いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

グレーな技術情報をネットで公開するのはどうなのか

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正しさを追求するだけでは情報の質は上がらない

ネット上に技術的に間違えた情報を流すとまさかりが飛んでくる。ネット上に間違えた情報が増えると出回る情報の質が落ちるからだ。それはごもっともだと思う。ただ、情報が間違えているという理由で銀の銃弾を撃ち込んでくる人がたまにいる。いくら間違えているとはいえ、息の根を止めようとするのはやり過ぎなように思う。ネットから間違えた情報は減るかも知れないが、技術に感心を持つ人がどんどん減りそうだ。

また、情報が間違えているという理由で誹謗中傷する人がいる。これは完全にマナー違反だ。ネットに書き込んだ情報が間違えていようと、人を傷つけていい理由にはならない。ひどい人だと、誤字脱字で人格を否定してくるような人さえいる。こういう人たちは、ネット云々というよりも誰でもいいから人を傷つけたくて仕方がないのだろう。心に抱えたフラストレーションから解放され、心穏やかに過ごせる日が来ることを願う。

間違いを指摘する人も必ず正しいとは限らない。まさかりを投げつけたはいいが、てんで的外れな投げ方をする人も見かける。まさかりを投げたつもりで、実はブーメランだったというケースだ。また、言葉の勢いで間違えた指摘を押し通すケースもあった。私はこういうのをあまり気にしない事にしている。自分も同じことをたまにやるので、言うことだけ言って生ぬるく見守っている。

Webは巨大な百科事典ではないのだ。Webに百科事典を望むならWikipediaを活用しよう。Wikipediaの運営に頑張ってもらうために多額の寄付もしておこう。Webを利用するにあたって払ってるのは通信費くらいなものだ。こちらが大してお金を払ってる訳でもないのに、都合良く情報の質ばかり求めるのもいかがなものだろう。そんなことをしていたら、誰も情報を発信しなくなってしまう。

ネットは圧倒的多数の井戸端会議だ

例えば気の合う人が何人か集まって話をするとき、あなたは情報の正確さを求めるだろうか。多分、求めたとしてもほどほどにといったところだろう。一切の間違いを許さない会話というのは凄く疲れる。そういうものを求める人とは関わりたくないと思う。ネットでも同じだ。一切の間違いを許さないような人とやりとりしていると疲れる。正直、黙って欲しいと思う。

理想はいろんな人が役に立つ情報を提供しあって、お互いを支え合えることだろう。だが、いちいちそんなことを意識して会話などしている人はいない。やろうとしても、何の情報が誰の何に役に立つかなど見当もつかない。情報が正しいか間違っているかより、失敗談や苦労話で共感したいということもある。求められているのが単なる面白さということもある。

情報は正しさだけが価値ではない。間違えていても新しい発想につながるようなものであれば、クリエイティブとも言える。正しさを追求するがあまり、ただの一般論でしかないなら大した価値に繋がらない。情報を受け取る人によっても価値は大きく変わる。ただ、そこで交わされる言葉だけを淡々と拾っていくと、文字で行うただの会話でしかない。

ネットの実態は、何万人単位で行っているただの井戸端会議のようなものだ。圧倒的なフリーダムでお互いが語り合っている。相手に執拗に正しさを求めるというのも、そのフリーダムの中の一つのスタイルに過ぎない。結論を言えば、それも自由の形の一つだから好きにやってくれるといい。ただし、相手がウザいと思えば無視されたり反撃されたりもする。自分の取った行動に対して、しかるべき結果はついてくるので注意しよう。

正しさの価値

情報の正しさを求める人は、その価値を認識しているのだろうか。情報の正しさの価値は「時価」だ。情報が正しくても、時間が経てば価値は劣化する。正しくても、古くなって使えない情報では価値は無い。また、新しい情報と混同しやすい状態になっていれば、むしろ邪魔だ。正さは情報の価値を保証するものでもない。相手の求めるものと一致した時に価値を発揮する。

あと、「わからない」とか「むずかしい」、「こうやったけど上手くいかない」という情報にも価値はある。正しい情報は発信するのがすごく手間がかかる。正しさを確保するには第三者のチェックや綿密な検証が必要になる。個人でそこまでの手間をかけてもいられない。正しさというのは気軽に要求できるほど安いものではない。相手に気軽に求める人ほど、その価値に疎いのではないかと思う。

正しさを人に求めるなら金を払おう。専門書をお金を払って買えばいい。それでも情報が手に入らないなら、メーカーのサポートでも購入して問い合わせよう。正しい情報というのはそのくらいの値段がかかるものだ。情報自体は数行の言葉かもしれないが、それを得るための裏付けというのは未知数だ。根拠の無い想像で情報を値切るのは賢くない。

気をつけておきたいのが、正しい情報なら自分が納得できるとは限らないことだ。納得できる、できないで価値を決めると、間違えていても納得できる情報を掴んでしまう。正しさを追い求めるつもりで納得を追い求めていると、逆に正しさから遠ざかってしまう。正しい情報でも自分が理解できなければ何の価値も生み出さない。

対話しよう

相手に正しい情報やら納得を求めるよりも対話をしよう。ネット上には、自分の想像を超えるような人がウジャウジャいる。自分の物差しだけで一方的に言葉を投げつけても真意は分からない。最近ではSNSやら掲示板でもコメントをつける事ができる。「ばーか」ではなく「どうしてそうなのですか?」と質問してみるといい。意外と誠実に答えてくれるひとは多い。

問題なのは聞き方だ。セールストークでよく使う答えを絞り込むテクニックを使ったり、大量の質問を一気に投げかける人や、何時何分いつ何回何やったみたいな質問を投げかける人がいる。こういう人を見ると「仕事じゃねーんだぞ!」とツッコミを入れたくなる。必要なのは対話だ。相手の答えられる形で質問は投げかけよう。

仕事熱心な人はやたらと厳密さや正確さを求める。ただ、対話で求められるのは別物だ。コミュニケーションが成り立たなければ、厳密さや正確さなんて追求できない。むしろ追求すべきは相手との共感だろう。共感と言っても、同じ結論を出すことではない。前提になる情報や条件を共有することだ。これができると、お互いが納得して会話が終了することができる。

情報の正しさは自分で検証しよう。何が正しいかは条件で如何様にも変わる。ネットに上がった情報は無色だ。正しいか否か、有益か無益かは見る人がつけていくものだ。情報自体は単なる材料だ。どういう結果に繋げるかは自分自身だ。そういう視点で考えると、技術情報はバンバン公開していけばいい。判断するのは見る人の価値観だ。正しいかどうか気にせずに積極的に技術情報は公開していこう。

Comment(3)

コメント

仲澤@失業者

編集者がチェック済みの書籍ですら胡散臭い意図を感じるものが多いので、
内容をチェックされないWebの情報は基本的には疑ってかかってます。
そういった意味ではぱんぴー用SNSは全般的に読む価値を感じられません。
ただし、死ぬほど暇で議論好きな人には良いあそびにになるかもしれませんけど。


ところで、仕事で検索するときは「-Blog」や「-SNS」をつけてるのですが、
これ、自動的にやってくれるとうれしいんですけどねぇ(vv;)。

通りすがり

他の人が検証した内容を再録してるだけのブログは要らんなぁと思う。


opensslコマンドなんかその典型で、-desオプション指定して暗号化しておきながら、その直後にお決まりのようにパスワード解除。


コピペしてる人、みんななぜ?って思わないのかな。

user-key.

>正しさを人に求めるなら金を払おう。専門書をお金を払って買えばいい。
例外として、(元々税金を払っているので、本来は高いかもしれないが)行政サービスは、無料又は比較的低価格で情報を入手できます。
ex.失業して、税金や年金を払えない→ネットで相談するより区役所で相談→雇用保険受給資格者証を使って免除など。(行政にしてみたら、生活保護を申請されるより良いんでしょう)
ただ、内定取り消し等雇用保険に入ってない場合、セーフティネットが生活保護しか無いんですが、その辺の年代は投票率低いので、政治屋は見てないんでしょうね。

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