いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

カレー

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十二月だ、カレー食おう。

 いよいよ十二月。街はクリスマス色に染まり、仲睦まじくカップルたちが談笑に花を咲かせている。きらめくイルミネーションをバックに星空を眺める。

・・・知っているか。なぜ都会の空は星が見えにくいのか。都会の空気が汚れているのではなく、照明が明る過ぎるから星の光を打ち消してしまうらしい。名古屋の科学博物館の戸外に展示されているロケットの近くの照明に、そんな豆知識の書かれた看板が掛けられていた。カップルで星空を流れるのもいいが、この看板を探してみないか。なかなか納得させられる内容だった。

 十二月はクリスマスやら忘年会やら、イベントが目白押しだ。クリスマス、爆発しろ。忘年会、っておい。お前の忘れているのは、この前、構築を頼んだサーバだろ。きちんとMySQL入れといてくれよ。と、イベントに対しての突っ込みが後を絶たない。イベントというのは、実のところ楽しく騒ぐための口実になっているように思う。故に食い物と酒が無いと成り立たない。コップに入れた水だけで盛り上がれたらどれだけ幸福だろうか。

 しかし、コップに入れた一杯の水だけでも幸福になる方法がある。カレーを食おう。ちなみに、いつしかテレビで見た豆知識だが、カレーを食ってる時に水を飲んでも無駄らしい。辛かったら、待つのが一番だそうだ。カレーで水をおいしく頂く方法。それは、カレーを食して三十分、飲むのを我慢するのだ。辛いものを食べた後だから、さぞ水が欲しくなるだろう。その状態で、あえて三十分耐える。三十分耐えた後の一杯の水は、さぞかしおいしいことだろう。これが一杯の水で幸せを噛みしめるやり方だ。

人はなぜカレーを食べるのか

 ここでちょっと考えて欲しい。何故、人はカレーを食べるのだろうか。カレーは辛い。食べると舌がヒリヒリする。これは、生態的にみて、感覚器官に負担がかかっている状態のはずだ。皮膚で言うなら、熱めのお湯をかけたのと似たような状態だ。わざわざ辛い思いをして、ヒーヒー言いながら食べる。生物としての原理からみれば、大きな矛盾ではないだろうか。ちなみに、ゴキブリはスパイシー系の香りが苦手なようだ。カレーを食った皿にはゴキブリがたからないらしいが、真相は定かではない。なぜなら、私が今、思いついたなんちゃって知識だからだ。

 わざわざ感覚器官に負担をかけるというのも、マゾヒストなようにも思えてしまう。わざわざ米にかけてまで食べるのだ。冷静に考えると、狂気の沙汰としか思えない。ビーフカレーなんか作るより、肉を焼いて米で食べれる方が手軽だ。普通なら、肉にソースをかけて食べるところだろう。しかしカレーというのは、ソースの中に肉をぶち込んでいる。これは正に、肉の主従関係を逆転させた食材の革命だ。それをさらに米にかけるという、なんという大胆不敵な料理なのだろうか。

 人間は食べ物に対するロマンを熱く燃やすものだ。そのロマンは、時に人を不可解な方向に駆り立てていく。フグなんて猛毒を持っている。何も考えずに食べたら死ぬ。そんなものを、わざわざ危険を冒してまで毒抜きして、うまいうまいと食べる。何故それを食べようとした。こんにゃくにしてもそうだ。元々こんにゃく芋は食べられない。それを、どうこうしてあんなぶよんぶよんな状態にして、しかも食べるという発想に至ったのだろう。ここまでくると、狂気としか言いようがない。

 追求とは狂気に似た半面を持つ。なぜエンジニアライフで「カレー」なのか。それは、この追求する者たちが駆り立てられる「狂気」を語りたいがために持ち出したのだ。追求とは、普通では考えられないような常識を覆すための行為だ。自分の不可能という日常を覆すための、果敢なる反逆だ。普段という価値観から見れば、異なる基準で動くことになる。その度合いが大きいほど、狂気に似た様相を醸し出すのだ。

カレーに秘められた狂気

 人類で初めてカレーを作った人に問いたい。何故、あんなにたくさんの香辛料を混ぜた。最初にやった人は、ワサビ・チャレンジみたいなノリだったのかもしれない。しかも、煮込み過ぎだろ。カレー煮込むのにどれだけのエネルギーを使うんだよ。場合によっては、一日じっくり煮込むことさえあるという。いつ寝ろというのだ。本当は、思いっきり混ぜまくって、引っ込みが付かなくなったから時間稼ぎで煮込みまくったのが起源じゃないかとさえ思えてしまう。一食のカレーにも、これだけの狂気が潜んでいるのだ。

 だが、こういう狂気というのはエンジニアにも潜んでいるように思う。何回もOSをインストールしたり、わざわざ自宅にラックを設置して、オーバースペックなサーバをわざわざ運用する。一人Active Directoryなんて、機能の根本を覆すようなシステムが運用されている場合も何件か聞いたことがある。家にあるPCにしても、一台で収まっていないハズだ。人によっては、小さい会社がそのまま経営できてしまいそうなシステムが家で動いていたりする。正に狂っているとしか言いようがない。

 日常を覆す。日常を超えるには、狂うという手段が必要だ。楽器の練習や語学の練習なんて、何も考えずに見たらただのおかしな人にしか見えない。そういう、反復練習を繰り返すことで、出すべき時に成果が出せる。エンジニアにしても、人からおかしいと思われるくらいの気迫があってもいいと思う。カレー。それは、過去の人々の偉大なる狂気と気迫により完成された、崇高な料理だと思う。正に食べ物に対してのエンジニアリングだ。コンピュータを扱うエンジニアにも通じるものが有るはずだ。

 つまり、人と同じことをやっていたのでは抜きんでることはできない。狂気と思われるくらいのものがあって、初めて一人前のエンジニアと言えるのではないだろうか。狂気といっても、冬空に生まれたままの姿を曝しだすような狂気ではない。日常を大きく脱っするくらいの勢い、発想、行動、そういうものだ。人からカッコいいと思われようと躍起になっているうちは、その境地にたどり着けないだろう。

日本人ってとりあえず何でもカレーに入れるよね

 カレーを食べていると、日本のIT技術にも明るい未来があるのではないかと感じることがある。カレーに日本人が秘めている創造性というものを感じるからだ。そもそも、カレーというのはどこが発祥の食べ物だろうか。今現在、日本で一般的に食べられているカレーを見ても想像ができない。ラーメンは中国語、パスタはイタリア語。納豆は日本語。でも、カレーって何語だよ。それすら的確に答えられる人は少数派だろう。思えば謎の多い料理だ。

 カレーは、オリジナルを超えて日本で再び創造されている。カレーはもはや、日本のオリジナル・フードと言える程の改良が重ねられている。この裏に詰み重ねられた創意、工夫は想像を絶するものだろう。お前、なぜカレーにチョコレート入れるんだよ。その発想がどこから来たのか分からない。挙句の果てに、某カレー店では、カレーに納豆をトッピングしている。もう、一つの皿の上にシルクロードが再現されているレベルの、衝撃のコラボレーションとしか言いようがない。

 こういった組み合わせも、やった人からすれば閃きと直観があったからこそ実行に移したのだろう。その閃きと直観は、膨大な経験と緻密な観察がバックボーンになっている。エンジニアならここでピンとくるはずだ。自分たちの閃きや直観にも、同じように膨大な経験と緻密な観察がバックボーンになっている。つまり、同じ日本人として、これだけのバックボーンが持てるキャパシティーを秘めているのだ。きっとそれは、カレーを食べる時に三十回以上よく噛めば分かるはずだ。

 そんなことで、クリスマスはカレーを食べよう。夜景の見えるレストランでワインを乾杯なんてしてる場合じゃない。カレーを食べて魂を研ぎ澄まそう。食べるものには魂が宿る。食って美味い。それだけではない。エンジニアなら、その奥に秘められた歴史と、先人たちが積み重ねた情熱を読み取れるはずだ。カレーを食べよう。そして、魂を奮い立たしよう。そして、明日の技術革新へ、自分自身を奮い立たせようではないか。そして最後に一言。リア充、爆発しろ!

Comment(1)

コメント

夜勤明け

カレーが加齢にかけられてるってことまでは読み取れなかったっす。

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