地方エンジニアが感じる地方・中小企業での悩み

だめな人とはだめ

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 他人とのコミュニケーションがいかに難しいかというのは、多くの人が感じるところかと思います。根幹にある価値観の違いがコミュニケーションの難しさを生み出している、と頭で理解していても実際にやりとりをしていると頭を抱えるような場面が多々ありますし、それが元にストレスを抱え込んでしまうこともあるでしょう。

 同じことを伝えるにしても言い方に問題のある人も多いですし、本人の描く思考の流れは相手にとって理解されない場合もあり、会話が全くかみ合わないことも珍しくありません。話している本人には順を追って話していたとしても、相手の中では必要なステップを飛ばしているとしか考えられないケースも、非常に多いです。

 なかなか噛み合わない相手とコミュニケーションを続けることは、なかなかに負担の高いことです。やり取り一つ一つで、相手の考えの流れを意識して予想しておかなければ、相手が口にした言葉の意図を理解できないからです。普段であればここは無意識に行っているので、それほどの負担はないのですが、噛み合わない相手となると意識してこの作業が必要になり、非常に心労を抱えることになります。

 仕事の場でなければ、話していて疲れるような相手とは距離を取ればよいのですが、仕事が絡んでいる以上そういうわけにもいかず、ただただ疲れが増えていくだけになることも非常にあります。このような場合に、何か対応することはできないものでしょうか。

 相手の考え方をどこまで理解できるか、に依るところが大きいと思うのですが、改めて考えるとそこまでして相手とコミュニケーションをとらなくてはいけない、と思うこと自体が本当は良くない事かも知れません。
 仕事上必要なところかも知れませんが、だからといってこちらが疲弊するまで相手に合わせる必要は本来無いはずです。その閾値をどこに設けるか、それが最も重要なところかと思います。

 相手に合わせることを全く行わないのは、それはそれで問題を引き起こしますので、ほんの少しだけであっても相手側への譲歩は必要になります。残念なのは、自分がいくらそうやって相手に譲歩してようと、相手側が同じようにしているとは限らないのでどうしても不公平感を味わうことにはなります。
 しかしこの不公平感は必ずと言っていいほどつきまとうもので、これを無くそうと考えるのはあまり適切ではありません。不公平感を受け入れたうえで、どうするのが良いかを考えるのがいいのではないでしょうか。

 すべての人と良好な関係を築くことは、不可能と言っていいものです。ここを誤解して、全ての人に良好な関係を築こうとすると、それは自分自身に大きな負荷となって蓄積され、ただただ疲弊することになります。程度の差はあるにしても、メリットが少ない割にデメリットの大きな行為です。

 それであれば、この人にはここまで付き合う、この人にはここまで付き合うという線引きを自分の中に持ち、その基準に従ってコミュニケーションをとるというのが、採ることのできる数少ない方法なのだと思います。
 人によって対応を変えるというのは、悪いイメージを持たれがちですが、よくよく考えてみると八方美人的に対応していても良いイメージは持たれません。どちらに転んでも良いイメージが持たれないのならば、最初から相手に見切りをつけておくのが大事なのではないでしょうか。

 価値観も考え方も多様化している今の時代です。それは受け入れるしかないのが必然で、自分の価値観や考え方だけを元に行動するという事は、時代に適した行動とは言えません。ただしそれは、全ての価値観と付き合うというのではなく、その価値観があるということを否定してはいけない、ということです。正しい、間違っているではなく、その価値観が好きか嫌いか、自分が理解できるかどうかという基準で十分だと思うのです。

 正しいか間違っている基準で考えると、間違っている考え方をしている相手に出会ったときには、相手から見ると自分の考え方が間違っていることにもなり、非常に不毛な状態に陥ります。そうなるとなにも良い事はありません。
 先の方針に基づいて、その人が自分にとってそれほど重要と思えないならば、少しだけ合わせ、重要な人であれば相手の考え方を理解しようとするのが良いのではないでしょうか。

 何にせよ大切なのは否定しないことだと思います。理解できないことはあってもよいのですが、それを否定してはいけないでしょう。何かを否定することは、巡り巡って自分が否定されることにもつながり、最終的にはただただ疲れるだけというのがあります。それを押さえて相手によって閾値を変えることが、自分を守るためにも必要なのではないでしょうか。

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