九州のベンチャー企業で、システム屋をやっております。「共創」「サービス」「IT」がテーマです。

ネット時代のコミュニケーションにおける一考察

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 今回は、ネット上でのある「バトル」をもとに考えたことをつづります。このネタをいま取り上げるには少しためらいがありました。しかし、本コラムは「共創」をテーマの1つに掲げている以上、避けては通れないものと覚悟を決め、話を進めたいと思います。

■きっかけ

 きっかけは、以前投稿したコラムに起因しています。原稿を書いた当初は、オブジェクト指向ネタで軽く……とお気楽な気持ちだったのですが、公開されるや否やアクセス数が跳ね上がり(普段は150程度。該当コラムは1500以上)、コメントもみるみる増えてゆきました。

 当初、何が起こったのか正直分かりませんでした。やがて、以前別の方が書いたオブジェクト指向ネタのコラムが盛り上がり、そのバトルが再燃した、ということが判明しました。二次会もしくは藪蛇(やぶへび)状態です。

 コメントには、わたしが書いた内容に対するご意見・ご感想もあったのですが、本編とは関係ないバトルも再燃しかかるありさま。zenbackからTwitterにも波及し、どんどん広がってゆく状況はとても怖かったです。

 そこで「本編とは関係ない意見については返事をしかねる」また「本編に関係ない個人に対する誹謗中傷は控えてほしい」とコメントしたところ、幸いにも皆さまに趣旨をご理解いただき、状況はやがて沈静化していきました。

■本稿の目的

 本稿でこのネタを取り扱う理由は、バトルの蒸し返しや、どちらが正しいなどと解説することではありません。貴重な経験を振り返って「共創」をテーマにしている限り、ネットの活用とコミュニケーションについては一度考え方を整理しておく必要性がある、と強く感じたからにほかなりません。

■情報のフラット化(平等化)と衆合知の活用

 わたしが「ネット時代」という言葉を意識したのは主に2つのキーワードからでした。1つは「情報のフラット化(平等化)」。もう1つは「衆合知の活用」です。それまでインターネットは通信技術の1つ、電話の延長線程度でしか考えておりませんでした。しかし、インターネットとそれを取り巻く技術の発展により、世界中の情報が権威と空間的な制約から解き放たれ、フラット化する。そして特権階級の人が何かを考えて決めるのではなく、多くの人がいろいろな発言(表現)をするようになり、その衆合知の活用が今後重要になってくる。そう教えられ、おお! とまさに目から鱗が落ちる思い。「ネット時代」という言葉をあらためて認識しました。

 この自己ブレークスルーを起こして、かれこれ2~3年経ち、世の中は物流の中抜きやレーベルの弱体化、セルフパブリッシングの台頭など着実な「ネット時代」の到来を告げるかのようです。自分の周囲ではインターネットの利用までは当たり前になっていますが、情報のフラット化や衆合知の活用という意味でのドラスティックな変化はまだまだかな、と感じております。

■体感したこと

 最近の出来事により、わたしも「ネット時代」に片足を突っ込ませていただきました。そこで特に以下の3点を強く感じました。

  1. ネットの世界でも情報はフラットにならない。平等ではあるが偏在化する
    →たしかにインターネット上の情報は平等です。わたしのつたないコラムも、きっと地球の裏側の方でも読んでいただくことは可能でしょう。しかし完全なフラットかというときっとそうでなはく、日本語で書いてある限りほとんどが日本人の読者。@ITに投稿させていただいているからには、主にITにかかわる人がターゲットであり、さらにコラムのカテゴリやタイトルや内容によって、本当に読んでくれる読者は絞られてくることでしょう。加えてコメントなどでレスポンスをくれる方は、強く「共感した」「反発した」など、読者のうちさらにごく一部になるようです。
  2. 衆合知にもなるが衆愚知にもなりかねない
    →いただいたコメントの中に以下のような書きこみがありました。「もし間違った情報をネットに載せて、それを経験や知識の浅い人が読み、信じてしまったら困る」。確かにその通りで、すべての人が平等に表現できるとすれば当然、そこには間違いや不正確な情報も存在するでしょう。そして判断できない人が真に受ける可能性は十分にあります。また一部のサービスには、物事を真摯に議論する場ではなく、ななめに構え面白おかしくあげつらい、からかう場もあります。これらは「衆合知」というより「衆愚知」という方がふさわしいのかもしれません。
  3. 知識を表出することは、やっぱり難しい
    →別にネットに限ったことではありませんが、コラムを書くことは難しいです。自分が何を主張したいか、考え方を整理し、文章や絵として表現してゆくのですが、対面とことなり読者がどのような人で、どれくらいのことを理解しており、この表現で分かってもらえるかなど、すべて想像して書かなければなりません。たとえいただいたコメントに返事をする場合でも、投稿する際には少し緊張してしまいます。

■ネット時代のコミュニケーション

 これらを踏まえ、わたしがネット時代のコミュニケーションに重要だと思うことをまとめておきたいと思います。

  1. 「一般的」「常識」「当たり前」「普通」は必ずしもそうとは限らない
    →偏在化しつつも、ネット世界はやはりフラットです。例えば同じ日本のソフトウェア開発技術者が読んでくれたとしても、立場も扱っている技術も、開発しているソフトも違えば常識も違ってきます。だからといって前提条件を細かくして世界を絞ってしまうと、それは個人の感想で議論にはなりません。だから抽象度の高い世界で話をする必要はあるとは思うのですが、自分が考える「一般的」「常識」「当たり前」「普通」は必ずしもそうとは限らない、ということは肝に銘じるべきと思います。
  2. ネットの世界だから「人間性」を見る
    →これも議論の分かれるところかもしれません。ネットは顔が見えず、名前が分からないから「人間性」は関係ない、という意見もあることでしょう。しかしわたしは、逆にその人の実像が見えないからこそ、文章から「人間性」を見ている(見られている)、という考えに賛成です。もしかすると現実の世界では、優秀かつ人格者と周囲からの評価を受けている人が、顔や名前の出ないネット上でレベルの低いこと、悪質非道なことを書けば、やはりそれはその人の「人間性」の評価につながります。いいかえれば、そういう考えに立っていれば、自分自身、見えない相手に対しても謙虚でいられます。
  3. 書かれている文章は不完全、という前提で読む
    →わたし自身、自分の書いた文章の中で、自分の考えをすべてみなさんに分かるように書けた、と思えたことは一度もありません。きっとみなさんもそうでしょう(と、思うことにしている)。だから何をいわんとしているか、ほかのコラムからもなるべく真剣に読み取りたい、と思っております。特に技術系の方は、一般的に文章書くの苦手ですもんね! (おっと、「一般的」はNGだった……)

 「親しき仲にも礼儀あり」という言葉があります。「親しき仲にも……」というくらいだから、本当は「親しくない人」にこそ礼儀は必要なのでしょう。ネットの世界はフランクであり、同時に多くの人と刹那(せつな)の交わりをもつ環境です。だからこそ「礼儀」が重要になってきます。そして「礼儀」とは「相手に敬意を表する」ことが第一歩だと思います。

■「共創」に向けて

 ここでいう「共創」とは、開発の現場で技術者同士が知恵を出し合いながらシステムを作りあげてゆく、という意味もありますが、お客さまとの「共創」も重要なテーマです。

 われわれのお客さまのほとんどが、ITやシステムとは無縁です。われわれはお客さまの業務が分からないし、お客さまはITシステムが分かりません。しかしながら、IT側が業務に入り込み、業務側がITに入り込む。そうして異業種のことなる知識がうまく混ざり合って化学変化を起こしたときに、本当に素晴らしいITシステムができあがる。われわれはそう考えております。

 その際の基礎がコミュニケーションです。得てして、お客さまはシステム屋は業務のことを何も分かっておらんとお怒りになるし、システム屋もお客さまに対してこんなことも知らないのか、と溜息をつきます。その構図は、意外とネットでの炎上と似ているように思えます。

 「共創」の第一歩は、お互いの尊重です。お互いにお互いを尊重して議論を行い、それぞれの知識を融合させる。これこそがコミュニケーションの本質のように思えます。

 ネットの世界は、情報はフラットで、物理的な制約から外れてさまざまな知識が行き交う場です。そういった意味では、知識の化学変化が起こりやすく「共創」の実現として重要な役割を果たすことでしょう。しかしながら一方で、そういう場であるからこそ、コミュニケーションが重要で、これに失敗すると「共創」どころか衆愚知でネットの世界を満たすことになりかねません。

■まとめ

  1. 「共創」とは、異なる知識を持った人たちが議論することにより、知識の化学変化を起こすことである
  2. さまざまな知識が交錯するネットの世界は、知識の化学変化を起こしやすい環境である
  3. 反面ネットの世界では、人の実像が見えにくい、表現が未熟である、前提となる条件があいまいである、という留意点もある
  4. 上記を踏まえたコミュニケーションが重要である
Comment(2)

コメント

ハムレット

こんにちわ
お世話になります。

前回の題材は、経験を元に具体的な対象が有ったからこそ、あれだけ盛り上がったのかと思います。今回のような論議のあり方や構造的な背景までを問うようなメタな論議には、やはりなかなか反応が付きにくいのかなと思う次第です。

ただ、「判りやすい」ということは往々にして「誇張や嘘や省略」を含むのが常だと思います。山無駄さんのおっしゃる通り、知識の表出の難しさは、判り易さと正しさのバランスをどう取るか、そのセンスや感覚をどう持つかみたいな、理論では語れない部分なのかもしれません。
ネットが普及する前の時代は、そもそもそうした表出の場が限られていた為、さほど目立たなかった部分はありますが、ネットが普及し表出の場への敷居が下がったからこそ、こうした問題も顕著になったのでしょうね。

以前、mixiの技術系のコミュニティで、荒れることなく有意義な論議を行いたいと、一時期、ずいぶん力を入れていた事が有ります。荒れることなく、学際的で面白い論議が出来たと思っていますが、今思えば、ネタや例題の選び方、投入の仕方や、論議の持って行き方等に相当な神経を使っていたなと思います。

いずれにしても、問題意識を常に持って、謙虚に学び、問いを発しようという姿勢が無いと辛いのかなと思います。山無駄さんのこの記事を見ていてもそう思います。

山無駄

どうも。ハムレット様。こんにちは

>前回の題材は、経験を元に具体的な対象が有ったからこそ、あれだけ盛り上がっ
>たのかと思います。今回のような論議のあり方や構造的な背景までを問うような
>メタな論議には、やはりなかなか反応が付きにくいのかなと思う次第です

そうですね。別のコラムに「本文に対して皆が納得していればコメントなんか入れ
ない。おかしな事を書いているから炎上するんだ」という様な趣旨のコメントがあ
りました。前半については、きっと「納得しているか、分からなかったか、読まれ
てないか(関心がないか)」というのが正確なのでしょうし、本文を書いている側
からすると、コメントがない場合、そのうちのどれか判断しかねることが少しさび
しい気がします。
また本文についても、自己完結型の書き方にするのではなく、もしかすると議論の
余地がある様な書き方にするともう少し反応があるのかもしれませんね。ただ、行
き過ぎると釣になってしまう…。

ただ正直なところを言いますと、議論は大切だと思ってはいるのですが、前回の様
な一対多でのラリー状態は結構しんどく、今回の様な議論しづらい本文でも一つ二
つ、率直なご意見や感想をもらえる位が身の丈にあっててちょうど良いのかな、
と。落ち着いて考えることもできますし、励みにもなりますので。

>ただ、「判りやすい」ということは往々にして「誇張や嘘や省略」を含むのが常だ>と思います。

そうそう、ここ、重要だと思います。最近読んだ「ビジネスリーダーにITがマネ
ジメントできるか」という本の最後にもありました。モデルは単純化して分かりや
すくなるけど、真実ではない(手元にないので不正確)。人が何かを理解するとい
う事は、永遠の仮説検証ではないかと思います。仮説を立てる際には、物事を抽象
化(モデル化)=「判りやすい」状態にして理解し、実世界もしくは他の人が立て
ている仮説に照らし合わせて検証する。そしてそれをまた仮説にフィードバックし
…。

>知識の表出の難しさは、判り易さと正しさのバランスをどう取るか、そのセンス
>や感覚をどう持つかみたいな、理論では語れない部分なのかもしれません。

知識の表出化は受け取ってくれる人が居るから表出化なのであって、表出する側と
受け取る側との共通認識度合いにより、判り易さと正しさのバランスは変わってく
る様に思えます。いわゆる共同化のフェーズによりバランスがとれてくる。そんな
感じです。だから相手が見えなくなると難しくなり、読んでくれている人たちを想
定してバランスを決めないといけません。その辺りに、センスが必要となってくる
のでしょうね。

>ネットが普及する前の時代は、そもそもそうした表出の場が限られていた為、さ
>ほど目立たなかった部分はありますが、ネットが普及し表出の場への敷居が下がっ
>たからこそ、こうした問題も顕著になったのでしょうね。

概ね同意ですが、一点追加です。きっと現実の世界の問題もややこしくなったから、もっと自分の考えを表出化し議論する必要性が高まっている(高まっていく)
のではないかと。

>いずれにしても、問題意識を常に持って、謙虚に学び、問いを発しようという姿勢>が無いと辛いのかなと思います。山無駄さんのこの記事を見ていてもそう思いま
>す。

ありがとうございます。そう言っていただくと、すこしほっとします。

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