなっていて、現行システムもここで開発されました。サーバ室も同じフロアにあり、VDI によって開発環境を提供できます。開発はここで行います。ロッカー、休憩室、仮眠室なども完備しています」
 前の方の席に座っている誰かが挙手するのが見えた。
 「はい、どうぞ」
 「武蔵野第一コンピュータの志村です」男性の声が言った。「自社に持ち帰っての開発はできないんでしょうか」
 「いくつかの理由からできません」白川さんは即座に答えた。「最大の理由は機密保持ですが、ミドルウェアを含めたクラウドサービスの環境を、御社で再現するのは難しいと思われるのも理由の1 つです。グリーンリーヴスには、テスト環境としてリソースの一部を無償、または低価格で提供するサービスがありません。御社で同じ環境を用意しようとするなら、正規の月額利用料を払う必要があります」
 「......」
 「別の理由としては、システムの性質上、各社毎に機能を分離することが困難であることが挙げられます。Cassandra を使用することと無関係ではないのですが、みなさんには、1 つ1 つは短いプログラムを数多く作成していただくことになります。それらは、単体でテストしてもあまり意味がなく、他の誰かが作ったプログラムを結合して、小さなサービスとすることで、初めて意味のある単体テストが可能になるので、どうしても開発センターでテストを行う必要があるんですね」
 「わかりました」質問した男性が答えた。「ただ、くぬぎ市まで毎日通勤するとなると......」
 「遠いですからね」白川さんは微笑んだ。「もちろん交通費は全額実費で負担させてもらいます。定期券の購入も可能ですし、車で通勤されたいという方は、申請していただければガソリン代を補助します。幸い、駐車能力には余力が十分すぎるほどあります。くぬぎICT センタービルの地下に60 台分のスペースがあり、周辺にも空き地がたくさんあります。もちろん、駐車料金は無料です」
 うちの会社には社有車などはないが、個人で車を持っている社員はいる。私はペーパードライバーで何年もハンドルを握っていないが、細川くんなどは車が好きだったはずだ。そう思って細川くんを見ると、少し顔がほころんでいる。車通勤できると考えて喜んでいるのかもしれない。
 「また、ビルの2 階、3 階部分は当面、使う予定がないということなので、現在、簡易宿泊施設としての工事を進めているところです。スポーツジムのスパ施設は問題なく使えるので、大きなお風呂で疲れを癒やすことも可能です」
 歓迎の笑い声が、そこかしこで上がった。それを聞きながら、白川さんは画像を切り替えた。今度は、Windows のデスクトップ画像だ。いくつかのウィンドウが開いている。
 「開発ツールはEclipse です。日本語化はもちろん、WTP などの標準的なプラグインに加えて、Aフレプラグインも組み込んであります。先ほど言ったように、プラットフォームはVDI で提供されるので、アップデートなどで時間を取られることはありません」
 「VDI ですか」細川くんが呟いた。「まだ使ったことないですけど、速度はどうなんでしょうね」
 「ネットワークは、全てギガビットです」まるで細川くんの質問が聞こえていたかのように、白川さんが続けた。「体感的には普通のPC を使用するのと変わらないはずです。弊社のインフラ管理部がテストしたところ、100 台を同時に動かしても重くなるようなことはなかったとのことです。言うまでもないですが、USB などの外部デバイスの使用は不可となります。ネットへの接続は443 番のみ開けてあります。https でないサイトは参照不可、ということです。また、ファイル共有サービスなどは、ファイアウォールのフィルタリングで弾く設定になっています。Gmail や、Yahoo メールなどのメールサービスも使用不可です。外部とのメール連絡は、開発用のアカウントを払い出すので、インストールされているOutlook を使ってください」
 なかなか厳しいが、今どき、これぐらいは当たり前と言える。本当かどうか知らないが、機密性の高い開発現場の場合、建物の出入りの際、手荷物検査をやられることもあるそうだ。
 「ソース管理システムは、Git を使いたいところですが、SVN です。これは、現行システムのソースがSVN で管理されていて、それをそのまま参照する場合もあるためです。Git への移行も考慮されましたが、標準的なレイアウト、すなわち、trunk、branch、tag という構造になっていないリポジトリもあり、手作業での移行が発生すると判明したため断念されました。うっかりソースを消してしまうぐらいなら、今のままで運用を続けた方がいい、という保守的な判断ですね」
 何人かがクスクス笑った。
 「では、最後のページを開いてください。スケジュール表です」
 スケジュールといっても、年月単位のブロックが並んでいるだけの概要レベルだ。それによれば、今月いっぱいでエースシステムによる要件定義と設計が終わり、私たちの出番は2月からとなる。図書館システム、学校情報支援システムを並行して開発し、前者のカットオーバーは、来年5 月の図書館の改修工事完了と同時、後者は来年4 月の新学期前となる。債権管理システムの開始は、今年の10 月予定となっていた。
 「ご覧の通り、約1 年で2 つの小さいとは言えないシステムを稼働させる必要があります。この規模のシステム構築としては時間が不足していることは、みなさんなら想像がつくのではないかと思います。しかしながら、このスケジュールは何が何でも厳守しなければなりません。遅延は許されません。大事なことなので二度言いますけど、遅延は許されません。おそらく最後の数ヶ月、プログラマとテスターの方々は、日の労働時間が12 時間から14 時間にも達するでしょう。それでも、最後の数日は不眠不休で実装を進めていただくことになるかもしれない、とあらかじめお断りしておきます」
 ざわめきが大きくなった。デスマーチになると、あらかじめ宣言しているようなものだ。私は黒野をつついた。
 「あんなこと言ってるけど、承知の上で受注したの?」
 「その分」黒野は親指と人差し指で○を形作った。「こっちがいいんだ。すごく」
 「へえ、どれぐらい?」
 「お前の場合、K自動車に常駐していたことがあっただろう。単価ベースで、あのときの1.75 倍だ。交通費や宿泊、深夜帰宅のタクシー代などの経費請求もできるし、2 ヵ月毎に2.85% のベースアップが確約されている。継続して専任で携わることが条件だがな」
 「それであたしを売ったわけね」
 「人聞きの悪いことを。こう考えたらどうだ。お前の本来の技術力を正当に評価してくれる元請けが現れたと」
 「うちは6 次請けなんでしょ」私は言い返した。「ってことは、間に入ってる中抜き専門業者たちには、その倍ぐらいは出してるわけよね」
 「仕方がないだろう。K自動車の場合、多重下請けを禁止してるから、せいぜい孫請けで済んでるけど、自治体相手の場合は、いろいろあるんだよ」
 「1 日14 時間って」細川くんも不安そうに訊いた。「マジで言ってるんでしょうか」
 細川くんが気にしているのは、今年の6 月に結婚予定だからだろう。相手も同じ業界の人間だが事務職だそうだし、サードアイよりも規模が大きな企業なので、深夜残業とか徹夜とは無縁だと言っていた。新婚早々、夫が日付が変わっても帰宅しなかったら、ブラック企業に勤めているのかと誤解されるかもしれない。
 「先ほど言いましたが、契約をプログラム本数ではなく拘束時間にしているのは、正確な本数が現時点では読めないからです。そのため、弊社としてはきわめて異例のことですが、いわゆる詳細設計書を作成せずに開発を進めていく方式を採用せざるを得ませんでした」
 最前列に近い席の誰かが手を挙げた。白川さんは質問に応じるように頷いた。
 「ゼータネクストの宇野と申します。詳細設計書を作らないとなると、私たち実装側としては、どのように仕様を確認するんでしょうか」
 「私、もしくは、弊社のシステムエンジニアから、直接説明をさせます」白川さんは当然のように答えた。「また、場合によっては、エンドユーザ、つまりくぬぎ市再生プロジェクト推進室の方との打ち合わせに参加していただくこともあるでしょう」
 今度のざわめきは、それまでとは比べものにならないほど長く、音量も大きかった。
 「う、打ち合わせですか」質問した男性は、呆気に取られた様子でどもった。「そ、そ、それはエースシステムとしてでしょうか、それとも......」
 「少なくとも正直ではあるな、あの人は」東海林さんが面白そうに言った。「それに行動力もある。仕様書なしで実装を進めるなんて、これまでのエースシステムじゃあり得ない。この案件を他のSE が担当していたら、ガチガチに細かい詳細設計書を揃えてから、下請けや孫請けに負担を全部押しつけてるところだろう。きっと社内の反発も強かっただろうに、よく押し通せたもんだ」
 「ここだけの話ですけど」黒野が囁いた。「この案件、当初、PL の選定に難航したらしいんですよ。控えめに言ったって厄介な案件でしょう。エースの人は、失敗を好みませんからね。白川さんが立候補するまで、何人も辞退したんだとか。だから、ある程度、型破りなやり方が黙認されたんじゃないですかね」
 私は改めて白川さんを見やった。お腹の周りに不要な肉がつきつつある私と異なり、白川さんは痩せすぎなぐらい細い。どこにそんなパワーが秘められているのか不思議なぐらいだ。
 ゼータネクストの宇野氏の質問が終わったところだった。白川さんはプリントアウトをテーブルに置くと、無表情な顔で室内の隅々に視線を送った。
 「他に何か質問がある方?」
 10 本以上の手が一斉に挙がった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 30 分ほど続いたベンダーたちからの質問に対し、丁寧に回答を終えた白川さんは、ようやく閉会を宣言し、今後の予定を簡単に説明した。今週だけで、今度はプログラマだけを集めた技術的詳細の説明会を2 回予定しており、翌週の火曜日には、くぬぎ市まで足を運び、くぬぎICT センタービルの見学もある。もちろん、全てのベンダーが同時に参加できるわけではないから、数度に分けてのことだ。白川さんは、その全てに同行すると告げた。
 「では、これで終わります。各社の代表の方は、帰りに訪問リストへの記入をお願いします」
 白川さんは、会議室の後ろで立っていた2 名のエース社員に目顔で合図した。2 名は急いでドアに走り、クリップボードとペンを持って、退出するベンダーを待ち受けた。
 「ちょっとだけエースに対するイメージが変わりましたよ」細川くんがしみじみと呟いた。「高杉さんは実装面の知識がない人でしたけど、白川さんは多少なりとも理解がありそうじゃないですか」
 「そうだな」東海林さんも頷いた。「まあ、下請けを平然とこき使うところは、いかにもエースらしい......お」
 東海林さんが言葉を切ってドアの方を見たので、私たちも同じ方向を見た。ベンダー担当者たちの会話が急に途絶え、同時に背の高い女性が急ぎ足で入室してくるのが見えた。スマートフォンを操作していた白川さんが顔を上げ、ついで驚きの表情を浮かべた。
 「高杉さん」白川さんは小さく頭を下げた。「いらしてたんですか」
 私は東海林さんを見た。東海林さんは頷き、細川くんも強張った顔で女性を凝視している。今度こそ、ウワサの上級SE、高杉さんのようだ。
 「白川」高杉さんは頷きながら言った。「おつかれさま。さっき香港から戻ったところよ。間に合ったら顔を出そうと思ってたんだけど、少し遅かったようね」
 「もう一度、着席させますか?」
 白川さんの問いに、高杉さんは無愛想に顔を横に振った。
 「それには及ばないわ。それにしても久しぶりね。2 年ぶりぐらいかしら。もう身体の方はいいの?」
 「おかげさまで」白川さんは熱意たっぷりに頷いた。「遅れを取り戻そうと、努力しているところです」
 「無理しないようにね。プログラマの代わりはいくらでもいるけど、優秀なSE はそうはいかないから」
 周辺の温度が急降下したようだった。周囲に大勢いるベンダー担当者が眼中にないかのような傍若無人な発言に、誰もが言葉を失っていた。
 「あの高杉さん」白川さんは小さく咳払いした。「そちらが、今回の開発に参加するベンダーの担当者の方々です」
 高杉さんは、他に人がいたのか、というような上から目線で、室内を一瞥した。その視線が私たちを通り過ぎた後、不意にUターンして戻ってきた。私の横で、細川くんが隠れ場所を探すように周囲を見回す。
 「あら」高杉さんの視線は東海林さんの顔に照射されていた。「あなたは確か......」
 「サードアイの東海林です」東海林さんは苦笑しながら会釈した。「以前、K自動車港北工場のワークフローシステム開発のとき、お世話になりました。<承認くん>のときです」
 「ああ、そうでしたね」何か不快な記憶に触れたのか、高杉さんの整った額に、かすかなしわが寄った。「御社も参加していたんですか」
 「ご縁があるということでしょうね」
 「今回は」高杉さんは東海林さんをじっと見つめた。「うちの有望なSE が転職するようなことにならないといいのですが」
 黒野が慌てて東海林さんの上着の裾を引っ張ったが、東海林さんは獰猛な野生動物と相対しているように目を逸らそうとしなかった。
 「その心配はないと思いますよ」東海林さんは穏やかに答えた。「今回のSE さんは、技術的な面でも頼りになるようですから」
 2 人は熱烈な愛情を抱く恋人同士のように睨み合った。いつ中間地点でスパークが発生し、オゾンの臭いが漂いだしても不思議ではない。周囲のベンダー担当者たちは、何事かと興味津々な目で私たちを注視している。
 「あの」白川さんが割って入った。「高杉さん、こちらのベンダーが何か?」
 「いえ」高杉さんは、ようやく目を逸らした。「以前、仕事をお願いしたことがあったというだけよ」
 「何か問題があったのであれば、今回は外れてもらいますか」
 黒野が車に轢かれたようなカエルのような呻き声を上げた。高杉さんはフッと小さく笑うと、かぶりを振った。
 「それには及ばないわ。サードアイさんは、とても優秀なプログラマが揃ったベンダーですから」
 白川さんは、私たち全員を、特に、東海林さんをジロジロと見た。左目の下に泣きぼくろがあるが、涙もろそうなイメージは全くない。仕事中だからか、アクセサリーの類いは少ない。小さいが上品そうなパールのピアスと、細いチェーンのペンダントだけだ。間近で見ると、メイクで丹念に隠されてはいるが、目の下に薄い隈があるのがわかった。睡眠時間が短い日々が続いているようだ。急に自分のメイクが気になったが、この場でスマートフォンを覗き込むわけにもいかない。
 「そうですか」白川さんは、少し表情を和らげると、東海林さんに向かって小さく会釈した。「高いパフォーマンスを発揮されることを期待しています」
 「こちらこそ」東海林さんが余計なことを言わないうちに、と考えたらしく、黒野が間に入った。「よろしくお願いします。では、これで失礼します」
 黒野は、早く出よう、と目で訴えた。私たちは、それぞれ会釈して、高杉さんと白川さんの元を辞した。

(続)

 この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係ありません。また、特定の技術や製品の優位性などを主張するものではありません。本文中に登場する技術や製品は実在しないことがあります。

Comment(6)

コメント

名無し

毎週楽しみに読ませて頂いています
前者のカットーバー
→カットオーバーでは?

名無し

高杉さんvs東海林さん実にいい!w

育野

前話の「デスマーチ型開発」という言葉に引っかかりがあったのですが,
構造的にデスマーチになることが予想・認識できているという点で
これは正しい意味でデスマーチ型開発ですねぇ.
隠す気がないのは誠実さの表れなのか言質を取ったことにするためなのか.
# まるでキャラ変わってない高杉さんスゲェ

岸辺ロコ

> 2 人は熱烈な愛情を抱く恋人同士のように睨み合った。

最高ですね。。。

匿名

Aフレのバージョンめっちゃ上がってるな
今回はあんまり出番ないかもしれないけど

リーベルG

名無しさん、ありがとうございます。
カットオーバーですね。

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