地方エンジニアが感じる地方・中小企業での悩み

案件別人件費なんて考えは捨ててしまえばいい

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 開発を行うにあたり、必ずついて回るのは予算です。企業の生業といて行う以上は、予算という目安は必ずなくてはならないものですので、その必要性というのは理解していますが、時としてこの考え方は無くてもよいのではないかと思う場面も多々あります。

 非常に大さっぱに言えば、予算は物品の購入費と人件費に大別されます。ハードウェアやソフトウェアを購入するための費用と、開発を賄うための人材を利用するための費用です。開発に外注を交える場合などに、よく予算が足りないから人員追加もできない、といった事を聞くこともあるでしょう。
 私の中であまり好ましいと感じていないのは、この人件費の部分を案件単位で制限させている場合についてです。

 企業の活動として利益を計算する場合に、案件単位で利益を算出するのは当然のことです。そのために各種予算を算定し、それに従って開発行為を行わせるのもまた当然の事となります。投入する人材数によって、人件費がいくら発生しているかとすることもよくあるでしょう。

 しかし、こと人件費に限っては案件単位で考えてはいけないのではないか、私はそのように考える側です。

 もちろん、外注費用など社外の人間を利用する場合は、当然案件単位で考えることになんら問題はないと思います。ですが、社内の人間を投入する場合に、同じ人件費というくくりで考え制限をかけてしまうというのが、どうにも良い方法であるとは思えません。

 理由は簡単で、その案件に投入しようと投入しまいと、企業としてみた場合には人件費は常に発生しているものだからです。案件に投入した場合と、投入しなかった場合とでは、費用の発生元がどの案件、どのオーダーになるかの違いがあるだけで、合算してしまえば企業内で発生していることにはなんら変わりはありません。企業内の人員を扱うことは、このような性質を踏まえて考えなくては無用な制限が増えるだけで、有用に人材を活用できていない状況を生み出すだけではないでしょうか。

 このような制限により社内の人材を投入できないというのに、案件の状態として人材が足りていないことが発生しているのであれば、非常に無駄でしかありません。その制限を課すことで、どのようなメリットが発生し得るのでしょうか。

 色々考えてはみたのですが、メリットらしいメリットは正直なところ思いつきません。案件単位で社内の人材投入に制限をかけて、得られるものはせいぜいコスト意識が向上すること程度です。当然、コスト意識が向上したところで開発がうまくいくようなものではありませんから、結果としてそれはあまり意味を為していないことになります。
 反対に、社内の人材を利用できたのであれば、純粋にマンパワーを必要とするケースに対応できたり、または経験を積ませるためにプロジェクトメンバーに参加してもらうといったことも可能となります。どう考えても、制限を設けることに意義は見出せません。

 これと同様の話題として、ある程度大きい規模の会社になると部門間でも同じ考え方をしている場合があります。ある案件に対して、別部門から人材を投入する場合に、その費用をどこが持つか、どのように計上するかといった事を言われるのですが、これもどちらも同じ企業に属している以上、あまり有意なものとして考えることはできません。

 むしろデメリットとして、部門間の壁を大きく感じさせることとなり、同じ会社にいながら別の会社とやりとりをしている、そのような不毛な意識を植え付けてしまうことになります。たとえ他部門からの要請で売上が向上したとして、会社単位で考えた場合には何も売上は向上していません。そのようなやり取りをすることは、果たして正常なことなのでしょうか。

 自分のチームが良ければよい、自分の部門が良ければよいというのであれば、それは同じ会社に所属している意味はありません。社内ベンチャーを設立しているようなものです。いっそのこと、部門というのを1企業として見るのであれば、まだその方針に理解はできますが、同じ会社にいながら別の会社のようなやりとりをしているのであれば、それは母体となる企業のためには全くもってプラスにはなりえないと私は考えます。

 私は経営側ではないので、もしかしたら気づいていない利点があるのかも知れません。部門別、案件別に制限を設けなければならない理由があるのかも知れません。しかしその理由が、制限を課さない場合のメリットを上回るものでなければ、その制限に意義はないのではないでしょうか。

 以前に書いた、コンプライアンスやセキュリティの話題に通じるものはありますが、どうしてもマイナス面を防ぐために制約を設けることが多いと感じます。あまり大きい単位は使いたくないのですが、どうしても日本という条件のためか、そのような風潮があります。確かに一度悪いことを起こすと、そうそう簡単に許されない空気が蔓延しているのですが、だからといってずっとそれに倣うというのは決して良い事ではありません。

 どこかでこれまでの風習を見直し、本来あるべき姿、もしくは自分たちにメリットをもたらす姿へと変化していかなければならないのではないでしょうか。

Comment(4)

コメント

山無駄

考え方は間違っていないと思います。こと部門の収支管理を行う際は、社内の
人件費は固定費と考えるべきだと私も考えます。ただ個別件名の原価管理を行
う際は社内の人件費もどうしても変動費になってしまいます。
それは部門の収支管理と個別件名の原価管理は、それぞれ目的が違うものであり
個別件名の原価管理を積み上げることが、必ずしも部門の収支管理にはならない
という事です。
問題はこれらを混同してしまう事で、社内人件費を固定費として個別件名の原
価管理を行う際は、販管費に社内人件費相当を含めないと結果、収支が赤にな
る可能性がありますし、社内人件費を変動費として個別件名の原価管理を行うと
当然、部門としては人が余っているのに人を投入できず、そのプロジェクトが
破たんするリスクもあります。

仰られている制限とは、一つの管理指標のなかで、その管理が破たんしない様に
目標値を設定する事だと思いますが、たった一つで全てがうまくいかせる管理
指標はまだこの世に存在しないという事を考えると、その制限を盲目的に守る
ことで一方の見方ではうまくいっているけれど、他の見方では上手くいかない
状況が当然発生すると考えられます。

夢夢

>部門別、案件別に制限を設けなければならない理由
それは、目標原価計算の概念から生じるものだろう。
経営者目線でいえば「原価がいくら発生したと結果論だけ言われても困る。原価を積極的におさえるためにmanagementしろ!」ってことだ。
この「まねーじめんと」の部分を多くの日本企業が誤解している。
日本では「部下を管理してやる」と内的発想だが、欧米では「戦略的にやる」と外的発想だ。
だから本来「制限」ではなく「指揮者の資本」ととらえるべきものである。
だから本来プロジェクトを成功させるのが前提なのだが、日本では失敗しても予算以下にするという形にこだわる。
愚かすぎる間違いだ。
だからといって管理者とされている時点でその人を攻めても無駄。
管理者とされている時点で誤解なのだ。
誤解された役割に誤解された概念。
上手くいくはずがなかろう。
身もふたもないがそういうことだ。

Ahf

山無駄さん、夢夢さん、コメントありがとうございます。

お二人のご意見を拝読させていただいて、
より問題が難しいことを感じました。

現状の会計制度や会社会計的な考え方がある以上、
どうしてももにょもにょしてしまう状態になってしまうということですね。

>たった一つで全てがうまくいかせる管理指標は
>まだこの世に存在しないという事を考えると

まさしくその通りだと思います。私が考える方法を採用したとしても、
上手くいかない面は必ず発生するでしょうし、あちらをたてればこちらがたたず、
な状況を回避できるものではないとも思います。

このあたりで良い方向へ進むことができる考え方の登場を待つしかないのが
(自分の知識・能力不足があり)非常に残念なところです。


>だから本来プロジェクトを成功させるのが前提なのだが、
>日本では失敗しても予算以下にするという形にこだわる。

はい、その通りだと私も思います。
よほどの大口案件でもない限りは、この予算という制限よりも PJ の成功を
優先させることはなく、「なんとかしろ」としか言われない場面が多いです。

海外企業における考え方など、非常に興味を引くところですので、
色々と調べてみようと思います。

山無駄

Ahf 様

以下の文章「まだ」とは言っていますが、実のところ「これからも」そんな
都合の良いものは存在しないと思っております。

>たった一つで全てがうまくいかせる管理指標は
>まだこの世に存在しないという事を考えると

健康状態知りたくて、健康診断に行ったとしても出てくるデータは身長、
体重に始まって何とか値やかんと値が並んでいるだけです。
明らかにおかしな数値があると病院に行け、と言われますが、自分が健康
かどうかは教えてくれません。DとかE判定がないからと言って健康かとい
うとそうとも限らず、たとえAが並んでいたとしても心を病んでて自殺する
人もいるかもしれないのです。

人の健康状態と同じで、案件や、部門、ひいては企業が健全であるかどう
かは実のところ定量的に評価することは不可能ですが、それでも少しでも
実態をつかもうと、いろいろな管理指標が作られていきます。
それはそれで大切なことですが、その中で勘違いしてはいけないのが定量
的な評価は物事の一面しか表しておらず、実態を知るにはそれらを元にした
総合的な判断が必要になるということだと思います。

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