いろいろな仕事を渡り歩き、今はインフラ系エンジニアをやっている。いろんな業種からの視点も交えてコラムを綴らせていただきます。

エンジニアとは死ぬことと見つけたり

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■生きる。その逆説としての死

 あべっかんさんがコラムで「101回死んだエンジニアさんなら、1回くらいは殉職したこともあるかもしれないな!」なんて言うので、流れ的に書かざるを得ないと思い、こんなタイトルでコラムを書くことにした。何となくカッコ良さ気なことが書けそうなタイトルである。

 ここからは完全に個人的な感覚として語らせてもらう。まず、生きるということはどういうことだろう。だいたいの人がイメージするのは、成長とか健康であること、勢いがある状態を思い起こすことだろう。

 だが、生きている以上、必ず死というのが対局にある。生きることと死ぬことは絶対にワンセットになっている。だったら、生きることについて考えるなら、死について考えることも重要じゃないかと思うのだ。

■エンジニアとしての死

 だからと言って、死生観についての重苦しい話をしようという訳ではない。人生からスケールダウンして、エンジニアとして生きる。ということをテーマにしてみようと思う。

 エンジニアとして生きるということは、技術を売りにして生計を立てていくことだ。逆にエンジニアとしての死とは何だろう。これについてはいろいろあると思う。技術の進歩に追いつけなくなって仕事ができなくなる。これは分かりやすいエンジニアとしての死だろう。

■肯定的な考え方での死

 技術も無いのにエンジニアと名乗るようになったら、エンジニアとして死んでいる。私はそう考える。だが、エンジニアといっても、それぞれのエンジニア感というのがある。そのエンジニア感に対して必要な能力やモチベーション等、必要な条件が保たれていれば、エンジニアとして生きている実感が得られるだろう。だが、それが維持できなくなれば、エンジニアとして死んだと考えるだろう。

 そして、エンジニアとしての死は別に悪いことではないと思う。エンジニアとして死ぬ代わりに、経験を活かしてマネージャやコンサルとして新たな道を得る。そういうケースもある。エンジニアという一つの自分が壊れ去る。それは新しい自分を作るには必要な作業だ。肯定的な見方もできるはずだ。

■壊れることで見えてくるもの

 今生、私は何度か「もう、この先行けていけないな」という状況を何度か体験している。分かりやすく言えば、人生詰んだ。ちょっと過激な表現を使うなら、社会的に抹殺された。冗談抜きでそういうピンチを何度かかいくぐった。立場上、今後もそういう事は起こりえるだろう。

 あべっかんさんがコラムで、「命がけの仕事をしてみたい」と言っているが、私としては既にしてるように思う。相当なお金持ちでもない限り、仕事がなくなれば一気に窮地に立たされる。ヘタをすれば本当に生きていけなくなる。そういう意味で、誰もが命がけで働いているのだ。それはとても尊いことだと思う。(あべっかんさんも尊いの中に含まれます)

 社会的に何度か抹殺されて、そういう尊さが見えるようになったと思う。また、成長するにしても自分の積み上げたものを壊す段階があると思う。死に近いような喪失というのは、大きな成長には欠かせない。そういう意味で、タイトル通り「エンジニアとは死ぬこととみつけたり」というのも、あながち冗談でもないと思うのだ。

Comment(1)

コメント

abekkan

リクエストにお応えいただき、ありがとうございます!
このテーマなら書けるだろう、と期待しておりました(^^♪

ただでは死なずに新たな道を得る。さすが、101回死んだエンジニアですね!

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