ふつーのプログラマです。主に企業内Webシステムの要件定義から保守まで何でもやってる、ふつーのプログラマです。

高村ミスズの事件簿 コールセンター篇(7)

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 ユカリは早足で通路を進んでいた。手には、館脇センター長の上着から拝借したID カードが握られている。それが習慣なのか、ID カードの裏面には、木原SV のそれのように、テプラで出力した7 桁の暗証番号が貼ってあった。

 「説明してよ、ボス」ユカリは言った。「この騒ぎはどういうことなの?」

 ビル内のどこかから、誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。ユカリが潜入していたK モバイルセンターだけではなく、他のセンターでもやはり何人かのオペレータが意識を失う事象が発生しているようだ。今も、救急車のサイレンが途切れることなく聞こえている。

 『おそらく受付システムに出現した謎の数列が鍵なんだろう』イヤピースからボスの声が聞こえていた。『精神的に負荷をかけたんだ』

 「数字だけで?洗脳?」

 『そんな単純なものじゃない。たぶん数列の中には、見た人に関連する数字が含まれていたはずだ。ユーザ番号、誕生日、車のナンバー、口座番号。ユカリの場合なら、誕生日の19xx0817 だな。他の数字もダミーで入れてあるから、意識することはないが、切り替えることで無意識の中に安心感が刻み込まれる。馴染みのある数字だからな。それを繰り返して意識に定着した後、数字の一部を変更し、元の数字と交互に表示する。たとえば19xx0819 とか。やはり意識することはないだろうが、今度は不安要素が刻まれる。次第に変更した方の表示時間を長くすると、不安要素が助長されていく』

 「そんなの、いちいち気にするかなあ?」

 『人間の目は変化に敏感だ。どんな高性能なモーションセンサーでもかなわないほど、動きや変化を敏感にキャッチする。つまり、視界の中で数列の一部が変わったら、一瞬注目するんだよ。数字を数字として捉えるのではなく、全体をイメージとして焼き付けるから、記憶に残りやすい。何度も繰り返せば、その効果も強まる』

 「ああ、昔の拷問でおでこに水を一滴ずつ落とすってのがあったよね。あれと一緒か」

 ユカリは足を止めた。周囲を見回して、モニタルームの外扉を開いて中に入る。

 『よく知ってるな。今言ったのは単純な例だ。実際には、より精密に計算された方法を使ってたんだと思う。例えば、画面のコントラストや明度、輝度、フォントサイズの変化、ウィスパリングのノイズ、空調の温度、室内の湿度といった複合的要素を組み合わせたんだろう』

 「入るよ」ユカリは確認した。

 『いいぞ』

 ユカリは館脇のID カードをセンサーにタッチし、暗証番号を入力した。開ききるのを待ちきれず、ユカリは身体を横にしてスライドし始めたドアの隙間に身体をねじこんだ。足早に暗い部屋の奥に進んだが、そこで足を止めた。

 「あれ?」ユカリは周囲を見回した。「パソコンがない」

 先ほどまで、このモニタルームにあり、ユカリが操作したデスクトップPC があった場所には、モニタだけが残っていた。隣に置いてあったノートPC も1 台なくなっている。

 『遅かったか』悔しそうな声が聞こえた。『さっきのゴタゴタの隙に回収したな。いや、むしろそれを回収するために、さっきの騒ぎを起こしたのか』

 「誰が?」

 『わからんな。ナツメシステムの誰かか。そこに残っているノートPC  を調べてみてくれ。それが済んだら、もうそこには用がない。サーバルームは上のフロアにあるはずだ』

 「わかった」ユカリは閉じてあるノートPC に手をかけた。「でも、そっちの方も……」

 ユカリの背後で電子音とともにドアがスライドした。

 急ぎ足で入ってきた人物が、ユカリの姿を認めて驚きの声を上げた。その顔を見たユカリも負けないぐらい驚いて相手の名を呼んだ。

 「木原さん!」

 木原SV はすぐに驚愕の表情を消し、代わりに疑問符を浮かべた。

 「前園さん。ここで何を?」

 「その……」ユカリは焦って言葉を探した。「ちょっと忘れ物を。木原さんは?もう救急の方はいいんですか?」

 その問いには答えず、木原SV はユカリの顔を疑り深そうにジロジロ見つめた。

 「ここにはどうやって入ったんですか?」

 「えーと、開いてたんです。偶然。誰かが閉め忘れたんですかね」

 木原SV がその言葉を信じていないことは明らかだった。相手が一歩前進するのに合わせて、ユカリは一歩後退した。木原SV は右手に銀色のアルミケースを掴んでいた。ノートPC を格納するのにちょうどいいサイズだ。

 「ここが開いているはずがない」木原SV はユカリに、というより、自分に言い聞かせるように呟いた。「開きっぱなしになってればアラームが鳴る。他の入り口もない。つまり前園さんは、何らかの不正な手段で入室したということになる」

 「あ、あの」ユカリは木原SV に笑みを向けた。「あたし、もう戻りますね。ってか、今日はもう仕事にならないでしょうから……」

 「誰に頼まれたんだ?」木原SV はユカリを冷たい視線で睨んだ。「お前が……」

 ユカリは脱兎の如く駈け出した。木原SV の右側を抜けて、まだ開いているドアから飛び出る、という目論見は、しかし、素早く突き出されたアルミケースに阻まれることになった。固いコーナーが腹部にめり込み、ユカリは小さな悲鳴を上げて床に転倒した。

 「……来たせいで」木原SV は何事もなかったかのようにセリフを再開した。「順調だった仕事が台無しだ。落とし前はつけてもらうからな」

 「何の仕事よ」ユカリは呻いた。「女の子を突き飛ばす仕事?それでもスーパーバイザー?」

 「黙れ」

 『そいつは現場監督だな』イヤピースが告げた。『SV なら、オペレータたちの個人情報もわかるし、シフトの調整もできる。オペレータルームの照明やエアコンの操作も。受付システムのパスワードもわかるから、個人別に画面の色やフォントを設定するのも簡単だ』

 「あー、そういうこと。つまりマドカさんたちが倒れたのは、お前のせいか」

 言うなりユカリは長い脚を鎌のように振るって、うっかり近寄ってきていた木原SV の足首を刈った。虚を突かれた木原SV は無様に転倒し、ユカリは入れ替わるようにネックスプリングで跳ね起き、ドアに向かってダッシュした。

 あと一歩でモニタルームから脱出できる、とユカリが希望を抱いたとき、目の前に第三の人物が出現した。ユカリは悲鳴を上げたが、相手は意に介さず、ユカリの身体を抱き止めるようにして動きを止めた。

 「やあ、Webアプリケーションに詳しいユカリちゃん」その男、須藤はせせら笑った。「また会えて嬉しいよ」

 ユカリは身体をもぎ離そうとしたが、須藤の大きな両手ががっしりと肩を掴んでいて、ネジ止めされたように動かなかった。すねを蹴ってやろうかと思ったが、須藤が左膝を軽く曲げることで防御態勢を取っていることに気付いて断念した。木原SV とは違って、須藤は何らかの武術の心得があるらしく、容易につけこめる隙がなかった。

 「離して」ユカリは須藤を睨み付けた。「セクハラで訴えるわよ」

 「ほう、経歴を偽ってコールセンターに就職し、機密保持規定に反するデバイスを持ち込むのはどうなんだね」

 「何のことだかわからないけど」

 不意に須藤はユカリを解放した。ユカリは前につんのめりそうになったが、舞台の上で鍛えたバランス感覚でこらえた。

 「おい」須藤は木原SV に顎をしゃくった。「早く、それを回収しろ。急げよ」

 木原SV はようやく身体を起こしたところだったが、ムッとしたように頷くと、ノートPCに手を伸ばし、各種ケーブルを抜き始めた。

 「そろそろきちんと話をした方がいいだろうな」須藤は壁に背をつけて腕を組んだ。「いや、ユカリちゃんじゃないよ。君が素人だってことはわかってるからね。君の黒幕というか、バックというか、そういう人と話がしたいんだ。どうせ、この会話だって見聞きしてるんだろう。だったらコソコソするのはやめようじゃないか。え?」

 ユカリが返事をする前に、イヤピースが命じた。

 『いいだろう。ユカリ、スマホを出して、スピーカーモードにするんだ』

 少し躊躇った後、ユカリはブラウスのボタンを1 つ外した。実はボタンを外す必要はなく、須藤が少しでも油断してくれれば、と思っての行動だったが、あいにく須藤はユカリの下着などに興味を示さなかった。ユカリは舌打ちして服の下からスマートフォンを取り出した。巨大化する昨今のスマートフォン事情に逆行するような小型機種だ。スピーカーアプリを起動し相手に向ける。

 「あんたはハウンドの人間だな?」スマートフォンから声が響いた。「須藤というのも偽名だろう。本名は何というんだ?」

 須藤は動揺した素振りひとつ見せなかった。

 「やあ、はじめまして。評判はかねがね耳にしてますよ、三村スズタカさん」

 ユカリはギョッとした顔を須藤に向けたが、彼女のボスは平然と続けた。

 「三村って誰だ。知らないな」

 「なるほど、そういうことにしたいわけか。いいだろう。ではおたくは誰だね。人に名前を尋ねる前に、自分から名乗るのが常識ある大人ってもんだろう」

 「M・ファウラーだ。よろしくな。何ならマーチンと呼んでくれても構わんよ。で、あんたは?」

 須藤はクスクス笑った。

 「リファクタリングが趣味なのかね。私はリエゾン・オフィサーだ。リエゾンと呼んでくれて構わない」

 「つまりあんたはハウンドとナツメシステム、ダンデライオンコンタクトとの連絡官というわけか。そういう奴は、いざというときに捨て駒にされると決まってる。気の毒にな」

 「お気遣いどうも。それにしても余計なことをしてくれたものだな、マーチン。何ヶ月もかけて、この会社に理想的な実験場を作り上げたというのに、おたくと、この可愛い女の子はたった1 日動き回っただけで、それを潰してくれた。何が目的なんだね?」

 「テスタロッツア」

 その一言で、須藤の顔から表情が消えるのをユカリは見た。

 「そっちのラインか。なるほど、エンジニアらしいな。てっきり医療関係かと思っていたよ。テスタロッツアを探しているんだな。あいにくだが、この会社で探してもムダだ。さっきサーバの情報はディスクごと回収した。残りはここのPC だけだ。そいつがグズグズしてなければ、とっくにバイバイしていたはずだったんだ。もっとも、こうしておたくと話ができたのはケガの功名だな」

 「教えてくれないか」ユカリのボスの声は平静だった。「テスタロッツアって何なんだ」

 「どこまで知ってるのかな?」

 「大したことは知らない。Web アプリケーションの性能を劇的に向上させるライブラリだ、というウワサぐらいだ。後は関わった人間が不幸になるとか」

 「エンジニアとして好奇心をそそられるかね」

 「まあな」

 「知りたければ教えてやらないでもない。ただし、こちらの提案を承諾してくれればだが」

 「その提案とやらを聞こうか」

 「おたくをスカウトしたい」須藤はニヤリと笑った。「誰だかしらんが、おたくに協力しているハッカーもね。我々の事業に協力して欲しいんだよ」

 「事業ね。どんな事業だ?ハウンドグループは軍需産業だろう。マルウェアやウィルスの開発事業か?それとも軍の情報通信ネットワークへの侵入事業か」

 「私の会社は確かに軍需産業という一面もあるが、もっと真っ当な分野でも多くの成果と利益を出しているんだ。それに兵器産業が儲かったのは、もう過去の話だよ。世界的に軍事予算が削減されている昨今、多額の予算と人員を投じて開発した最新兵器が、全く売れないということだってある。直接的な兵器はデフレ気味で利益を上げにくい世の中になってきてるんだよ」

 「それのどこが悪いのよ、バッカじゃないの?」ユカリは須藤を罵倒した。「それだけいい世の中になってるってことじゃない。さっさとハローワークでも行けば?」

 「代わりに需要が高まっているのが、カウンターテロだ」須藤はユカリを無視して淡々と続けた。「こればかりは、最新兵器を投入しても効果が上がるとは言いづらい。テロリストが潜伏しているからといって、街ごとサーモバリック爆弾で吹っ飛ばすわけにもいかないしな。最終的には、歩兵を、つまり人間を送り込んで掃討するしかないんだ。要するに、今後、リソースを投入すべきなのは、人間そのものの能力向上なんだよ」

 「ああ、だいたいわかるよ。究極の兵士構想だろ。暗示と洗脳で怖れを知らない歩兵を作り出す。そういうバカげた夢想計画は、どこかよその国でやってほしいもんだな」

 「やってるとも」須藤は冷笑した。「他国ではもっと直接的にやってるよ。この国でやったら思い切り法律違反になるようなやり方でね。穏健な方だよ、日本でやってるのは」

 「みんなを気絶させて」ユカリは怒りの声を上げた。「ナツメシステムの人も使い捨てて、どこが穏健よ」

 「まだ実験段階なんでね。失敗はつきものだよ、ユカリちゃん」

 「気易く呼ばないで」

 「ユカリ、少し静かにしてろ」彼女のボスがたしなめた。「それとテスタロッツアとどういう関係があるんだ?」

 「詳細は企業秘密だが、テスタロッツアは、我々が並行実施している多数のプロジェクトの中の1 つに過ぎない。ICT を活用した兵士のトレーニングプログラム構築だ」

 「私の頭が悪いのかもしれないが、あんたの言っていることがよくわからんな。兵士の訓練プログラムなら、なぜ一般企業でやる必要があるんだ?軍か、民間軍事会社あたりでやればいいじゃないか」

 「テロルが厄介なのは、テロリストが一般社会に潜伏できるということだ。特殊部隊を送り込んだとしても、一般市民との区別が難しいだろ。まさか疑わしい奴を片っ端から射殺するわけにもいかんだろう。少人数の部隊では捜索に時間がかかるし、大部隊を投入すれば逃亡してしまう。我々は、そのジレンマを解決する方法を考えたんだ。つまり、市民そのものをカウンターテロ部隊に変身させる方法だ。パートタイムカウンターテロだな」

 「変身?行動を強制するのか」

 「そういうことだ。今どき、誰でもパソコンやスマホを使ってるから、インフラを整備する必要がないのが、この計画の利点だ。企業ならなおさらだ」

 「頭悪いんじゃないの」ユカリが小声で吐き捨てた。

 「私もユカリに同意するね」ユカリのボスが言った。「インチキ催眠番組じゃあるまいし、人間がそう簡単に操れるとは思えないな。それに、当人の意に反して対テロ部隊の兵士にさせられるのは、人権侵害だ」

 「多少、意に反した行動を取らされようが、自分や家族が死ぬよりはマシじゃないかと思うがね」

 「あんたらが、ナツメシステムを通して、この会社に<キャナリー22C>を導入させたことはわかってる。導入に際しては、役員の何人かを恐喝や買収で操作したこともわかってる。だが、なぜこの会社を選んだんだ?」

 「コールセンターはちょうどいいケースだったんだよ。業務時間中は、ずっと同じシステムを使い続けてくれる。一般企業の社員なら、ブラウザやExcel、メールと切り替えるだろうからな。さて、そろそろ返事を聞かせてもらおう。我々に協力してもらえないか」

 「本当に答えを聞きたいのか」

 「もちろんだ。言い忘れたが、報酬は今の10 倍を保証するよ」

 スマートフォンは30 秒ほど沈黙していた。ユカリは、ボスが今の話に乗るほど愚かではないことを信じていたが、それでも再び、声が聞こえるまで不安な思いを抑えることができなかった。

 「あんたもエンジニアの端くれなんだろう」ユカリのボスはゆっくりと話した。「だったらわかるかもしれないが、今のIT 業界のイメージは決していいものとは言えない。3K だ7K だと、ブラック企業とニアリーイコールなイメージだ。相変わらず残業は多いし、古くさいIT ゼネコン構造の弊害もそれを助長している。必ずしも最新技術ばかりを扱えるわけでもないし、不条理なことも多い。特に多くのプログラマたちは、便利だが取り替えの効く道具としか扱われていない」

 「うちの会社はそうではないぞ」

 「それでもなお」ユカリのボスは力強い声で語を継いだ。「プログラマたちが仕事を続けているのはどうしてかわかるか?」

 「目の前の仕事をこなすのが精一杯なんだろう」

 「確かにそういう人間もいるだろう。単に金のために続けている奴もいるに違いない。だが、大部分のプログラマたちは、このクソみたいな世界を少しでも良くしようと、小さな歯車を作り続けてるんだよ。ICT 技術が世界をいい方向に変えていく。そう信じてな」

 「……」

 「私も同じことを信じている。ICT 技術は人々の幸福のためにあるべきだ。人々を支配するために使われるのではなく。あんたらがやろうとしているのは、結局のところICT 技術のアンチパターンだとしか思えないな」

 「さっきの話を聞いていなかったのかね。我々は単に利益のためにやっているのではない。カウンターテロのために、つまりテロの脅威から一般市民を守るために、テスタロッツアはある。ICT 技術を人々の幸福のために使うべきだという、おたくの意見と一致すると思うんだがね。この技術が公になれば、テロリストがテロ活動そのものを躊躇するようになるとは思わないのかね」

 「千歩譲って、事が全て順調に進み、テロの脅威が一掃されたと仮定しよう。その後はどうなるんだ?」

 「その後?」

 「テロの脅威がなくなったとして、あんたらはその技術をすっぱり放棄するか?しないだろう。”もう少しだけ”そのままにしておこう、と考えるに決まってる。理由は後付けでな。それに長い年月と多額の費用をかけて構築した技術を、あっさり放棄するのはもったいないと思うだろうな。そして、誰かがふと考える。この技術を使えば、権力が簡単に手に入るんじゃないのか、とか、そういう下らないことをだ」

 「……」

 「そんな考えが、ちらりとも脳裏をよぎらなかったと言えるか?私でさえ思いついたのに、実際に事を進めているあんたらが、考えもしなかったなんてあり得ないね。あんたらみたいな頭のいい奴らが、そういう力を手に入れたとき、思う存分行使してみたいという誘惑に勝てるはずがない。指輪物語の1 つの指輪のようにな」

 「なるほど」須藤は面白がるような表情で言った。「ただの技術バカかと思っていたら、意外なほど常識があるんだな。つまり、おたくは正義の味方というわけか」

 乾いた笑い声がスマートフォンから響いた。

 「正義?いやいや、正義なんてもの、百害あって一利なしだよ、今の社会じゃな。自分が正義だと思い込んだ奴らによる言葉狩り、不謹慎狩りは目に余るからな。私はそんなソーシャル・ジャスティス・ウォリアーになるつもりはないよ」

 「では、なぜ我々に賛同できないのかな?おたくの持っている技術や人脈を、市民の幸福のためにフル活用するチャンスだとは思わないのかね」

 「思わないね。私があんたらに賛同できない理由は単純だよ。誰かから強制された幸福なんてものには吐き気しか感じないからだ。そんなことのために、ICT 技術が使われるのは我慢できない。ましてや、私の力が使われるなんて虫酸が走るんだよ」

 須藤はため息をついて肩をすくめた。

 「やれやれ。つまりおたくは、我々の敵というわけか」

 「そっちが敵認定するのは勝手だ。私としては、二度とあんたらに関わりたくないと思うだけだ」

 「いいだろう、マーチン先生」須藤は冷たい声で告げた。「今回は引き下がろう。将来的に、また状況が変わったときには、実際に顔を合わせて交渉したいものだ」

 「気は変わらないよ」

 「状況が変われば、と言っただろう。気も変わってるかもしれない。どんなことだってあり得るさ。おい、準備できたか?」

 須藤が呼びかけたのは、木原SV だった。木原SV はアルミケースを持ち上げて見せた。

 「よし撤退だ。またな先生、ユカリちゃん」

 須藤はユカリに動くな、というように手の平を向け、木原SV に顎で合図した。木原SV はむっつりした顔のまま、アルミケースを持ってドアの方に歩き出した。

 その瞬間、電子音とともにドアが開き、須藤も木原SV も動きを止めた。

 『ユカリ』イヤピースが冷静に指示した。『下がってろ』

 開いたドアの向こうにいたのは、館脇センター長だった。見知らぬスーツ姿の中年男性が一緒だ。その背後には防護装備に身を固め、ポリカーボネート製のライオットシールドと警棒を握った4 名の機動隊員が立っている。

 「神奈川県警組織犯罪対策本部薬物銃器対策課の権藤だ」中年男性が進み出て、警察手帳を見せた。「このビルで発生した、原因不明の集団意識障害現象について、お話を伺いたい。署までご同行願おう」

 木原SV は糸の切れたマリオネットのように、床にへたり込んだ。須藤は大きく目を見開いて刑事と警察手帳を凝視していたが、不意に振り返ると憎々しげに吐き捨てた。

 「時間稼ぎをしてたんだな。ペテン師野郎め」

 「さっきの市民の幸福についての話を警察にもしてやるんだな」スマートフォンから冷静な声が響いた。「私なんかより真剣に聞いてくれるかもしれんぞ」

 機動隊員がゆっくり部屋に入ってくると、須藤と木原SV を促して丁寧に、だが断固としてモニタルームから連れ出した。権藤刑事が館脇とユカリを交互に見た。

 「お二人にも少し事情をお訊きしますが、本日は帰宅なさって構いません。後日、こちらからご連絡差し上げます」

 権藤刑事はそう言うと、安心させるように笑いかけてから、機動隊員たちの後を追って出て行った。ユカリは思わず近くの椅子に座り込んでしまった。

 「前園さん、大丈夫か?」

 「ええ」ユカリは弱々しく微笑んだ。「ありがとうございます。でも、どうして?」

 「うん。私にもよくわからないんだが、サービス部の方から、警察が行くから、到着したらモニタルームに案内しろと指示があってね。ナツメシステムの須藤さんが、今回の件に関わっていると言うんだが。君、何か詳しい事情を知ってるのかい?」

 「いいえ」ユカリは無邪気な笑顔を向けて立ち上がった。「あたしは何も」

 「そうか」館脇は納得したのかしていないのか、よくわからないような顔で頷いた。「とにかく、今日はもう帰宅していいよ。システムは全部止まってるし、社内は大混乱だ」

 「わかりました」もう、この人に会うこともないんだろうな、と思いながら、ユカリはお辞儀をした。「では、失礼します」

 廊下に出て、ロッカールームの方に歩き出しながら、ユカリは周囲を見回した。誰の目も耳もないことを確認してから囁く。

 「どうなってるの、ボス?」

 『おつかれさま』優しい声が応じた。『今回は大活躍してくれたな。報酬は弾んでおく。帰って、うまいものでも食べて、ゆっくり休んでくれ』

 「その前に、マドカさんの様子を確認しに行きたいんだけど」

 『けいゆう病院だ』ユカリの言葉を予想していたかのような素早い返事だった。『容態は安定している』

 「ありがとう。いつか、事情を話してもらえるの?」

 『機会があればな』

 「ってことは」ユカリは肩をすくめた。「その気はないってことね。まあいいけど。あ、須藤が仕返しに来るとか、そういうことはないわよね?」

 『こっちで手を打っておく。心配しなくていい』

 「それを聞いて安心したわ。じゃ、また連絡待ってるから」

 10 分後、ユカリはエントランスを出た。ロータリーには、まだ数台のパトカーが停まり、警官の姿が見えるが、緊急事態という雰囲気はなくなっていた。

 立っていた警官に笑顔を見せると、ユカリはビルを離れて、けいゆう病院の方へ歩き出した。近くの高層ビルの隙間から、美しい夕暮れが覗いている。少し肌寒い風が足元をすり抜けていくのを感じながら、ユカリは足を速めた。

(続く)

この物語はフィクションです。実在する団体名、個人とは一切関係なく、たとえ実在の人物に似ているとしても偶然です。また登場する技術や製品が、現実に存在していないこともありますので、真剣に探したりしないようにしてください。

Comment(8)

コメント

ガラホ

センターでけ→センターだけ
テロル→テロ

ナンジャノ

わぉ、終わった…と思ったら(続く)になってた。来週の種明かしが楽しみだ。
今回は実行犯だけでも捕まったし、直接対決できたし、火種も潰せたので、万々歳だ。活劇っぽくで壮快でした。

> Web アプリケーションの性能を劇的に向上っせるライブラリだ

なんとなく証拠不十分ですぐに釈放されそうな気がする。

ガラホさん、ささん、ご指摘ありがとうございます。
テロルは、テロルでいいんですよ。

yupika

「前園さん、大丈夫か?」
が舘脇の言葉だというのが少し唐突に思えました。
-感想-
これで終がついていないのが凄い!
超人兵士化の失敗から横浜大災害へ…なのかな。でもそこにはまだクッションがあったりするのかな。
もう後は手綱をまかせて見守るだけです。本当にSF!

変わりに → 代わりに

「マドカさんの様子を確認しに行きたいだけど」

「の」か「ん」が足りないような。

てさん、たさん、ご指摘ありがとうございます。

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