ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

高村ミスズの事件簿 コールセンター篇(終)

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 葉桜と薫風の季節が駆け足で過ぎ去り、自動販売機からホットドリンクがなくなった頃、その情報はもたらされた。

 『あいつら、今度はお隣の国でやらかしたみたいです』

 キサラギの連絡によれば、ソウル市ミョンドンにあるコールセンター会社で、電話対応中のオペレータたちが昏倒し、病院に運ばれたという。対象者は4 人。全員すぐに容態は回復し、翌日には退院。原因は不明だが、設置されていた加湿器に何らかの薬物が混入した疑いで調査が行われている。事件性がないと思われたからか、日本では報道されていないし、ネットニュースのヘッドラインにも上がっていない。

 『RTソフトウェアというIT 企業が開発したCTI システムを先月導入したばかりだそうです。RTソフトウェアは、やはりダミー会社を通して、ハウンドが出資した会社です』

 「証明できるかな」私は訊いた。「つまり、合法的に証拠を提出できるかってことだが」

 キサラギは沈黙で答えた。

 「まあいい。どうせハウンドは、とっくに証拠を隠滅しているだろうからな」

 『でしょうね。RTソフトウェア自体は、営業実績がほとんどないんです。やる気がないとしか思えない、無味乾燥なホームページが申しわけ程度にあるだけで』

 「エンジニアの被害は?」

 『今回は出てないようです』

 DLコンタクトで倒れたナツメシステムのエンジニアたちは、いまだに入院していた。半ば鬱状態になったエンジニアもいる。勝呂は比較的症状が軽い方だったので、私はアイテイメディアの名刺を持たせた調査員に面会させた。ユカリを使わなかった理由は、ハウンドの目を警戒したからだ。これ以上、ユカリを深入りさせたくはなかった。

 勝呂から聞き出すことができた話は短かった。リストラに遭って就活中のとき、転職サイト経由でナツメシステムから声をかけられた。希望していた開発部門ではなかったが、給与や福利厚生などの条件は悪くなく、セールスエンジニアの契約社員として入社。3 ヵ月後に、DLコンタクトに常駐となった。テスタロッツアの名は、社内で開発部門の社員から耳にしたらしい。ハードの性能アップに頼るしかなかった<キャナリー22C>のパフォーマンスが、劇的に改善されたと話題になっていたのだ。

 『テスタロッツアの詳細は不明のままですね』キサラギは悔しそうに言った。『単なるライブラリではなく、プロジェクトの名前だとわかっただけで』

 「ああ、例のノートPC からも大したことはわからなかったしな」

 須藤と木原SV が持ち出そうとしたノートPC は警察に押収されたが、一通りの調査を終えた後、DLコンタクトに返却された。私はサービス事業本部の熊谷氏を通して、ノートPC を手元に届けさせ、ハード、ソフトの両面から徹底的に調査した。それこそ、1 ビット単位で分析したのだが、予想した通り有益な情報は得られなかった。このノートPC は、サーバにモジュールをdeploy するために用意されたもので、deploy 後はモジュールを削除する仕様だったらしく何も残っていなかった。ファイル復元ソフトをいくつか使ってみても、まともに復活されたファイルはなかった。

 私は熊谷に頼んで、オペレータ全員の勤怠実績データを送ってもらった。<キャナリー22C>導入の1 年前から、先日の事件の日までの全期間分だ。早退に注目してデータをピックアップしてみると、目立たない程度に早退が増加しているのがわかった。すでに退職したオペレータも何人かいたので、その中の数人に接触して話を聞いてみると、やはり体調不良が原因だったらしい。

 「それまでそんなことはなかったんだけど」話を聞けた21 才の女性オペレータは、当時を思い出して少し遠い目をした。「朝、起きられなくなることが多くて。最初は夏だったから、クーラー病かなとか思ってたんだけど。元々低血圧だったから、ま、そういうこともあるか、って感じで気にもしてなかったんだけど」

 『ハウンドが、技術者とオペレータさんたちを使って、人間をコントロールする実験をしていたのは確かなんですけどね。技術者の方はどういう仕組みだったのか不明ですが』

 ユカリのGoogle Glass を通して得られた、管理ツールの動画を何度か調べてみたが、やはり何もわからなかった。極秘裏に社会心理学者や精神疾患の研究者、映像心理学のプロなどにも分析を依頼したが、いずれも管理ツール内には人間の精神状態を不安定にさせるような要素はないとの回答だった。

 DLコンタクトは、早急に新たな受付システム一式を導入する必要に迫られ、熊谷は私に助けを求めてきた。元々の依頼は<キャナリー22C>がパフォーマンス低下の調査であり、それはナツメシステム撤退によって自然解消したようなものだったから、私としてはそれ以上の手助けを行う義理はなかった。だが、ナツメシステム、つまりハウンドが撤退した直接の原因は私の調査のせいだったのだから、多少の責任があると言えなくもない。私は高村ミスズとしての人脈を使い、信頼できるシステム開発会社を紹介した。後日、礼を言ってきた熊谷に、私は訊いてみた。

 「そういえば<キャナリー22C>の導入を進めた、御社の役員や理事の人たちはどうなったんでしょう?退職されたんですよね」

 『それが』熊谷の声が困惑に変わった。『先日、年金関連の手続きのために連絡したのですが、全員が家族で国外に移住してまして。マカオ、マレーシア、スイスです。しかも、自己所有の不動産に住んでいるようなんです。懲戒解雇で退職金も支払われなかったんですが。てっきりナツメシステムにでも再雇用してもらうのかと思っていたら、そっちは倒産したみたいだし』

 ハウンドのことまでは話していなかったので、熊谷には彼らがどこからそんな資金を得たのか理解できないのだろう。ハウンドはろくでなしの集団かもしれないが、その欠点にケチという要素は含まれないようだし、金の使い方も知っている。残りの一生を裕福に過ごせる保証があるなら、それまでのキャリアを捨てる人間は掃いて捨てるほどいるに違いない。

 『まあ、今回のことで、ハウンドは当面日本での活動から手を引くようですね』キサラギは言った。『実験もあんな調子で、成功とはほど遠いようだし』

 「そう思うか」

 『どういう意味ですか?』

 「DLコンタクトでは、確かにオペレータたちが昏倒して病院に運ばれる騒ぎになった。他にも何社か、同様のオペレータがいることが確認されている。韓国でも同じだ。これは本当に実験が失敗した結果だったのか?もしかして、それこそがハウンドが獲得したかった成果じゃないんだろうか」

 私はキサラギから入手したナツメシステムの取引先の中から、CTI システムが納入された会社を全部調査した。すると、その中の4 社にDLコンタクトと同様に意識不明で搬送されたオペレータがいたことがわかった。ただし、こちらは人数が2 名以下だったし、時期もバラバラだった。単なる体調不良で片付けられてしまったのだろう。

 『どういうことです?』

 「奴らの目的はパートタイムカウンターテロだと言ったが、その技術を流用すれば、逆に市民の中にテロリストを出現させることだってできるじゃないか」

 『……』

 会社の隣の席に座っている同僚が、ネットカフェの客が、ファミレスでスマートフォンをいじっている学生が、ある日いきなりテロリストに変身する。いかなるテロ組織との関わりもなく、公安組織にもマークされていないごく普通の市民が。そんな技術が入手できるなら金に糸目は付けないという人間はきっといる。

 『……実は』キサラギは躊躇いがちに言った。『まだ未確認情報なんですが、アフリカのどこかの国で奇妙な事件が起こったというウワサがあります。中学校の授業中に教師と生徒40 人が全員銃殺されたんです。内戦が続いている国で、民族浄化をスローガンにする敵対部族による犯行だというのが公式発表なんですが、実は生徒同士がいきなり銃を乱射して殺し合ったのが真相だというんです』

 「アフリカでは、そういう事件はよくあると聞くが」

 『確かにそうです。でも、そのとき生徒たちは、ヨーロッパのNGO 団体によって無償提供されたタブレットで授業を受けていたそうなんです』

 「……ハウンド?」

 『わかりません。さすがにアフリカはネット環境の普及が進んでないんで、調査を行うのも限界があって』

 「そうか。また何かわかったら知らせてくれ。それから身の回りに気を付けてくれ」

 『ありがとうございます。ボスもね』

 「ああ。いくつか手を打つつもりだ」

 最初に打った手は消極的なものだった。2ch のプログラマ板やTwitter などで「パフォーマンス劇的改善ライブラリのウワサがあるが、悪質なランサムウェアでサーバの情報を片っ端から暗号化する」という情報を、匿名で書き込んだのだ。テスタロッツアという固有名詞を出さなかったのは、名前を変更されたら、逆に安心してしまう被害者が出るかもしれないからだ。どれだけ効果があるかはわからないが、この情報に触れた慎重なエンジニアが、記憶にとどめておいてくれれば、考え直してくれるかもしれない。

 次の一手は、高村ミスズとして打った。数ステップのプロキシサーバを中継し、複数のIT 系サイト運営会社編集部宛に、匿名で情報を流したのだ。「Web アプリケーションのパフォーマンスを劇的に改善するライブラリが出回っていて、タカミス先生が秘かに調査している」と。数日後、早速、アイティメディア株式会社から取材の依頼があったので、私は快諾した。

 さすがにネットのウワサをネタにするわけにもいかなかったのか、取材のテーマは「Web アプリケーション開発におけるセキュリティの最新事情」というものだった。取材時間として設定した90 分のほとんどの時間を、担当の若い女性記者はありきたりの質問を投げることに終始し、私も毒にも薬にもならない回答を返し続けた。非生産的そのものの時間だったが、お互いにそのことを認識しながら、表面上は興味のある態を装わなければならないのは、どちらがより苦痛だったのかわからない。その努力が報われたのは、最後の10 分間だった。女性記者がようやく本来の目的となるテーマをぶつけてきたのだ。

 「ところで先生。少し今回のテーマとは外れるんですが、Web アプリケーションのパフォーマンスが上がらなくて、苦労しているシステム会社がたくさんあると思います。そのあたりでアドバイスなどはございますか?」

 「ひとくくりにこれ、というような解決方法はありませんね」私はにこやかに答えた。「それぞれのシステムの言語やフレームワーク、スケール、OS、システムリソースなどで答えは変わってきます。最適解を導き出すには、経験を積むしかないと思いますね」

 「たとえば、有償のライブラリなどを使用する、という手段はいかがでしょうか?」

 「有効なケースもあるでしょうね。有償に限らず、オープンソースでも非常によくできたライブラリは多くあります」

 「そのようなライブラリの決定打、みたいなのはあるんでしょうか?」

 「決定打、というと」私は首を傾げてみせた。「これを使えば、どんなシステムでもパフォーマンスアップ間違いなし、フリーザの最終形態みたいなライブラリ、ということでしょうか」

 「そうですそうです」記者は嬉しそうに頷き、瞳を期待の光で輝かせた。「そういうのです」

 ちょっとした特ダネゲット、とか思ってるんだろうなと、少し気の毒に思ったが、私は素っ気なく答えた。

 「あり得ませんね」

 「は?」

 「そんな都合のいいライブラリなど、有償、無償を問わず存在しませんよ」私は少しだけ柔らかい表情を作った。「まともなプログラマなら、少し考えればわかることです。今どき、そんな便利なライブラリがあるのなら、とっくに広く使われてますよ」

 「で、でも」女性記者は口を尖らせた。「まだ知られていないだけで、優秀なライブラリだってあるかもしれないじゃないですか。極秘裏に販売されているとか」

 「たとえば、どこかの会社が新しい暗号化アルゴリズムを発明したとします。画期的なアルゴリズムで、絶対に解読不可能な仕組みを実現したが、ソースは公開できないし、無償で提供もできない、と言われたとします。それは信頼できると思いますか?」

 「えーと……」

 「できないんですよ。現在、世界中で使用されている暗号化/復号アルゴリズムは、全てその理論が公開されていて、無数のプログラマや研究者が追試を行っているんです。それでもなおかつ解読されないアルゴリズムだから、私たちは安心してネットショッピングを楽しむことができるわけです。逆に言えば、公開されていないアルゴリズムなんてものは、どこかに欠陥があってもおかしくないということです」

 「……」

 「先のライブラリの話に戻りますが、仮にパフォーマンス最適化ライブラリなんてものがあったとしても、それが広く公開されていない以上、わざわざ使うに値する性能を持ってはいない、と断言できますね」

 やや強引な結論づけだったが、おそらくプログラミングの経験などなさそうな女性記者は、感心したようにメモを取っていた。

 「不勉強で申しわけありません。今のコメント、記事に使用してもよろしいでしょうか」

 「もちろん構いませんよ。そういう下らないネットの風評に惑わされるエンジニアがいないとも限りませんからね」

 2 週間後、@IT に「Web アプリケーションのセキュリティ最新事情」と題する記事が掲載された。私だけではなく何人かの専門家へのインタビューが均等に配置され、中・上級者向けの実践的な記事になっていたが、最後のパラグラフで私のコメントが表現を変えて紹介されていた。「アプリケーション開発の世界には、銀の弾丸も必殺技もない。知識と経験を積み重ねることが、遠回りに見えて実は最短コースなのだ。無敵のライブラリのようなウワサに惑わされ、基本をおろそかにするのは、開発者として恥ずべきことではないだろうか」と。

 

 私が打った最後の手の結果が具体化したのは、そろそろ関東地方が梅雨入りするかという時期だった。今日はもう来ないか、と思った深夜1 時過ぎ、ブラックベリーが震動したのだ。私は素早くPC のキーを叩き、ボイスチェンジャーを確認して通話を開始した。

 「はい」

 『夜分すまんね、マーチン先生』聞き覚えのある声が言った。『先生に耳よりな話があるんだよ。5 分だけお時間もらえるかね』

 「須藤。それともリエゾンと呼んだ方がいいのかな」私は答えた。「証拠不十分で釈放された次の日に出国したらしいな。今はどこにいるんだ?ソウル市あたりか?それともアフリカ大陸か?」

 『先生に連絡をつけるのには苦労したよ。かなりややこしいルートになってるんだな。もう少しで諦めるところだったんだが、何日か前から急にコーディネイターが軟化した。待っててくれたと考えていいのかね、これは』

 「想像にお任せするよ。で、何の用だ。時間も時間だ。手っ取り早く済ませてもらえないか」

 『いやいや、大した用ではないんだが、礼を言っておこうと思ってね。先生のおかげで日本のテスタロッツアプロジェクトは、もう完全に中止が決定した。我々が長年にわたって作り上げてきた下地が、全焼してしまったんでね』

 「恨み言なら要点をまとめてメールしておいてくれないか」

 『とんでもない』須藤は小さく笑い声を上げた。『本気で礼を言ってるんだよ。私は、あんなやり方には常々疑問を抱いていたからね。テスタロッツアそのものをフォークして、新たなパッケージを開発すべきだと思っていたんだ。先生がテスタロッツアにミソを付けてくれたおかげで、その方向の承認が下りそうだ。テスタロッツアは日本以外で継続するだろうが、私はもっとスマートな方法を採るつもりだよ』

 「何をするのか知らんが」私はあくびをしながら言った。「もう少し建設的な方向に、その良質な頭脳を使ってくれればと思うよ」

 『建設的とは例えば?』

 「いろいろあるだろう。OpenSSL をフォークして、脆弱性のないSSL を開発するとか。OpenSSL の脆弱性が公表される度に、世界中でどれだけの技術者が対応を迫られているか、あんただって知らないわけじゃなかろう」

 『面白い話だが、そんなことをしても1 ドルも儲かるわけではないからな。まず承認は下りないね』

 「少なくとも、ICT 技術を利用して、人を洗脳しようとかいう下らない試みよりはマシだと思うが」

 『あのな先生、パフォーマンスを劇的に上げるライブラリなんて、まともな脳みそ持ってれば怪しいとわかるだろう、普通。なのに、どうして、多くの技術者が引っかかったのかわかるか?もう一つの下地があったからだよ。もちろん我々が作り上げた下地じゃない。何だと思う?』

 「さあな」

 『つまり、IT 業界自体が元々有していた下地だよ。真っ黒なやつだ。疲弊した多くの技術者が、ついそんな怪しげな話に手を出したくなるような環境そのものだよ。技術力のない元請けの無茶ぶり、長時間労働、決して高くない給与、勉強し続けなければ時代遅れになるという焦燥感。それがなければ、テスタロッツアなんて、そもそも成功しなかった』

 「……」

 『そういう業界を作り上げてきた責任の一端は先生にもあるんじゃないのかね』

 「ないとは言えないだろうな」私は認めた。「だから?」

 『我々に協力してもらえないかね。テスタロッツアプロジェクトが、我々の意図した通りに完成すれば、応用範囲は無限大だ。使い方によっては、IT 業界のブラックな悪弊を一掃することだってできる。まだまだ完成度が低いのは否定しない。だからこそ、先生のような力のある技術者の力が必要なんだよ。やりたくないことはやらなくてもいい。人員も設備も、お望みだけ用意させる』

 「確かにあんたの言う通り、IT 業界は変革しなければならないとは思う。ここまで深く根付いてしまった業界構造を変えるには、ドラスティックな方法しかないのかもしれない」

 『ふむ』

 「それでもなお、私はこの世界に散らばる無数のプログラマたちの良識を、彼らの世の中をプラス方向に変えたいという小さな思いを信じたい。いつだって世界を変えてきたのは、ヒーローでも奇跡でもなく、地道な努力の積み重ねなんだからな」

 『なるほどね』須藤は食い下がらなかった。『そんなことを言われるんじゃないかと思ったよ。私はムダだと言ったんだが、上司がどうしても勧誘しろというからな。まあ、これで義理は果たした。ところで先生がDLコンタクトで言ったことを憶えているかね?』

 「どの言葉だ?」

 『我々に関わりたくないと言っただろう』

 ようやく話が私の望んでいたところに進んだ。私はひそかにため息をつきながら答えた。

 「ああ確かに言ったな」

 『我々に手を貸せとは、もう言わない。先生の気が変わったのなら別だがね。だが、せめて敵対行動を取らないでもらえないか』

 私は答える前に少し間を置いた。性急すぎると足元を見られる。

 「条件がある」

 『何だね』

 「私に関わってほしくないのはもちろんだが、私の関係者にも余計な手を出さないでもらいたい。たとえばコーディネータとか……」

 『可愛いユカリちゃんか』須藤はからかうように遮った。『それから、正体不明のハッカー野郎だな。いいだろう。そっちから敵対行動を取らなければ、いかなる意味でもこちらから敵対行動を取ることはない。約束しよう』

 そんな約束にどれだけの保証があるのか定かではないが、なぜか須藤は口にした約束は守るだろう、という気がしていた。

 『楽しい会話だったよ』須藤は別れの言葉を口にした。『我々は世界を変えようとしている。お互い、生きている間にその成果が見られるといいね、先生』

 「できれば私が引退した後にしてもらいたいね」

 須藤のクスクス笑いと同時に通話は切れた。私はすぐPC に向き直ると、Skype を起動した。

 「聞いてたか」

 『もちろん』キサラギは答えた。『残念だが逆探知は無理でした。正確には』

 「おおよそなら?」

 『ヨーロッパ。おそらくドイツ』

 私は、三村スズタカに繋がるコーディネータを、ここ数日に限って数カ所に絞っていた。同時に、通常は厳密に行わせている身元照会の条件を緩和した。須藤か、別のハウンド関係者が接触しやすくするためだ。キサラギには合図があり次第、通話の逆探知をするように依頼してある。もちろん警察と異なり、キサラギには電話会社やプロバイダに通話記録を提出させる権限などないが、金に糸目をつけなければ、大抵の無理は通る世の中だ。

 「ドイツか。ハウンドのヨーロッパヘッドクォーターがあるな」

 『ここ数日で、アフリカの主要都市に、NGO 経由でタブレットや中古PC が大量に運び込まれています』キサラギは報告した。『ミャンマーやベトナムなども同様です。日本から手を引いたのは事実でしょうけど、逆に他国での実験は活発化するかもしれませんね』

 「そうなるかもな」

 『中国奥地の村では、村民全員が狂犬病のような症状で隔離されたという情報もあります。3 週間前に、ヨーロッパのNGO 団体によってネット回線とタブレットが寄贈されたばかりです。情報そのものは、例によってすぐに封印されましたが、医療関係者の話だと、村全体がまるでウォーキング・デッドの世界だったとか』

 「そうか。日本じゃ、そうはいかないからな。時と場所を選ぶだけの知恵はあるってことだ」

 『このまま、放置しておくんですか』キサラギの声にわずかな非難が混じった。

 「しておくさ。私が関わる理由はないしな。とりあえずはユカリの安全を確保するだけで精一杯だよ」

 『あいつらがそんな約束守りますかね』

 「そのときはそのときだ。助かったよ、ありがとう」

 キサラギはまだ何か言いたそうだったが、私は構わずSkype を落とした。

 PC をシャットダウンしながら、私は考えた。須藤の言ったことを、キサラギの報告を。

 キサラギに言ったことはウソではない。私は、これ以上、自分からハウンドに関わり合うつもりはなかった。ただ、心の中に小さな予感が生まれている。いずれハウンドに対して、須藤の言うところの「敵対行動」を取らなければならない日が来ると。私にできるのは、その日ができるだけ遠い未来であることを祈るだけだ。

 私は立ち上がって伸びをした。寝る前に軽くストレッチをして、ホットミルクを飲むつもりだった。キッチンに足を向けながら、私は窓の外に広がる夜の街に視線を投げた。無数の地上の星が輝いている。そこには無数のPC、無数のスマートフォンやタブレット、無数のサーバがある。人間の生活を豊かにするために作られたそれらの機器が、いつか人類を支配するための兇器に変わる日が来るのだろうか。今見ている光景が、黙示録の世界と呼ばれる日が来るのだろうか。

 いくら待っても啓示はない。それは与えられるものではなく、自分で見つけ出さなければならない答えだとわかっている。エンジニアが最後に頼るのは、啓示ではなく知識と経験だ。

 私は夜に背を向けた。

(終)

この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係なく、たとえ実在の人物に似ているとしても偶然です。また登場する技術や製品が、現実に存在していないこともありますので、真剣に探したりしないようにしてください。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 5話ぐらい、というのは大嘘でしたね。

 前回、高村ミスズの事件簿を書いたとき、いつかまた続きを書きたいなと思ってはいました。なかなかキッカケがないまま、年月が経過していくばかりだったのですが、3月から4月にかけて連載された、漫画版「Press Enter■」がそのキッカケになりました。

 また機会があれば、続きを掲載させていただこうかと思っています。

 漫画版「Press Enter■」はこちらからどうぞ。

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Comment(6)

コメント

名無し

Zに繋がった…のかな?

taz

連載お疲れ様でした!

一連の作品のうちハローサマー、グッドバイの世界が"if"ではない近未来ならば、名前の出た人物の中にミスズさんがいたかもしれませんね。
そういう世界を想像をしていくのも楽しい。

TC

お疲れ様でした
まさか全ての黒幕はIgarashiさんか?

cad

とても楽しく読ませていただきました。
時系列と作品が前後しますが、高ミス氏の言うプログラマの良識という奴を、
鳴海氏が成し遂げたといえるのかもしれません。ただの一里塚だとしても。

物語が終わった後のあの世界で、高ミス氏と鳴海氏が出会い、復興に尽力して
いると良いな等と都合の良いことを考えてしまいました。
次の連載も楽しみにしております(電子書籍化も…。

atlan

完全にハローサマー、グッドバイの前夜ですねぇ
韓国で加湿器とか、また時節ネタ入れて来てるし

nns

鳴海氏がアクセスした国内のffmpegのミラーサイトが高ミス氏などの有志が運営してたりとか
そういう絡みがあったりするのかなぁ

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