いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

一流の条件

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スキルだけでは一流にはなれない

一流の条件とは何か。結論。知るかボケ。以上、終了!

一流と二流の違いというのは、実のところよく分らない。野球でいったら、プロで成績を上げてる人がそれだ。分り易い。スポーツの世界では成績を数値化するのが簡単だ。トータルで出してきた結果を縦並びにして、トップの数名を「一流」と評することができる。

では、一流の便所掃除はどうだろうか。「便所掃除なら誰でもできるから一流はいないよ」なんて言う人もいるかもしれない。だが、野球だって誰でもできる。便所掃除にも技術はある。人の嫌がることなので、本気でやるなら忍耐力だっている。やり込み要素も満載だ。便所掃除でも多分、一流の便所掃除はいるのだろうが、認知はされていないと思う。

一流の基準というのは、かなりいい加減だと思う。それぞれが思い思いのフィーリングで語ってるだろう。だがそれでいい。何でもかんでも基準を設けて"一流"、"二流"と区別して何の意味がある。もっと下克上な気分でいこう。相手が一流ならぶっ倒せ。そうすれば自分が一流だ。自分が一流なら、首を取られないように必死にトップを走れ。その方が見ていて面白い。

エンジニアやってるなら、一流になりたいと思うだろう。そういう気持ちに素直になってもいい。野心無きところに創造性は無い。「オレじゃ無理だ」とか「そんな凄いものは相応しくない」など思う必要は無い。手元にスキルがあるなら存分に自分を褒めよう。できることはできるのだ。誇りを持って「できる」と言おう。一流でなくとも、そういう人と仕事をしたい。

一流というリスク

一流というのは単に優れているというだけではない。普通の人とは考え方が違う。あなたのプロジェクトにスティーブ・ジョブズのような一流のマネージャが入ったら成功率は跳ね上がるだろうか。仕事のやりがいは増すだろうか。あなたの収入が上がるだろうか。多分、関係は無いと思う。プロジェクトが成功率は、プロジェクト自体の前提条件で決まる。一流のマネージャを入れようと、失敗するプロジェクトは失敗する。

そもそも、一流は失敗が明確なクソプロジェクトを避ける。また、上司だからといってヘコヘコしてはくれない。相撲協会で起きた一件のように、人格も優れたような一流であれば、権威でねじ伏せようとしても反抗する。日本のように上下関係で既得権を大事にするような組織では、一流や一流の資質がある人がいても価値が見いだされることはないだろう。むしろ厄介ものとして嫌われると思う。

少なくとも、自分の言うことを一から十まで着実にこなしてくれることを期待しているような人には、一流の人はついてこないと思う。仕事上の立場イコール自分の実力と思い込んでいる人では、思考のベクトルが全然違うほうこうなので、純粋に技術を追い求める人を理解するのは難しい。一流の考え方を理解するにも、一種の才能のようなものが求められる。

そこそこの成功を収めるくらいなら、一流でなくても実現できる。むしろ、一流にこだわるのは逆にリスクだと間耐えている。一流の人間を組織に留めておける基盤があるか、一流の言葉が理解できるか。一流がいたとして認識できる眼力はあるだろうか。これらの条件をクリアするのは結構難しい。だったら、二流の人とうまく協力したほうが手堅い組織が作れる。人に一流を求めるより、自分のレベルを上げる方が先だ。

一流なんてどうでもいいじゃん

一流とか変なプライドを追いかけるより、楽しくエンジニアしよーぜ!で十分だ。一流と二流とは。みたいな事を語ると、何か頭良さそうに見えてしまう。私もそんなコラムを過去に書いたかもしれない。振り返ると、格好良さを追求してたのでそんな内容を書いたように思う。楽しくやるのに格好つけるのは重要なファクターだ。みんなも本気で格好つけよう。

最近の職業エンジニアを見ていると、一流であることを急かされているように思う。「二年目だろ、このくらいの実力くらいあるはずだ」とか「○○のエンジニアならこのくらいできるべきでは?」と、最先端を行っている人を基準に普通の人を計る。率直、うるせーよ。人を計る物差し間違えてるから人月の計算間違えるんだ、こんにゃろー!・・・と言いたい。

人間、段取りキチンと踏んで普通に頑張れば、上位三分の一には食い込める。また、どんなに優秀な人を集めたとしても、努力する人、普通にこなす人、サボる人と三分化してしまう。これは多様性を確保するために人間に備わった仕組みだと考える。全員にハイパフォーマンスを求めるより、多様性に対応できる仕組みを導入する方が人として賢い。

事実、やたらとプロ意識に五月蠅い日本人より、多様性を受け入れる欧米の方が仕事でのパフォーマンスが高い。世界単位で見るなら、日本みたいな変人集団がいるから多様性という均衡が保たれているのかもしれない。仕事の効率が悪くても存在意義はあるのかもしれない。そもそも、日本で一流になったとして、エンジニアの給料や評価が低すぎるので、あまりメリットが無いように思う。

くたばれ昭和の亡霊

一流と言って思い出すのは、日本の高度成長期だ。「俺たちは世界の一流!」と息巻いてた頃だ。確かにあの時は世界の一流だった。しかし、現在は働きたくない国のダントツトップだ。私がランキングをつけるとしたら、残念な国家ナンバーワンと言ったところだろうか。プライドの高さに対する現状がもっとも悲惨な国かもしれない。特に団塊世代の方々が残念さに加速をつける。

団塊世代には「一流の学校を出て一流の会社に就職して人生安泰!」みたいな感覚が染みついている。変に一流を求める根本はここにあるのではないかと思う。それで通じてしまった時期もあるので、事実ではある。だが、それで通じた結果、今はこのザマだ。優秀な日本人は、日本に見切りを付けて外国で働いている。日本自体は出がらしみたいなものだ。

一流なんかならなくてもいい。世界に通用するレベルになれば充分だ。国内で一流より、世界に通じる二流でありたい。国内の狭い村感覚でトップを目指すより、世界に向けてアクションとる方がきっと面白い。二流でもいいんだよ。もっと、世界の人とコミュニケーションとっていこう。きっと面白い世界が広がっているだろうし、色々な学びが転がっている。

昭和の時代は明確な一流の条件があったように思う。特定の大学、特定の企業に就職し、特定の役割をこなせば一流だった。今はそういうものは通じない。一流なんてそれぞれの価値観でバラバラだ。私はそれでいいと思っている。これが価値観の自由だ。この価値観の自由は何にも替えがたい価値がある。一流の定義は大きくぼやけることになるが、私たちは大いに幸せなのかもしれない。

価値観の自由がある内は、日本がまた輝く機会がやってくると私は信じている。

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